聖なる太陽の獣とビブリオドールのお話
月桂冠を戴く豊穣の大地よ
太陽神の祝福を受けた我が祖国よ
汝は我が誇り、我が父にして母
地上の何者にも奪うことはできず
天上の何者も凍えさせることはできない
おお、楽しめよ
ここは常しえの春
善き若者たち、美しき処女たち
今が盛りのこの命
花を摘み、酒を飲み
共に歌い踊ろうぞ
聖なる太陽の獣とビブリオドールのお話
「人狼?」
「そうなんだよ! そいつのせいでめっきり人の出入りが減っちまって、アンタらは実に三ヶ月ぶりのお客さね! ぼろっちい宿だけど、ま、ゆっくり休んでいっておくれよ!」
恰幅のいい女将は、お客の前に山盛りの食事を置いて厨房のほうへ戻っていきました。
「……食べきれますかね、この量」
「せっかく出してくれた飯だ。残すのも悪いだろう」
二人はそれぞれ手を合わせると、肉に野菜に箸をのばしました。
ゆっくり一口ずつ味わうように食べているのは、長い蜂蜜色の髪をしたとても美しいビブリオドールでした。彼女は人間ではありません。友だちの神さまが己の代わりに魂と精霊を救うことを望んで造った、人ならざるモノなのです。
男性顔負けの勢いでもぐもぐと、大量の飯を片付けていっているのは、カリオン・シュラークという名の女性です。白い長い髪のこの女性は、ビブリオドールの保護者役のような人で、彼女のことを古い言葉で書物を意味する「セシェ」という名で呼んでいます。
他に客のいない明るい食堂内に、二人が食事をする音だけが響きます。
「三ヶ月ぶりの客ですか……。山間部にあるこの街では、人の往来がなくなるのはさぞ手痛いことでしょうね」
「どうりで昼間、客引きがすごかったわけだ」
太陽が空の真ん中をすぎた頃にこの街の入り口へ馬で着いた二人でしたが、一歩踏み入れたとたんあっちの店からこっちの店から、それこそ腕の引っ張り合いをされるほどの手荒い歓迎を受けたのでした。
「悪気はなかったんだろうが、困ったものだったな」
「館長さんが凄んだら、皆さんあっという間に離れて下さいましたけどね」
「さすがに不愉快だった」
昼間のことを思い返すと、今でも眉根が寄るカリオンでした。
「しかし、人狼とはな……」
カリオンがお茶を一口飲んで、長く息をつきました。いつのまにか、大量にあった食事はカリオンのお腹の中に消えていました。
(あの細い体に、よくあれだけの量が入りましたね……)
さすがのビブリオドールも少々驚きました。
「前の街で聞いた話では、タチの悪い野盗が頻出しているということだったが」
「いま思えば、それは違うようですね。もし本当に野盗がいるなら、街の外の人間であるわたしたちを、迎え入れはしないでしょう」
「そうだな。だが、何かによってこの街に被害がもたらされているのはたしかだろう。街の雰囲気はとてもピリピリしていた」
必死で客引きをしながらも、どこか周囲に気を張ったような怯えた表情。こん棒や短剣を身につけたままの男衆。
「街の入り口も、元々あったものに木材を付け足して補強されていたしな」
そのとき、二人が食べ終わったことに気がついた女将が近寄ってきました。
「おや、もう食べ終わったのかい? 若い人は早いねえ」
「はい。とてもおいしかったです。ありがとうございました」
にっこりと笑って礼を述べたビブリオドールに、女将は照れたように顔の前で手を振りました。
「やだねえ、そんな。行商人も来なくなっちまったもんだから、そのへんで採れたものばっかりしか出せなくて、申し訳ないぐらいなのに」
「いや、本当に旨かった。しばらく野宿が続いていたから、久々に温かい飯にありつけた。礼を言わせてもらう」
「まあまあ、どうもご丁寧に。ここらにはこの街しかないからねえ。少なくとも、ここに来るまでに一泊、ここを出てから一泊野宿しないと次の街には着かないしねえ。アンタもこんな小さい子つれて大変だね」
女将はそう言ってカリオンの湯のみにお茶を注ぎ足しました。
「ところで女将」
「ん? なんだい」
「さっきの話なんだが、『人狼』というのはなんだ? ただの野盗とは違うのか?」
「ああ、それかい……」
ふう、と女将の顔が曇りました。
「あたしゃ直接出くわしてないんだけどね──そんな恐ろしい真似できないよ──でも、街の人も多くが見たって言うし、商人たちも襲われたってさんざん騒いでたから、本当のことだろうさ」
「なぜ『人狼』と呼ばれているんだ?」
「そいつが、人間の姿からいきなり巨大な狼に化けるからっていうんだ」
「『そいつ』? 一人……いや、一匹? なのか?」
カリオンが片眉をあげました。ビブリオドールは大人しくお茶を飲んでいます。
「そうらしいんだよ。そもそもの始まりは、半年ほど前。ちょうど雪が溶け終わったころぐらいのことだったんだけど……」
女将が話しかけたとき、それを遮るように大きな音が街と言わず、山という山にこだましました。
ウオオオォォ……ッン!
