花を喰う人とビブリオドールのお話
夢と現を彷徨う歌声よ
世界の悲しみを響かせよ
他愛ない約束も
神に誓った約束も
いつかは必ず破れて空に散る
必然は偶然にすぎず
偶然は必然のことで
人は世界という大いなる意志に逆らえない
人は運命という大いなる波に抗えない
求めても 探しても
この手から零れ落ちるは世界の実像
木がうっそうと茂った森の中でした。日が通らないそこは気味が悪いとも、また吹いてくる風が涼しくて心地良いとも思える、不思議な森でした。
その真ん中を通っている獣道のような、わずかに残った街道の名残を、一頭の馬が歩いていました。
「……かれこれ三時間は経っていると思うんだが」
鋭い紫紺の瞳をもち、白い髪を無造作に伸ばしたカリオン・シュラークは、うんざりしたように自分の体にもたれかかっている少女に話しかけました。
「そうですね。正確には、三時間と十二分四秒です」
こともなげに答えたのは、白磁の肌をフリルとリボンたっぷりのドレスで包んだ美しい容貌の少女でした。
実は彼女は人間ではありません。
遥かな昔、世界中の全てのものから忘れられた友だちの神さまが、己の代わりに魂と精霊を救うことを望んで造ったビブリオドールなのです。
「いったいこの森はどこまで続くんだ?」
「さあ?」
ビブリオドールの答えは実に軽いものでした。
そして、二人はまた延々と森の中を馬で歩き続けました。
さらに二時間ほどが経過したとき、ようやく前のほうに、森の出口らしき光が見えました。
朝に街を出て、森の中に入ってからおよそ五時間。この不思議な森もやっと終わるようです。
「やれやれ。ようやくか」
「ええ、そのようですね。ところで館長さん。この森に入る前に言ったことを覚えていますか?」
「ああ、もちろんだ」
カリオンはすらすらと述べました。
「『これから会う魂は、情緒不安定な箱入り娘なので、殺気を放ったり無駄に警戒心を持って接したりしないように』だろ」
ビブリオドールはしっかり頷き、再度カリオンに言いました。
「彼女は恋人を失った傷を癒せないまま、自身も戦火の中に没しました。相手が自分でなくても、誰かを、何かを傷つけようとする意思には過敏に反応します。優しく声をかけてあげ下さいね」
「気をつけよう」
カッ、カッ、カッ……。
心なしか、馬の歩みも速くなったようです。馬も、この変わらない景色に飽きていたのでしょうか。
「……っ!」
薄暗い森の中から光の中へ踏み入ったとき、カリオンは思わず息をのみました。
見渡すかぎりの花畑。鼻腔をくすぐるほのかな香り。サアッと吹いた風によって舞い上がる無数の小さな花びら。
カリオンは久しぶりに、見蕩れるということをしました。
「あの女性ですね」
腕の中から発せられた言葉がカリオンの耳に届き、彼女はハッと我にかえりました。
ビブリオドールが見つめる先には、わずかに残っている石壁にもたれて座る少女がいました。
「行きましょう、館長さん」
そう言うと、ビブリオドールは馬から危なげなく降りると、彼女のもとへ歩み寄っていきました。
カリオンもそれにならい、馬を手近の木につないでから歩き出そうとしましたが、その足はすぐに止まりました。原因は、腰に下げた剣です。
カリオンは一瞬迷いましたが、それを外して鞍に結んでから、ビブリオドールを追いかけました。
カリオンが追いついてきたのを見てから、ビブリオドールは座っている少女に呼びかけました。少女はビブリオドールにも負けない立派なドレスを着ていました。
「はじめまして、花を食む人よ」
少女は十秒ほど間をおいてから、こちらを向きました。突然現れた二人に驚いた様子はありません。
『どなたですか?』
「わたしはビブリオドール。今はセシェという名を戴いています」
「……私はカリオン・シュラークという」
できるだけ威圧的に見えないように、少し腰を落として名乗るカリオンでした。
少女は二人を代わる代わる見つめると、ゆっくり立ち上がってスカートを少し持ち上げる貴族のお辞儀をしました。
『はじめまして。わたくしはローウェンハーグ領ドラルド=ギリア公爵が娘、セレスティーヌと申します』
