深紅の人とビブリオドールのお話



  あけに染まる空の下。

  穢れたを洗う水は赤く、

  俺はそこに地獄の片鱗を見た。

  天使の微笑みは遥か遠く、

  安らかな光には千里も及ばない。

  ただ絶望だけがこの身を埋めていた。

  天青てんせいに虹が懸かるとき、俺の名を聞いてくれ。

  君が心の奥深く、しまいこんで忘れてしまった俺の名を。

  君が好んだ光の橋に、俺は俺の名を託すから。

  天青てんせいに虹が架かるとき、俺の名を聞いてくれ。

  血の海に沈んでしまった、俺の名を。





 前方に山を望む一本道を、一頭の馬が二人の人影を乗せて歩いていました。気温も高くなく、風も強くないのでとても過ごしやすい日でした。


 手綱を握るのは、白い髪に紫の瞳の精悍な顔つきをした女性です。腰には長年使い込まれたらしき重みを感じさせる剣を下げていました。彼女は凄腕として知られた元傭兵のカリオン・シュラークと言います。


 彼女の前に座っているのは、蜂蜜色の髪を腰までのばし、深く輝く青い瞳で世界を見つめるビブリオドールでした。ビブリオドールは、姿こそ十歳を過ぎたぐらいの幼い少女の姿をしていますが、その正体は友だちの神さまが己の代わりに魂と精霊を救うことを望んで造った、ヒトならざるモノでした。

 二人がもう少し山に近づいたとき、いくつかの集団が山のふもとにいるのが見えてきました。


 「人がたくさんいますね。商人たちが取引でもしているんでしょうか」

 「どうだろうな。ここからではよく見えない。私たちが近づいても、はたして平気だろうか」


 さらに二人が、集まっている人々の顔を肉眼で見えるぐらいまで近づいたとき、向こうから鎧を身に着けた男性が三人、馬に乗って駆けてきました。三人が大剣を佩き、弓矢を背負っているのを見て、カリオンはわずかに眉をひそめました。そして馬から降りると片手を剣にかけながら、二、三歩進み出ました。カリオンの目の前まで来ると、三人もまた馬から降りました。

 先に口を開いたのは、向こうでした。


 「どうも、お疲れさまです。旅人どの」

 「どうも。随分物々しい様子が見えるが、いったい何事でしょうか」


 カリオンが警戒心を剥き出しにした眼差しを向けるも、壮年の男性は怯えるそぶりもなく説明を始めました。


 「実は、この辺りの国々で犯行を繰り返していた凶悪な殺人犯を、あの山に追い込んだところでして。近隣の国からそれぞれ兵を派遣して、ただいま大規模な山狩りを行っているのです。つきましては、旅人どのには我々が殺人犯を仕留めるまでこちらでお待ちいただくか、山を大きく迂回するルートをとっていただくかのどちらかになっております。もちろん、迂回されるのでしたら、我々が山を越えた次の国まで護衛させていただきます」

 「なるほど。そういう事情でしたか」


 カリオンの肩から少し力が抜けました。どちらを選ぶか、彼女がビブリオドールのほうを窺えば、ビブリオドールは怪訝そうな、それでいてどこか厳しい顔つきで山を見つめていました。


 「兵隊さん」

 「何かな、お嬢ちゃん」

 「この包囲は、いつ解除される見込みなのですか?」

 「そう遠くないうちには解かれるさ。だから、怖がらなくても大丈夫だぞ」

 「では、いつからこの包囲を続けているのですか?」

 「さて、ほんの数日前からだよ」

 「……動揺」


 カリオンの指摘に、ずっと二人と話していた壮年の男性の目尻がピクッと動きました。


 「動揺、とは?」

 「セシェの質問に対して、アンタの表情は動かなかったが、後ろの二人は目が一瞬動いたり、肩が揺れたりしていた。どうやら、実際の包囲はずっと前からあったし、これからも長引く恐れがあるということのようだな」

