革命の亡霊とビブリオドールのお話



  最後の夜 聖母の腕に抱かれる夢を見よう

  甘い香りは酒の神の贈り物

  あのとき湖畔に立っていた貴女が

  今でも私の胸を優しく痛めつけています

  草萌ゆる地の白兎を抱いて

  微笑む幼い我が君よ どうかそのままで

  曇りなき睡蓮のような愛しき人に

  糸杉が垂れるこの星月夜

  楽譜のない音色を届けよう

  日没の王女よ、

  御身に神の寵愛があらんことを





 多くの旅人が行き交う広い道でした。


 太陽が真上に輝くころ。道ばたに商品を広げて大声で客引きしている行商人や、通りすがりに芸を見せておひねりをもらっている大道芸人など、まるでそこが一つの街であるかのような、賑やかさでした。

 道沿いには、宿屋や軽食と休憩が取れる店がたくさんありました。そんな店の一つに、いま二人のフードをかぶった旅人が入ってきました。


 「いらっしゃいませー!」


 元気な声とともに、給仕の少女が案内するために二人のほうへやってきました。


 「二名様ですか?」

 「ああ」


 マントを脱いでそう答えたのは、長い白い髪の女性でした。


 「お煙草は吸われますか?」

 「いいや」

 「お酒は飲まれますか?」

 「いや」


 表情も緩めず、一文節でしか答えない客に少女は戸惑いましたが、女性が腰に剣を佩いているのを見て、納得しました。


 (傭兵さんなのね。きっと疲れているんだろうな)


 少女はにこっと笑って店の奥を示しました。


 「では、お席のほうへご案内致しますね」


 彼女の後ろを二人の客は大人しくついていきます。女性の隣を歩く小さな人物を視界の下のほうに捉えつつ、こっそりと少女は首を傾げました。


 (この人の子供? それとも護衛してるとか? はっ! まさか人さらいとか⁉)


 昔に比べれば、この辺りもずいぶん治安が良くなってきているとは聞きますが、それでも野盗や人さらいの噂は絶えません。少女が見知らぬ子供の正体について考えを巡らせていたとき、少女はぐいっと後ろに引っ張られました。


 「きゃっ!」


 少女のすぐ目の前を別の客が通っていきました。あのまま進んでいれば、きっとぶつかっていたでしょう。


 「す、すみません! ありがとうございました!」


 少女は慌てて女性に頭を下げました。女性は「気にしなくていい」と首を振りました。


 「では、ただいまお飲物をお持ちしますので、少々お待ちください」


 少女は一礼して、二人の席から離れました。


 (なんだ、いい人じゃん! 人さらいとか思っちゃって、失礼だったなー)


 そう思いながらも、やっぱり子供のことが気になった少女は、こっそりと二人のいる席を見ました。ちょうど、子供がマントを脱いだところでした。

 フードから零れ落ちたのは、長い蜂蜜色の髪でした。子供を見て、少女は思わず息をのみました。


 (うわぁ……。きれいな子……)


 蜂蜜色の波打つ長髪、透き通った青い瞳、薄い紅色に染まった頬、桜色の小さな唇……。人形のように美しい子供でした。

 くるりとその席に背を向けて、少女はお盆をグッと抱きしめました。


 (や、やっぱり怪しい……!)



 

 「ずいぶんと不審がられていましたね」


 くすくすと楽しそうに子供のほうが笑いました。見た目によらず、ずいぶん大人びた様子です。

 それもそのはずで、彼女はビブリオドールと呼ばれる、友だちの神さまが己の代わりに魂と精霊を救うことを望んで造った人ならざるモノだったのです。けれど、その仕草も表情も普通の人と変わりません。


 「まったくだな」


 白い髪の女性はため息をついて、自分とビブリオドールのマントをとなりにおいた荷物の中にしまいました。カリオン・シュラークという名のこの女性は、ビブリオドールの保護者役のようなものです。


 「そんなに珍しいものでもないだろうに」

 「仕方ないと言えば仕方ないのでしょうね。わたしたちは容姿が似ていませんから親子にも見えないでしょうし、護衛にしては二人とも周囲に気を張った感じがしませんし。関係を勘ぐりたくなるのも分かります」

