永久なる詩人とビブリオドールのお話




  夜空の琴よ、しめやかに響け

  月は人の祈りを知り、星は人の願いを聞いていた  

  はるかな昔、全ての人が生まれた時から……

  ああ、冴えた鏡よ、輝く光よ

  どうか我々をあの栄えある場所へ

  天響くその音色に耳を傾けた

  古より続く星と月の伴奏ともあわせ

  決して濁らず、決して消えず

  至高き夜空の音よ、どうか永久に





 

 煉瓦造りの家が建ち並ぶ美しい街の一角でのことでした。


 「おねえちゃんたちがリラのさがしてたびぶ……びーぶー……?」


 ふんわりと広がったドレスを、小さな女の子がしっかりと握っていました。そのドレスを着ていたのは、蜂蜜色の髪を腰までのばした青い目の美しい少女です。

 彼女は、となりに立っている白い髪の女性のほうをチラッと見上げたあと、背の低い自分よりさらに小さい女の子と視線を合わせるように、少し膝を折りました。


 「ビブリオドール、のことでしょうか?」

 「うん! そう! びぶりおどーる!」


 難しい顔で腕を組んでいた女の子の顔が、パアッと明るくなりました。女の子が吐いた息が白くくもり、すぐに空へ消えていきました。


 ビブリオドール。それは、友だちの神さまが己の代わりに魂と精霊を救うことを望んで造った、人ならざるモノのことでした。

 世界に広く知られた名前ではありません。それを何故、このように年端もいかぬ幼い少女が知っているのでしょうか。


 「あのね、リラがね、びぶりおどーるにおねがいしたいことがあるんだって!」

 「わたしに、ですか。リラというのは、貴女のお友だちのことですか?」

 「そうなの! わたしがまえにもりにおさんぽにいったときにね……「こら! どこへ行ったのかと思えば……またそんなことを言って!」


 女の子が大きな身ぶりで話してくれていると、鋭い声が飛んで来ました。


 「おかあさん……」

 「ほら,帰るわよ!」


 やってきた若い女性は,二人をじと目で睨みつけると娘の手を無理に引きました。


 「まったく。ありもしないことを人様にべらべらと……。恥ずかしい!」

 「ほんとうだもん、おかあさん! リラはちゃんといるもんー!」

 「いません! 何度もそう言ってるでしょ!」

 「でもおかあさん……」


 女の子は母親に反論しながらも,チラッチラッと二人を振り返りました。


 「待って下さい,お母様」

 「はあ?」


 ビブリオドールが呼び止めると,女性はとても面倒くさそうに二人のほうに顔を向けました。


 「わたしたちは、貴女のお子様のお話に興味があります。もし、お子様がわたしたちのことを必要としているのでしたらお力添えを……「あいにくですけど。間に合ってます。そういうのは」


 女性はいらだったような,冷ややかな声でビブリオドールの言葉を遮りました。


 「よしんば本当に子どもが何かに困っていたとしても,それになぜ見ず知らずのあなたたちを頼らなくてはならないんです。けっこうですわ」


 そして,今度こそ足早に去っていきました。


 「取りつく島もありませんでしたね」

 「ずいぶんな言い方だったな。言っていること自体は、あながち間違ってもいないんだが」

 「穏便に話を聞きたかったのですが……そうもいかないようですね。困りました」

 「それにしても,あの子どもはお前のことを知っていたようだがな,セシェ。どういうことだ?」

 「考えられるのはあの子が誰か、この世を彷徨う魂か、苦しんでいる精霊と面識があるから,でしょうね。……館長さん。貴女は〝おもちゃ〟が死ぬとどうなるか知っていますか?」


 セシェ。それは,透き通った青い瞳で世界の全てを見るビブリオドールに与えられた呼び名です。ビブリオドールは、必ず一人の契約者を伴って世界を旅しています。

 今代の契約者は白い髪と紫の瞳を持つカリオン・シュラークという女性です。彼女は、元凄腕の傭兵でした。彼女がビブリオドールに古い言葉で『書物』という意味を持つこの名を与えたのです。


