海中の虹を探す人とビブリオドールのお話



  夢見る青のひだまりに私は歌う

  虹の生まれる場所 太陽の昇る場所

  それは誰もが永遠に憧れる幻想 

  流れゆく天蝎の心臓に矢をつがえるも

  届かぬを知る悲しき賢者よ

  罪には応報むくいがあるように

  傲る者には破滅の道だけがあるのです

  ああ、なんと儚い日々でしょう

  理想ゆめは決して届かないから理想ゆめなのです

  今ここに、私は生きて

  いつかここで眠りましょう





 そこは、大陸から船で二日ほど行った小さな島でした。

 遥か海底までも見通せるほど青く澄んだ海に囲まれ、島のあちこちで瑞々しい緑が輝くそこはとても美しく、訪れる人々の目を楽しませていました。


 「素敵な場所ですね。時間の流れがとても穏やかです」

 「そうだな。休暇として来るには最適の場所だろう」


 海岸沿いの道を二人の旅人が散歩していました。眺める海では、男女を問わず船に乗って漁をしているのでしょうか、楽しそうな声がかすかに聞こえてきます。


 片や長いドレスの裾を風に遊ばせている美少女、片や白い髪の背の高い女性。思わず人目を引きそうな組み合わせでしたが、残念ながら石畳の道には他に人の姿はありませんでした。……そう、さっきまではたしかに、誰もいなかったはずです。

 ところがいつの間にか、二人からほんの数メートル離れたところに女性がひとり立っていました。二人は怖がることなく彼女に声をかけました。彼女がどういう人なのか、二人には分かっていたからです。


 「こんにちは」

 「どうも」

 『はい、こんにちは』


 長い茶色の髪と緑色の目を持った女性は、海に注いでいた視線を二人のほうへ向け、優しく細めました。


 『初めて見る方々ね。旅人さん?』

 「ええ、そうです。はじめまして、わたしはビブリオドールのセシェと言います」

 「私はカリオン・シュラーク。今日の昼の便でここへやってきました」

 『まあ、そうですか。ようこそ、私の大好きな島へ』


 そう言ってから、女性はカリオンの腰に下げられた剣を見てわずかに眉間にしわを寄せました。それに気がついたカリオンが剣を外そうと腰に手を伸ばしました。


 「失礼。嫌なことを思い出させましたか」

 『いいえ、ごめんなさい。違うんです。ただ、それが、剣というものが、私の中で無謀な強さの象徴だと思ってしまっているところがあって……。気を悪くさせてしまって、ごめんなさい』

 「いいえ、お気になさらず」


 カリオンは静かに片手を上げました。剣は慣れた者が扱うのであれば心強いですが、不慣れな者や身近にその存在を持たぬ人にとっては、恐怖の対象でしかないことをよく知っていたからです。


 「……剣を無謀な強さの証として拒絶する心。それに原因があるのですか?」


 さあっと吹いた海からの穏やかな風が、ビブリオドールの呟いた言葉を攫っていきました。


 「貴女が死後、天の園へ行かずにこの地に留まっているのは」

 『……ビブリオドール。世界中の人々から忘れられた友だちの神さまが、世界中の死んでもなお死にきれず苦しんでいる魂を救うために遣わした代行者。ずっと昔、母から寝物語として聞いたけれど、まさか本当にいるとは思わなかったわ。それも、自分の目の前に現れるなんて』


 女性はビブリオドールの来訪を喜ばしく思ってはいないようです。苦しげに寄せられた眉が、握りしめられた手が、それを物語っていました。ビブリオドールの話を聞いたことがあるということは、彼女がこのあとどうするかも知っているということだからです。


 「よければ、わたしに聞かせてくれませんか? 貴女がここに留まり続けている理由を」

 『……それは、どうしても語らなければなりませんか?』

 「というと?」

 『私は、ただここにいて娘の成長を見ていたいだけなのです。娘の成長半ばで命を落とした私ですが、あのお転婆な子がこの先無茶をしないかとても心配なのです。どうか私のことは見逃してくれませんか? 誰にも迷惑をかけないと誓いますから』


 母としての必死な姿に、ビブリオドールも一瞬は押し黙りました。そして、どちらかがさらに何かを言おうと口を開きかけたときのことです。


 「あれー? 旅人さんですかー?」


 元気な少女の声が静かな道に響きました。声がした方に顔を向けると、路地の一本から大きな籠を両手に下げた少女が顔を出していました。

 今度は生きている人でした。ところが彼女が姿を見せたと同時に、目の前の女性は文字通り、姿を消してしまいました。


 (……?)