 「……どうも、参りましたな」


 壮年の男性は、彼の後ろで恥じ入ったようにうなだれている二人の兵を見やり、またカリオンたちを見て降参だとても言いたげに首を振りました。


 「気をつけるようには言っておいたんですが。ありもしない悪評を広められても困るのでね」

 「普通の相手ならば気づかんさ。私は、あまり褒められた人生を送ってないからな」

 「……そのようで」


 剣の柄を玩ぶカリオンの様子を見て、壮年の男性は咳払いとともにそう言いました。


 「しかし、複数の国から兵を派遣しても未だに討伐できないとは、驚くべき相手だな」

 「ええ、まあ。どこの者かも分からないのですが、恐ろしい剣の腕を持ち、四カ国で総勢十二名の死者、五十人を越える負傷者を出しています。そのどれもが国内ではそれなりに名を知られた、屈強な兵士たちでしてね。目撃した者の話によれば、弓で射ても剣で切っても、痛みを感じないのか動きがまったく鈍らないとのことですが」


 男性自身は見たことも会ったこともないのでしょう。そんなはずないだろうにと肩をすくめていました。


 「……不死身ということか?」

 「有り体に言えばそうですが、そんなお伽噺のような者がいるはずありませんよ」


 カリオンは知っています。そんなお伽噺のような者がいることを。


 「その殺人犯というのは、どんな姿をしているんだ? 四カ国にも及ぶ犯行だというのに、同一人物だと認められたのか?」

 「ええ、これがまた目立つ容姿をした男でしてね。稲妻のような剃り込みを右側頭部に入れた赤い髪、右肩には刺青、さらに全身は日に焼けて白い傷痕だらけ、となればすぐに一致させることができるでしょう」

 「それはたしかに目立つでしょうね。……館長さん?」


 ビブリオドールは納得したように頷きましたが、カリオンの様子がおかしいことに気がついて首を傾げました。


 「どうかしましたか、館長さん」


 血の気を失い、強張った顔で、カリオンは震える唇を動かしました。


 「その男の刺青というのは……青い鉤十字か」

 「……なんですと?」

 「そして双剣使いか?」

 「……彼奴を知っておいでか」


 男性の鋭くなった目つきも意に介さず、カリオンはまず返答を求めました。


 「私の質問への返事は?」

 「全て肯定だ」

 「……そうか」


 カリオンは大きく、それはそれは大きなため息をつきました。そしてのろのろと顔をあげると、山をじっと見据えました。


 「その男は、私のかつての上司だ」



 カリオンの驚きの発言から十分の後には、カリオンとビブリオドールは件の山の中にいました。


 民間人を凶悪犯の討伐に参加させることを兵隊たちは渋りましたが、カリオンは自分が相手の動きを知っていること、自分が元々傭兵で腕には自信があることなどを伝え、許可をもぎ取ったのでした。ビブリオドールの同行についても同じです。


 「それで、館長さん。この山の中にいるという貴女の上司とは、どんな方ですか?」


 ビブリオドールがカリオンに背負われたまま尋ねました。ビブリオドールは見た目からして軽そうですが、実際はその予想すら上回るほどの——まるでぬいぐるみでも背負っているような——軽さでした。


 「ああ……。私がかつて傭兵として世界中を巡っていたことは知っているだろ?」

 「はい」

 「その一番最初の仕事のとき、一年半ほどお世話になった人だ」


 カリオンの脳裏に、当時のことが鮮明に浮かび上がります。あのとき彼女は、弟を自身の手の中に取り戻すことだけを生きる糧としていました。そのためならば、立ちふさがるものはすべからく排除し、どんな傷も無茶も厭わないと思い込んでいたのです。


 「私は個人の武勇にこそ自信はあったが、戦場での戦い方はまったく知らなかった。勝利を得るための作戦の立て方も、集団戦の長所も短所もだ。私は、多対多が争う戦場で生き残るための術を、あの人から学んだ」

 「館長さんは、一年半でその方と別れたのですね?」

 「そうだ。戦争が終結したからな。結果としては、私が参加した側の国の勝利だった。……だが彼は、その戦争で戦死していた」


 カリオンの声がずっしりと重みを増したように感じました。

 ビブリオドールは驚きませんでした。想像出来ていたのです。ビブリオドールだけが感じ取ることのできる気配、死んでもなお死にきることができずにいる魂の気配が、先ほどからこの山の中をさまよっていたからです。


