045_0120 【短編】ヘッポコ諜報員剣風録Ⅲ ~ある時は、ネコ探し請負人~


 学生服のままネコ捕獲グッズを入れたリュックサックを背負い、キャリーケースをげたナージャは、地図を見ながら灘区の住宅街を歩いていた。それまでは道という道を歩き、周辺住民らしき人々には片っ端から話しかけた無秩序ぶりだったが、それも終わり。目的を持った歩みに変えた。


(保険所に連絡しても該当のネコちゃんはいない。この辺りで轢かれたって情報はなし……なら、やっぱり依頼者の家周辺ですよねぇ?)


 飼いネコの場合、姿を消しても意外と大したことない場合が多い。飼い主が心配していた間、屋根や裏庭でのん気に昼寝していただけ、なんてことも珍しくない。

 長距離トラックの荷台に潜んで運ばれた、野良猫と思った誰かに拾われた、なんてこともなくはないが、かなり稀有けうな例になる。行方不明一週間以内ならば、事故死と保険所で保護されている可能性を潰せば、近隣にいると思っていい。


「いた?」


 依頼者の家に直接おもむき、説明して敷地内を探そうと思っていた矢先に、築五〇年を余裕で超過してるだろう、オンボロ木造平屋日本家屋の屋根に上がるネコと目が合った。

 毛皮の色合いは写真と同じ。ネコの見分けに自信はないが、ナージャの目には同じに見えた。


 ここで名前を大声で呼んではならない。無視されるだけならまだしも、逃げ出されると厄介だ。

 なのでナージャは周囲に首を巡らせた。一般的には休日となる土曜日午後の住宅地、幸いにして人通りはなかった。


 目撃者がいないのを確かめて、プリーツスカートのポケットに手を突っ込み、そのまま太もものホルスターから抜かないまま、携帯通信機器型 《魔法使いの杖アビスツール》――《Пペーシャスチ》を操作した。ブレイン・マシン・インターフェースとはいえ特殊な仕様で、考えただけでは操作できず直接タッチパネルに触れなければならないが、この程度の操作ならば見ずともできる。


 そして跳ぶ。落ちることはない。液晶画面を見もせず指で実行した《階段レースニツァ》という術式プログラムそのままに、ローファーで踏む部分が黒く染まり、時間が停滞した空間の足場が作られた。動作と同時に作成を繰り返し、軽々と空中歩行を行う。


 離れた屋根の端に着地すると、やはり警戒される。しかしネコは首だけ振り返って注目しながらも、寝そべったまま動こうとはしなかった。

 目を逸らさないように、けれどもそれ以上の警戒心を抱かせないように、ナージャはゆっくりとケージを置き、リュックサックを下ろす。

 中から取り出したのは、呼び寄せるのに使えるかもと、経費で購入したポテトくんお気に入りのおやつだ。


 チューブ状キャットフードの封を切ると、ネコはピクリと髭を動かす。ほんのわずか指に出して差し出すと、警戒心などどこかへ吹き飛ばして駆け寄ってきた。


「ポテトくーん。飼い主さんが心配してますよ~? おうちに帰らないんですか~?」


 首輪はないが、毛皮の特徴から探しネコに間違いないだろう。見知らぬ人間の手を警戒することなく、指を舐める彼に声をかけても我関せず。舐め終わると『もっとくれ』といわんばかりに、チューブを軽くひっかく。

 人間と同じでオヤツの与えすぎはダメだろうと思いつつ、ナージャが再び蓋を開けた途端、ネコはチューブを直に舐め始めた。持ち上げても後ろ足立ちし、体を伸ばして食らい続ける。


「そんなにおいしいものです?」


 ネコまっしぐらなチューブには、食べる本来の客に伝わらないのに、おいしさをうたうキャッチコピーと『ささみ味』の文言、そして写真と見まがうような新鮮な肉のイラストが描かれていた。


「…………………………………………」


 朝はライ麦パン。昼はモヤシ。夜はジャガイモ。その日の夜は別のバイトでまかないが食べられる予定だったが、ヘッポコ非合法諜報員イリーガルの彼女は活動費が切り詰められ、肉気のない食生活を送っていた。支給された肉煮込みトゥションカの缶詰も、もう食べてしまっていた。

