魅惑の海精とビブリオドールのお話
純白の繭紡ぎ、織り成す夢は
うら若き乙女と青年の
それは誰もが忘れた恋の物語
されど恋の毒は、醒めても誰かを惑わすもの
儚い幻想の海に沈む涙の旋律
それすら甘美な調べとなり
恋に狂った者たちを更なる深みへと誘い込む
さあ、今日もやってくる
恋に自分を身失った者たちが
ようこそ、
永遠に明けぬ白き深海の世界へ……
魅惑の海精とビブリオドールのお話
静かな港町でした。ただし、その静けさは穏やかさからくるものではなく、人気のなさからくるものでした。
かつては丘から海辺まで、白亜の家並みが段々に広がる美しい町だったのでしょう。それが今や、ただの白い石が転がるゴーストタウンへと、変わり果てていました。
「なんとも悲しい町ですね」
「……眩しいな。目に痛い」
町の入り口へと続く道のところで馬を止め、眼下の白い町を見下ろしている二人組がいました。
悲しい町と評したのは、人形のように美しい少女でした。蜂蜜色の波打つ長髪、透き通った青い瞳。着ているのはリボンとレースをふんだんに使った豪奢なドレスです。この少女は、友だちの神さまが己の代わりに魂と精霊を救うことを望んで造ったビブリオドールでした。
眩しいと顔をしかめたのは、真っ白な髪に切れ長の紫の瞳をしたカリオン・シュラークでした。無地のシャツにベストをはおり、長いズボンに編み上げブーツという簡素な出で立ちです。腰に下げた剣がカシャンと無機質な音を鳴らしています。
「たしかに、この町の荒廃の仕方は異常だと思う。だが、本当にこの町に精霊なんているのか。セシェ」
セシェというのは、カリオンがビブリオドールに付けた呼び名です。
ビブリオドールは世界にただ一体しかありませんが、それは種族名であり、個体名ではないとカリオンは言いました。そして、古い言葉で「書物」を意味するセシェという名を彼女に与えたのです。
「正確に言うなれば、精霊はあの海にいるのです。今も幽かに聞こえていますよ。彼女の悲哀に満ちた歌声が」
「……私には、風と波の音しか聞こえない」
「あまりに
「そうか」
カリオンは半信半疑で頷くと、町へ馬の足を向けました。
道行く人の話というのは、ここ二、三十年の間、まともに漁もできないほど海が荒れ続けているというものです。
風もないのに突然波が高くなり、船を転覆させては沿岸の建物を破壊していくのだそうです。一度は収まっても、また何時間後かには荒れるということを繰り返し、その周期が不規則で予想ができないため、だんだん誰も船を出さなくなっていきました。
「それにしても、ここまで人を見かけないとは……」
「残っている人間が本当にいるのか、疑わしいな」
馬の上から町の様子を眺めつつ、なだらかな坂を下っていきます。
「地元の人たちは、海が荒れる原因を『ローレライ』の仕業だと恐れ、次々と町を離れていったということでしたね」
「ああ。今では、他に行く場所がない人々が高台の家に移り住んで、細々と交易や釣りをして生計を立てているとか」
家が家の形を保っているのは、丘の上にあるものだけでした。今二人がいるのは中腹をすぎた辺りですが、この辺りの家はもう、わずかな外壁しか残っていないような有様でした。
「『ローレライ』か……。たしか、この地方に伝わる魔物の名前だったか」
「ええ。美しい歌声で船乗りたちを惑わし、船を岩礁にぶつけて沈めさせる魔性の怪物……」
ビブリオドールはふいに口を閉ざしました。
目の前に広がる海が徐々に変化してきたのです。見る間に大きな波が速く、次々と岸に押し寄せ始めました。
桟橋で釣りをしていたらしき人たちが、慌てて荷物を持ってこちらへ走ってくるのが見えます。
その頃には、カリオンの耳にもローレライの歌声が届いていました。
あまりにも甲高く、激しい音の奔流は、カリオンの鼓膜を超えて脳内をかき回し、身体中の神経という神経を逆撫でしていきました。
耳を塞いでも歌声は指の隙間をぬって、毛穴からですら体内へと入り込み、カリオンの体を蝕んでいきました。
「くぅ……!」
カリオンが身をよじって苦しげな声をあげたとき、ビブリオドールが短い詩を口ずさみました。
海に
天使が落とした
崇高で、希望を与える強い光——
すると、驚いたことに荒波が収まっていきました。不快な歌声もすっと消えてしまいました。