 突然どうしたのか気になるところでしたが、もう完全に彼女を見ることができなくなっていたカリオンには、訳を聞くことができませんでした。

 そうしているうちに、少女はこちらへ駆け寄ってきて言いました。


 「こんにちは! ようこそ、私たちの島へ!」

 「ええ、こんにちは。この島の方ですか?」

 「そうよ! あの茶色い屋根の家に住んでるの。よければお茶をしていかない?」


 少女はくだけた口調でビブリオドールの問いに答えました。ビブリオドールは、少女と比べると彼女の胸辺りまでしか背がありません。ビブリオドールの雰囲気がいかに老成したものであっても、それに気づかなければビブリオドールはただの十歳かそこらの子供でした。


 「どうですか?」


 少女は、今度はカリオンを見上げて聞いてきました。緑色の目が期待でキラキラと輝いています。


 「どうする、セシェ」

 「このあとも特に用事はありませんし、本当によろしいのならば、ぜひ」

 「もちろん大歓迎よ! やったあ!」


 肩先ではねた茶色の髪を揺らして、少女は飛び上がらんばかりに喜びました。彼女はビブリオドールの手を取ると、さっそく我が家へと連れて行きました。


 「さあ、どうぞ!」


 扉を開き、少女は二人の客を招き入れました。


 「お邪魔します」

 「……お邪魔します」


 少女の住む家は、石造りの平屋建てでしたが、なかなかの広さがあり、この少女一人で住んでいるとは思えません。


 「お父様や、他のご家族の方は? ぜひご挨拶を……」

 「ああ、父さんは今仕事に出てるからいないわ。母さんは……何年も前に、ね」


 少し困ったように、そしてどこか後ろめたそうに少女は言うと、二人から目を逸らしました。


 「そうでしたか。辛いことを聞いてしまい、申し訳ありません」


 ビブリオドールが目を伏せて頭を下げました。すると、少女は慌てて手を振ると努めて明るい声を出しました。


 「ううん、気にしないで! あ、先にイスに座っててください。私はこの荷物を片付けて、お茶を淹れてきますから」


 カリオンにそう言い残すと、少女はパタパタと家の奥へ走っていきました。

 二人は言われた通りに、椅子に腰を下ろしました。あまりじろじろと人の部屋を観察するべきではないと分かってはいましたが、雑多なものが部屋のあちこちにあるというのはとても生活感があり、どこか懐かしい感じがします。物珍しさもあって、ついカリオンは首を巡らしてしまいました。


 「……やはり、あの女性は彼女のお母様であるようですね」


 壁にかかった絵を見て、ビブリオドールが頷きました。

 少女がまだ幼いときに描かれたものなのでしょう。ビブリオドールよりもさらに小さな女の子が真ん中で椅子に座り、その後ろにメガネをかけた白い肌の男性と、長い髪を後ろで結い上げた女性が立っていました。絵の中で幸せそうに笑っている女性は、先ほどまで話していた女性で間違いありませんでした。


 通りに向かって開かれた広い窓から、温かな潮風が入ってきて二人の髪を揺らします。

 そこへ、またパタパタと軽やかな足音を立てて、少女が戻ってきました。手には三人分のカップとお茶菓子が乗ったトレーを持っていました。


 「すいません、お待たせしちゃって。この島自慢のお菓子なんです。よかったら、食べてみてください」

 「ああ、ありがとう」

 「ありがとうございます。いただきます」


 二人はそれぞれ、香ばしい香りのお茶とさっぱりとした味のお菓子に手を伸ばしました。



 「……と、いうようなこともあったんです」

 「へー、すこい。雲海かあ。見てみたいなあ」

 「そういえば、この島では女性も漁をやるのですか? 先ほど船に乗っている女性の姿をお見かけしたのですが」

 「ええ、そうよ。あんまり男だからどうとか、女だからこうだとか、この島ではないわ。男も料理をするし、女だって漁もすれば大工仕事だってこなすの。こう見えて私も、船を操る技術は同世代の中で一、二を争うほどの腕なのよ。昨日だってこーんな大きな魚を捕まえたんだから!」


 あれから二時間ほどでしょうか。少女はずっとビブリオドールの話を聞いていました。


 この世界をずっと旅しているの? どんなところへ行った? どんなものを見た? どんなものを食べた? そこに住んでいる人はどんな人たちだった?

 少女の疑問は尽きることがありませんでした。ビブリオドールはそれらに一つずつ答えていました。


 「けど、そうなんだあ。いいなあ、世界ってすごいなあ」


 少女が羨望と憧憬の溜息を漏らしました。それを見て、カリオンはずっと疑問に思っていたことを尋ねました。


 「君は、旅に出たいのか?」 


 すると、分かりやすく少女は顔を強張らせました。


 「……それは……まあ…………」

 「?」


 歯切れの悪い返事に、カリオンは首を傾げます。それでも急かすことなく、じっと少女の次の言葉を待っていると、少女は唐突なことを言い出しました。


 「『海中の虹』の話、知ってます?」

 「『海中の虹』?」


 あいにく、カリオンには聞き覚えがありませんでした。ですがビブリオドールは迷いもせずに「ええ」と頷きました。


 「大粒の真珠のことだとも、手の平に乗らないぐらいのサンゴの山だとも、はたまた虹色の鱗を持つ魚のことだとも言われている、いまだ発見されていない海の中の宝のことですね」

 「そうなの!」


 少女はパッと顔を輝かせると、興奮したように口を滑らかに動かし始めました。

 「『海中の虹』は、それはもうこの世の何にも勝る宝だという話なのよ! この世界が造られてから幾千年。伝説の中では何度その名を聞こうとも、実際に見たという話はほとんどない秘宝中の秘宝! さぞ立派で美しくて、素晴らしいものなんだわ!」