 そもそも、〈ビブリオドール〉という名は図書館から来ています。ビブリオドールの役目は、彷徨う魂を還るべき場所へ導き、荒れる精霊を鎮めることです。そのための祝詞を、ビブリオドールは自らのうちに保管・管理し、対象に提供します。この仕組みが図書館に似ているため〈ビブリオドール〉と名付けられました。だからビブリオドールは、契約者のことを〈館長〉と呼ぶのです。


 「大母の代行者おまえや神の愛情深き〝おもちゃ〟である精霊をのぞけば、この世の生けるものは全て神の造りし〝おもちゃ〟であり、これらは百年の寿命を越えて生きることは通常ない。百年の寿命が来る前に、別の要因で死ぬこともあるがな。どんな場合にせよ、〝おもちゃ〟は死ねば、肉体はこの箱庭で朽ち、魂は神々が住まう天の園・ローゼノーラの地でそれまでの記憶を浄化され、新しい肉体とともにこの世に送り出されるのだったか」

 「ええそうです。肉体を作る神と魂を浄化する神は別ですので、その魂が次度の肉体に入るかは分かりません。動物か、人間か、植物か……。神本人も分かっていないのですから、当然ですよね。ですが、実は魂と肉体がなじむには、少し時間がかかるんです」

 「なじむ?」


 カリオンが首を傾げました。初めて聞く話です。


 「はい。絵の具の色を混ぜ合わせるとき、しばらく筆で混ぜていないと、均一なきれいな色になりませんよね? それと同じです。魂と肉体という別々のものがしっかりなじんで、ちゃんとした〝おもちゃ〟になるまでは、生後七、八年かかります」

 「そんなにかかるのか?」

 「人にとっては『そんなに』ですが、神にとっては『たったそれだけ』ですから」


 カリオンの驚きに対して、ビブリオドールは苦笑でしか返せません。こうしてビブリオドールの契約者となり、神のことを幾度か聞く機会がありましたが、カリオンにはいつまでたってもその感覚は理解できません。


 「ですから、肉体と魂が完全になじむまでの子どもの頃は、精霊も大人より知覚しやすく、彷徨う魂も目にしやすいのです」

 「そうなのか?」


 自分の子ども時代を思い返して、剣を振っていたこと以外にまったく覚えがなかったので、カリオンは苦々しく思いました。


 「なにも、全ての子どもがそうだというわけではありません。あくまで大人と比べて、という話ですよ」


 それを察してか、ビブリオドールはそう付け加えました。


 「まあまずはそれよりも……。どうやってあの子からお話を聞きましょうか」


 

 「ごめんね、リラぁ。せっかくびぶりおどーるをみつけたのに、きてもらうことができなくて」

 『大丈夫だよ。気にしないで』

 「わたしがリラをもっとちゃんともてたらよかったんだけど……」

 『無理をしないでよ。君の体じゃ、まだぼくを持てない』

 「うん……。なんでおかあさんはしんじてくれないんだろ。おかあさんがリラをもってくれれば、すぐにあいにいけるのに」

 『普通の人は信じてくれないさ。大人には、ぼくたちの声は聞こえないしね。それに、君のお母さんは楽器が嫌いなんだろ?』

 「うん。むかしからひけなくて、ずっとばかにされてきたから。それでね、それをがっきのせいにするんだよ! このがっきはもともときれいなおとがでないのよって! ひどいよね。リラはすごくきれいなおとでなってくれるのに」