 「お前も当事者なんだぞ、セシェ。そんな他人事のように」


 セシェというのは、カリオンがビブリオドールにつけた呼び名です。


 「だって見ていて和まされましたから。面白かったんです」

 「……そうか」


 すると、先ほどの少女とは別の給仕係の少年が、カリオンには水を、ビブリオドールに果実のジュースを持ってきました。


 「お待たせしました」

 「ああ、ありがとうございます」


 少年も、人形のように美しくまた愛らしい子供と、強面と呼んでも差し支えない鋭い顔つきの女性の奇妙な組み合わせを見て、一瞬目を見開きましたが、カリオンと目が合うと慌てて頭を下げて去っていきました。


 「すっかり怖がらせてしまいましたね」


 また小さく肩を揺らして笑いながら、ビブリオドールはジュースに口をつけました。


 「睨んだつもりはないんだが」


 そう短い嘆息を漏らして、水の入ったジョッキに手を伸ばしました。


 「やっぱりもう少し笑顔を作る練習をしましょうよ、館長さん」

 (……やれるものか)


 口には出さずとも、表情を見れば言いたいことは分かります。ビブリオドールはわずかに眉を下げました。そのとき、


 「おやぁ? これはお美しい旅人さんたちじゃあないか!」


 赤ら顔のまだ若い男が、ジョッキを片手に声をかけてきました。男は席をしきる低い壁の上に肘を置き、二人を交互に見ました。


 「これからどこへ行くのかな? ひょっとして、こっから西にある国の花祭かい? いいねー、女の子だねー。オレもちょうどいくところだからさ、良かったら一緒にどうだい? 女の子が二人じゃ危ないだろ。今のご時世……」

 「けっこうだ」


 カリオンは、少し煩わしそうにしゃべり続ける男の言葉を遮りました。


 「第一、花祭が行われる国は、昨日私たちが出国してきたところだ」

 「なんだ、そうかい。残念だなあ」


 男はぐびりと酒をあおると、俄然目を輝かせました。


 「じゃあ君が用があるのは三叉路の向こう側ってことかい。何か知りたいことは? なんでも答えるよ!」

 「だから、けっこうだ」


 どんどん顔を近づけてくる男を押し戻し、カリオンは給仕の少年を呼び止めて軽食を頼みました。


 「つれないなー。けど、そんなところもステキだぜ!」

 (この酔っぱらいめ……)


 カリオンは、色恋にも異性にもまったく興味を持っていません。そんなことに気をとられている時間がなかったというのもあるのですが。

 だから、この男のベタベタと寄ってくるさま——しょせん「ナンパ」というものでしょう——は、理解不能な行動以外のなにものでもないのでした。


 「で、お前は何がそんなにおかしいんだ? セシェ」

 「いいえ?」


 不満そうにこちらを睨むカリオンを、ビブリオドールはますます笑みを深くして見つめ返しました。


 「ただ、珍しい光景だな、と思いまして」

 「面白がるな」


 カリオンが深々とため息をついたとき、にゅっと男が彼女の顔を覗き込んできました。


 「じゃあさ、今日の宿はとったのかい? オレのなじみの安い宿があるから、良かったら紹介するぜ!」

 「……だから、いらんと言っている」


 頭痛がするのか、額に手をあてながらカリオンは、上機嫌な男に冷たい目線を向けました。


 「そもそも、誰が宿をとると言った」

 「え?」

 「私たちはここで休憩をとったら、すぐに発つつもりだ」

 「ええ⁉ いやいやいや、やめておいたほうがいいって!」


 急に男が声をあげました。


 「だって今からここを出たら、三叉路に着く頃には夜になっちゃうじゃん!」

 「野宿の用意ぐらいはあるが」

 「そうじゃなくて! ……まさか、知らないのかい? 革命の亡霊の話を」


 亡霊という単語が出た瞬間、カリオンとビブリオドールの間にある空気が少し変わりました。


 「亡霊……ですか」


 ビブリオドールがそっと呟いて、ジュースを口に含みました。男は多少面食らったようですが、すぐに声をひそめてその話を二人にしました。


 「そうなんだよ! 五十年以上前、こっから西にある国で革命っていうとんでもない出来事が起こったんだ。色んな人の血が流れて、それはもう見るに絶えない光景だったらしい。その時に死んだ兵士が、今も三叉路の近くで夜な夜な人の生き血を求めてさまよってるっていう話なんだよ。恐ろしいだろ?」