 実に怪しい話などと無粋を言ってはいけません。少女の目は、綺羅星を集めたよりもさらに強い輝きを放っていたのですから。


 「一度でいいからそれを見てみたい。そう思うのはとても自然だと私は思うわ。未知のものを追いかけるのはたしかに怖いことかもしれないけど、だからこそドキドキする。ロマンを追いかけることこそ、人類に与えられた至上の喜びよ!」


 少女の頬はすっかり紅潮し、緑の目はここではない場所を見ているようです。


 「では、何故旅に出ないんだ? 家族に反対されているのか」


 途端に、熱に浮かされていた少女の表情がすっと落ち着きを取り戻しました。いえ、落ち着いたというよりはむしろ、力づくで押さえつけたかのような無理を感じました。


 「まあ、似たようなものです」

 「似たようなもの……?」

 「……『いつまでも夢を見ていないで、地に足をつけなさい』」


 ふてくされたような顔で、少女は頬杖をついて言いました。


 「母さんの口癖はそれだった。どうしてそんなことを言うのか、私にはちっとも分からない。この世界のことを、私はもっと知りたいの。とても楽しそうじゃない。こんな小さな島なんか、とっくに探検し終えたわ。もっと色んなところへいっぱい行きたい。そうしたら、どこかで『海中の虹』を見つけられるかもしれないわ」


 「……お母様に言われたことを、今でも守っているのですね?」

 「それは……!」


 ビブリオドールが確認するように問えば、少女はバッと顔を上げて否定しかけて、そして黙り込んでしまいました。 

 気まずい沈黙が部屋に満ちかけたとき、壁にかかっていた時計がポーンとなりました。


 その音に我に返ったのか、少女はさっと立ち上がると笑顔で二人に言いました。


 「ごめんなさい、もうこんな時間! こんな遅くまで引き止めてしまって、すいません」

 「……いいえ、こちらも楽しいお話をありがとうございました」


 少女のこれ以上は踏み込んでほしくないという意思をひしひしと感じた二人は、その声に促されて立ち上がりました。


 「色んな話を聞けて嬉しかったわ。宿までの道は分かりますか?」

 「ああ、大丈夫だ。邪魔をしたな」

 「お邪魔しました」


 少女は、玄関から二人が角を曲がって見えなくなるまで手を振って見送ってくれていました。



 お風呂から上がったカリオンが、いつものように剣の手入れをしようと手を伸ばすと、ビブリオドールが片手を上げてそれを止めました。


 「館長さん。貴女は、あの少女のことをどう思いましたか?」

 「どう、とは? まさか、あの娘も実は、魂だけの存在だったなどと言うつもりか?」

 「いいえ。彼女はちゃんと生きています。あの方と話して、館長さんはどう思ったのか聞いてみたくて」

 「どう思うもなにもな……。なぜあんなに旅に出るのを躊躇っているのか分からない、ぐらいか。あれほど強く島の外への憧れがあるなら、動機としては十分だろう。準備だけはできているのに、まるで何かが彼女の足枷になっていて、実行に移せていない。そう見えたが」

 『どういうことですか、それは』


 ふいに聞こえた固い声。いつの間にか、開かれた窓の前に昼間の女性が立っていました。この部屋は三階です。この女性は生きた人ではないのだと、改めて思いました。


 「どういうこととは、何がですか?」


 ふざけるなと、女性は二人を睨みつけると厳しい声で言いました。


 『旅に出る準備ができている、ということがです。あの子は五年前のあの日、あの事故に遭ってから、そんな無謀なことをしようとするのは止めてくれたはずです。勝手なことを言わないでください!』


 恐れている何かを否定するようにきっぱりと言い切った女性に、カリオンはわずかに目を細めました。ですが一方のビブリオドールは、女性に向かってにこやかに微笑んだままでした。


 「落ち着いてください、お母さま。貴女の娘さんから直接そう聞いた訳ではありません。わたしたちにはそう見えたというだけのことです」

 『本当ですね? あの子はもうとっくにそんな危険な考えを捨ててくれているんです。あなたたちも、妙なことをあの子に吹き込んでいませんね?』

 「はい、もちろんです。……ですが、どうしてそこまで言えるのか、わたしたちには不思議です。五年前の事故とは、貴女が亡くなられた事故のことではありませんか? そのとき貴女たち親子の間に何があったのか、よければ聞かせてもらえませんか?」


 女性の目が遠くを見つめました。在りし日へ遡り、思い出の海を漂っているのでしょう。



         *         *         *



 そう。あなたの言う通りです、ビブリオドール。五年前、私は海の事故で死にました。誰が悪いのでもなく、ただ運がなかっただけなのです。


 あのとき、娘は十三になる年でした。この島で十三歳といえば、大人にまじって働き始める年齢です。だというのに娘は、旅に出たい、この島を出て別の場所へ行きたいと、口を開けばそればかり。この島の何が不満なのか分からなくて、何度も尋ねました。

 たとえば、大陸の学校に行きたいとか言うのであれば、少しは考えたかもしれません。でもあの子は、「不満があるんじゃないの。ただ冒険がしたいだけ。『海中の虹』を探しにいきたいのよ」としか言わなくて。そんなあるかも分からない夢物語のために、大事な一人娘の命を失ってたまるもんですか。だから私は、いつも娘にいい加減にしなさいと言い聞かせていたんです。