 『ありがとう。そう言ってくれる人がいるって、凄く嬉しいよ』

 「ねえ、またなにかひいてよ。ききたいなあ」

 『もちろん、かまわないよ』



  飴色の音符は 空に満ち満ちて

  花人かじんの喜びを歌ってる



 穏やかに爪弾かれる音色と、低くゆったりとした歌声は、聞く者の孤独を癒し、痛みを和らげ、苦しみを忘れさせてきました。

 けれど、その素晴らしい演奏を聴くことができるのは、今やほんの一握り。この場には、心優しい幼子しかいません。



  さあ 渦巻く音の回廊へ

  輝く白珠しらたま逆景色さかげしき 

  連り連なり世界の真を映し出す

  ふりさけ見れば七色の 

  最果ての蒼空そら幻想ゆめを見た

  いざ、唄えや唄え 花鏡かきょうえん

  更紗の調べに紬の律

  白珠の雫は星涙せいるいか、はてや真砂まさごの響鳴か……



 パチパチパチパチ。

 ふいに、拍手の音が空気を震わしました。夢見心地だった女の子が、ハッと目を見開いて顔を上げました。

 今ここには自分しかいないはず……。そう思って顔を巡らすと、窓の外に伸びた木の枝に座っているビブリオドールとカリオンの姿が見えました。


 「びぶりおどーるのおねえちゃん!」

 「こんばんは。こんな場所から失礼しますね」


 嬉しそうに窓を開けて女の子が身を乗り出してきました。それを押しとどめながら、ビブリオドールは部屋の中を覗き込みました。


 「貴方がこの子の言っていたリラ、でしょうか?」

 『ええ、そうです』


 そこでハッと気がついた女の子が、んしょんしょと自分の体と同じくらいある大きな樫の木で作られた竪琴を運んできました。今まで女の子としゃべり、詩を詠っていたのはこの竪琴でした。人の姿などは見えません。


 『はじめまして、ビブリオドール。ぼくの名前はリラ。世界最高の吟遊詩人・オルフェに愛されたものです』

 「はじめまして。弾き語る憑きびとよ。わたしも、貴方のような方にお会いできて光栄です」


 付喪神つくもがみ

 それが、この竪琴に憑いている精霊でした。いいえ、厳密に言えば〝精霊〟とも少し違います。存在としては似ていますが、その生まれはまったく異なるものでした。


 〝精霊〟は、まるで弟妹のように可愛がるために神がわざわざ作った〝おもちゃ〟です。

 ですが〝付喪神〟は、人の強い想いを長年注ぎ込まれた物に宿る、神の意思によらず生まれた〝おもちゃ〟でした。ゆえに、付喪神はそう易々と生まれるものではありません。悠久の時を生きるビブリオドールとて、付喪神と会うのはこれで三度目でした。


 『あなたのことをずっとお待ちしていました、ビブリオドール。どうか、あなたの手で救ってほしい人がいるのです』

 「貴方がわたしに頼みがあるということは、こちらの女の子から聞いています。……貴方がわたしに救ってほしい人とはどなたですか? なぜ、その方はわたしの助けを必要とするようになってしまったのですか?」


 お聞かせください。

 ビブリオドールに誘われるまま、竪琴の声は郷愁をかき立てる音楽とともに、語り始めました。



         *         *         *



 ぼくの名前はリラ。樫の木で作られた竪琴に宿った付喪神だ。

 ぼくを生んでくれた人、ぼくを使ってくれていた人、ぼくが誇りに思うご主人様は、伝説の吟遊詩人・オルフェだ。


 オルフェは、最初は普通に生まれた人だった。けれど、どんな偶然が重なったのか、オルフェは音楽の才能に満ち溢れていた。それこそ人の器を越え、神々をも魅了するぐらいに。

 そんなオルフェだったから、彼は早々に音楽の神・メラニアの加護を受けた。たぶんその加護もあって、ぼくは生まれたんだと思う。オルフェはぼくをとても大事にしてくれたけど、物に精霊が宿るなんて奇跡、そんなことでもないかぎりお目にできないから。


 オルフェの詩に、表現できないものはなかった。



  のぞみ 、万物の心奥しんおうより芽生え

  いのり 、虚空の彼方に捧ぐ

  愛を囀り、美を讃え、石すらをも動かした

  それこそ私の誇る技量うで

  世界の呼び声は幾度となくこの胸を震わし

  私の道を彩った

  紡げよ我が声、見えざる雨夜の星が為

  奏でよ我が音、知られざる夜天の陽が為に

  語れよ我が詩、触れられざる永遠の刹那の為に

  さあ、熟した佳き夢の果実よ

  この手に転がり来なさい

  花のため息に誘われて

  心と手の楽をかき鳴らし

  私は全ての美しきものたちと歩いていこう



 メラニアの加護は、オルフェに半永久的な命を与えた。そのおかげで、オルフェは若く美しい姿のまま、世界を旅し続けることができた。たくさん恋もしてたし、たくさんの涙も流していた。でも、それら全てがオルフェの詩をより素晴らしいものに仕上げていた。