 二人は当然その話を知っていました。しかし同時に、真実も知っていました。


 (まあ、普通の人間たちがそう思うのも、仕方のないことなのだろうな)


 カリオンは頬杖をついて遠くを見ました。それをどう受け取ったのか、男はジョッキをカリオンたちの机に置いて、身ぶり手ぶりを交えて訴えました。


 「あー! 信じてないだろ、その顔は!」

 「? いや……」

 「分かるよ。分かるよ、その気持ちは! けど、本当なんだって!」

 「人の話を……」

 「今までにも、すごいたくさんの人が殺されたり、大怪我を負わされたりしてるんだ。そんなところに女の子だけで行くなんて、とんでもない! いや、まあ男がいてもダメなんだけどね!」

 「……」

 「亡霊だから退治することもできないし、話し合いもダメ。あれはもう人の手におえるものじゃないんだ! 亡霊なんてって笑うかもしれないけど、本当のことなんだよ! 暗い夜道を錆の浮いた剣を持って歩き回る亡霊の姿を想像してみたら……おお、怖っ! あれが三叉路以外のところに現れないという保証はないし、夜になったらこの辺りの人はみんな宿にこもるんだ。嘘だと思うなら、ほかの人にも聞いてみてくれたって構わないよ! 口をそろえて止めときなって言うから! 夜にあそこを通るなんて、まったく正気の沙汰じゃ……」

 「うるさい!」


 ついにカリオンは、男の置いたジョッキを男の顔面に叩き返して、黙らせました。


 「あだがっ!」


 鼻をおさえて床を転がる男を何事かと見下ろしながら、給仕の少年が二人の注文したものを持ってきました。それに礼を言い、二人は手を合わせました。


 「も、もう一度言うけどさ!」


 二人の食事が進んだところで、ようやく男が立ち上がりました。


 「あそこはおもしろ半分で行っていい場所じゃないんだって。ヤバい亡霊がいるんだから!」

 「……知ってますよ」 

 「へ?」


 マヌケにも、ぽかんと口を開けた男に微笑みかけ、ビブリオドールはパンを手にしました。


 「わたしたちは、その亡霊に用があるのですよ」




 空に星が瞬く時刻となっていました。


 紺色の空を埋め尽くすこの小さな星たちは、チラチラと優しい光を地上に投げ掛けていました。耳をすませば、星たちの歌声すら聞こえてきそうです。

 平原の真ん中を通る広い舗装された道を、馬に乗ってカリオンとビブリオドールは東に向かって進んでいました。他に人影はありません。


 「やれやれ。無事に出発できてなによりだ」


 心から疲れたようにカリオンは、首を振りました。

 結局、店を出るまで男はカリオンたちに何度も何度も警告して、引き止めようとしていました。


 「でも、新鮮だったんじゃないですか?」

 「出会わなくてすむなら、出会わなくても良かった程度だな」

 「厳しいですねえ……」


 ビブリオドールは困ったように笑いました。フンッとそっぽを向いた後、カリオンは僅かに目を伏せました。


 「まあなんにせよ、ついてくると言い出すような、無駄に度胸がある奴じゃなくてよかったよ」

 「……そうですね」


 ビブリオドールは空を見上げました。その深い青い瞳に移るのは、きらびやかな星たちです。


 「この先は、身の安全が保障されませんから」


 カッポ、カッポと馬の蹄が、固い地面を静かに蹴る音が響きます。


 「約半世紀ほど前、あるところに君主制の国がありました。しかし、数百年もの間王による統治が続いたことで、その政治は腐敗していました」


 ビブリオドールが革命の亡霊の物語を語り始めました。カリオンは黙って耳を傾けます。


 「重い税金、横暴な兵士、飢え、流行病。貧相な食事と衣服で過ごし、喜びも無く、苦しみと悲しみの末に人々は死んでいきました。

 そしてあるとき、国民たちはいっせいに蜂起しました。ついに人々の怒りが爆発したのです。大人も子供も、男性も女性も、誰もが革命を成し遂げんと、今までの恨みを晴らさんと、兵士や貴族、そして王族を殺したのです」