 「遺体の損傷が激しくて、仕方なく髪だけを国へ、彼の妻子の元へ届けたんだ。奥方は、私に恨み言も言わず、泣きもしなかった」


 そして、いっそう顔を曇らせて言いました。


 「なぜ、あの人はこんな所にいる。故郷から遠く離れ、死した地でもなく、なぜこんな場所で無益な殺生を行っているんだ……」



 山の中に入ってから三時間が過ぎようとしていた時です。ビブリオドールがピクリと顔を上げました。


 「館長さん」

 「ああ、分かっている」


 カリオンは、そっとビブリオドールを下ろして、後ろへ下がらせました。

 かすかな血の匂いが、頭上の草木の向こうから漂ってきていました。

 カリオンは剣を抜くと、音を立てぬように近くの枝を持って一気に上空へ身を踊らせました。そのまま、気配を頼りに剣を地面に向かって振り下ろします。


 ザクッという柔らかい手応えがありました。人の身を刺した感触ではありません。地面に剣先が刺さっただけでした。初撃を外したと察したカリオンはすぐさま横に跳び、相手の一撃をかわしました。

 狭い山道で相対したのは、何年経っても忘れることはない、そして最後に見たときから何も変わらない恩師の姿でした。


 「コルシーヌ卿……」

 『その声……もしかしてカリオンか?』

 「ええ、そうです」

 『そうか、久しぶりだな。髪の色が違うから、一瞬見ただけでは気がつかなかったぞ』

 「私にも、色々ありましたから。あなたは……お変わりないようで」


 カリオンはその一言を、痛切な思いで紡ぎました。

 男は、本当に最期に見たときと姿が変わらなかったのです。土と返り血で汚れた肌、風にあおられながら走り回ったせいでボサボサになった髪、割れた額、矢が刺さったときの穴が空いたままの足、そして深く切り裂かれた腹部からは内臓が見え隠れしていました。


 「コルシーヌ卿。あなたはここで何をしているのですか。なぜこんなところにいるのです。戦争はあの地で、我々の勝利に終わったというのに!」


 カリオンは単刀直入に尋ねました。彼女はまず何よりも、それが知りたかったのです。

 しかし男が返した言葉は、まるで答えになっていませんでした。


 『カリオンよ。お前はずいぶん小綺麗な身になったな』

 「は……?」

 『筋肉もあの時より付いているようだし、身につけているものも、俺が覚えている物とは違う』

 「それは……まあ。あなたと別れてから、五年あまりが経っていますので」

 『五年。そうか、五年か』


 男は、そう呟いたきり黙って体を震わせていました。


 「あの、コルシーヌ卿!」


 しびれを切らしたカリオンが、一歩踏み出して呼びかけたとき、カリオンは実際に身に食い込んだかと錯覚するほど鋭い殺気を感じました。どこから誰がと探すまでもありません。目の前の恩師からに決まっています。


 カリオンは体を地面に投げ出しました。

 ザシュッという音が彼女の上でしました。背中にピリッとした痛みを感じたので、もしかしたら少し切られたかもしれません。

 剣が通り過ぎると同時にカリオンは起き上がり、男と距離をとりました。


 「コルシーヌ卿、何を……」

 『羨ましいなあ……カリオンよ』


 顔は伏せられているので、カリオンから表情を窺うことはできません。


 『羨ましい。ああ! 本当に羨ましいよ、カリオン。羨ましすぎて、気が狂いそうだ……』

 「何がそんなに羨ましいのですか?」


 自虐的かもしれませんが、カリオンは自分が誰かから羨ましがられるようなものを持っているとは微塵も思っていません。自分が誰かを羨ましいと思うことは、片手の指の数ほどぐらいならありましたが、他人から自分へは一切ありませんでした。


 『何が、だって? そんなもの、決まっているだろう。お前は今、生きているじゃないか』


 カリオンは息をのみました。そうすることしかできず、目を見開いて男を凝視していました。


 『そうだ! お前は今生きているんだ! 生きているから身なりを整えることができるし、何かは知らんが、色んなことを経験できているんだろ! 俺にはどれもできない! できなくなっているんだよ、カリオン!』


 男はそう叫ぶと、距離を詰めてカリオンに切りかかってきました。はっと我に返ったカリオンは、かろうじて男の剣をいなすことができました、


 「くっ……!」

 『羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい羨ましい! なぜお前は生きているんだ、カリオン! 俺だってもっと生きていたかったというのに! なぜ俺だったんだ!』


 右、左、上、下。繰り出される剣を受け止め、かわし、カリオンは間一髪で男の攻撃を受けずにいました。いえ、それはある意味正しくないでしょう。剣による風圧か、カリオンの全身には浅く細い赤色の筋が付いていたのでした。