たとえるなら、泣いていた赤ん坊が予想外の出来事をびっくりして泣き止んだ、といったところでしょうか。
「……何をしたんだ?」
「少し呼びかけただけです。完全に鎮まったわけではありません」
そして、ビブリオドールは視線を海から周囲へ移しました。少ない町の人たちが続々と集まって来ています。
「とにかく、彼らにもう少し詳しい話を聞きましょう」
「……分かった」
カリオンは馬を下りて、町の人たちを怯えさせないように気を遣いながら、町長への面会を求めました。
現れたのは、腰が曲がって杖をついた老人でした。
「旅のお方。先ほどは町の危機を救っていただき、感謝致します」
「とんでもございません。ところで、何十年と続くあの不規則な嵐は、ローレライの仕業であると耳にしました。詳しいことをお伺いしたいのですが」
「ローレライ伝説ですか……。あれは、三百年以上も前に生まれたものだとワシらは聞き及んでおります」
町長は、長い髭に埋もれた口をフガフガと動かして教えてくれました。
「ある日、この町の若い漁師と一人の美しい人魚が恋に落ちましての。しかし、そんなことは絶対に許されないことじゃった。漁師と人魚は互いに陸と海とに引き裂かれ、漁師は失意のうちに命を落とし、それを知った人魚もまた深く絶望した。
以来、自分好みの海の男を見つけるとその美しい容貌と歌声とで誘惑して海底に引きずり込むとも、人間を恨み、見かけた船乗りたちを片っ端から海に沈めているとも言われておりますのじゃ。
三十年ほど前から続くこの異常な海の荒れ方は、ローレライの怒りが限界まで達したせいではないかと、みな思うております。今、ここに残っておるのはワシのような年老いた者ばかり。この町とともに、ローレライの嘆きに滅ぶしかないのかもしれん……。
あなた方は、すぐに立ち去られるとよい。いつこの町が海に飲み込まれるか、分からんからのう……フガフガ」
「結局、今日海が荒れたのは昼間の一回だけだったそうだな」
「ええ。ですが、油断はできませんよ。夜中にも起こることがあるそうですから」
夜、町長の家の一室を宿として与えられた二人は、旅装をといて寛いでいました。もっとも、カリオンは剣を体のそばから離さず、警戒を内にはらんだままでしたが。
「……野宿をするのではないのですから、少しは休んだらどうですか」
「癖だ」
ビブリオドールはやれやれと小さなため息を零しました。ふと、カリオンはずっと気になっていたことをビブリオドールに尋ねました。
「セシェ、〝精霊〟とはいったいなんだ?」
ビブリオドールが興味深そうにカリオンの瞳を見返しました。
「この世界の全て——お前を除いてな——は、神が造った所詮〝おもちゃ〟だ。おもちゃはおもちゃを見ることができるし、触れることもできる。逆に、それができなければその相手はおもちゃではないと仮定できる」
カリオンは窓辺へ移動すると、暗く何の光も映していない海を見つめました。
「つまり、この世界には〝たくさんの神さま〟と〝たくさんのおもちゃ〟しかいないと私は思っていた。では、〝精霊〟とはいったいなんなのか。たとえば、『精霊が宿り木にしている樹は百年の寿命を超えて立ち続けることができる』といったものは、噂やおとぎ話の中でしか聞いたことがない。にもかかわらず、〝精霊〟は〝神さま〟ではない。〝精霊〟とはどんな存在のことをいうんだ?」
「なるほど」
ビブリオドールは微笑し、カリオンを手招きました。招かれるまま、彼女はベットに座るビブリオドールの隣に腰掛けました。
「貴女の言う通り、この世界には〝おもちゃ〟とおもちゃが知覚できない〝神さま〟がいます。〝精霊〟とは、その中間的な存在です」
「中間的な存在?」
「ええ。精霊は、神さまたちが貴女たちのようなおもちゃとはべつに、『弟や妹のようにかわいがるためのおもちゃが欲しい』という願望のもとに生まれた、神さまたちにとって特別な思い入れのある〝おもちゃ〟なのです。ゆえに、精霊は神さまの性質とおもちゃの性質の両方を持っています。ですから、時と場合と人によって、人は精霊を知覚することができるのです」
「なるほどな……。では、ローレライはどうなんだ? 三百年以上にもわたって人に知覚され続けているようだが」
「……ローレライというのは、この地方の人々が付けた名です。彼女は、種族セイレーン、名前をポレーヌといいます」
「?」