 突然横の草むらからウサギが飛び出してきたので、カリオンは急いで手綱を引きました。ビクッと身体を縮こませたウサギは、しばらくそこに留まっていましたが、馬が動く気配がないので、さっと道を渡って草むらの中に消えていきました。

 それに笑みを浮かべつつ、カリオンは馬を進め、ビブリオドールはまた語りだしました。


 「それはきっと、人として当然のことでしょう。生きるために、明るい未来を掴むために戦うのは。

 王としての責務を忘れ、民をいたずらに苦しめた王は倒されて当然でしょう。富を独占し、民を省みなかった王族、貴族も同罪と言えます。正義はどちらにあるのかと問われれば、もちろん民衆のほうでしょう。

 ……しかし、それはあくまで民衆から見た物語です。革命は、正義の民衆だけで成り立つ物語ではありません。倒される王侯貴族も必要で、彼らから見た物語もあるのです」


 例の三叉路の合流地点には、左手に大きな木が植わっているということです。前方にそれらしい物が見えてきました。それはつまり、亡霊と出会うのもすぐのことだということを示しています。


 「当時の王には、二人の王子と三人の王女がいました。彼らは何不自由なく、すくすくと成長しました。特に、末の王女はまだ十二歳という幼さであったせいか、年の離れた兄姉からも、老いた両親からも可愛がられて育ちました。

 ……そう。本当に王女は幼かった。彼女は、光といえば太陽の光、風といえば春のそよ風しか知らないような人でした。世界は優しく、美しいものでできているのだと、信じていました。

 そして、革命が起こったのです」


 チリッと体の毛が焼けるような殺気を感じ取り、カリオンは一瞬目を細めました。一方、ビブリオドールは特に表情を変えません。ただただ、誰もに罪があり、誰もに罪がないというこの悲劇に胸を痛めていました。


 「怒鳴り声や悲鳴が響く中、燃え落ちる城から彼女は数名の従者たちの手によって城の外に連れ出されました。

 彼らは馬に乗って東へ東へと逃げ、三叉路へと辿り着いたのです。積もりに積もった民衆の怒りは凄まじく、王族は、たとえ幼少のみぎりであったとしても殺すつもりで追ってきていました。従者たちは短い間でしたが、互いに相談しあい、そして一つの結論を出したのです。


 『姫様』


 従者たちの中で、もっとも位の高い騎士が、不安と恐怖に震える末の王女に声をかけました。


 『我々はここで追っ手を食い止めることにします。姫様は、侍女とともに三叉路のいずれかの先へお逃げください』


 王女は弾かれたように顔を上げ、大粒の涙を零しました。


 『嫌ですわ! なぜ皆と別れなければなりませんの⁉』

 『姫様……』

 『そもそも、なぜわたくしたちが逃げなければならないのですか? お兄様たちは? お姉様たちは? お父様は、お母様は⁉ わたくしたちは何も悪いことをしていませんわ!』

 『ええ、そうです。姫様は何も悪くはございません』

 『では、なぜ……!』

 『ですが!』


 騎士が声を張り上げて訴えました。


 『今の民衆に姫様の声は届きません! 聞こうとすらしません! 見つかれば、必ず殺されてしまいます!』


 王女は押し黙って、ただ涙を流していました。


 『ですから、今はお逃げくださいませ。そして生きて下さいませ! 生きてさえいれば、いずれ陛下や殿下たちとも再び会うこともできましょう。そのためにも、今はお逃げください! 姫様‼』


 王女はしゃくり上げながら、なおも首を振り続けました。


 『わ、わたくしは……わたくしは…………それ、でも……』


 そのとき、道路を見張っていた若い騎士が走ってきました。


 『遠くに灯りが確認できました! 追っ手と思われます!』


 その場にいた全員がハッと身を強ばらせました。そして、もはや是非もなしと、騎士は王女を抱え上げると馬に乗せました。


 『姫様。我々の望みは、あなたが無事に生き延びられることです』


 王女の揺らぐ視界で、それぞれの武器を持った騎士たちが立っていました。


 『どうか我々の望みを叶えて下さいませ』


 騎士はそう言うと、王女を抱え込むように馬に跨がった侍女に声をかけました。


 『姫様を頼むぞ』

 『……はい。必ずや、姫様をお守り致します』


 侍女の声も涙でかすれていました。


 『どうか皆さまもご無事で!』


 侍女は最後に一言そう言い添えると、馬の腹を蹴りました。

 王女を乗せた一頭の馬は、三叉路の向こうへ消えていきました。王女は涙を空中へ散らしながら、いつまでも、いつまでも後ろを向いていました。


 馬が完全に夜の向こうへ消えた頃、五十名を越える追っ手が三叉路へ辿り着きました。話し合う余地などありません。両者はぶつかり合い、その戦いは夜が明けるころまで続いたのです。