 『俺は生きていたかった! もっと、ずっと、戦って! 生きて! あいつとともに生きていきたかった!!』


 二本目の剣が鞘から抜き放たれました。男の戦い方は、二本の剣による左右から間を置かずに繰り出される斬撃が主でした。それを絶え間なく受けていれば、カリオンの剣がすぐに折れてしまいます。カリオンはギリギリで剣を避けながら、一旦距離をおきました。


 「ならば、なぜあんたはこんな所にいる!? 奥方とともに生きていたかったというなら、どうして彼女の元へ帰らなかったんだ!」

 『俺は兵士だ! 戦い勝つことこそが生きることだ! 俺が生きて戦い続けることで、彼女は守られている! 分かるだろ!? 雇われ者でも、お前とて兵士だったのだから!』


 そういえば、最初に会った壮年の兵士が言っていなかったでしょうか。男に殺されたのは、いずれも名の知られた屈強な兵士たちだったと。


 (一兵士として、戦う相手を求めてこんな遠くまで流れてきたというのか、この人は……!)


 カリオンは、この男のことが言いようもなく哀れなように思えてきました。おそらく、彼はそう思われることを嫌悪するでしょう。それでも、思わずにはいられませんでした。

 そしてだからこそ、同時に強く願わずに入られませんでした。


 この人にどうか救いを、と。


 『俺は知っているぞ、カリオン。お前、不死身の獅子レオとかいう大層な二つ名がついているらしいな』

 「……たしかに大層ですね。いったい誰が言い出したのやら、私も問い質したいです」

 『小娘が、思い上がりやがって……!』


 男のギラギラと血走った目が、彼の悔しさを、無念を、渇望を、嫉妬を、それ以外の狂おしい感情までも、余すことなく伝えてきました。


 『本当に不死身だと言うなら、それを証明してみろ! そしてそれを俺に寄越せ! こんな姿ではあいつに会いたくない。あいつが俺を忘れてしまわないように、あいつと添い遂げられるように、もとの体に俺を戻せっ!』


 男は叫びながらカリオンに突進してきて、その体がぐらりと傾ぎました。


 『⁉』


 草で見えませんでしたが、カリオンが立っていたのは地面から斜めに外へ伸びた太めの枝の上だったのです。その前に、地面はありません。

 カリオンは全力で男を下の道へ蹴り落とすと、片手の剣を弾き飛ばしました。


 『うっ……ぐ! この……!』


 痛みを感じないと言った兵士たちの話は本当でした。男は地面に叩き付けられても、呻きもせず踞りもせず、跳ね起きると上の道から飛び降りてきたカリオンに向き直りました。


 「嘆かわしいな、コルシーヌ卿」

 『なんだと?』

 「もっと生きていたかった……誰もが持って当然の願いだ。だがそれをあんたが口にするとは、誰も思わなかっただろう! 死んで悔いが残るならば、悔いが残るような死に方をしないために、技を磨いて頭を使えるようになれと説いていたあんただから! 何をあんたはそんなに恐れている!」


 男の顔色が変わりました。バカにされたと受け取ったのでしょう。


 「どうせなら、あんたの故郷の民が誇り、あんたの奥方が心から愛し、私が憧れた人のままでいてほしかった……! 勝利の神の名を冠する深紅の英雄、イーリス・コルシーヌよ!」

 『黙れ、小娘っ!』


 男は手元に残った一本の剣の柄を両手で握ると、思いっきり振りかぶりました。自分の脳天めがけて振り下ろされる剣を見て、カリオンはまた悲しげに顔を歪めました。彼女は途中で、薄々気がついていました。そして今、その疑念は確信に変わったのです。


 (コルシーヌ卿は、私が世話になっていたあの頃よりも、やはり弱くなっている)