「彼女のあまりに深い想いが〝精霊〟と〝おもちゃ〟の境界を越えたのでしょう」
そしてビブリオドールはすっと表情を消してカリオンを見つめました。
「館長さん。あなたに〈閲覧〉の許可を出します」
ビブリオドール。
その名の由来は図書館にあります。ビブリオドールの性質は、〈図書館〉に喩えられるからです。
彷徨う魂を還るべき場所へ導き、荒れる精霊を鎮めるための祝詞。それらを自らの内に保管・管理し、対象に提供する。それは世の図書館の役目とよく似ていませんか? だからビブリオドールは、自分との契約者を〈館長〉と呼ぶのです。
カリオンはビブリオドールを抱き上げると、その瞳に手をかざし、覗き込みました。
「我探し、我読み解く。示せ、魅惑の海精に繋がる物語を」
カリオンの目の前に異空が現出しました。
気づけば、彼女は天も地もない濃紺地に無数の小さな光を散りばめた無限の空間の中にいました。それはまるで、夕暮れの先に待つ果てない星空のようでした。
彼女が手を伸ばすと、その手のひらの上に光の一つがそっと乗りました。光を握りしめると、彼女の脳裏に一つの物語が走馬燈のように流れていきました。
* * *
反対側を向けば、真っ白な壁の家々が丘の上までずっときれいに連なっていた。
もう一度海のほうに目を向ければ、ちょうど漁師の一団が返ってきたところのようだった。
「おかえりー!」
「どうだった?」
「大漁、大漁!」
漁師たちは次々と魚を水揚げしていった。
その中に一人、ひときわ体格のいい浅黒く焼けた肌の男がいた。男は町の人間からの信頼厚く、次期町長として注目されていた。
そんな彼はある日、嵐の中で船から投げ出されてしまった。
泳ぎもうまかった男は、荒れる波に揉まれながらなんとか海の上に突き出した大きな岩までたどり着いた。そこは、素潜りする女性たちの休憩場所としてたびたび利用されていた。
この嵐がもうすぐおさまることに男は気づいていた。嵐が止めば仲間の船が救助に来てくれる。あとはここでおとなしく待っているだけ。
そう思っていた男の耳に、何ともたとえがたい美しい歌声が聞こえてきた。しかもその声は、己のいる岩の反対側から聞こえてきているではないか。
好奇心にかられて、男は岩の向こう側をのぞいてみた。そこにいたのは、おとぎ話としてしか伝え聞いていなかった人魚だった。
自分以外の者がこの場所にいるなど、相手も思ってもいなかったのだろう。男の気配を察して、人魚は歌うのをやめて急いで振り返った。
目と目が合った瞬間、二人は恋に落ちた。
荒天にも負けず輝く金髪、しなやかな白い上体、下半身を覆うきらめく鱗。深く青い瞳が男の目を見つめている。
「……俺は……俺の名はティトスだ。君の名前はなんという? 美しい人魚」
「……わたくしは、セイレーンのポレーヌ」
「ポレーヌ……。容姿に違わぬ美しい名だ……」
二人は多くを語ることなく、見つめ合うことに時間をかけた。
やがて嵐が止み、男を迎えに船がやってきた。女は多くの人に自分の姿を見られるのを恐れ、海へ飛び込んでしまった。
その後も二人は逢瀬を重ね、急速に愛を育んでいった。
吹き抜ける風が貴方の歌ならば
波の揺らぎはわたしのゆりかご
愛しい人よ、手を取って
幼く恋に恋をして
甘く愛に愛を囁いて
竜が
いつまでもどこまでも
わたしと貴方で夢に夢見ましょう……
だが、二人のことはすぐに人も神も知ることとなった。
「やめよ、ティトス! お主は何かよくないモノに憑かれておるのじゃ!」
「彼女を悪く言うことは、いくら町長といえども許せません。彼女は本当に優しく、そして誰よりも純粋な美しい心を持っているのです。俺の妻となるのは彼女しかいない!」
「おお……! そんなバカなことを言わないでちょうだい。私のかわいい息子よ。お前は幻を追っているにすぎないのですよ。人魚なんているはずないでしょう。いい加減に目を覚ましてちょうだい!」
「なんと嘆かわしい! 母上、そんなことをおっしゃらないで下さい。彼女のことを、きっと母上も気に入ってくれるはずです」
「ああ、ティトス……!」
泣き崩れる母をおいて、男は今日も海へ出て行く。彼女に会うために。
「
「そのような言い方をしないで下さいませ、キュアノー様。ティトスは男の中の男。あの逞しい腕に抱かれるならば、もうわたくしはどうなっても構わない……」
「愚かなポレーヌ。分かっているのですか?