 一所ひとところに留まることなく、世界を流浪するオルフェは、世界中の人々に語り継がれる『永久なる詩人』になった。


 ところで、君たちなら知っていると思うんだけど、神の加護っていうのは万能ではないんだ。加護を受けたおもちゃも、所詮は造られたおもちゃ。病気になるし、怪我だってするし、全ての望みが叶うわけじゃない。

 あれは、オルフェが加護を受けてから百五十年ぐらい経ったときだったかな。

 オルフェはある山道を一人詩を口ずさみながら、馬に乗って歩いていた。



  音は楽器を生み、言葉を創った

  この身を震わし、この心を騒がし、

  世界を永遠に満たす

  世界に永遠を刻み続ける……



 何の前触れもなかった。突然隣の崖が崩れ、オルフェは生き埋めになってしまったんだ。たぶん他の人からすれば幸いなことに、オルフェの命は助かった。物音を聞きつけた隊商が駆けつけてきて、助けてくれたんだ。


 でも、彼はこの事故で己の吟遊詩人としての命を、両腕を失ってしまったんだ。


 あ、このとおり竪琴ぼくは無事だったよ。あの時は岩が馬に当たったひょうしに吹っ飛ばされて、道の上に放り出されていたから。

 でもね。竪琴ぼくが無事でも、命があっても、オルフェは詩に彩りを添える伴奏を奏でるための腕をなくしてしまったんだ。吟遊詩人は音を奏でて、詩を詠ってこそ存在する意味がある。そのどちらかでも欠けてしまったら、それはもうオルフェが誇りにしていた世界最高の吟遊詩人ではない。

 オルフェは、絶望で死のうとした。


 ところがだよ。メラニアはそれを許さなかった。オルフェにはまだ詩が残されているんだからって、なくすのを惜しんだんだ。


 オルフェは、音も詩も全て揃った吟遊詩人でいたかったのに。この二つ備えてこそ、オルフェの自慢の技量うではふるえるんだから。でも、メラニアはオルフェに新しい腕を与えてくれるようなことはしなかった。ケチだよね。

 オルフェは自分の存在価値を見失った。加護を与えてくれた神は、助けを恵んではくれなかった。なのに、死ぬことも許されないんだ。


 オルフェが最後にとった手段は、閉じこもることだった。

 詠うことも奏でることも、彼が讃え続けた世界にすらも背を向けて、全てを止めて棺の中に閉じこもった。

 どんな呼びかけにも答えず、詠わなくなった吟遊詩人に、いつまでも加護をたれる神ではなかった。オルフェが閉じこもって数年後、メラニアはオルフェに加護を与えるのをやめた。


 これで不死ではなくなったオルフェの肉体は限界を迎えて朽ちた。



         *         *         *



 『だけど、彼の魂はまだあの棺の中にある。自分が死んだことに気がついていないんだよ。彼は色んな死を見てきたけど、長く生きすぎたせいで『自分の死』を認識できなくなっているんだ』

 「そうですか。では貴方がわたしに頼みたいこととは……」

 『はい。オルフェの魂を棺から解放して、天の園へ向かわしてほしいんです。オルフェの魂は天の園で浄化され、またこの世に生まれて来ます。そのときまた音楽の才能を持っているかは分からないけど、あんな狭い棺の中にオルフェが閉じこもったままなんて、ぼくは嫌なんだ。オルフェはこの世界を誰よりも好きだった。オルフェの魂は、たとえどんな器に入ったとしても、世界とともに歩むべきなんだ!』


 ビブリオドールが木から落ちないように抱えていても、カリオンの目には、それは美しい装飾が施された竪琴にしか見えません。

 ですが今一瞬だけ。今この一瞬だけは、淡い緑色の髪と瞳を持ち、白い衣服を美しい体にまとった少年の姿がカリオンの目に映りました。大事な人の幸せを願い乞う姿は、とても優しく、とても強いものに見えました。


 「分かりました。もとよりわたしは、彷徨う魂をローゼノーラの地へ葬ることが使命。貴方の頼みを引き受けましょう」

 『! ありがとうございます……!』

 「よかったね、リラ!」


 話している内容が難しすぎたのか、女の子はずっと首をひねっていましたが、ビブリオドールがリラの頼みを無事に受け入れたことは分かったようです。女の子が竪琴をそっと撫でました。