 その原因はおそらく、体に刻まれた癒えぬ傷のせいでしょう。カリオンが知っている男の剣術は、もっと鋭く、もっと速く、もっと重いものでした。

 どうしようもないこと、どうすることもできないこと。それらを目の当たりにすることの、なんと辛く悲しいことでしょう。ただひたすら、無力感が襲うばかりです。


 『お前に死んだ者の気持ちがわかるものかっ‼』


 振り下ろされる剣を、カリオンは自身の剣の腹でいなし、男の懐へ飛び込みました。そして下から剣の柄の先で男の手首を強く打つと、男のあごをしたたかに蹴り上げました。


 『ぅ、がっ……!』


 男の体がぐらつき、武器を失ったところでカリオンは、すばやく彼の首を切り落としました。……切り落としたつもり、でした。


 「やはり、落ちないか」


 カリオンは剣を地面に突き刺し、両手を開いたり閉じたりしました。人の身を切った感触はありません。まるで、空気でも切ったかのようでした。


 『俺が何を恐れているか、だと……?』


 男が地面に膝をついたまま、重く湿った声で呟きました。


 『俺がもっとも恐ろしいのは、あいつが俺を忘れてしまうことだ。国の人々に感謝の言葉を言われれば嬉しかったし、陛下からお褒めの言葉をいただければ、誇らしかった。だがなによりも、俺はあいつの笑顔のために戦っていたのだ。もう一度あいつの笑顔を見たい、あいつと言葉を交わしたい。だが、死んでしまってはそれは叶わない。この胸が引き裂かれそうな気持ちをどう処理すればいいのか、俺には分からない』


 その結果、兵士としての役目を果たすためという理屈をこじつけて、各地で兵役に就く者たちを襲っていたのでしょう。

 そして、自嘲の笑みを浮かべてカリオンと、いつの間にか彼女の後ろに立っていたドレス姿の少女を見ました。


 『女々しいと嗤うなら嗤え。情けないと罵りたいなら罵ればいい。だが、俺とて人間だ。愛する妻を慕って何が悪いというのだ!』


 男は地面に拳を叩き付けました。ですが、その手に新たな血が滲むことはありませんでした。


 「……『天青に虹が架かるとき、俺の名を聞いてくれ』」

 『⁉』


 カリオンが紡いだその一言に、男の顔が信じられないという風に勢いよく上げられました。


 『な、なぜそれを……どこで…………』

 「あなたの遺髪を奥方と娘さんの元へ届けたときに聞きました。戦いに赴く前には、必ずそう言って行くと」

 『娘、だと……? そうか、そう言えばあいつは、あのとき身籠っていたか……』

 「あなたと同じ赤い髪を持つ、可愛らしい娘さんでしたよ。奥方はそのとき教えてくれました」


 『あの人は、私が明るいワクワクした気持ちを与えてくれる虹を好きだから、ああ言っていたのでしょうけれど、私は違う風に解釈していたの。あの人の名前、あの人自身は知らなかっただろうけど、古い言葉で『虹』を指すの。だから、私は決してあの人のことを忘れないわ。忘れられるはずないもの。私の大好きな『虹』なんですから』と。


 「そして娘さんの名前は、誇り高く、強かったあなたのように育ってほしいという思いを込めて、『iris(イーリス)』の女性読みのアイリスにしたというのも、教えてもらいました」


 ひたすら呆然としていた男でしたが、ややあって顔を伏せ、弱々しい声で呟きました。


 『だが、俺はやはりその子に会うことはできない。すでに死んでいる俺では、娘を抱きしめることはできないしな……』


 男の言っていることは間違っていません。今まで一度として、死者に会った生者の話は聞いたことがないのですから。

 そう、普通ならばそうです。普通ならば、彼はこれからも悲しみを抱えたまま、天の園へ逝くこともできずにこの世を彷徨うことでしょう。



  書架配列四一〇番より——開架

  深紅の人に紡ぐ歓びの詩



 ですがここには、ビブリオドールがいます。死と生の狭間を彷徨う魂を救うことを目的とし、彼らを還るべきローゼノーラの地へ葬るための力を持つビブリオドールが。

 ビブリオドールは男に近づくと、その頭を包み込むように抱きしめました。



  彷徨える御霊に永遠の祝福を詠う

  貴方の嘆きと悲しみを知る者はいない

  彼らの嘆きと悲しみを知る者もまた



 しっとりと穏やかに詠い上げるのは葬唄おくりうた。死者を慰め、彼の地へおくる詩。



  だけど大丈夫  

  この世界に満ちている小さな奇跡が

  彼らを救ってくれる



 ふいに、男の鼻腔をくすぐったのは、懐かしき妻の香りでした。信じがたく、けれどわずかな期待を込めて、男は顔を上げました。


 ここには木々の緑と乾いた土の茶色しかなく、それは特別美しい光景ではないと、男はさきほどまで思っていました。


 なのにどうしたことでしょう。今この瞬間、目の前には、目を見開いて立つ妻と、妻によく似た顔立ちをした赤い髪の幼子が立っていたのでした。真っ白な光の中、男と妻は数年ぶりに、男と娘は初めての邂逅を果たしたのです。