 そして、強い南風が吹くある夜のことでした。たまたま虫の居所が悪かったのか、今までの鬱憤が爆発したのか、娘と今までにないほどの口論をしたんです。いえ、あれは口論ではなく、ただの感情のぶつけ合いだったわね。それで、娘は怒って家を出て行ってしまいました。私も苛立っていたし、すぐにはあとを追わなかったんです。


 ……そして、嫌な予感がして家を出たときには、もう遅かった。もっと早く私は気がつくべきでした。何かが一歩間違っていたら、あの子が死ぬところだったのだから。


 私が港に着いたとき、娘は勝手に舟を出して暗い夜の海に漕ぎ出していたんです。

 急いで叫びました。危ないから戻ってきなさいって。なのにあの子は聞こうともしなくて。いいえ、聞きたくなかったのかもしれないわね。口うるさい母親の言うことだもの。

 あの子が乗った舟は、それはもう見てられないほど危なっかしくて。口では止められないと分かった私は、人様の船を勝手に拝借してあとを追いかけました。夫も、私のほうが船の扱いが巧いと分かっていましたから、町へ応援を呼びに行ってくれました。


 そしてもうすぐ追いつくというところで、ひときわ強い風が吹いてきて、私の船はなんとか耐えられたけど、あの子の舟はダメだった。波を捉えられず、風に煽られて、あっさりとひっくり返ってしまった。


 全身から血の気の引く思いだった! 私は海に飛び込んで、無我夢中であの子を探した。そのときのことはあまり覚えていないけど、ただ必死で、あの子の手を探して、握って、息のできるところへ、波の上へ。それだけを考えていた。


 私にそれができたのか、それともできずに、あの子は島の人たちに助けてもらったのかは分からないけれど、とにかく真っ暗になった私の意識が目覚めたときには、私は死んでいて、あの子は生きていた。それだけが今ある事実で、私にはそれだけで十分。


 娘と夫が気落ちしている姿を見るのは辛かったし、声も届かないから慰めることだってできなくてとても歯痒かったけど、少しずつ二人に笑顔が戻ってくれてよかった。


 でもそれと同じくらい、娘が旅に出るのを止めてくれたことが、私には嬉しかった。

 あの日、娘は死の恐怖に直面した。未知の旅に出るということは、それだけ何度も同じ恐怖にぶつかるかもしれないということ。この住み慣れた島で、そんな恐怖に心を煩わされることもなく、苛まれることもなく、平穏に暮らすのが一番だと分かってくれたのよ。

 二言目には海中の虹が、世界のどこそこではなんて言っていたのに、それも言わなくなったし。家に帰る前に岬へ寄ってくるなんてこともしなくなった。ああ、本当によかった……。



         *         *         *



 あまりの嬉しさからか、女性の目尻から光る雫が一つ、頬を伝っていきました。女性にとっては自分の死など、我が子の無事な姿の前では塵も同然なのです。

 ですがカリオンは、どうも腑に落ちませんでした。女性が語る少女像と、昼間自分の目で見た少女の姿がぴったりと合わない気がするのです。


 「死の瀬戸際に立ち、その恐怖を知ったから旅に出ることを止めた……ですか」

 『なんですか、その顔は』


 女性の声が一段と低くなりました。安堵の涙はぬぐい去られ、腹立たしさの色が見え隠れする目をビブリオドールにむけました。


 『違うとでも言いたいのですか。あの子はまだ、無謀な夢を諦められないでいると』

 「彼女は夢を諦め、旅に出ることを止めたのではありません。旅に出られなくなったのだと、わたしたちは思います。なぜなら彼女はわたしたちに、目を輝かせて世界への憧れを話してくれました。旅をしているわたしたちの話も、凄く楽しそうに聞いてくれました。ですがなぜ旅に出ないのかという質問には、お母様。貴女がずっと言い聞かせていたという言葉が返ってきただけでした。五年前の事故のことなんて、一言も私たちは聞かされていません」

 『だから……なんだと……?』


 困惑して、強張った表情で問い直す女性の手を、ビブリオドールは立ち上がってそばに寄ると、宥めるようにそっと撫でました。


 「『いつまでも夢を見ていないで、地に足をつけなさい』。貴女の口癖だったそうですね。我が子を心配する親として、とてもありふれた言葉だと思います」

 『なら』

 「ですが、彼女にはあまり相応しい言葉ではなかったのかもしれませんね。他でもない亡き母の言うことだったから、彼女の足を重くする枷になっている。私には、そう見えました」

 『枷……』


 その響きが良くなかったのでしょう。女性は辛そうに顔を歪めましたが、すぐに何かに気がついて顔を上げました。


 『ま、まあなんにしても、あの子が旅に出ないでいてくれるならなんでもいいわ! そうよ、あの子もきっと、私の言葉をちゃんと理解してくれたんだわ。ああ、よかった。そう、それでいいのよ!』