 そのとき、ダンダンという大きな足音が近づいてきました。


 「ちょっと! なにまた一人でしゃべっているの⁉ 気持ち悪いからやめなさいって言ってるでしょ!」


 女の子の母親のようです。


 「あら、お母様ですか」

 「この状況を見られたら、またうるさいぞ。最悪、誘拐犯に思われかねん」

 「館長さんの言う通りですね。では弾き語る憑き霊よ。明日また迎えに来ますね」

 『はい。ではその時に、オルフェが眠る棺まで案内します。本当に……ぼくの願いを叶えてくれて、感謝します。ビブリオドール』

 「いいえ。先ほども言いましたが、それこそが私が造られた意味。むしろ、救いにくるのが遅くなって申し訳ないぐらいです。それでは、また明日。……こんな寒い夜にごめんなさいね」

 「邪魔をした」


 二人は最後に女の子に一礼をすると、カリオンがビブリオドールを小脇に抱えて音もなく枝から地面に飛び降り、夜の闇にまぎれて去っていきました。


 「すごいかっこいいー……」


 女の子は感動したように見下ろしていました。そしてふと顔をあげると、降るような満天の星空が広がっていました。


 「きれいだねー」


 はあ、と息をもらすと一瞬白くなって、すぐに消えていきます。そして数秒後には、部屋に来た母親に「風邪をひくから窓を閉めなさい!」と怒られるのでした。




 翌日の昼前のことです。女の子は窓をこつこつと叩く音で目を覚ましました。

 眠い目をこすりながらカーテンを引けば、カリオンが雪の乗った枝に立ち、軽く手を上げていました。女の子はゆっくりした動きで窓の鍵を外し、開けました。


 「おはよーご……さっむぅ⁉」


 一気に目が覚めました。その様子に、カリオンは苦笑を浮かべるしかありません。


 「すまんな。せっかく気持ちよく寝ていたところを起こしてしまって。リラを渡してもらえるだろうか?」

 「い、いえだいじょうぶですぅ……。え、でもちょっとまってこれまじでさむい」


 繰り返し寒い、どうしよう、などと繰り返しながら、女の子はカリオンにリラを手渡しました。


 「おはよう、リラ」

 『おはようございます。わざわざきてもらって、すみません』

 「気にするな。お前がいなければ、我々も手が出しようがないからな。では、行くか」

 「あ、あの!」


 また枝から飛び降りようとしたカリオンを、女の子が呼び止めました。


 「わ、わたしもいきたい! すぐにじゅんびするから、まっててくれませんか!」

 「……」


 今日は地面の上で待っているビブリオドールに、カリオンは合図を送りました。


 『子どもが同行したいと言ってるが?』

 『かまいません』


 ビブリオドールから返される答えも、簡潔なものでした。


 「ああ、いいぞ。この家の玄関で待っているから、ゆっくり準備して出てきてくれ。ご両親にちゃんと出かけてくると伝えるんだぞ」

 「! はい!」



 女の子の準備は思っていたよりも早いものでした。ものの数分で身支度を整えると、家から飛び出してきました。ドアが閉まる直前に、「ちょっとさんぽいってくるー」と声をかけていましたが、はたして家族に聞こえていたかは微妙なところです。


 「それでは行きましょうか」


 ビブリオドールは女の子に手を差し出しました。それを女の子は嬉しそうに握りました。

 リラの案内で、四人は森の中へ入って行きます。森といっても、今の季節は冬。葉をつけている木は少なく、視界は良好でした。


 「ねえねえ! おねえちゃんはほかにもいろんなところいったことあるの?」

 「ええ、わたしは世界中を旅していますから」

 「すごーい! どんなところにいったの?」

 「そうですね。つい三ヶ月ほど前には、南のほうにある暖かい小島を訪れて……」


 こうして見ると、まるで姉妹です。


 「静かな森だな」

 『ええ。昔から、ここは精霊の宿る森だということで、街の人たちもそんなに奥まで足を踏み入れないところですから。動物たちも、今は多くが冬眠していますし。寂しいことです』


 細い道を先に歩く二人を見つめながら、カリオンとリラもまた、会話を重ねていました。


 「精霊の宿る森……?」

 『はい。ぼくがなんとかオルフェを外に連れ出せないかと思って、音楽を奏でているのを街の人たちが勘違いしたみたいです。たぶん、この森にぼく以外の精霊はいないと思います』

