英雄になれなかった人とビブリオドールのお話



  ここが狂った世界だということは、とうの昔に知っている

  何を以て正義と定めるか

  それを問うたところで返ってくる答えはない

  覚えておくといい、諸君

  我々は今からここに、人ではない何かとなるのだと

  他人の命を己の為に奪い

  他人の夢を己の為に消し

  他人の愛を己の為に打ち砕く

  弔いの鐘は我らにとっての祝福と知れ

  嘆きと悲しみによって戦いは終わり

  報いと救いの日を待ちわびる





 広い街道を、二人の女が一頭の馬に乗って歩いていました。


 白い髪に紫の鋭い目を持つ方は、名をカリオン・シュラークといいました。


 時折巻きあがる砂を嫌ってか、ゴーグルをつけ、鼻から口まで布で覆ていました。腰につけた剣がカチャカチャと無機質な音を立てています。


 もう一人は、長い蜂蜜色の髪をフードの中にしまい、小さな体を柔らかいマントで包んだビブリオドールです。


 カリオンには、セシェという名で呼ばれています。


 彼女は、友だちの神さまの代わりに彷徨う魂と荒れる精霊を救うという役目を持っていました。


 ふと、二人は自分たちが街道を抜け、平原に入ったことに気がつきました。


 「ジークムートの平原か」


 カリオンの声は布に吸収されてくぐもったものになりましたが、ビブリオドールにはちゃんと聞こえていたようです。


 「知っているのですか?」


 ビブリオドールがカリオンを見上げて訊きました。


 「ああ。何年か前に、ここでの戦争に参加したことがある」


 「そうでしたか。では、あそこに立っている方に見覚えはありますか?」


 「どれだ?」


 ビブリオドールが示した先には、砂にまぎれてよくよく見なければ分からないようでありながらも、たしかに人影がありました。


 「さすがにこんな遠くからでは分からないな」


 そう言ってカリオンは馬首を巡らせました。


 近寄ると、人影が痩せた体躯の壮年の男だと分かりました。しかし、それが分かるだけ近づいても、男は身じろぎ一つしませんでした。


 「どうかしたのですか?」


 馬の上からビブリオドールが問いかけて初めて、男はこちらへ目を向けました。


 『……やあ、可愛らしいお嬢さん。ここは君のような子が来る場所ではないよ。早くご両親のところへ帰ってあげなさい。後ろの女性はそのかぎりではないようだけど』


 男の声にも顔にも、悪意は感じられませんでした。むしろ穏やかと言ってもよく、カリオンは首を傾げました。


 「ご心配ありがとうございます。ですが、貴方がここで何をしているのか分からなければ、帰ることはできないのですよ」


 『不思議なことを言うね。私のような人間のことを、なぜ気にかけるんだい?』


 「それは、このような場所に、貴方が一人っきりでいるからですよ」


 男は、かなり驚いたようでした。


 目を丸くすると、そのまま悲しみとも自嘲ともいえる笑みを浮かべて、そっと二人から視線を外しました。


 『お嬢さん。君の目から見て、私は生きているかい? それとも、死んでいるかい?』


 今度はビブリオドールが驚く番でした。しかしそれも長いことではなく、すぐにはっきりと答えました。


 「死んでいます」


 男は苦笑しました。


 『…………正直だね、お嬢さん。ああ、そうだ。私は死んでいる。それがいつのことだったかは覚えてないが、まあ遠い昔でもないだろう』


 「……あなたの着ている服には見覚えがある」


 カリオンがゴーグルと口あての布を外しながらそう言いました。


 「四年前の戦争で、東側の国の士官が着ていた服だ。それと、襟についている百合の紋章は、あの国の貴族に許されたものだとも聞いている」

 

『……やはり君は傭兵か。そんな気配がしているよ』


 そして呆れたような笑い声を洩らしました。


 『死んだ幽霊が、気配というのもおかしな話だが』


 カリオンは男に付き合って笑うようなことはしませんでした。


 「あなたの言うように、私は傭兵だ。四年前のこの地での戦争にも参加した。だが、あなたの顔には見覚えがない」


 再び男は二人を、正しくはカリオンを見ました。


 『それもそうだろう。私は、前線に撃って出るような勇敢な人間でも、名を残すような大層な人間でもなかったから』


 悔しさなど微塵もありません。それでよかったとすら、男の顔は言っていました。


 「誰もがそうであるなら、英雄などという称号は生まれませんよ。……それで、貴方はなぜここにいるのですか? 英雄になれなかった兵士ひとよ」


 男は静かに、何かに導かれるように口を開きました。



         *         *         *



 私の名前はエルフォール。とある国の、貴族として生を受けた。


 幼いころはまずまずの人生であったかな。両親は優しかったし、狩りや球技に熱中して遊ぶ友もいた。


 青年と呼べる年になったとき、私は軍学校へ入学した。貴族の子息は軍学校に入るのが一種のしきたりのようなものになっていたが、それだけではなく、単純な憧れが私の中にはあった。


