040_0900 触れるに困る腫れ者Ⅰ~冷たい一瞬を抱いて~
そして手錠は自力で外せるのに、逃亡や反抗の意思を見せなかった。
「それが前につばめ先生が言っていた、『確かめたいこと』だったんですね……」
「そーゆーこと」
ナージャ・クニッペルを捕獲してから、一週間が経過した。それが長いのか短いのか、よくわからない。
「やっと自由になれた……」
ただただ
一週間の間に、様々なことがあった。
いつまでも休業状態にしていられないため、支援部の活動を再開し、手錠でつながれたまま二人一緒に依頼をこなしていた。
同じベッドに寝ているので、目覚めた時にナニやら当たってる、ただし男側ではなく女側が素数を数えて落ち着かなければ大惨事になるであろう事態にもなった。
風呂やトイレ、着替えの際には、もう勝手に手錠の鍵を解除し、用が終わってから再度手錠をかけていた。
前提そのものが狂った奇妙な監視生活だが、過ぎたことは考えないことにする。
そしてナージャは今、総合生活支援部の部室で、自由になった左手を動かし、朝から大量の書き込みをしていた。
「こんなに書類を書かなきゃいけないんですか……?」
隅のOAデスクでは、キーボードが脇にどけられて、白い紙の束が分厚く山になっている。多くはサインだけ書けばいい状態になっているが、それでも量があれば嫌気も差すだろう。
「国家に身分を保証されていないワケあり《
つばめが説明し、顧問として言う。
「入部する時のお約束。支援部の部員は、みんな同じように大量の書類を書いたんだから」
「無線技師試験の願書とかあるんですけど……」
「法的にはアバウトだから突っ込まれないけど、《魔法》の無線でも取っといた方が安全でしょ」
だからナージャはひたすら左手を動かしていた。
抵抗の様子は欠片も見せないため、ひとまず彼女の安全性が確かめられ、危険性も見受けられない。警戒していた十路たちも、拍子抜けする有様だった。
しかし『迎えられた』と評するには、疑問符が付く。マイナスがないだけで、プラスの評価もない末の結論に近い。
「あ゛ー……どーすりゃいいか困りましたわね……」
部室の隅でコゼット・ドゥ=シャロンジェが
「ナージャ。隠していること、吐く気はないのか?」
それが最も
彼女が捕虜として逮捕していたのだから、当然情報収集も行った。『
ほとんどの問いにナージャは答えた。答えなかった問いは、彼女の潜入任務に関する一部の質問だった。
「なぜお前が、俺たちの潜入調査に派遣された?」
『
ナージャ当人も同じなのかもしれない。自信なさそうに推測する。
「これは隠してるんじゃなくて、上層部の
彼女が修交館学院に学生として転入し、潜入したのは、昨年の四月だ。
重要任務を任せるわけにはいかないが、《
そして先月、総合生活支援部の脅威が世界に広まった。初期の想定よりも遥かに重大性が増したのは、
(でも妙なんだよな……?)
支援部の正式な設立は、ナージャが潜入した一年後、今年の四月だ。
以前つばめも言っていたが、超法規的準軍事組織などというものを設立するためには、政府機関や関係者に、相当な根回しが必要だっただろう。それを察知して部の設立より早く、大事に至るか否かはさておいて、不穏な動きを察したら『とりあえず』で事前に
納得のできる筋書きがある。なのに十路は、違和感を感じずにはいられない。
(ただの用心深さなのか、それとも……)
つばめのタヌキ顔に視線を移す。目が合ったが、彼女は特に反応を見せず、浮かべた微笑に変化はない。
ナージャの派遣は、年単位の長期的視野で、未来予知とも思えるような、つばめの得意技にも通じるような気がしてならない。
(誰かの
ただ、事の詳細を知らないまま働かされる、現場の苦労は十路も承知しているため、ナージャに追及しても無駄だろうと諦める。
だからもうひとつ、彼女が回答を明確に隠している問いを発する。
「お前の協力者は誰だ?」
支援部に近づくために、修交館学院に潜入した諜報員が、ナージャ一人とは考えにくい。複数の組織が潜入している可能性もあるが、
「……もう一人、潜入しています。命令系統が違いますから、協力者と呼ぶのは正確じゃないですし、その人の任務は知りませんが……」
ナージャは筆を止め、苦々しい口調ながらも答える。
それは以前にも訊いて、同じ返答があった。だから総合生活支援部は、普段の生活を行いながら、その割り出しに動いていた。もっとも多くの学生は登校していない夏休み期間中のため、結果は
「それは誰だ?」
「すみません……虫のいい話だとは理解してますが、それはお話しできません」
嘘をつくのではなく、沈黙することが、きっと彼女なりの誠意なのだろう。十路たちにも、その人物にとっても。
話したくないのか。話せない理由があるのか。その双方か。
「そいつは《魔法使い》か?」
「…………いいえ。違います」
前とは違う回答を返すとは思えないため、続けて別の問いを発すると、彼女は少し口ごもった。
嘘を考える間とも思えない。言いたくない態度とも感じられない。別の迷いが紫色の瞳に浮かんだようにも、十路には思える。
(なんだ、この反応……?)