 追っ手は、王女の騎士たちに寄って大半をここで殺され、残りは逃げ帰ってしまいました。


 傷だらけの騎士たちは、一人、また一人と地面に倒れていきました。

 倒れてなるものかといくら気負えど、肉体には限界がくるからです。彼らは、それが無念で仕方ないのでした。倒れ伏して、自分が生きているのか死んでいるのか分からなくなってもなお、彼らは死にきれずに呻いていました。


 駄目だ、駄目だ。倒れていては駄目だ。いつ次の追っ手が来るか分からない。いつ王女を殺そうとする奴らが来るか分からない。いつ怪しい奴がやってくるか分からない。いつ人間がやってくるか分からないのだから。

 絶対に王女を追わせてはならないのだ。せめて、王女を隠し、守ってくれるこの夜闇だけは守らなければ……。

 その想いが、今も彼らを夜に目覚めさせているのです」

 「ただ、幼い王女を守るために……な」


 二人は行き先の違う三本の道と、その合流地点に立つ一体の亡霊の前までやってきていました。


 『止マレ』


 鎧兜をまとった亡霊は、妙にくぐもった声で言いました。ぞっとするような声でした。


 『コノ先ヘハ行カセナイ。今スグ引キ返セバ、危害ハ加エナイ』

 「そういうわけにはいかない」


 カリオンが馬からヒラリと下りました。その時、腰に下げていた剣がガシャンと音を立て、亡霊の目が不気味に光りました。


 「私たちは伝えたいことがあって……っ!」


 ガキンッと、暗い夜道に火花が散りました。


 「館長さん!」


 まだ馬に乗ったままのビブリオドールが、珍しく悲鳴にも似た声をあげました。


 『行カセン! 貴様ノヨウナ危険デ怪シイ奴ハココヲ通サン!』


 錆ついた剣を振り回し、亡霊は叫びました。それらを全て受け止めながら、カリオンは小さく悪態をつきました。


 「チッ、本当に無差別か」

 「館長さん。彼らをいたずらに刺激しては……」

 「分かっている。しかし、聞く耳を持っていないぞ、こいつ……らっ!」


 亡霊の動きは緩慢ではありませんでしたが、俊敏でもありませんでした。カリオンは亡霊の剣を弾いて、亡霊の動きが止まった隙をついて、剣を返して亡霊の手首を切り落としました。


 『……!』


 亡霊は、驚きとも苦悶とも取れる表情で己の消えた左手を見つめました。


 「落ち着いて聞いて欲しい。私たちには王女を追うつもりはない、ただ……」

 『黙レ!』


 いつ構えたのか。一瞬の早業で槍が繰り出されました。今、カリオンが切り落としたはずの手も元に戻っています。


 『姫様ヲ傷ツケルモノハ許サナイ! 姫様ノ元ヘハ何人タリトモ行カセン! 姫様ハ我々ガ守ル!』


 今までにも、追っ手は何人もやってきた。その度に退けてきた。特に、この槍で逃した者はいない!

 槍を受けたカリオンは動きを止めていました。亡霊は、今日もまた一人追っ手を殺せたことに満足しました。そして槍を抜こうと引っ張りましたが、抜けません。亡霊が首を傾げたとき、殺したはずのカリオンが呆れたように言ったのです。


 「やれやれ」

 『⁉』

 「本当に話を聞かん奴らだな」


 カリオンはわずかに体をずらして、体の横で槍を捉えていました。


 『ナ、何故ダ……⁉』

 「お前たちが複数人で一つの亡霊の形を成していることは聞いていた。一人が傷つけば、すぐさま別の者に取って代わって攻撃してくるだろうことぐらい、想像がついた。今まではそんなこと微塵も思わぬ連中が相手だったから、お前たちは私たちもそうだと思って油断したんだ」