「なんだ⁉」
カリオンが反射的に剣を握って立ち上がりました。
ウオォォッッン……!
「ひいぃ! これだよ、これ! 人狼の遠吠えだよ!」
女将が盆を落として耳を塞ぎます。
「これが? そんな馬鹿な!」
体を震わせるほどの大きな鳴き声。これが、たった一匹の喉から発せられるものなのでしょうか。
わずか数十秒の間でしたが、カリオンはそこに縫いとめられたように身動きができませんでした。ビブリオドールは、床に伏せた女将の背を安心させるように撫でながら、厳しい顔つきで宙を見上げていました。
遠吠えが不気味な余韻を残して完全に夜の深い黒に消えてしばらく経ったとき、ビブリオドールはゆっくりと女将に声をかけました。
「大丈夫ですか?」
「あ、ああ。大丈夫だよ。すまないねえ」
よっこらせっと女将は立ち上がり、重いため息とともに胸を押さえました。
「まったく、ここ半年ずっと、週に一回はあの声がする。多いときには日に一回だよ! 今まで一度も街の中には入られてはいないけど、いつやってくるかと思うと、もう身も細る思いだよ」
そう言った女将の顔は、先ほどとは違ってとても疲れたようでした。遠吠えの前と後で、いくらか年を取ったようにさえ見えます。
「『人狼』が現れるようになったのは半年前からだということでしたよね?」
「ああ、そうさ」
女将は二人が座っていたテーブルの隣のいすに座りました。ビブリオドールとカリオンも自分の席に座り直します。
「半年前のある夜に、いきなりあの声が響いてきたんだよ。それも何回も。子どもたちもみんな起きちゃって、しばらく街全体が騒然としたねえ。なんとか子どもたちは寝かしつけたんだけど、大人は総出でその日は見張りよ」
「今はもうそんなことないのか? 外はあまり騒がしくないようだが……」
「今はね……。さすがに半年も経てば、慣れはしないけど多少は冷静に対応できるようになるさ。当番を決めて、日替わりで男衆が見張ってるんだ。もし、何か異変があれば警鐘を鳴らすようにしている。今まで一度も鳴ったことはないけど、今晩はどうかって思うと、正直生きた心地がしないねえ……」
頬杖をついて、ふうと長い溜息が女将の口から漏れました。
「人間が狼に化けて襲ってくるというのを最初に見たのは、この街の人なのですか?」
「ああ、そうさ。遠吠えが聞こえてから、そんなに日は経ってなかったはずだよ。山での猟を終えた男たちが夕方になって帰ってくる途中、街道の隅にうずくまっている男を見つけたんだ。慌てて駆け寄って助け起こせば、その男は「水をくれ」と言ったらしくて」
その男は長い銀色の髪と金色の瞳を持ち、彫りの深い顔立ちをした若い男だったそうです。着ているものは赤地に金糸で刺繍が施された豪華なものでしたが、泥にまみれてところどころに穴も空いていたといいます。
男は人の気配を察して顔を上げ、猟師たちに震える手でしがみついてきました。
『み、水を……。もう、な、なんにちも……』
『わ、分かった。ほら、水だ。むせないように少しずつ飲むんだ』
『ああ……ありがたい……』
『おい、さっき山で採れたツルキハシの実があるだろ。あれも少し食べさせよう。あれは滋養と消化にいい万能薬だ』
『そうだな。ほら、アンタ。これも食べな。これで街まで少し辛抱してくれ』
猟師たちは水を飲み終え、なぜか力なく俯いている男の口にツルキハシの実を、やや強引でしたが押し込みました。男はそれをどうにか飲み下したようですが、すぐにその口が何かを呟きました。
『ん? 何か言ったか?』
『…………がう』
『すまない、よく聞き取れなかった。もう一度言ってくれないか?』
『違う……!』
『へ? 何が……』
猟師たちが男の顔を覗き込みながら、互いに顔を見合わせて首を傾げたとき、突然男は立ち上がって叫びました。
『違う、違う、違う、違う、違う、違う‼ なんだこれは! なぜだ!』
『な、なんだ、アンタ! いきなり……ヒィ⁉』
そのときです。男の体が銀色の毛に覆われ始め、口は大きく、耳も尖り、爪は伸び、瞬く間に巨大な狼へと姿を変えました。