 女性はほっと胸を撫で下ろしました。

 ですが、ビブリオドールはまだ手を離しません。ただ、ゆっくりと優しく女性の手を撫で続けていました。


 『……あ、あの、その……手を離してもらえません、か?』

 「なぜですか?」

 『なぜって……もう私はあなたたちに用はありませんし……その、なんというか……落ち着かないので……』

 「なぜ落ち着かないのですか? 大丈夫ですよ。そんな怯えないで下さい」


 そして女性を見上げたビブリオドールの微笑みが、青い瞳が、自分の知らないことまで全てを見通してくるようで。

 きらめく宝石に映り込んだ顔がいっそう引きつり、


 『離してちょうだい!』


 気がつけば、女性はビブリオドールの手を乱暴に振り払っていました。


 『なによ! 私は何も間違ってないでしょ⁉ あの子は私の大事な、かけがえのない娘なのよ⁉ 危険なことはしてほしくないし、無茶なことをして死んでほしくないのよ! 好きな人と結婚して、子供を持って、平和に、幸せに暮らしてほしいと願って何が悪いのよ! あなたは何が言いたいの⁉』

 「ええ、そうです。貴女の願いは世界中の親が持つものでしょう。でも、子どもは成長の後、いずれ親元を離れる時が来るものなのですよ」

 『……!』


 女性は一瞬息を詰まらせました。女性の望みは、娘の成長を見守ることだと最初に会ったときに聞いています。その娘の成長というのが、もしもこの島を離れて冒険の旅に出ることだったならば。


 『そんな……そんなことって……! でも、あの子はきっと分かってない! 旅をすることが、口で言うほど容易くないこと、憧れほど美しいものではないこと……。どれだけ大変か、危険か。お金も、持っていくものも、知識も、何もないはずなのに……。どうして……!』


 血を吐くような、絞り出した痛々しい声でした。そのまま、女性は顔を覆って床に座り込んでしまいました。


 「……本当ににそうだろうか」


 彼女に目線こそ向けませんでしたが、カリオンは自身の指を折りながら少女の家で見たものをあげていきました。安住の地を定めず世界をさすらってきた者として、生まれた地を終の住処とした彼女には気づけなかったであろうたくさんのことに。


 「手には剣を握ってできるマメやタコがあったし、動きははつらつとしていて無駄がなかった。日々体を鍛えているのだろう。暖炉の上に置かれていたコンパスと望遠鏡、地図にはホコリが被っていなかった。雨風を凌げる生地の外套や、量も種類も豊富な保存食。それらを入れるための丈夫で軽いと評判の鞄」


 呆然とこちらを見上げている女性に向かって肩をすくめました。


 「床の上には穴だらけの大陸の情報紙が積んであったぞ。もちろん、一番上は最新の号。全てに目を通して、興味のある記事は切り抜いたんだろう。マメなことだ」

 『そ、そうだったのですか……?』


 困惑と、残念さと、少しの安堵と。混じりきらない三つの感情が、女性の白い顔に斑に浮かんでいました。

 それを見て、ビブリオドールは女性が天の園へ逝くことを拒んだ本当の理由が分かりました。


 「あなたがこの世に留まり続けていたのは、彼女が旅に出ていってしまわないか心配だったからよりも、十分な準備もせずに旅立ってしまうのが恐ろしかったからですね」

 『……そう、ですね。そうかもしれません』


 力なく女性は笑いました。


 『今、改めて冷静になってみると分かります。私はそれだけが怖くて怖くてたまらなかったのですね。だから、あの子にはそんな準備できるはずないのだと……そもそもそんなことをする必要もないから、旅に出たいと思うこと自体がおかしいのだと、言い聞かせていたのかもしれません。

 けれど……娘がそれを望んでいるなら、その方があの子らしく生きられるのなら、私は……あの子の旅立ちを…………祝福、するべき……なのですね』


 立ち上がった女性の肩から、力はもう抜けていました。親にとって子の成長は、なんともいえない感動を与えてくれます。ですが、そこには一抹の寂しさもたしかにあるのでした。


 「そうするのが一番かもしません。ですが今のままでは、彼女は旅に出ることはできないでしょう」

 『え?』

 「彼女は生きた人ではありますが、彼女もまたこの地に縛り付けられています。その戒めを解くことができるのは、貴女だけです」


 女性の手を、今度は強く握って、ビブリオドールはそう訴えかけたのでした。




 次の日、ビブリオドールとカリオンは再び少女の家を訪れていました。

 木製のドアを軽く叩くと、中から「はーい」という元気な声が返ってきて、すぐにドアは開かれました。


 「どちらさまでー……って、昨日の」

 「こんにちは。突然の訪問、失礼します」


 少女は、相手がビブリオドールたち二人だと分かって、パッと顔を輝かせました。


 「また来てくれたの? ありがとう!」

 「すみません。もしかしてお邪魔でしたか?」


 出てきた少女の格好は、エプロンをつけて口元を布で覆い、白手袋まではめていました。もしかしたら何かの作業中だったのかもしれません。


 「そんなことないよー。ちょっと薬をつくってただけだから。それももう終わりかけだったしね」

 「それならよかったです。けれど、薬の調合ができるなんて凄いですね。専門的な知識や技術が必要でしょう」

 「いや、そんな難しいものじゃないよ。血止めだとか胃薬だとか、そんなんだし。この島にずーっと伝わる調合方法っていうのがあってね、わりと誰にでもできるんだよ。さ、上がって!」