 『…………!』


 亡霊はますます狼狽えたようでした。そこへ、馬から下りたビブリオドールが歩み寄ってきました。


 「日没の王女に仕えた、忠実な四人の騎士たちよ」


 ハッと亡霊は動きを止めました。なぜ、この子供は自分たちが四人だと知っているのかと。


 「わたしたちは彼女から、貴方方への伝言を預かっています」

 『ナンダト……⁉』


 途端に亡霊は騒ぎだしました。


 『ソンナ馬鹿ナ!』

 『姫様カラ……』

 『偽リデハナイカ?』


 体は一つなのに、その声をよくよく聞き分ければ、確かに四つでした。


 「偽りではありません。わたしは、直接セローナ・トワイライト王女殿下にお会いして、貴方たちに伝えてほしいと頼まれたのです」


 王女の名前を出したおかげか、槍こそ手放しませんでしたが亡霊は大人しくなりました。それを確かめてから、ビブリオドールはすぅと息を吸い込みました。



  書架配列八三五番より——開架

  日没の王女から革命の亡霊たちへ



 「わたくしのために、今も戦い続けているみなさん」


 不思議でした。姿はビブリオドールのままなのに、声も、雰囲気も、表情も、まるで彼女のものではありません。


 『オオ……! 姫様……!』


 亡霊が感激したようにうち震えました。


 ビブリオドール。

 その名の由来は、図書館にあります。ビブリオドールの性質は、時に〈図書館〉に喩えられるからです。ビブリオドールは彷徨う魂を還るべき場所へ導き、荒れる精霊を鎮めるための祝詞やその対象となる魂や精霊自身の物語を自らの内に保管・管理し、対象に提供します。さらに、こうして死者に生者や死者から預かった言葉を読み聞かせることもします。それは世の図書館の役目とよく似ていませんか? だからビブリオドールは、自分との契約者を〈館長〉と呼ぶのです。


 両手を胸に当て、王女自身となったビブリオドールは、彼女の伝えられなかった想いを四人の観客に読み聞かせます。


 「あなたたちには深く感謝し、そして深くお詫びを申し上げますわ。あの日、あなたたちに助けられておきながらわたくしは、会いにいくことも労いの言葉をかけることすらもしなかったのですから」

 『ソンナ、姫様!』


 悲しそうに目を伏せた王女に、亡霊は槍も投げ捨てて駆け寄りました。


 『謝ラナイデ下サイ、姫様。ソレデ良イノデス!』

 『ココヘ姫様ガ来ラレルコトノホウガ、危険ナノデスカラ!』

 『労イノ言葉ナド……。ソンナ恐レ多イ!』


 彼女はその返答を予測していました。だから、このような言葉をビブリオドールに託していたのです。


 「わたくしが生き延びることこそが、自分たちの望みである……。あのときそう言いきったあなたたちであれば、きっとそんなことはないと言ってくれるでしょう。けれど、一言でいいから謝らせいただきたいのです。本当に、ごめんなさい。……そして、あなたたちを犠牲にして生き長らえ、幸せを手にしているわたくしを許して下さい」


 亡霊の動きが止まりました。

 王女の頬を、一筋の涙が伝います。申し訳なさと、感謝の思いが交じり合った熱い涙が。透明なそれは、汚れを洗い流すかのように、次々と亡霊の錆びた手っ甲に落ちていきました。


 「ええ、わたくしは今とても幸せなのです。この街の人々は、わたくしを温かく迎えてくれました。素敵な方と出会い結婚し、可愛い子どもたちにも恵まれました。あなたたちのおかげで、わたくしは今の幸せを手にいれることができました……」