さらりと色素の薄い髪が揺れました。
『乳母からあなたのことを聞いたことがありますわ。色んな物語を聞かせて下さるのでしょう?』
「ええ。わたしは古今東西あらゆる物語を知り、それを語り聞かせることができます」
ビブリオドールの名の由来は、図書館にあります。ビブリオドールの性質は、世の〈図書館〉に喩えられるからです。
ビブリオドールは彷徨う魂を還るべき場所へ導き、荒れる精霊を鎮めるための祝詞、またその対象となる魂や精霊自身の物語。それらを全て自らの内に保管・管理し、対象に提供します。
だからビブリオドールは、自分との契約者を〈館長〉と呼ぶのです。
『まあ。では何か聞かせて下さらない? 少し退屈しておりましたの』
動きはゆっくりでしたが、その姿は生きている人とまったく変わらないように思えました。
「いいですよ。では、遠い昔の、ある恋人たちの話でも」
ビブリオドールと少女は並んで石壁にもたれて座りました。カリオンは少し考えたあと、彼女たちから五、六歩離れたところに立ちました。
「昔々、百年ほど前でしょうか……」
* * *
あるところに、領主の家に生まれた一人の少女がおりました。彼女は両親に愛され、民に愛され、すくすくと育ちました。
野原を走っては花と戯れ、夜の窓辺に立っては鳥と語らい……。いつしか少女は、恋に夢見る乙女となっていました。
実は、そのころの彼女には密かに想う人がいたのでした。
お相手は、隣の領主の息子です。年は彼女より二つばかり下でしたが、誰に対しても分け隔てなく接する優しい心や愛らしい顔立ち、ほっそりした美しい体など、彼の全てに彼女は惹かれていたのでした。
両家の仲は悪くありません。むしろ、茶会や狩猟など、家族ぐるみで盛んに交流が行われています。
彼女はあるとき、思いきって父親である領主に胸の内を明かしました。
領主は最初こそ驚いたものの、青年の性格・容姿・家柄……いずれも申し分なかったので、特に反対することはありませんでした。
そして偶然にも同じとき、青年のほうも父親の領主に彼女を想う心を伝えていたのでした。
それを知ったときの二人の喜びは、どれほどのものだったでしょうか。
二人の婚約は、両方の領民たちに祝福されました。
しかし、幸せは長くは続きませんでした。
彼女たちが住む国が、戦争を始めたのです。当然、男は徴兵されました。彼女を慕う民も、彼女の尊敬する父も、なにより彼女が愛する青年もでした。
彼女は青年に泣いてすがりました。
行かないで。
ずっとここにいて。
私と一緒にいて……。
青年は、彼女の気持ちが痛いほど分かりました。それでも、決意を変えようとはしませんでした。
実は、青年は彼女に引け目を感じていたのです。
自分は彼女よりも年下で、父のようにがっしりした男らしい体格でもなく、何より彼女に誇れる特技らしい特技を持っていないことが、悔しくてしょうがなかったのです。
だからこそせめて、戦争に行って手柄を立て、名誉の凱旋を果たしたいと望んだのです。
彼女はそれを聞いてもなお、引き止めようとしました。
そんなこと気にしなくていい、私はありのままのあなたが好きなのだから、と。
必死に言い聞かせる彼女の手を優しく握りしめ、
「僕のプライドが許せないんだ。ごめんね」
困ったように笑う彼。それを見て、彼女に何が言えるでしょうか。
「必ず帰ってくるから。本当にすぐだよ、待ってて」
出立の日、青年は彼女の手に一つのキスを残していきました。
ふわりと薫ったのはサザンカの香り。彼女が選んだ、彼の無事を祈る守り袋の香りでした。
彼女は待ち続けました。暑い夏も寒い冬も、ひたすら待ち続けました。
ある日、領民が幼い娘とともに墓場で泣いていました。彼女は青年を待ち続けました。
ある日、国境が破られたという噂が城内に流れました。彼女は青年を待ち続けました。
ある日、みんなが領主の訃報を知りました。彼女は、青年を待ち続けました。
彼女はただ、愛する青年を待ち続けました。
とある嵐の日でした。
部屋でいつものように青年の無事を祈っている彼女のところへ、侍女が駆け込んできました。