 「なるほどな」

 『でも、それでちょうど良かったと思ってます。もし万が一、オルフェの眠る棺が発見され、不用意に暴かれてしまっては、オルフェを怒らせてしまうかもしれないから』

 「自分が死んだことを分からぬ魂は、認められぬ魂は、時に厄介になるからな」

 『そのとおりです。あなたは、ビブリオドールの契約者となってから長いのですか?』

 「……さあ。どれだけ経ったか。こうも世界中を旅していると日付はおろか、季節の移り変わりもよくわからなくなるからな。さすがに五年十年経ったとは思ってないが」


 上を見れば晴天とは言いがたく、厚ぼったい灰色の雲に空は閉ざされ、太陽の光がもたらす温もりも、あまり期待できそうにありませんでした。


 「そういえば、手袋はどうしたんですか?」

 「え? あ、あの〜、その、ね。この間友だちとスケート遊びをしてたときに落としちゃったの。買ってもらってまだ一年ぐらいしか経ってなかったから、お母さんが怒っちゃって、次のやつはまだ買ってもらってないんだ」


 女の子はよく見れば、手袋をしていません。服の袖の中に手を引っ込めて、外気から守っているようです。


 「では、これをどうぞ」


 ビブリオドールは、自分がはめていた真珠色の手袋を外し、女の子の手にはめてあげました。年齢はまったくちがっても、身長は同じくらいの二人です。少し指先が余るようですが、これからも成長する女の子には、ちょうどいいかもしれません。


 「ええ! だめだよ、そしたらおねえちゃんがさむいよ!」

 「わたしは大丈夫ですから気にしないで下さい。それは差し上げます。今度は大事に使って下さいね」


 ビブリオドールがニコッと女の子の両手を握って言いました。べつにビブリオドールは強がって言っているわけではありません。〝人形〟の彼女には、温度を感じる器官がありません。ただ、見た目的な問題でつけていただけです。


 「だめだよ! だいじょうぶじゃないひとほど、だいじょうぶだっていうんだよ!」


 ですが、女の子はそう言って譲ろうとしません。その一方で、ふわふわの布地で作られた手袋は魅力的なようです。そこで少し考えた女の子はこう提案しました。


 「そうだ! ふたりでかたほうずつつかおうよ!」

 「片方ずつ、ですか?」

 「そう! てをつないでないほうのてにてぶくろをつけるの。つないでいるほうのては、おたがいのたいおんがあるからあったかいでしょ?」


 女の子の目は、名案でしょと語っていました。たしかに名案ですが、それは普通の人が相手だったときの話です。

 温度を感じる器官がない人形のビブリオドールは、もとより体温を持っていないのでした。


 「……貴女は、優しい子ですね」

 「ほえ?」


 ビブリオドールは陶器のように冷たい、血が通っていない手で女の子の頭を撫でました。


 「わたしは本当に寒くありませんから、大丈夫です。むしろ、その手袋も本来の役目を果たせるあなたの手にあるほうが、幸せでしょう」

 「? ?」


 女の子にはビブリオドールの言い回しが難しかったのか、首を傾げていました。ですが、こんな小さな子に自分の正体を説明しても、それはそれで分からないこと。ビブリオドールはただ小さな頭を撫でていました。


 「ところでお前たち。手袋はいいが……足が半分埋まってないか?」

 「え?」

 「そうですね。このあたりは人が踏み入れないだけあって、除雪されることはありませんから」


 女の子は自分の足下を見て初めて気がついたようでしたが、反対にビブリオドールはそうなっていることを知ってても放置していたようでした。

 大人のカリオンにとってはそれほどではありませんが、体の小さな二人には動きにくいことでしょう。しかたなく、カリオンは女の子を肩車し、ビブリオドールにリラを持たせて、彼女を横抱きにしました。