 『……そう、ですか……』


 亡霊の声質が、明らかに変わりました。聞き取りにくい、寒気のするような声ではありません。生きている人間と同じそうな、壮年の男性の声でした。


 『お幸せになられたのですか、姫様……』

 『それはようございました……』


 一瞬。亡霊の姿がぶれたかと思うと、年も背格好もバラバラな四人の騎士がそこには跪いていました。新品のような、きれいな鎧兜を身につけて。


 「だからこそ、お礼を言わせて下さい。ありがとう、あのときわたくしを助けて下さって」


 泣きながらも美しく輝く王女の笑顔を見つめ、四人の騎士たちも共に涙を零していました。


 「ありがとう、わたくしを生き長らえさせてくれて」

 『……そんな…………もったいない、お言葉で……ございます……』


 すすり上げながら、四人の中の誰かが……もしかしたら、全員かもしれません。切れ切れに、礼を述べました。

 やがて王女は自らの涙を拭うと、四人の騎士の手を一人ずつとって立たせました。


 「みなさん。本当にごめんなさい。そして、本当にありがとうございました」

 『いいえ。姫様をお守りすることこそ我らの務め』

 『あなたがお幸せでいられるのなら、我々にとってこれ以上の喜びはございません』

 「ええ、わたくしは幸せです。だからもう、わたくしのために追っ手をくい止めようと戦う必要はありません。もう誰も、傷つけようとしないでください」

 『はい、姫様……』


 幸せそうな微笑みを浮かべて、四人の騎士たちの姿が薄らいでいきます。彼らがここに存在する意味は失われ、半世紀の呪縛から解放されたのです。

 柔らかい春の陽光にも似た光が騎士たちを包んでいきます。彼らが消えていくのを見つめながら、王女はためらいがちに胸の前で手を組んで言いました。


 「……わたくしは、あなたたちの望みを叶えました。今度は、わたくしの望みを叶えていただけませんか?」


 ハッとしたように騎士たちが顔を上げ、ひざをつきます。

 『なんなりと仰って下さい、姫様。あなたの望みであれば、どんなことでも……』


 王女はその律儀さに微苦笑をこぼすと、もう一度騎士たちの手をとって、立たせました。そして四人の顔を順に見回して、最期の望みを述べました。


 「わたくしのところへ帰ってきて下さい。ただ、それだけです。そしてまた、お父さまと、お母さまと、お兄さまたちとお姉さまたちと、わたくしの大切な人たちで暮らしましょう」

 『!』


 騎士たちは雷にでも打たれたかのように体を震わせると、ゆっくりと言葉を紡ぎました。


 『そ、そんな……そのようなこと……我々が嫌と言うはずもございませんではありませんか……』


 王女の気配がビブリオドールの中から消えようとしています。彼女から預かった言葉は、ここまででした。


 「あなたたちが来てくれる日を、楽しみに待っていますね」

 『姫様……!』


 消えた王女の気配を追うように、四人の忠実な騎士たちも夜空に溶けていきました。




 革命の亡霊は王女を追ってここを去りました。もうこの三叉路で誰かが傷つくことはないでしょう。そしていつか、そんな恐ろしい話があったということも忘れられていくでしょう。


 「よかったな。無事に伝えることができて」

 「ええ。道が土砂崩れで埋まらなければ、もう少し早く伝えられたのですが……」

 「天災だったんだ。仕方ないだろう」


 数ヶ月前、カリオンとビブリオドールは三叉路の先にある一つの国で、病床の老婆に会いました。それが、今は亡き王国の王女セローナ・トワイライトでした。


 『わたくしは、今まで生きるのに必死でしたわ。そのせいで、彼らのことをすっかり忘れてしまって……。つい最近だったのです。革命の亡霊と呼ばれるモノが、夜な夜な人を襲っていると聞いたのは』


 そして彼女は自分が彼らにした仕打ちに涙しながら、ビブリオドールの手を握って頼み込んだのです。


 『わたくしはもう長くありません。満足に動くこともできませんから、最期に彼らに会いにいくこともできません。このようなことを、赤の他人であるあなたに頼むのは人として恥ずべきことですが、あなたがこの世に留まる魂を救済できるのならば、彼らを救ってあげてくれませんか? そしてできるなら、わたくしの言葉を彼らに伝えてもらえませんか?』


 そして、ビブリオドールはそれを快諾したのでした。

 そのまま道沿いに進めば、三叉路の向こう側から革命の亡霊のもとへ行くことができたのですが、残念ながら地震で土砂崩れが起きて道を塞いでしまったので、遠回りをして三叉路のこちら側から亡霊に会いにいくことになったのです。


 「三叉路の向こう側から来れれば、『王女の使者』という形もとりやすかったんだろうか」

 「それはどうでしょうか。やっぱり怪しいと言って、切りかかられていたかもしれません」

 



 こうして二人は、優しい葉擦れの音を立てる大木の下で休み、夜明けとともに一つ道を選んで進んでいきました。

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