 釣りという食料現地調達手段も活用していたが、その頃は時間が取れず、一層貧相な食生活だった。

 加えて冷蔵・冷凍技術の発達、日本食の世界進出などで昨今変わりつつあるが、西欧諸国同様、ロシアも基本は肉食文化だ。


 キャットフードに肉欲が刺激され、ナージャは一瞬悩んでしまった。


「……いや! これを食べたら人として終わりでしょう!?」


 我に返ってかぶりをブンブン振った。


「せめて牛肉味なら……!」


 フレーバーが違っていたらキャットフードを食べていたのか。それとも人間としてのプライドが隠蔽されたのか。真相は彼女以外わからない。


 尊厳を守れるうちに、ナージャはネコを回収した。飼いネコゆえの警戒心の薄さなのか、ポテトくんは大人しくキャリーケースに入ってくれた。

 後は依頼者の元に届けるだけと、リュックを背負い屋根の上で立ち上がった途端、足元から嫌な音がした。危険を察知した時にはもう遅かった。


「うきゃぁ!?」


 結構なオンボロ家屋だったせいで、決して食欲旺盛で発育良好なナージャの体重が原因ではない。そうに違いない。そうだと言ったらそうだ。

 足元が崩れ、ナージャの体は瓦ごと家の中に落下した。


「ぬ、抜けない……!」


 穴はあまり大きくないせいで、完全に屋内に落ちることなく、脇で止まってしまった。豊かな胸とリックサックが隙間を塞ぐようにはまり込み、這い上がることも更に落ちることもできない。手放さなかったキャリーケースから、ポテトくんが乱暴さに抗議の声を上げるが、それどころではない。


 加えて、足元から足音が聞こえてくる。

 家の住人がいても不思議はない。話し声程度ならまだしも、屋根が破壊された音は嫌でも耳に届いただろうから、確認するのもまた当然だろう。


『……なんだこれ?』


 まだ若い男の声が聞こえた。

 それはそうだろう。怪訝に思うだろう。彼の目線で考えれば、ハデな音がしたと思って確かめに入った部屋の天井から、女の下半身がぶら下がってるのだから。


「ひゃん!?」


 足を触られた。布の感触を感じない生の接触からすると、どうやら屋内でスカートがめくれあがっているらしい。

 それが何度も繰り返される。いやらしい触り方ではなく、指先でツンツンされる感覚だが、羞恥と苛立ちでナージャの白い頬が赤く染まった。


「しつこいんですよ!」

『ぐべ!?』


 位置関係が全くわからないまま蹴りを繰り出すと、クリティカルヒットな感触が返った直後、悲鳴となにかが倒れる音がした。



 △▼△▼△▼△▼



 二〇分後。 


「こんなのしかないけど」

「お構いなく」


 なんとか穴から抜け出したナージャは、オンボロ家屋の一階で、蹴り飛ばした住人と座卓を挟んで向かい合っていた。


「つーか、なんでナジェージダ・プラトーノヴィナがウチの天井から生えてたんだ?」

「そこ話すと長くなるんですけど……というか、ここ、高遠くんの家だったんですね」


 住人は、知り合いとまでは言えないが、面識程度はある相手だった。

 やや色の抜けた髪をウルフヘアにした頭に、学校から帰ってから着替えていない、見慣れた柄のネクタイにスラックスパンツと言う身なりをしていた。

 高遠たかとお和真かずま。クラスは違うが、ナージャと同じく修交館学院高等部二年生の男子学生だった。


「お? 俺のこと知ってんの?」

「えぇ。女子の間で有名ですよ」


 まずナージャは、出されたスポーツ飲料のペットボトルを四方八方から眺め、陽の光に透かした。

 少し考えて封を切って手に開けて、こんな状況になった元凶・ケージの中のポテトくんに濡らした指を差し出した。彼は匂いを嗅いで舐めようとしたが、猫に人間用の飲み物を与えるのも問題になりそうだったので、手を引っ込めた。