 歴史の中の英雄たちのように、私も国を守るために戦える強い人間になりたいという憧れがね。


 軍学校は、それはそれは厳しかった。正直、何度か本気でやめようと思った。


 だが、同期の仲間たちはいいやつばかりで、共に切磋琢磨し、時には一緒になっていたずらをして教官に怒られもした。


 やっぱり、楽しかったんだ。いつも笑っていられた。彼らと一緒なら、どんな相手とでも戦える気がした。


 だが、それは所詮紙の上の話に過ぎなかった。


 卒業を控えた年、私たちは実戦に投入された。それも、前線だ。今までのようなちょっと顔を出す程度のものではなかった。


 私も含めて皆が、なんともいえない昂揚感に満たされていたよ。ここらで一つ、手柄をあげようじゃないか、とね。


 その戦争が終わったとき、仲間の中で生きていたのは私だけだった。


 私が特にひいきをされて危険度の低い場所へ配置されたとか、そんなことはない。単純な、運の問題だ。


 私は歯を食いしばり、剣を振るって戦場を駆けた。そして生き残った。


 彼らも歯を食いしばり、剣を振るって戦場を駆けただろう。そして死んだのだ。


 そう、単純な運の問題だ。


 それが分かっていても、私の胸には絶望しかなかったよ。まだ、一人でも生き残ってくれた仲間がいてくれたら、よかったかもしれない。


 だが、なんの運命のいたずらか、私が仲間と呼んだ者たちは、そのことごとくがもの言わぬ骸となっていた。


 敵に対する憎しみすら、浮かばなかった。


 いま思えば、それはおそらく、仲間の中で一人生き残ってしまった引け目というものからきていたのだろう。


 このとき、私は自分がどれだけ愚かなことをしたのか分かった。私が殺した敵兵の仲間や家族も同じ気持ちになっているのだろうと。


 そして、戦争という国家の一大事で活躍し、有名になろうという大それた夢を持ったばかりに、大事な仲間をすべて失ってしまったのだと。


 それ以後も、私は戦場に立つことを選んだ。一度犯してしまった罪は消せない。罪を重ねても、それに耐えることが、あのとき生き残ってしまった私に科せられた罰だと思ったのだ。


 私も三十を越えると、部下というものを持つようになった。中には、かつての私と同じく目を輝かせた若者もいた。


 彼らの夢を潰したくはなかったが、私と同じ思いもして欲しくはなかった。


 だから、私は出陣前に必ず部下たちにこう言った。


 「我々は英雄ではない。いかに高尚な理屈を掲げようとも、我々はただの殺人者だ。我々が罪を犯すことで大事な家族は守られている……。その事実だけが、我々を『人』につなぎ止めていることを忘れるな」



         *         *         *



 『なぜ私が今もこうして、幽霊となってこのかつての戦場にいるのか』


 小石が三人の足下を転がっていきました。


 『私は生に執着していたのだろうか。まさか、そんなことは決してない』


 ぶつぶつと顔を伏せて、男は自分に尋ね、否定します。


 『後に遺すことになった妻や子が心配だったのか。いや、それもない。大事に想ってはいたが、心残りになるほど愛してもいなかった』


 繰り返される自問自答。


 ようやく男は顔を上げて、晴れやかな、しかし乾いた笑みを浮かべました。


 『そう、私が今もこの地に立っているのは、死が恐ろしいからだ。私という人間が、エルフォールという愚鈍な男の意識が、この世から消えてしまうのが恐ろしいからだ。私が消えれば、誰がこの罪を背負うのだ? この罪は世界から忘れられていいものなのか? いいはずがない。だから私は、今もこの地に立っているのだ!』