『ウオォォオォッォオォオン‼』
そして空を仰ぎ、猟師たちを恐怖のどん底へ突き落とす遠吠えをあげたのです。
「弓も剣もまったく歯が立たない。猟師たちは腰を抜かしながらも、ほうほうの体で街まで逃げてきたよ。その日得た獲物もすべて置いてね。人狼は長い両腕を振り回しながらしばらく吠えていたようだけど、そのまま山ん中へ戻って行ったらしいんだ」
女将は不安そうに、窓に黒々と映る山の鍵を見つめました。
「最初は誰もが半信半疑だったよ、そんな荒唐無稽な話。幻か夢でも見てたんじゃないかって。けどね、次の日から相次いで他の街の人や、街の外の人たちまで見たって言い出したんだ。おかげで人の行き来は激減。街を捨てる人まで出てきてしまった」
女将は立ち上がり、重い体を引きずるようにしながら奥へ戻って行きました。
「ほんと、あたしたちはこれからどうしたらいいんだろうねえ……」
「『人狼』か……。それも精霊の一つなのか?」
案内された部屋の窓から外を見て、布団の上に座って厳しい顔をしているビブリオドールに問いかけました。
この世界の全ては、人も動物も、神さまたちによって造られた〝おもちゃ〟です。おもちゃは〝神さま〟を知覚できません。
〝精霊〟とは、その〝おもちゃ〟と〝神さま〟の中間的な存在でした。人は神さまを知覚できませんが、同じおもちゃとしての性質を有している精霊であれば、時と場合と、また人によって知覚することができるのです。
「ええ、そうですね」
「セシェ、さっきの人狼の遠吠えだが……もしかして何かを訴えていたのか?」
「と、言いますと?」
「私にはただ狼が吠えているだけのように聞こえたが、お前には人狼の声が聞こえていたんじゃないかと思ってな。お前は、荒ぶる精霊を鎮めるための祝詞を有しているから」
カリオンはそう言ってビブリオドールのとなりに腰掛けました。
「……ええ、貴女の言う通りです、館長さん。彼は確かに訴えていました。『どこにいるのだ? なぜ誰もいないのだ? 答えてくれ』と」
「いったい誰に?」
ビブリオドールはその問いには答えず、カリオンの膝に乗ると彼女に言いました。
「館長さん。貴女に〈閲覧〉の許可を出します」
カリオンはわずかに息をのみましたが、すぐに頷くとその瞳に手をかざし、覗き込みました。
「我探し、我読み解く。示せ、聖なる太陽の獣に繋がる物語を」
カリオンの目の前に異空が現出しました。
気がつけば、彼女は天も地もない濃紺地に無数の小さな光を散りばめた無限の空間の中にいました。それはまるで、夕暮れの先に待つ果てない星空のようでした。
彼女が手を伸ばすと、その手のひらの上に光の一粒がそっと乗りました。光を握りしめると、彼女の脳裏に一つの物語が走馬燈のように流れていきました。
* * *
チュンチュンと愛らしい小鳥の鳴き声を聞いて、その館の主は目を覚ました。
「……」
しばらくの間、温かなそよ風が窓にかかった薄布を揺らすのを、ぼんやりと見ていた男は、かちゃりというドアが開く音を聞いてそちらに顔を向けた。
「おはようございます、ボロニカ様」
現れたのは、白髪を後ろに丁寧に撫で付けた男だった。
「……ああ、おはよう、アーロ。今日もいい天気だね」
「ええ、それもこれもボロニカ様の信仰の厚さ故。民もみな、この国の長たるあなた様に感謝しております」
主は寝床から起き上がりながら、苦笑を漏らした。
「この国に恵みをもたらしているのは私ではなく、太陽神エリュトロス様の御威光だと言っているだろうに」
「さようでございました」
口ではそう言いつつも、男の口元は笑んでいて、自分の発言を取り消したり言い直そうとはしなかった。
男に手伝ってもらいながら、寝間着から普段着に着替えた主は、朝食をとるために食堂へ向かった。
この国の名はロリエといった。太陽神エリュトロスが、己の愛情のかぎりをこめて作り上げた聖地だった。
ここに住んでいるのは普通の人間ではない。彼らは時に、美しい灰色の毛並みと強靭な体躯を持つ獣に姿を変える。エリュトロスの理想の美を追求した、彼自身の手で造られた狼に変化できる人間たちだった。