 昨日も通されたリビングへやってくると、少女は手早くテーブルの上を片付けながら言いました。


 「また会いに来てくれるなんて思わなかったよ。嬉しいな」

 「はい。実は、貴女に会わせたい方がいまして」

 「私に会わせたい人?」

 「ええ」


 年頃の女性とは思えないほど細かい傷だらけの、ですが力強い生の眩しさを滲ませている手。そんな少女の手をとって、背後を振り返りました。


 「貴女のお母様です」

 「………………ぇ」


 少女の目が驚きに見開かれました。

 まずは、誰もいなかったはずのカリオンのとなりに人が立っていたこと。

 そして、その人が五年前に死んだはずの母だったこと。


 『ノース』


 その声はまさしく記憶にあるとおりの、懐かしい母の声でした。


 「お……母さ、ん?」

 『ノース、あのね』

 「……ウソよ」


 呆然とした少女の呟きが、彼女ののどから零れ落ちました。


 「ウソよ、ウソ! 絶対ウソ! だってお母さんは五年前に死んだもの! ちゃんと遺体だって見た! なによこれ。なんの冗談なの!?」


 部屋の隅まで逃げながら、少女は恐怖の眼差しをビブリオドールに向けました。


 「落ち着いてください」

 「落ち着けって……そんな! 無理に決まってるでしょ! なんなのよ、夢? 私、まだ寝てるの!?」

 「貴女はちゃんと目覚めています、海中の虹を探す人よ。これは夢ではありません。貴女の目の前にいるのは、間違いなく貴女のお母様です」

 「そんな……! だってお母さんはあの日……!」


 ビブリオドールは自身の胸に手を当て、少女に正体を明かしました。


 「わたしはビブリオドール。その昔、全ての人に忘れられた友だちの神さまに造られた人ならざるモノです」

 「……は」


 少女は口をポカンとあけるしかできません。いきなり何を言い出すのだ、と顔に書いてあります。


 「叶え損ねた望みがあって、強い後悔の念があって、怒りと恨みがこの世から離れるのを許さなくて、しがみつきたいほどの未練があって。そんな想いを抱えた魂は、死んでもなお天の園へ行くことが出来ずにこの世を彷徨っています。わたしは、そんな魂たちを救うために、ここにいます」

 「……って、ことは、そのお母さんは……」

 「はい。残念ですが、すでに亡くなられています。ここにいる貴女のお母様は、魂だけの存在です」

 「…………」


 今まで自分が想像もしなかったことが、現実に目の前で起こっているのです。少女はよほど混乱しているのでしょう。ただ目を見開いて、震えていました。


 『……ノース』


 意を決して、女性が前に足を一歩踏み出した途端、少女は弾かれたようにさらに二、三歩後ろへ下がりました。


 『……?』

 「未練……とか、怒り……? じゃあ、じゃあやっぱりお母さんは私を恨んで!?」

 『え?』


 青ざめた少女の絶叫が、女性の耳を叩きました。一瞬何を言われたのか理解できず、女性はその場に立ち竦みました。


 「だってそうでしょ⁉ お母さんは私のせいで死んだのよ⁉ 私があの日海に出なければ……お母さんは死なずにすんだのに! 私がお母さんを殺したのよ!」

 『違うわ、ノース! 私はあなたを恨んでなんかいないわ!』

 「ウソよ! じゃあどうしてまだこの世にいるのよ!」

 『それはあなたが心配で……』

 「お母さん、言ってたよね。結婚二十年の記念日には、大陸の高い店のディナーに行きたいって。来月の巡業に来る芸団の公演も楽しみにしてたし、豊穣祭のダンス大会で優勝してやるんだってがんばって練習してたじゃない! 

 私が、私が海中の虹なんて望まなければよかったの! 私が旅に出ようとなんて思わなければ、お母さんは今でも生きていられたでしょ⁉」

 

 女性の目が大きく見開かれていきます。生きていた間だけでは飽き足らず、自分たち母子は死んでからもすれ違っていたということなのでしょうか。


 『ノース……。あなたまさか、自分の夢が私を死なせたという負い目があって旅に出なかったの? この五年間ずっと、あなたは私に遠慮して旅立たなかったの?』

 「……そうよ」


 真っ赤な目から涙をはらはらと零し、すすり上げながら少女は認めました。女性はそれを聞いて、目眩のする思いでした。


 『ノース。私は、本当にあなたを恨んでなんかいないわ』

 「ウソよ! だって、だって!」

 『聞いて』


 まっすぐな母の眼差しに、少女はグッとつまりました。そして乱暴に袖で目を拭うと、一つ大きな深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、女性の顔をまっすぐに見つめました。


 『私はあなたが無事でいてくれただけで十分なの。私がこの世に留まっているのはね、あなたが無茶をしないか、十分な準備をしないまま島を出て行ってしまわないか、心配だったからなのよ』