「変なものは入ってないみたいですね」

「すごく警戒されてる!?」

「えーだってー。高遠くんがたらしって聞いてますしー。ちゃんと話したことないのに、なぜかわたしの名前知ってますしー。そりゃ警戒しますよー」


 クラスが違っていても知るほど、彼はそこそこ有名だった。どちらかというと悪名で。

 隣の教室が騒がしいと思えば、大抵中心には彼がいる。ガキ大将というあだ名がピッタリなタイプだろう。


「そっちこそ有名だぞ?」

「ロクでもない理由だろうって想像つくんですけど」

「…………」


 和真の視線がナージャの胸元に移動し、そっと逸らされた。

 やはりコレか。休憩時間に耳を澄ませば『クラスの女性で誰が一番可愛いか』みたいなバカ話も聞こえてくる、思春期男子の視線を集めている自覚は彼女にもあった。


「それで。高遠くんを警戒してる一番の理由はですね? わたしの呼び方。名前イーミャ父称オーッチェストヴォで呼んだからですけど」


 ロシア人は個人名・父称・家名と名前が三つある。『●●さんの▲▲さんの息子/娘の■■さん』という形で、父称は英語圏のミドルネームとは異なるものだから、呼びかけ方も特殊になる。


「あれ? こうやって呼ぶもんじゃないのか?」

「そうですけど、だからこそ変です」


 普通の日本人なら、ミスターやミスなどの敬称+姓が丁寧な呼びかけだと考える。敬称となる単語はロシア語にもある。

 だから名前+父称が、ロシア人への形式ばった呼び方だと、知らなければ想像もしない。

 加えて実家や家族にあまりいい思い出がないせいで、父称で呼ばれるのが好きではないため、ナージャの警戒心が刺激された。


「そうきたか……まさか、初対面はキチンとしないといけないと思ったのが間違いだとは……」


 出会いは完全なる偶然だが、彼はナージャに対し、なんらかの興味か下心を持って、会う機会を狙っていた。それがわかる呟きだった。


「じゃあ、ナージャ?」

「勝手にラスカーチリナエイーミャで呼ぶのも、失礼なことですけどね……ナージェンカとか呼ばれなかっただけ、よしとしますか」


 自分で許可していない相手に呼ばれるのはそこそこ不快なのだが、大抵は彼女自身が他人に愛称で呼ばせているので、人伝ひとづてでそう呼ばれたとしても許容せねばなるまい。

 ちなみにナージェンカは、愛称よりも更に親密度の高い、親称という呼び方に当たる。親兄弟、よほど親しい友人相手でないと許されないものなので、初対面の相手に呼ばれたら殴る。


「好きだ。付き合おう」

「………………」


 もしも仮に例えよしんば万が一、将来的に親称で呼ばれる特別な関係になるとしても、段階というものがある。それなりに付き合いの深くなった今現在でも、和真に親称を許していないし、この時には確実に違う。

 『至極真面目な顔でなに言ってんですかこの人』的に紫色の瞳を半眼にして見つめてしばし、ペットボトルのふたを外した。それを人差指と薬指で挟んで持ち、中指で弾く。


「はぶちっ!?」


 ペットボトルの蓋が指弾しだんとなって飛び、和真の目に直撃した。

 なんかもう色々と面倒だったし、この同級生相手に遠慮は無用というか、遠慮すると図々しくされる不利益を感じたので、とっとと話をぶっちぎった。

 普段のナージャならば、男相手でももっと当たりさわりのない対応をする。男の馬鹿さ加減にも一定の理解を示すし、内容によっては一緒に盛り上がる程度のことはしてのける。

 初対面でこんな対応をしたのは、現状では和真が最初で最後だ。そういう意味では彼は、ナージャにとっての特別であると言える。それが和真にとって幸か不幸かは別問題として。


「わたしが屋根を壊したのは事実ですから、屋根の修理費は、探偵事務所こちらに請求してください」


 後ろ向きに倒れてのたうつ和真を無視し、必要最低限の事務的な言葉と、アルバイトでもこういう時のために渡されている名刺を残して、ナージャはキャリーケースのネコと共に立ち上がった。


「あ~ぁ……修理費でバイト代、しばらくないですね……」


 まだランク下がることになる貧相な食生活を憂いて、ナージャはため息を吐き、ボロ屋からローファーを履いた足を踏み出した。

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