狼の姿になっても彼らの瞳から知性の色が消えることはない。ただ穏やかに、この国で過ごすだけだ。
「おはようございます。ボロニカ様」
「おはようございます」
「ボロニカ様」
道すがら館に勤める者たちと挨拶を交わし、主は樫の木で作られた重厚な食堂のドアを開けた。
サァ……ッと心地良い風が主の長い銀色の髪を揺らした。柑橘類の酸味がきいた香りが主の鼻腔をくすぐる。食堂には大きな窓があり、今の時間にはすでに開け放たれていた。
席についた主は、窓の外に広がる果樹園を見ながら言った。
「そうか、もうオレンジの収穫時期だったか」
「ええ、今年もよく実って……。たくさん採れているそうですわ。ボロニカ様のおかげでございます」
「私は何もしていないよ、ヘーリア。……ふむ、それじゃあ明日、明後日ぐらいには感謝の祀りを行わなければならないな。アーロ、用意をしておいてくれ」
「かしこまりました、ボロニカ様」
朝食を終えた主は、一人で日課の散歩に出かける。武器や護衛などという無粋なものは不要だった。
澄んだ浅い川では、うら若き乙女たちが洗濯をしている。
開けた広場では、逞しい男たちが組手を取っている。
木陰では、恋人同士とおぼしき二頭の狼が寄り添い眠っている。
湖のそばでは、切り株に腰掛けた教師が子どもたちに学問を教えている。
その誰もが主に気がついて声をかけてきた。主は、その優しい国民たちを愛していた。
ここは四方を山に囲まれ、外に出ることはできない。同時に、神が作った聖地であるため、外から誰かがやってくるということもなかった。
しかし、それで不満はなかった。夏の煮えたぎるような暑さも、冬の身を切るような寒さも、飢えと渇きに喘ぐことも、ここではないのだから。
広大とは言いがたいが、数百人の民が暮らすには十分な土地と実り。醜い争いや欲深さなど知らず、ただただ美しくあるこの国を、主はとても誇りに思っていた。
しかしその楽園は、あるとき突然氷に閉ざされた。
原因は、ロリエの民がエリュトロスの怒りを買ったからだった。
ロリエの民は、自分たちの住んでいる国が太陽神の加護によって栄えているのだと教わる。しかし、彼らは直接神の声を聞くことができなかった。神の声を聞くことができるのは、長となった者のみ。長は神と言葉を交わし、その恵みに感謝する祀りを執り行う。
民からすれば、姿の見えない神よりも、祀りを行い神の言葉を自分たちに伝えてくれる長のほうがありがたみが強かった。いつしか民は神への信仰を忘れ、長を崇拝するようになっていた。
それが、神の逆鱗に触れた。
「私がいるからこそ、お前たちは生まれ来ることができたのだ。その恩を忘れ、創造主をないがしろにするとは何事か!」
主にも民にも、反論や弁解の余地は与えられなかった。
エリュトロスは聖地ロリエから一切の温もりと恵みを奪い去った。神から見捨てられた聖地は、瞬く間に命の営みを許さぬ死の大地へと変わった。
火という火は吹雪にかき消され、土という土は凍りつき、わずかな窪みを掘ることさえできなくなった。
「この冷たい『零の年』の罰をお前たちに下す。自らが犯した罪を悔いるといい!」
太陽神はそう言い残してロリエから消えた。
民は狼の姿で互いの温もりを分け合いながら寒さに耐えていたが、一人また一人と命の灯火が消えていき、その姿は白い雪の下に沈んでいった。
ただ一人、主だけを残して、他の民は全員息絶えた。
(死ぬわけにはいかない……死んではいけない……! これは罰なのだ! 耐えねばならないのだ! 神が下したこの罰を耐え抜き、またいつか目覚めたとき、二度とこんなことが起こらぬようにするのだ。それが長となった私の役目……‼)
主のそれは、もはや執念とさえ呼べた。手先が凍傷になって腐り落ちてしまっても、意識があらぬところをさまよっても、主は執念だけで『零の年』を生き続けた。
(いつか、いつか必ずまた来る。またみんなと笑いあえるときが……! あの美しい祖国に帰れるときが……!)