 「……そうなの?」

 『ええ』

 「本当に? ウソついてない?」

 『もちろん、本当よ。ウソなんかついてないわ』


 そして少し言いよどみましたが、やがて決意を固めると、女性は話し始めました。


 『あのね、ノース。私があんなにあなたの旅に反対していたのはね……前にも同じことがあったからなのよ。『海中の虹』を探しに出て、一年も経たずに死んでしまった人が、身近にいたからなの。あなたに、同じ目に遭ってほしくなかった』

 「……え?」


 昂っていた神経に水を被せられたような感じでした。今まで一度も聞いたことがなかった事実に、少女ののどが無意識に鳴りました。


 『その人は私の十歳上の兄……あなたの叔父さんにあたるわね。私がお父さんと結婚する前に死んだ人だから、あなたとは会ったことがないけれど。兄さんも、あなたと同じことを言っていた。いいえ、あなたが兄さんとまったく同じことを言うから、兄さんの生まれ変わりじゃないかと疑ったぐらいだったわ』

 「それ……で? 叔父、さんが、どうしたの?」

 『兄さんが家を出たのは、あなたよりはもう少し年がいってからだったかしらね。

 私はまだ小さかったからよく覚えてないけれど……。父さんと母さんの反対を振り切って、兄さんはこの島から旅に出てしまった。私に土産は海中の虹だからなって言って。私はあのときなんて答えたかしら。楽しみにしてる、だったか、気をつけてね、だったか……。

 止めようとしなかったのだけは、よく覚えている。兄さんの遺体を見たとき、心底後悔したから。私は兄さんを止めるべきだったんだって。二度と……笑いあうことも話すこともできなくなるって分かってたら、私は絶対に兄さんを旅になんか行かせなかった』


 女性は目を伏せ、一切の感情を排した冷えきった声で、淡々と語りました。そうでなければ語れないほど、幼い頃に受けた衝撃は大きかったのでしょう。


 『体は水を吸ってぶくぶく。目や指の先なんかは魚にかじられてなくなってたし、半分腐って変な匂いもしていたわ。兄さんがいつも身に付けていた守り袋がなければ、まず兄さんだと分からなかったでしょうね』


 想像したのか、少女は気持ち悪げに口に手をあてました。さっきまで赤かった顔が、青を通り越して紙のように白くなっていました。


 『……ノース。あなたは一度でも想像したことがある? 自分がよく見ていたはずの人なのに、その面影すら感じられなくなるような姿になってしまう恐怖。何年先も普通に過ごせるはずだと信じていたのに、手ひどく裏切られること、その痛みすら伴う悲しさを。

 あなたを旅に出してしまえば、いつやってくるかも分からないそれらに怯えながら、私は生きていかなきゃならない。だから、私はあなたをどこにも行かせたくなかった』

 「……わ、分かるよ」


 震える声でした。それでも、今言わなければならないのです。少女は必死で強張る喉を動かして、音を絞り出しました。


 「五年前の私じゃ分からなかったと思う。でも私だってあの日お母さんを亡くした。喪失と恐怖と後悔と悲しさと……他にも言葉にできないような重くて暗い気持ち。今の私なら分かるよ。誰も何も、わたしたちに幸せな明日を約束してくれてない。だけどわたしたちは、今日と同じ明日を当たり前のように信じてる。それが突然崩れて、どうしたらいいのか分からなくて、頭がおかしくなりそうにもなった」

 『……そんな中でも、夢を捨てることはできなかったのね』


 女性はゆっくりと近づくと少女の頬を撫でました。


 「……うん」


 少女は女性の手に触れると、頬をすり寄せました。温かい血の通った人の手ではありません。体温のない手でしたが、不思議と少女は、生前の母の温もりを思い出しました。


 『旅に出たいという気持ちを、諦めることができなかった』

 「……うん」

 『海中の虹も、星々の飾り球も、緑の黒絹も、他のまだ見ぬ宝を探しに行きたい』

 「うん」

 『雲海や火山、氷河や砂漠だって見てみたい』

 「うん!」


 暗かった少女の瞳に、光が戻りだしました。

 女性があげたのは、どれもこの島にはないものばかり。それが意味するのは、あれほど反対していた旅立ちに他なりませんでした。


 『私はね、まだ心配よ。あなたに兄さんと同じ末路を辿ってほしくない。穏やかで温かい、普通の人と同じ幸せを得て欲しい。でも、あなたは旅に出たくてしょうがないのね。台所の床下にへそくりを隠す習慣も変わってないみたいだし』