「お嬢様! ——様が昨日戦死なされたと……!」
彼女は目を見開き、何事か言おうとして言えないまま、後ろへと倒れました。
侍女に介抱され、目が覚めた彼女はすっかり人が変わってしまっていました。
「ねえ、あの人はどこ?」
「お嬢様、お気をたしかに。あの方は……」
「まだ帰ってこられないのですか?」
「ですから、お嬢様……」
「きっと帰ってらしたら、さぞお腹を空かせていらっしゃるでしょうね。精の出るお料理を用意しなくては」
それから彼女は毎日大量の料理を作りました。城内の者が止めても、まったく聞こうとしません。
そればかりか、料理をしていないときは部屋や城内、時には外を一人でずっとうろつくようになりました。
「ほら、あの木の上を見て下さいな。小鳥の巣がございますでしょう? 春になるとピィピィと可愛らしく雛が鳴いておりますの。また今度、一緒に見に来ましょうね」
今は居ないけれどもいずれは居ると信じている、見えない青年に語りかけながら——
そよ風の囁きに思わず体をふるわせて
今日も可愛い蕾はほころび開く
その幽かなため息は
世界を巡りあなたに届く、いつかきっと
爛漫の命を謳歌して
最期の散る前に残していく祈りの声も
あなたに届いたでしょうか
月日は移ろい、また芽吹く日を待ちましょう
ドレスの裾をふわりと広げながら、彼女は歌い踊ります。
城の者はすっかり困ってしまって、もう彼女の好きなようにさせることにしました。
そして彼女は、青年との叶わぬ再会を待ち続けました。
待ち続けたまま、ついには戦火に巻き込まれて死んでしまったのでした。
* * *
ビブリオドールが語り終えたとき、空には宵闇のベールがかかり始めていました。なんとなく、吹く風も冷たくなってきたようです。
『悲しいお話ですわね』
少女は長いまつげを伏せました。
『わたくしと同じ想いをされた方が、他にもいらっしゃったのですね』
(いいや。お前のことだよ、花を食む娘)
カリオンは、少女に見えないように小さく首を振りました。ビブリオドールが読み聞かせたのは、彼女自身の物語でした。
気がつかなかったのではなく、自分のことだと気づきたくなかったのでしょう。
そして、少女は足下に咲いていた花をそっと口に運びました。
『どうして戦争などというものがあるのでしょうか?』
ザア……ッと、ひときわ強く風が吹きました。
『愛する人を、幸せを、奪うようなことを人はするのでしょうか?』
花をもう一輪食べながら、少女は立ち上がりました。そして首だけを巡らして、空を見上げました。
つられて顔を上げたカリオンは、驚きの声をあげました。
「馬鹿な、なぜ城が建っている?」
夜空を背景に、重厚な石造りの城がそびえ立っているではありませんか。
『わたくしは認めませんわ。そんな不条理で理不尽なこと。わたくしはここであの人の帰りを待つのです。そして幸せになるのですわ。彼が帰ってきてくれるまで、わたくしはいつまでだって待ち続けますわ』
そして壁にすがりつき、熱っぽく囁きました。
『ああ、愛しいアルエット。早く、早く、わたくしのところへ帰ってきて……!』
周囲に咲き誇る花々が、怪しげな輝きを放っています。
「いいえ」
ビブリオドールは立ち上がると、その背に向かって、少女が一番望まない言葉を投げ掛けました。
「彼はもう帰ってきません。帰ってこれないのですよ」
『……うそですわ』
たっぷりと間をあけて、少女は答えました。
振り返ってビブリオドールを見つめる瞳は暗く、鋭く、先ほどまでのたおやかな乙女と同じ人物だとは思えないほど、棘を孕んでいました。
『どうしてあなたもそんなことを言うんですの? 乳母も侍女も、みんなそう言っていましたわ』
「事実だからです。彼は戦場で亡くなったのですよ」
『うそよ! うそですわっ! アルエットは絶対に帰ってくるって約束してくれたもの! 必ず帰ってくると言ってくれましたもの‼』
まるで少女の激情にあわせるかのように風は吹き荒れ、森がわななき、花びらも散っていきました。
「いいえ。彼はもう、帰ってこれないのです」