そして、ついにその日はきた。
晴れることはなくとも吹雪が止み、実りはなくとも大地が雪の下から姿を見せたのだ。
「…………おわった、の、か………………?」
最初は信じられなかった。だが、目が慣れ、体を動かし、息を大きく吸い込んだとき、ようやく主は実感した。
『零の年』が終わったのだと。
「は、はは……」
主の喉から歓喜の笑い声が、目から透明な熱い涙が零れ落ちた。
「はははっ、はははは! 終わった、終わったぞ。私たちは耐えたんだ!」
主はぬかるんだ大地の上を駆け回った。
「アーロ! ヘーリア! どこだ? みんな、出てきてくれ! また私たちの楽園を作ろうじゃないか!」
しかし、その声に答えるものは誰ひとりとしていなかった。
「……アーロ?」
主の胸に一抹の不安がよぎる。そしてそれは、どんどん大きくなっていった。
「アーロ! ヘーリア! ロン! レクトー! どこだ! どこにいるんだ、みんな! 返事をしてくれ!」
主はロリエの地の端から端までを探した。何日も何日も探し続けた。
だが、誰ひとりとしていなかった。誰かがいたという形跡すら見つからなかった。
主は泥濘の中に倒れ込んだ。民が自慢していた美しい銀髪も、泥に汚れていく。
「なぜだ。なぜ誰も返事をしてくれない。誰もいないのだ……」
何日そうしていただろうか。ふいに、唐突に、主はこう考えた。
「そうか、まだ『零の年』は終わっていないのか。だからみんなまだ目覚めていないのだな。なるほど、ならばこの土地にいまだに花が芽吹かないのも分かる。『零の年』は、まだ続いているのだな」
一度希望を知った者の絶望は、知る前よりもずっとずっと大きく深いものだ。
ふらりと立ち上がった主は、何事かを呟きながら、どこへ行くともなく歩き出した。
いつか、本当に『零の年』が終わる時を待つために。
いつか、彼の愛する民との再会を求めて。
夢見る主は、あてもなくさまよい続ける。
主は知らなかった。
神に捨てられたその土地は、すでに聖地としての役割を終えていたということを。
歩き続ければ、森という森を越え、普通の人間たちが暮らす街へも至ることができるようになってしまっていたということを。
遭遇した人間たちがくれた水も食物も、すべて偽物のまやかし、神がロリエの民に与えた罰の一つだと思いこんでしまっていることを。
* * *
聖なる獣の物語を読み終えたカリオンは、難しそうな顔で腕を組みました。
「哀れとしか言いようがないな。人々を傷つけたことは、許せるものではない。しかし、それは現実を認められない、認めたくないがため……」
「ええ。そうでもしなければ、自分の心を保てなかったのでしょう」
あごに手をやり、しばし目を閉じていたカリオンでしたが、すぐに目を開けると自分の胸にもたれかかっているビブリオドールに問いかけました。
「どうする、セシェ。相手は普通の人間でもなければ、狼でもない。相当手強いぞ。鎮めるまで私が相手をしきれるかどうかも危うい」
「……どうしましょうね」
カリオンの腕の中で、小さなヒトならざる人形はため息を零しました。
「永きにわたる『零の年』を経て、彼の肉体自体は限界を超えていてもおかしくはありません」
いくらかの苦みを混ぜた顔で、ビブリオドールは窓の外に広がる暗闇をじっと見つめました。
「彼を、彼が望み焦がれている聖地へ帰すか。それとも神々の憩いの庭、全ての魂が還るべき天の園ローゼノーラに還すか。わたしから示すことはできないようです」
次の日の朝。昨晩と同じく女将が出してくれた温かい大量のご飯を食べていたとき、急に外が騒がしくなりました。
「どうしたのでしょう?」
ビブリオドールがかわいらしく首を傾げたとき、「急いで手当てを……」「誰か、早く医者を呼んできてくれ!」という物々しい声が耳に届きました。
扉を開けた二人が見たのは、腕や足から真っ赤な血を流して倒れている複数の男たちでした。街の人たちが彼らを助けおこして、水や包帯を渡していました。
「大変だ! 血止めの薬がこのあたりの家にはもうないそうだ!」
「なんだって? くそっ、ならせめて、ありったけの布で止血を……」
「血止めなら、これを使ってくれ」
「あ、あんたは……」
すばやく駆け寄ったカリオンは、彼女が傭兵時代から愛用している薬を街の人に手渡しました。
「急がないと、手遅れになる」
「すまん」
その人は礼を言って受け取ると、軟膏状の薬を傷の上にのせていきました。処置が遅ければ、失血死をするかもしれません。それほどの深手でした。
「一体どうしたらこんな傷が……」
「これが人狼の力さ」
カリオンの呟きに、頭に包帯を巻かれた若い男が答えました。
「これが……」