隠し事はともかく、嘘は言っているようには思えない。しかし正直に話しているには、反応が奇妙な気がしてならない。嘘を見破る目があると思っていないが、非常事態に生きていた以上は鈍感ではない程度の自負はある。
隣でじっとナージャの顔を見ていた樹里に振り返ると、彼女は自信なさげに首を振る。特異体質で脳内センサーが常時起動している彼女ならば、発汗・心拍数など、ナージャの体の反応をダイレクトにセンサリングできる。参考にする程度の精度ならば、嘘発見が可能のはず。
その樹里が首を振るのは、参考にできない反応だからだろう。
【ツバメ。ハッキリ言います】
黙って
【ナージャの入部は危険すぎます。信頼することができません】
「だいじょーぶ。コゼットちゃん」
つばめは微笑を変えぬまま、コゼットに目で合図する。
応じて小さく息をつき、コゼットは
「正直、こんな不信感バリバリな状態で、解析も終わってねー謎のブツをお渡ししたくねーですけど……」
彼女は携帯電話としては奇妙な形状をした、ナージャの《
「
「機能、なにかいじった?」
「ロシア語わかんねーですから、表示設定を日本語に変えた程度ですわ。わたくしたちの遠隔操作で電源を落とせるようにしてるのは、むしろ手を加えてねーってことですし」
コゼットの仕様変更は、当然の用心だった。つばめも軽く頷くだけの反応しかしない。
《
総合生活支援部の備品も、そのような仕様になっている。だが社会実験チームとしての特性や、常に命や身柄の危険が存在するためか、はたまたいちいち許可を出すのが面倒だからという
【コゼット。《
「停止は全員。起動コードはわたくしと、あと貴女にも送信しますわ」
【私に?】
「正確には堤さんの権限ですけど、《
イクセスがコゼット相手に確認をしているのを
「それじゃ、ナージャちゃん」
つばめは片手で持てる《
「総合生活支援部に入部する?」
「…………」
対するナージャは、《
視線が集まり居心地悪そうに、ナージャは
一緒に生活して気づいた、
「……皆さんがわたしのことを信用していないのは、重々承知しています。それが当然だとも思います」
ややあって、ナージャは口を開いた。反応に迷う視線を向ける部員たちには構わず、つばめだけを見て。
「なのに、わたしを入部させようとしているのは、なぜですか? いえ、わたしだけでなく皆さんのように、国家に管理されていない《
ナージャの紫瞳が細められる。爪牙を持つ獣が、警戒心を
「わたしの仕事だから」
つばめが笑顔で返す。無邪気で邪悪な悪魔が、本性を垣間見せる。
「学院理事長としては、学生に学生らしい生活を送る場を提供するのが、仕事だから。支援部に入部すれば、キミは今まで通りの学生生活を送れる。まぁ、ちょっと危ない事もする必要はあるけどね」
しかし本音は見せない。
そして、それがつばめの本音だとは、この場の誰も思わない。
得体の知れない緊張感が張り詰める中、ナージャは動く。差し出された《
無言だが、入部の意思を示した。
「……これも理事長の策略ですよね?」
だから今更なのは理解しているが、過ぎるほどの用心を発揮し、更に別の
「策略と言えば策略かなぁ? メールでナージャちゃんをおびき出した程度だし、そう呼ぶのも変な気するけど」
「理事長の策略、失敗したことありますか?」
「そんなの、いっぱいあるよ。わたしは神サマじゃないんだから」
「不安要素しかない……」
顔をしかめてため息をつく十路に、つばめは悪魔の微笑とは違う微笑を向ける。
「だからホント、トージくんが入部してくれて助かってる」