ビブリオドールは同情をこめて首を横に振りました。
『まだ言うのですか! いい加減にしないと、怒りますわよ!』
少女が平手を振り上げたので、カリオンはとっさにその手を掴みました。
『お離しなさい! 無礼者!』
「無礼けっこう。離すわけにはいかないな。このままでは、お前の魂は哀れなままだ。私たちはお前を救いにきたんだ」
『大きなお世話ですわ! わたくしはそんなこと頼んでいませんもの! わたくしが会いたいのはアルエットだけなのですから!』
暴れる少女をカリオンが抑えているからか、ビブリオドールは彼女の前に立つと、いたずらっぽい笑顔で問いかけました。
「では、貴女のほうから会いに行ってはいかがですか?」
『……はい?』
ぴたっとセレスティーヌの動きが止まりました。
「本当は、待つのも辛くなってきているんじゃないですか?」
『…………それは……』
少女が落ち着いたのを見て、カリオンは掴んでいた手を離しました。
「彼から来てくれないのなら、貴女から会いに行けばいいのですよ」
ビブリオドールは、人肌の体温をもたない少女の手をそっと両手で包み込みました。
「そうすれば、きっと彼も喜んでくれることでしょう」
風も、森も、花も、全てがもとの静かだったときのように戻ったとき、ようやく彼女は口を開きました。
『……本当に……そう思いますか?』
「ええ、もちろん」
とびっきりの笑顔で、ビブリオドールは答えました。見る人の心を和らげるような、優しい笑顔でした。
それでも少女はどこか不安が残っているのか、か細い声で尋ねました。
『でも……わたくしアルエットがどこにいるか分からないのですわ。それでも、ちゃんと会えるのでしょうか……』
ビブリオドールは励ますように、握る両手に力をこめました。
「心配しないで下さい。そのためにわたしはいるのですから」
スゥと細く息を吸い、
書架配列五七一番より——開架
花を喰う人に紡ぐ導きの詩
詠い上げるは
風にそよぐ追憶の花たちよ
どうかこの
この
私たちが笑顔で見送ります けれど
まるでビブリオドールの言葉が分かるかのように、淡い光を灯しながら花びらが少女の周りを踊りだしました。
そのまま、天のどこかへ向かって長い絨毯を広げていきました。
ああ、愛しき花たちよ
この
この
彼女の強ばっていた顔がほぐれ、スゥと体が透けていきました。
願わくば、
貴女の次なる目覚めにも光があらんことを……
『礼を申し上げますわ。セシェ、カリオン。あなたたちのおかげで、ようやく愛するアルエットに会えるのですから』
セレスティーヌは嬉しそうな微笑みを残して、無数の花びらが作ってくれた絨毯を歩いて空へと消えていきました。
彼女が淡い光となって消えたとき、そこはただの荒れ地となっていました。百年前の戦争で焼けた土地は、これから回復へと向かうのでしょう。
「……これで、他の街で流行っていた噂もなくなるでしょう」
「……森を越えた先にある夢のような花の楽園。しかしそこには鬼が住まう。決して踏み入ってはならぬ。踏み入れば精も根も吸い尽くされてしまう……。なんでそんな話になったんだ?」
「さあ……。ただ、いつ来ても満開に咲き誇るあの花々を見て、人間を養分にしているとでも思ったのではないでしょうか」
「なるほどな」
「彼女にとってあの花は、ただ領地に咲いているだけの花ではありませんでした。もっと特別なものだったのです。だからこそ、花を自分の身の内に入れてでも忘れたくなかったし、枯らしたくなかったのでしょう」
「なぜだ?」
ビブリオドールは残っていた一輪の花をそっと摘みました。
「この花の名前はギリア。彼女の家名と同じであり、またその花言葉が『ここに来て』だからですよ」
そのときちょうど吹いた一陣の風が、ビブリオドールの手から花びらを舞い上がらせました。
こうして、少女の頑な心を解きほぐして見送った二人は翌朝、何事もなかったように再び森の向こうへと帰っていったのです。
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