「そうだ。一撃でそれだぜ。ふざけてるよな」
腕が半分千切れかかっています。もしこれが頭やお腹だったなら、確実に死んでいるでしょう。
「オレたちだって、食うためには山に入んなきゃなんねえ。けど、人狼に怯えてまともな猟なんてできやしない。出会ったら出会ったらで、これだ。まったく、どうしろっつーんだよ……。ほんと……」
そう言って男はうなだれました。その肩に優しく手をおいたのは、蜂蜜色の髪を持つ少女でした。
「大丈夫ですよ」
「あ? 何が大丈夫なんだよ。無責任なこと言うんじゃねえ、ガキが!」
「いいえ、もう大丈夫です。なぜなら、わたしたちが人狼を解放するからです」
「……は?」
ぽかんと男が口を開きます。ついでに、目も同じくらい丸く見開かれていました。
「わたしたちは、そのためにいるのです。安心して、任せて下さい」
ビブリオドールは、若い男と同じような顔で彼女を見ている街の人たちを見回して、微笑んでそう言いきりました。
「館長さん、大丈夫ですか?」
「ああ、問題ない。女将、すまないが荷物は、まだ宿に置いてもらっていてもいいだろうか。荷物まで持っていて、相手をできるほど生半可ではなさそうだからな、人狼は」
「え? そ、そりゃかまわないけど……」
女将は戸惑いつつも頷きました。それを確認した二人は、街の人たちが呼び止めるのも構わず、たったいま人狼が出たという街道に向かいました。
そこには、くっきりと獣の足跡が残っていました。
「大きいな。この大きさと地面の凹み具合から、人の背丈以上あってもおかしくないぞ」
「山の中では相手をしづらいですよね。この広い街道に出てきてくれれば……」
ビブリオドールが緑の木々へ目を移したとき、二人から数十メートル離れたところでがさりという音がしました。
ハッとそちらに向いたとき、立っていたのは長い銀髪の男でした。
『君たちは……誰だ? 見たことがない……』
ふらふらとおぼつかない足取りで近寄ってきながら、銀髪の男はかすれた声で言いました。ビブリオドールはスカートを軽く持ち上げ、膝を少し折りました。
「はじめまして、聖地ロリエの長よ。わたしはビブリオドール。貴方を解放するために……」
『誰と誰の子だ? 君の親はどこにいる? 私にも会わしてほしい。ずっとずっと、探していたんだ。私の愛しい同胞……!』
「……妙だな?」
カリオンは首を傾げました。どうにも会話がかみ合っていないような気がするのです。
「勘違いをしているようです。わたしたちを、ついに現れた本物のロリエの民だと」
「なぜだ?」
カリオンは油断なく剣の柄に手をかけながら、ビブリオドールに問いかけました。
彼女らの前で銀髪の男は、涙を流して歓喜にうち震えています。
『早く聞かせてくれないか? 私はもう何日も、何年も彼らに会っていないんだ。早く会いたい、そしてまた暮らしたい……。ああ、待ちきれない。さあ、教えてくれ! 君の親は、その名前はなんというのだ?』
血走った目、震える唇。彼をじっと見つめ、
「……それは、わたしがこの人と同じ、神に造られたヒトならざるモノだからですよ」
ビブリオドールは一歩自分から銀髪の男に近づくと、そっと首を振りました。
「長よ。わたしを造ったのは太陽神エリュトロスではなく、世界の全てに忘れられた友だちの神さま。わたしは、貴方の同胞ではありません」
『…………なんだって?』
「同じ〝神さま〟から造られた特別な〝おもちゃ〟として、わたしを自分の同胞だと誤認したのかもしれませんが、わたしはロリエの民ではありません。父も母もいません。わたしは、荒れる精霊を鎮め、彷徨う魂を正しき場所へ葬るビブリオドールです」
男の顔が、みるみるうちに強張っていきます。
「愛しさのあまり、道を踏み違えてしまった貴方の目を覚ますために、わたしはここにいるのです」
数秒の後。喜びも、悲しみも、全ての感情を削ぎ落とした無表情で、長は呟きました。
『……またか』
「なに?」
カリオンが眉をあげたとき、男の体がブルブルと震えだしました。そして、
『またなのか! 何度わたしを騙せば気がすむのだ! 何度わたしを期待させては絶望へ突き落とすのだ!』
整った顔を怒りの形相に変え、男は吠えました。
爪が伸び、体は銀色の体毛に覆われ、筋肉は盛り上がり、
『許さん! 許さんぞ! 許さんぞ‼』
体長が三メートルはあろうかという巨大な狼が、そこには立っていました。
『ウオオオオオオオンッッッ!』
狼は天を仰いで大きな咆哮をあげると、風のような速さで二人に迫ってきました。
ばっと剣を抜いて、カリオンがビブリオドールの前に躍り出ました。
「下がれ、セシェ! 私が相手をしている間に祝詞を聞かせるんだ!」