「優秀な手駒って意味ですか」
「まぁ、否定しないけど……もちろん他のコたちも必要だけど、今なんとか支援部が成り立ってるのは、キミの存在が大きいよ」
「策略に巻き込まれてコキ使われる身としては、勘弁して欲しいですけどね……」
「そんなわけで、ナージャちゃんの件でなんか問題起こったとしても、期待してるから」
「完璧に丸投げですね……」
再度ため息をつき、十路は言っておく。部内に不信感が渦巻くのはわかるが、回避できない以上、方針を定めて動くしかない。
「……ひとまずナージャと理事長を信用することにして、様子見ます」
「うん。それでいい」
「ただし、用心はさせてもらいます。問題があった時には行動を起こす。ナージャも理解してるな?」
「はい……」
つばめとナージャの返事を聞き、十路は振り返る。
「やらなきゃいけないのは、学校に潜入している協力者の割り出しと――」
「クニッペルさんの能力と、《
「ミスタ・トージ。
そんな相談をしているところに、
「OSの解析、終わりましたの?」
「それとは別件で、調査結果が出たであります」
訊いたコゼットが振り向いて、十路と顔を見合わせる。そして同時に首を小さく振る。野依崎になにか頼んだか、無言で確かめ合い、互いに否定した。
「以前ミスタ・トージが
二人のやり取りを察したのだろう。彼女の独自判断で動いたと説明すると、野依崎は手にしたプリント用紙を差し出す。
十路たちが額を寄せてそれを覗き込むと、ある人物の経歴が記されていた。元はロシア語で書かれていたために、自動翻訳らしい日本語も併記されている。
「『水族館』だぁ?」
記されていた文字を見て、十路の口から呆れ声で出た。本庁ビルがガラス張りのためそう俗称される、ナージャが所属していた
「
「ここのサーバーも物理的に隔絶されてるだろ?」
「前回は急ぎだったので直接現地潜入したでありますが、時間をかければ離れていても、これくらい調べられるであります」
「お前のハッキング能力が恐ろしいよ……」
事も無げに言う野依崎が調べた、最も疑わしき人物は、ロシア軍に関わりがあった。
「盲点だったと言うべきか、わたくしたちの考えが甘かったと言うべきか……」
ただしコゼットが言う通り、これまで想定の外にあった人物だった。これまで調査対象としていたのは、学生――それも外国人留学生だったために。
世界一広大な国土面積を持つロシアは、ヨーロッパともアジアとも判別することができず、住む人々も入り混じった他民族国家だ。
そして《魔法》は三〇年に生まれたために、最古の《
だが軍事的な作戦に、それ以上の年齢の者が関わらない理屈はない。そしてこの学校に関わるのは、年齢一ケタの子供から二〇代前半の若者たちだけではない。
「ナージャ。邪魔するなよ」
「しません……こうなった以上は、わたしが出しゃばる問題じゃありませんから」
胸に拳を置く仕草の延長か、片手で《
「『あの人』が十路くんたちに遅れを取るなら、それまでって事ですから……」
冷たい言葉にも思えるが、きっと『あの人』に対する信頼の表れなのだろう。そして同時に邪魔や口出しをしない事が、十路たちへ向けた信頼なのだろう。
「俺は穏便に済ませたいんだがな……向こうの出方次第だな」
樹里に目線で
向かう先は、第三体育館――武道館だ。
「なとせが朝から行ってるんだよな……」
別行動をしている妹となにかトラブルが起きてないか案じ、心持ち早足になった。
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