  この世界を見守っている偉大な神が

  貴女を救ってくれるから

  だから心配しないで



 ふらふらと立ち上がり、妻のほうへ足を踏み出しかけた男はハッと思いとどまり、急いで自身の体を見下ろしました。傷だらけの汚く醜い体を、もっとも見せたくない二人だったからです。ですが、それは杞憂に終わりました。男の体は、生前の立派なそれへ変わっていました。


 

  彷徨える御霊に安息の祈りを捧げよう

  眠ることを恐れないで 何も怖くはない



 躊躇う必要などどこにもないと気づいた瞬間、男は今度こそ一歩前へ足を進めました。そして二人はただ黙ってお互いに駆け寄り、強い抱擁を交わしたのです。

 この数年の間、望んでも決して手に入らなかった妻との再会です。男は嬉しさで、すでにこの世のものではなくなった体ですら、二つに裂けてしまうのではないかと、頭の片隅で心配しました。


 自分譲りの赤い髪を揺らしながら、こちらをきょとんと見上げている娘の存在を目に留めた男は、彼女も抱きしめ、その両脇に手を入れると高く持ち上げました。キャッキャッと楽しそうな笑顔を見せる娘に、男の目からついに涙がこぼれました。


 

  香り豊かな彼の地は 全ての始まりの場所

  終わった命は始まりへ還らねばならない

  心は世界に預けて 魂は螺旋の回廊へ



 惜しくはありました。このまま時が止まってしまえばいいのにとすら、思いました。 

 ですが、男の胸の内にはそれすらも薄れ、かすんでしまうほどの満足が溢れんばかりにあとからあとから湧きあがってきていました。



  大切な愛の記憶を 何にも代えられぬ出会いの記憶を

  抱いて貴方は

  さあ、お眠りなさい



 「さようなら、私たちの愛しい人。あなたが安らかに眠れることを、この世界の誰よりも願っているわ」

 『さようなら、俺の愛しい者たち。これからの君たちの人生に幸多きことを、この世界の誰よりも祈っている』



  神よ この魂を正しき場所へ導き給え



 七色の光の粒となって、男は愛する者たちの腕の中から、天の園へと昇っていきました。



 山道に残されたのは、二度と動くことはなくなった男の遺体と、錆ついた大きな二振りの剣でした。


 「……ありがとう、セシェ。いや、ビブリオドール」


 カリオンが、唐突にビブリオドールに向かって頭を下げました。


 「この人に、救いを与えてくれて」


 カリオンは、男の魂がこの世から離れていく前の数秒の間に、何があったのかは知りません。ビブリオドールの葬唄が始まると同時に男の表情が変わるのを見、そして唄の終わりと同時に彼の体が地面に崩れ落ちるのを見ただけでした。


 ですが、男の穏やかに目を閉じる顔を見れば、彼が大きな幸せと満足とともにこの世を去ったことが分かります。


 「この人には、本当に世話になった。その恩を少しでも返せたらと、ずっと思っていたんだ……」


 カリオンは空を見上げて目を細めました。それを優しいまなざしで見つめながら、ビブリオドールはカリオンの手を優しく握りました。


 「お礼は結構ですよ、館長さん。わたしはそのために造り出されたモノ。眠り逝く魂たちの微笑みを見ることこそが、わたしの最大の報酬なのですから。むしろ、わたしのほうこそお礼を言わせてください。貴女が首をはねたことで、彼はもう一度『死』を体験しました。それによって、彼は本当に死んだとき強く望んだものを、彼がこの世を彷徨う原因となったものと向き合うことができました。それがなければ、彼をこの世から葬り出すことは叶わなかったかもしれません」

 「そうか……。だが、やはり言わせてくれ。……ありがとう、セシェ。本当に……」

 「……はい、館長さん」


 緑の葉を揺らして、一陣の風がカリオンの目に薄く膜を張っていた水を攫っていきました。




 こうして、二人は凶悪犯の死亡を麓の兵に伝え、礼金も受け取らず、ただただ深紅の英雄の冥福だけを祈って、彷徨う魂の救済の旅へと戻っていきました。

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