しかし、返ってきたのは彼女が護衛する少女の心地いい声ではなく、パキィンと花瓶が割れるときのような耳障りな音でした。
そして次に、右肩に走る熱さを感じました。
時がゆっくりと流れていくかのようです。
「……セ…………」
振り返ったカリオンの目に映ったのは、自分の肩から吹き出して宙に散る紅い血液と、狼の巨大な爪に右半身を大きく抉られたビブリオドールでした。
『荒ぶる狼に襲われたりなどすれば、わたしは抵抗することもできず、瞬く間に壊れてしまうでしょう』
カリオンの脳裏に、初めてビブリオドールと会ったときのことが浮かびました。
彼女の命は、大母の代行者としての役目を果たすための力の維持に使われていて、身体の修復能力はありません。それはつまり、自分ひとりでは自分の身を守ることすらできないということです。
ビブリオドールの小さな唇が何か言葉を紡ごうとしましたが、結局それは声となってカリオンの耳に届くことはありませんでした。
「セシェーー!」
カリオンは剣も投げ捨てて、ビブリオドールに駆け寄りました。狼はビブリオドールを傷つけたあと、そのまま数メートル先で身を反転させ、こちらを睨みつけています。
「セシェ! 死ぬな!」
カリオンがビブリオドールを抱き上げたときには、すでに顔にまでひびが入ってしまっていました。
「やめろ! セシェ、死ぬな! 頼む、死なないでくれ!」
カリオンの必死の呼びかけもかなわず、ビブリオドールのひびは身体中に広がっていきます。
最愛の弟を失ったときの絶望が、カリオンの胸に飛来しました。
また守るべき者を、守りたい者を、失ってしまう。
「やめろ……やめてくれ…………!」
のどから絞り出される悲痛な願い。けれどそれも虚しく、ビブリオドールの身体は奇妙に澄んだ音を立てて砕け散り、細かな光の欠片は空へ消えていきました。
「…………!」
カリオンがビブリオドールの名を再び叫ぼうとしたとき、異様な殺気を感じ取りました。
とっさに全身のバネを使って後ろへ跳んだとき、狼の右手がカリオンの太腿をかすめて、ビブリオドールがいた場所に叩き付けられました。
「ぐ……っ!」
またも飛び散る鮮血。
狼はもう一吠えすると、カリオンの頭を噛み砕かんと、大きな口を開けました。
(くそっ……!)
剣を拾って持ち直したカリオンは、それを頭上に掲げました。
甲高い不愉快な金属音とともに、鋼の剣が強靭な狼のあごに砕かれました。
もうカリオンに狼の怒り狂った攻撃を防ぐ手段はありません。なす術もなく、ギラリと並ぶ牙が自分に迫ってくるのを見るしかできない——
そのときです。
書架配列一六六番より——開架
聖なる太陽の獣に紡ぐ
叫ぶでもなく、囁くでもなく、しかし世界へ響き渡る歌声が、カリオンの、そして狼の耳に届きました。
鎮まりなさい 聖なる太陽の獣よ
いつかその雪がとけるまで
それは、虚像と現実を繋ぐ詩。狂ってしまった足取りを正しいものへ直すための祝詞。
零の年は終わりを告げたのです
凍てつく冬の夜に 芽吹きの詩を届けましょう
狼は驚いたように顔を自分の後ろへ向けました。そこには、さっき壊したはずのビブリオドールが、慈愛に満ちた笑みを浮かべて立っていました。
「セシェ……」
カリオンが安堵の溜息を漏らしました。
氷結の槍が降り注ぐ 閉ざされた大地にも
万物を遍く照らす 至輝かしきものは昇ります
狼は本能的に危険を察知しました。
この小さな人形は、自分を騙しただけではない。もっと、もっと奥の、
『ウオオオンッッ!』
狼は威嚇の声をあげると、ビブリオドールに襲いかかりました。
「! 待てっ!」
カリオンが身を起こしましたが、片足が使えず、武器もない彼女にはどうすることもできません。
「避けろ、セシェ! 逃げるんだ!」
カリオンの叫びはビブリオドールにも聞こえてるはずです。しかし、彼女は動こうとしませんでした。
「セシェッ!」
狼がビブリオドールの細い首に噛みつこうと迫ります。
さあ、目を覚ますのです
惑い傷つく民の愛し子よ
ぴたりと狼の動きが止まりました。
自分の腰ほどしか背丈がないビブリオドールの青い瞳が、自分の金色の目をまっすぐに覗き込んでいます。
その澄んだ瞳が全てを語っていました。
『気高き人よ、いつまでも過去の幻想に囚われていてはいけません』
『幻想……だと?』
男は、自然と眉を寄せていました。
『何が言いたいのだ。私は、私の大切な愛しい同胞たちを捜しているだけ』
『いいえ。本当は貴方も分かっているはずです。自分以外のロリエの民は、みんな天の園へ還ってしまったのだと』
その言葉は鋭く、男の胸を突きました。
新たな風が吹き始めました