 「すごーい! ちからもちー!」


 女の子が手を叩きました。


 「あんまり暴れるなよ、危ないから」


 カリオンは女の子の背を叩いてそう言いました。ビブリオドールは片手で抱えられますが、肩車のバランスはなかなか残る片手ではとれないものでしたから。



 それから歩くこと数分。


 『あれです。オルフェが眠る棺は』


 竪琴が、悲しげな音をひとつ爪弾きました。

 雪にまぎれてしまいそうでしたが、ビブリオドールと彼女と契約しているカリオンには見えました。固く重く閉ざされた白亜の石で作られた棺が。


 「館長さん。この子とここで待っていてもらってもいいですか?」

 「ああ。気をつけろよ」


 カリオンはビブリオドールを静かに降り積もった雪の絨毯の上におろしました。ビブリオドールはリラを抱えたまま、さくさくと音を立てて棺へ歩み寄ります。


 「こんにちは。もの言わぬ石にすら涙を流させたと謳われる永久の詩人・オルフェ」


 返事はありません。それはまるで、拗ねてしまった子どもを思わせました。

 ビブリオドールがコンッ、ココンッと軽やかなリズムで棺をノックすると、今度はくぐもった暗い声が返ってました。


 『…………誰だ?』

 「はじめまして。わたしはビブリオドールと申す者。世界中の全てのものに忘れられた友だちの神様に魂を吹き込まれた人形です」

 『……荒れる精霊を鎮めるための、そして彷徨う魂を救うための祝詞を持つという永遠なる唄姫うたひめか。おお、なんという悲劇だ。もし私の両の腕が無事ならば、ぜひともお会いしたかった。私に、あなたへ捧げる詩を詠わせてほしかった。私にあなたの詩を聞かせてほしかった!』


 がたり、と棺が揺れました。女の子の体がビクッと震えるのをカリオンはとっさに支えました。


 「大丈夫だ。なにも怖いことはない。セシェに任せておけ」

 「うん……!」


 女の子の手がカリオンの手をぎゅっと握りしめました。


 「詠わせてほしかった、聞かせてほしかった……。なぜ過去形で話すのですか? 貴方は今すぐにでも、それを実行できるというのに」


 『いいや、できないのですよ! 私の腕は永遠に失われてしまった。私の誇るべき技量うでは、二度と返ってこない!』

 「そんなことはありませんよ」



  書架配列六四七番より——開架

  永久なる詩人に紡ぐ再誕の詩



 「まずは、わたしが貴方にお聞かせしましょう」



  織り成す星の歌声よ

  どうか悲しみの若者に慰めを



 詠い上げるのは葬唄おくりうた。死者を慰め、彼の地へおくる詩。



  枯れてしまった忘却の川に

  流れていくための水を与えましょう

  埋められてしまった棺には

  古き良き開放の詩を詠いましょう



 キラキラと小さな光の粒が棺を覆っていきます。そして静かに。泣いている子どもを怯えさせないように静かに、棺の蓋が開きました。



  神秘の光は充ち満ちて

  何故などと問わないで

  これが貴方の逝くべき道なのです



 『こ、これは……! 何が……どうなって……⁉』


 固く固く閉ざしていたはずの蓋。それが、自分はなにもしていないのに開いていくのです。オルフェは驚き慌てて体を起こしました。そしてそのとき気がついたのです。

 痩せこけて傷だらけだったはずの体が、滑らかな肌の均整がとれた美しい成人男性のものになっていることに。血の付いた包帯で覆っていた両腕が、元のままあることに。


 『これはなんだ! どういう奇跡だ! 私の腕が……私の腕がある!』

 『オルフェ!』


 奇跡を信じられない青年に、淡い緑色の髪を揺らして、少年が竪琴から抜け出して駆け寄りました。



  さあ 貴方の愛した竪琴が

  喜びの調べを奏でています



 『お前は……リラか? 私のリラなのか?』

 『そうだよ、オルフェ! ずっと、ずっと、君が目覚めるのを待っていた! 約束してくれたじゃないか。どこへ行くときも君とぼくは一緒だって……』



  彼の音色とともに天上の在るべき場所へ

  お還りなさい 麗しの詩人よ



 『天の園へだって……ぼくは行くよ? 君となら、どんなことも怖くないから。ぼくたちなら、どんな恐怖も感動に変えてあげられる。だから、ね。オルフェ。そこから出ておいでよ』