 答えを導きだした男は、ビブリオドールたちの方を見て、最初見たのと同じ穏やかな顔で言いました。


 『そういうわけだよ、お嬢さん。私がここにいるのは、一種の義務だ。君が心を痛める必要はどこにもない。さあ、もう遅い。早く帰ってご両親を安心させてあげなさい』


 「いいえ、そういうわけにはいきません」


 変わらず、ビブリオドールは首を横に振りました。


 男は困ったように笑うと、ビブリオドールを安心させるように彼女の手をそっと握りました。そこに温もりは、ありませんでした。


 『大丈夫だ。私はどこかに行って誰かを傷つけるような真似はしない。もちろん、ここに来る他の人を苦しめようなんて思っていない。約束しよう』


 ビブリオドールは軽いため息とともに、あいていたもう片方の手で男の頬を叩きました。


 勢いをつけたものではありませんでしたから、痛くはなかったでしょう。


 『え?』


 「自己憐憫もたいがいにしてはいかがですか?」


 ビブリオドールの話し方は、まるで小さい子を叱る母親のようでした。


 「貴方は罰と言いますが、それはただの自己陶酔です。馬鹿な真似はやめなさい」


 『い、いや、私は当たり前のことを……』


 「何が当たり前ですか。貴方はそもそも、罪など犯していないじゃないですか」


 男の目が最大まで見開かれました。ビブリオドールは長く息をはくと、男の顔を両手で挟みました。


 「いいですか。貴方の友人が亡くなったのは、貴方の責任でも、貴方の罪でもありません。貴方も言っていたでしょう、彼らは運が悪かったのです」


 『し、しかし……』


 「しかしではありません。……そう、貴方は友人を失った戦争を忌避するようになった。けれど、貴方は兵士となることを決めた身。あとに退くこともなく、剣を捨てることもなく。貴方は兵士として立派な人生を全うしました。貴方は勇気ある人です」


 『私が……勇気ある人間だって……?』


 この娘は何を言っているんだ。男の表情がそう言っていました。


 「ええ、そうですとも。貴方は己の選んだ道を踏み外さなかった。その道を歩みきったのです。もう休んでもいいのですよ」


 『やすん……でも……』


 男の瞳が揺れ動き、すぐにハッとビブリオドールから離れると首を振りました。


 『いや、だめだだめだ! 私は赦されざることをしたのだ。私がいま楽になることは、友が認めてくれない!』


 「そんなことありませんよ」


 ビブリオドールの語る言葉は確実に、頑だった男の心を溶かしていきました。


 彷徨う魂を救うための、大いなる母の愛と慈しみ。それが、ビブリオドールの持つ最大の武器だとカリオンは思いました。


 「彼らは兵士として国を守り、短い生を終えました。貴方もまた国を守る兵士として、人生の終わりを迎えました。その期間が長いか短いかの違いです。逃げなかった貴方を讃えこそすれ、どうして責めることがあるでしょうか」


 『……そう、そうなの、か? 私は、彼らと同じ場所へ行ってもいいのか?』


 「もちろんじゃないですか」


 ビブリオドールは花のような笑顔を浮かべて、そっと息を吸いました。



  書架配列四一八番より——開架

  英雄に成れなかった人に紡ぐ凱旋の詩



 詠い上げるは葬唄おくりうた。死者を慰め、彼の地へおくる詩。



  全ての子が生まれる地へ向かう 貴方に捧げます

  安らかな風が頬を撫で

  天上の優しき声が貴方を彼の地へ誘います



 男が誰かの声を聞いたかのように、顔を上へ向けました。そこには誰の幻が映っていたのでしょうか。



  怖がらないで 大丈夫

  貴方の生きた証もその想いも

  貴方を愛し、貴方が愛した人が知っています


 

 カリオンには知りようがありませんでしたが、男の顔は嬉しそうに、これ以上の喜びはないかのように、ほころんでいました。



  だから安心してお眠りなさい 友誼に厚き勇士よ

  眠り逝く者に大いなる神は

  永久の安らぎを与え 彼の地へと迎え入れるでしょう



 男の体は、まるで手を引かれているかのように天上へとゆっくり浮かび上がっていきました。



  願わくば、

  貴方の次なる目覚めにも光があらんことを……




 最期に、男は二人の方を見下ろして微笑むと、わずかな光の欠片を残して消えました。




 こうして、光の残滓が完全に消えるまで見送った二人は、英雄に成れなかった勇気ある男に敬意を払って平原をあとにしたのでした。


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