『……いや、認めない』
振り絞った声は、男が思っていたよりも小さく、頼りないものでした。
『そんなことはない。彼らはどこかにいるはずだ。ここで私が口にした水も、果実も、全てエリュトロス様が科した罰『零の年』が生み出した幻にすぎないのだ。私の愛する祖国の水や果実は、ずっと甘く美味しいのだから。だからこれは、全て偽物なのだ……』
男のそれは、ビブリオドールに反論するというよりも、自分自身に言い聞かせているものでした。
ビブリオドールはすっと手を伸ばすと、男の顔を小さな白い手で包み込みました。
『貴方はただ現実を認めたくなくて、逃げているだけです。その深く美しい目を、まやかしで曇らせないでください。貴方を愛してくれていた民も、そんな貴方の姿なんて見たくないでしょう』
『っ……。だが、だが……!』
大丈夫 怖がらないで
『気高く賢い聖なる太陽の獣よ。貴方ならば分かるはずです。自分のしていることが、間違っているということが。だからどうか、目を覚まして』
優しく、優しく、幼子に語り聞かせるように。
光も風も 世界の全てが
貴方の目覚めと道行きを祝福するでしょう
『ほら、顔を上げてみてください』
『……?』
男がビブリオドールに促されるまま、俯いていた顔を上げました。
金色の瞳いっぱいに映ったのは、高く広い青空と、燦々と輝く太陽でした。
『どうですか? 貴方を苦しめていた凍てついた寒空はないでしょう?』
この世は光に満ちて
温かな目覚めの詩を貴方に届けます
『…………たしかに、な……』
巨大な狼から人の姿に戻った男が、目から大粒の涙を流しながら呟きました。
『あの忌まわしい雪と氷は存在しない』
そして、グッと拳を握りしめました。
『私が愛していた同胞たちも』
男の涙が止まるまで、二人は何も言わず待っていました。
男が白い指で涙を拭い、深く息をついたとき、ビブリオドールが静かに問いました。
「これからどうしますか?」
『どう、と聞かれてもな……』
悲しみを滲ませた自嘲の笑みで答えました。
『目が覚め、自分の本当の罪を自覚してしまった。無関係で、無実の人間たちを傷つけたという罪をね』
「……悲しいですが、確かに貴方が犯してしまったことですね」
『ああ。私のせいで傷つき、恐怖し、苦しんだ全ての人間に、心から詫びよう』
カリオンに、そして街の方へと頭を下げる様子は、確かに人の上に立つ者の風格を感じさせました。
『……だが、共に過去を振り返って懐かしみ、共にこれから生きていける同胞もいないとあっては……。もうこの世界で生きていこうとは思えないな』
男がそう口にした瞬間、男の身体がスゥと透けていきました。
「……⁉」
カリオンが驚いたように目を見開きましたが、ビブリオドールには想像できていたことでした。
「……天の園へ還りますか」
『ああ、そうさせてもらう。この先あの地が蘇ることも、新たな同胞が生まれることもないだろう。情けないと嘲笑うかもしれないが、もう孤独の中では生きていたくないのだ。遅れてしまったがせめて、同胞たちと同じ道を歩みたい』
けれどビブリオドールは嘲笑とはほど遠い、喜びと慈しみの笑みを浮かべました。
「情けないなど……。そんなことはありませんよ。わたしは、貴方のその選択を祝福しましょう」
手を組み、祈るように目を閉じたビブリオドールは再び唄います。
天満つ星の下 黄昏の蝶とともに
永遠の螺旋の中 暁の花に導かれ
優雅な戯れの園へ
神よ、その門を開き給え
彼の地に流るる花唄とともに
誇り高き御霊を迎え入れ給え——
天から差し込む光の橋を、男は振り返らずに昇っていきました。
天の園ローゼノーラの地まで長かったのか、短かったのか。男にも分かりません。ですが一歩進むごとに、懐かしい思い出たちが自分の中を通り過ぎていくのです。
澄んだ浅い川では、うら若き乙女たちが洗濯をしていました。
開けた広場では、逞しい男たちが組手を取っていました。
木陰では、恋人同士とおぼしき二頭の狼が寄り添い眠っていました。
湖のそばでは、切り株に腰掛けた教師が子どもたちに学問を教えていました。
(ああ……。なんと穏やかで優しいことか。こんな気持ちは久しく忘れていたような気がする)
男は自分を目覚めさせ、祝福までしてくれた小さな人形に感謝の言葉を紡いで、開かれた眩い光の門をくぐっていきました。
こうして、同胞たちへの愛に殉じた人狼を見送った二人は街へ戻り、カリオンの傷が癒えた頃、再び世界のどこかで暴れる精霊を鎮め、世界のどこかを彷徨う魂を救うための旅に出て行きました。
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