 「見たの⁉」

 『ふふっ。さあ、どうかしら』

 「見たんだ!」


 この家に来て初めて、二人の間に親しい者たちが心を通わせたときの和らいだ空気が流れました。


 『だからね、ノース。少しは、あなたを信じてみようかなって。ビブリオドールにも、子供はいずれ親元を離れるものだって、説教されちゃったし』


 そこで少女はビブリオドールとカリオンの存在を思い出したのか、ハッとすると気まずげに二人の方を見ました。


 「あ、え、えっと」


 少女は申し訳なさを感じているようですが、二人は微塵も気にしていません。ビブリオドールはそよ風のような笑い声を零すと、少女を見つめました。


 「返事はいかがですか? 海中の虹を探す人よ」


 少女は視線をビブリオドールから母に戻し、またビブリオドールに移して、一度強く胸元を握ると顔を上げました。


 「行くに決まってるじゃない! 私、旅に出る! そして、この世界中を巡るの!」


 そう宣言し、ゆっくりと女性に向き直りました。少女の緑色の目は、わずかな不安と、それを上回るぐらいの期待で満たされていました。


 『そう』


 女性はそう返しました。肩から力は抜けましたが、手は服の裾を握りしめて離しませんでした。

 何か言いたいのに何も言えない、不器用な二人へ。

 ビブリオドールはすぅと息を吸うと、



  書架配列五九四番——開架

  夢を知り、愛を知った人々に紡ぐ祝福の詩



 詠い上げるは葬唄おくりうた。死者は慰め、彼の地へおくるために。生者は励まし、世に送り出すために。



  春の宵に眠る蓮を 旅逝く者、貴女に贈ります

  春の明に咲く蓮を 旅往く者、貴女に贈ります

  全てを見守る者が その旅立ちを優しく迎えるでしょう



 ビブリオドールの差し伸べた手から、真っ白な花びらが生まれ、女性のまわりを踊り出しました。


 「これは……」

 『蓮の花?』

 「ええ、そうです。この島に住み、見慣れていたあなたたちは知らなかったかもしれませんが……」


 くすり、ととっておきの秘密をこっそり教える子供のような笑顔を浮かべて、ビブリオドールは言いました。


 「蓮は、なにものにも決して穢されぬ『泥中の花』として、世界の秘宝に数え上げられているんです。その身は余すことなく薬になり、花開く時の甘美な香りと優雅な囁きが、まるで生命の美しさを讃えているようだ、とね」


 女性と少女は、ぽかんと目も口も丸くして立ち尽くすばかりです。こうして見ると、やはり親子なだけあって顔の作りや動きはとても似ていました。


 「う、うそ。そうだったの?」

 『私も知らなかったわ……』


 こんなすぐ近くに、少女が追い求める宝と同じくらい素晴らしく、珍しいものがあったとは。そうすると、海中の虹もただのおとぎ話ではないのかもしれません。いつかきっと、見つけられるでしょう。



  大樹が歌い、土に背を預けたような貴女の声は

  力強く、いつまでも愛する者の歩みを支えるでしょう

  星に馬車を繋げるように、

  はばたく鳥のように、

  貴女の夢は遠くどこまでも向かうから



 「お母さん!」


 蓮の花弁がその魂を撫で、女性の姿を徐々に薄くしていきます。彼女も自分がこの世を離れる時が来たのだと分かっていました。


 『ノース』


 残されたほんの瞬きほどの時間で、女性は少女を思いっきり抱きしめました。


 『愛しているわ、ノース。怪我と病気には気をつけるのよ』

 「うん……!」



  さあ、お眠りなさい 安らかに

  貴女の氷雪ふあんは 芽吹いた緑の光に溶かされるから

  さあ、お往きなさい 高らかに

  貴女の傷痕かしゃくは 大いなる母の御胸で癒されるから



 『たまにはこの島に帰ってきてあげてね。じゃないと、お父さんが寂しいから』

 「ゔん……!」



  だから大丈夫 怖がらないで

  願わくば、



 広い窓から舞い上がっていく花弁とともに、女性の姿も天へ昇っていきました。


 『いってらっしゃい、ノース』

 「うん! いってきます!」


 二人は満面の笑みで、別れを告げました。



  貴女の次なる目覚めと行方にも、光があらんことを……




 しばらく空を見上げて泣いていた少女でしたが、やがて涙を拭くと、ビブリオドールとカリオンに頭を下げました。


 「ありがとうございました。二人とも。お母さんがあんなことを思っていたなんて、知らなかった」

 「いいえ、わたしはわたしの役目を果たしただけ。ですが、貴女を縛り付けていたものを取り除くことができたなら、幸いです」

 「あなたたちは、まだこれからも旅を続けるんですか?」

 「ええ。それがわたしの存在する意義ですから」

 「じゃあ!」


 少女が輝く笑顔を浮かべて二人の手を握りました。


 「もしかしたら、この先偶然世界のどこかで会うかもしれないってことですよね! そのときは……」

 「はい」


 にっこりとビブリオドールが笑いました。


 「そのときは、またぜひお茶に誘ってください」




 こうして、ビブリオドールとカリオンは世界の至宝の一つが眠る島を去っていきました。


 その数日後、緑色の目をした少女が、いっぱいに帆を張った小さな船に乗って島の港を出発していきました。彼女の顔は、その日の空と同じようにどこまでも晴れやかでした。

 少女が口ずさむ小さな鼻歌が、風にのって遠くへと運ばれていくのを、青い空と海だけが知っていました。


  目覚めた白きひだまりに私は歌う

  虹の生まれる場所 太陽の昇る場所

  それは冒険者が目指す永遠の浪漫

  空の遥か彼方へ心を飛ばしても

  足を地につけた愉快な愚者フール

  願いと夢はかなえるために

  誓いと約束は果たすためにあるのです

  ああ、なんと楽しい日々でしょう

  未開の大地を行く、私たちは開拓者フロンティア

  今日も明日も生き続けて私は

  いつかここではないどこかで眠りましょう……


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