  願わくば、

  貴方の次なる目覚めにも光があらんことを……



 ビブリオドールが詠い終わるとき、棺の中には誰もいませんでした。棺の上に、オルフェとリラは佇んでいました。


 「どうですか。二百年ぶりの世界は」

 『……ああ、美しいよ。共に寄り添い、共に語らい、お互いの温もりを知る好い季節だ。本当に素晴らしい、祈りにも似た、涙がこぼれるほど眩しく純粋な好い世界だ』


 ビブリオドールの問いかけに、オルフェは再び竪琴になったリラを抱きしめながら、首を巡らせて答えました。彼の知る世界よりも、もっと文化は発展したことでしょう。


 オルフェは、惜しいことをしたかもしれないと、少し後悔をしました。見るだけでもよかったのではないかと。奏でることができなくなっても、見つめて、詩を口ずさむことはしてもよかったかもしれないと。

 しかし、それはもう遅すぎる後悔でした。彼は旅立たなくてはなりません。この愛する竪琴の少年とともに、最後の約束を果たして。


 『それでは僭越ながら、この流浪の吟遊詩人。あなたに最高の感謝を添えて、この詩を贈らせていただきます』


 ピィンと竪琴の弦が澄んだ音を鳴らしました。



  今日もどこかで誰かが眠りについた

  今日もどこかで赤子がないた……

  雄大な世界の一欠片

  全ての生まれ来た子に詠う

  流れ落ちる夢、過ぎ行く時

  浮かんでは消えていく想い

  幾重にも重なる螺旋の回廊に満つ

  流れる涙は追憶の果てに消え

  思い出は忘却の彼方へ過ぎていく   

  一会ひとえの誓い 刹那の記憶

  命果てども愛は受け継がれ

  永遠の世界は巡るだろう

  星と月を臨みて詠い

  風と雪を聴いて奏で

  花と水を交えて踊れよ

  ああ、清らかな恵みの泉を知る  

  汝は輝く明けの星を抱く者

  ああ、眠りと目覚めを繰り返す

  孤独なよ 汝に祝福を

  小さな光に幸いあれ——



 二つの魂がこの世界を離れる直前。若いほうの魂の囁きが密やかな風に乗って漂ってきました。


 『ありがとう、小さな君。ぼくを見つけてくれて。ぼくの為に心を砕いてくれて。君なら素晴らしい吟遊詩人になれると信じているよ』


 それは、カリオンに肩車をされて、固唾をのんで見守っていた少女に向けられた別れのメッセージでした。女の子は溢れそうになる涙を飲み込んで、空に向かって叫びました。


 「ばいばーい! リラー! げんきでねー!」


 空できらりと何かが光ったのは、目の錯覚でしょうか。


 「……この竪琴は、どうしますか?」


 見送ったビブリオドールがこちらへきびすを返してきました。カリオンは一度女の子を地面におろしてやります。


 「この竪琴は、どこも壊れていません。宿っていた魂が消えて、多少雰囲気は変わってしまったかもしれませんが、十分に使えるものです。貴女はどうしたいですか? これをオルフェの体とともに棺で眠らせてやるか。それとも、貴女が彼らを継いで次の永久なる詩人を目指しますか?」


 女の子は服をぎゅっと握りしめて俯いていました。

 女の子はまだまだ幼いです。かなりの重荷になることが考えられます。いいえ、もしかしたら重荷になるということもよく分かっていないかもしれません。ビブリオドールが与えた選択は、まだこの女の子には早いもののようにカリオンは思いました。


 ですが、女の子は決意を込めた目で顔を上げました。そしてふっと肩の力を抜くと、ビブリオドールから竪琴を受け取りました。


 「あのね、つぎのと、と……」

 「永久なる詩人ですか?」

 「そう! それはよく分かんないんだけど、わたし、リラとやくそくしたんだ。いつのひか、わたしがこのたてごとをつかって、おかあさんのがっきぎらいとふゆぎらいのきもちをいやしてあげるんだって。だから、わたしはこのたてごとをもらいます!」

 「そうきましたか……。貴女は本当に優しい子ですね」


 ビブリオドールはそう言うと、女の子の額に手をかざしました。


 「貴女の夢が途中で断たれぬように。貴女の夢が何ものにも遮られぬように。世界中の誰よりも祈ります」

 「ありがとう……。ビブリオドールのおねえちゃん」




 こうして、永遠に語り継がれる吟遊詩人を彼自身から解放したビブリオドールは、未来の吟遊詩人に見送られて、カリオンとともに再び世界を巡る旅に出ていきました。

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