045_0110 【短編】ヘッポコ諜報員剣風録Ⅱ ~ある時は、探偵事務所事務員~
一年前のナジェージダ・プラトーノヴィナ・クニッペルは、もっと大人しいキャラクターだった。
「お腹すきました~……」
否、腹ペコキャラだったというべきかもしれない。いつも腹を空かせていたので、騒ぐ元気があまりなかっただけの話だと。
「久しぶりにお肉食べたいです~……」
ブーたれながら食べるのは、貧乏生活の強い味方・モヤシだ。しかもナージャの場合は自家栽培。容器と種と水と一週間程度の時間があり、毎日の
モヤシの心強さは、バリエーションの豊富さだろう。なにせ豆類・穀類の種子を光に当てず発芽させたものの総称だ。
だが、所詮モヤシだった。調理を工夫しても、やはりモヤシ以上にはならない。いくら噛み締めたところで、肉の味や食感がするわけない。まだ食べ盛りを抜けていない女子高生を満足させるには遠い。
「自分の胸をお食べなさい」
そんな食生活を感じさせない、女性的に立派な体格であったから、あまり同情されなかったが。むしろバッサリだった。
「う~……ヒドいですよ~」
行儀悪く箸をしゃぶり、ナージャは正面のデスクで、小さなランチボックスを突いている女性を軽く睨む。
「モヤシが主食な見た目外国人・中身日本人の学生アルバイトの話に付き合うだけでも、上等の対応だと自己評価いたしますが?」
解けば背中の中ほどを越えるであろう高く結い上げられた髪と、オーパル型の眼鏡が、キツ目の印象を与える。『キャリアウーマン』という言葉を擬人化させれば、間違いなく彼女のような女性になるだろう。
ただし彼女がキツいのは、その見た目だけではないような気がしなくもないような。ピンクのカーディガンを持ち上げるナージャの胸元に比べればというか比べようがないほど、ビジネスブラウスの胸元はなだらかなのが『テメェの胸食え』発言の理由かと勘繰ってしまう。
彼女は
「でもほんと、今月ピンチですから、なんとかしないといけませんね」
その日は土曜日、修交館学院はいわゆる半ドン形態であるため、午前中で授業が終わるとそのまま出社したので、昼食も仕事場で食べていた。というか瓶入りモヤシ持参で会社の給湯室で湯通しした。
ポン酢をかけただけのモヤシをモシャモシャしながら、ナージャはひとりごこちたのだが、律儀にも出邑は応じる。
「今日、別のバイトがあると言っていませんでしたか?」
「といっても、このビルの一階ですよ」
「『ギルド』で?」
「オーナーのお嬢さんが、部活の先輩なんですよ。その関係で
「あのお店なら、貴女なら一発採用じゃありませんか?」
「
言葉を省いた説明でも、ちゃんと伝わったらしい。出邑からはそれ以上の追求はなく、ランチボックスの中身を意識を戻した。
同時に、事務所のドアが開いた。
「お。ナージャちゃんが来てるね」
くたびれたスーツに覆われたメタボ一直線な体型に加え、丸顔と福耳のせいか、全体的に福々しく感じる中年男性が、汗をハンカチで拭いながら入ってきた。
親しげな言葉に、ナージャは箸で掴んだモヤシを宙に止めて、咀嚼の代わりに口を動かす。
「何度見ても、詐欺だと思うんですよ」
「いきなりなに……? なんで僕を見て詐欺?」
「そのカッチョエー名前でこのおじさんという現実です」
「それは僕に言われても困るんだけどね……」
「今日の依頼者、ド真ん中世代じゃありませんでした? 言われませんでした?」
「いや、言われなかったね……今日は『かみ』呼ばわりされるほうだったよ」
世代ではなくとも、スケバンな学生刑事たちを指揮していたエージェントを知る、このロシア人はなんなのか。だがそんなツッコミは残念ながらなかった。
スタイリッシュロン毛イケメンの夢を破壊するのは当然、名字にも反して神様よりも仏様のような容姿の中年男こそが、この『マーガレット探偵事務所』の所長、
「出邑さん。急ぎじゃないですけど、中間報告書を作っておいてください」
「はい」
恭一郎が抱えていたデジカメが手渡した。午前中に働いて結果であろう。
探偵事務所・興信所に持ち込まれる相談内容は、男女関係のトラブルや身辺調査が半分以上、不倫・浮気の裏づけや、見合い相手の素行調査などが多くを占める。
いわば民事関係のもので、推理小説やサスペンスドラマの探偵のように、刑事事件に直接関わることはまずない。仕事は事実確認をはじめとする調査であり、推理するのは探偵の埒外と言っていい。
「ナージャちゃんは、これね」
「はい?」
物が散らばった恭一郎の机から、ファイルが手渡される。
「ポテトくん、ノルウェージャンフォレストキャット、三歳オス……
ファイルにはネコの写真と基本情報が詰まっていた。
家出・失踪した人々の捜索も探偵が請け負う業務だが、ペット探しはまた別格だ。人間相手のノウハウが動物相手では通用しないのだから、専門業者もあるくらいに勝手が違う。
この事務所では、ナージャが働き始めるまで引き受けなかった依頼だった。たまたまペット捜索依頼が持ち込まれた際、手隙だった彼女が半分気まぐれに引き受けて、難なく見つけてしまったから引き受けるようになった、バイトながらナージャが専門にやっている仕事だ。
「依頼を引き受けるのはいいですけど、バイトがやることだから高が知れてるってのを念頭にしてくださいよ?」
「そう言いながら、今のところ一〇〇パーセントじゃない」
「まぁ……慣れ、ですかね?」
これも
しかも彼女が生まれ育ったのは、大自然の宝庫ロシアのド田舎で、
「オオカミとかクマとかトラとかクズリのことを思えば、なんてことないですし」
ペットのネコなど、片手で捕まえられるサイズだ。反撃があっても、せいぜい引っかかれるか指を噛まれる程度でしかない。
群れで取り囲んで四方八方から八つ裂きにしないし、木を
「あぁ、そう……」
そんな詳細は理解できなかっただろうが、比較対象として猛獣が挙げられた時点で、恭一郎にはドン引きされた。
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