「ええ、分かっていますわ。ですから、ティトスが死ぬ時はわたくしも死にますわ。あの人のいない世界に未練はありません」
「な、なんですって……⁉」
女神の驚きも気にせず、女は今日も海面へ向かう。彼に会うために。
可愛がっている妹のやることだからと、女神は根気よく説得を続けていたのだ。
女が大粒の真珠や普通の漁では決して手に入れられない珍味など、様々なものを男に与えていたと知るまでは——
「我慢も限界だわ。妾のポレーヌをたぶらかして貢がせるなんて。身の程知らずの人間め、もう許しはしないわ!」
女神は女の嘆願も聞き入れず、あっさりと男を壊してしまった。
そして嘆き悲しむ女が自ら命を絶ったりどこかへ行ってしまったりしないように、ある場所へ閉じ込めた。
「泣かないでちょうだい、妾のポレーヌ。大丈夫、妾がいるわ。それに時が経てば。あなたも自然とあんな人間のことを忘れられるのだから」
女神は色んな美しいものを贈り、優しい言葉を投げ掛け、魚や他の人魚を招いて楽しく過ごせるようにしたが、女が負った心の傷は決して癒えなかった。
涙は止まっても、嘆きは止まない。見つめるのは過去の日々。口ずさむのは男を慕う歌。
その声は壁を越えて海上まで届き、船乗りたちを惑わした。これがローレライの正体である。
男を喪ってから三百年。嘆きも傷も癒えたことだろうと、女神は女を再び広大な海洋へと放した。
しかし、長年にわたる悲嘆と恋慕に心を蝕まれていた女は、もはや自分が何に悲しみ、何を求めているの分からなくなっていた。
分からないまま、解放された自分の想いを暴走させているのだ。
* * *
現実に戻ったカリオンがまず口にしたのが、
「勝手な話だ」
ということでした。
「現実に人と精霊が結ばれることが難しかったとしてもだ。ティトスを殺し、ポレーヌを閉じ込め、また解放するとは、独善的にもほどがある」
「神とはそういうものです。貴女たちは、神のおもちゃにすぎませんから」
淡々と真理を告げるビブリオドールに、不満そうな吐息をもらしてから改めて問いかけました。
「それで、どうするんだ。ポレーヌを鎮めようにも、彼女を慰められる人はもういないだろう?」
「大丈夫です。彼女は恋に狂っているだけ。その苦痛から解放すればいいのです」
そのままビブリオドールが眠りについたので、カリオンも剣を抱いて目を閉じました。
翌日。
空には厚く雲が広がり、高い波が船着き場を越えて押し寄せてきていました。
「初めからたいそうな出迎えだな」
皮肉まじりに吐き捨てたのには、昨日ほどではなくても、脳内に響く不快な音が気に食わないという理由もあったでしょう。
「悲哀だけの歌声ではありませんね。未知の存在への恐れもあるようです」
「ああ、昨日お前に海を鎮められたからか」
「おそらくは」
町の人から丈夫な小舟を一艘借りて、ゆっくりと二人は漕ぎだしました。瞬く間に、波が小舟を呑み込もうと盛り上がり、迫ってきました。
「ぐっ……!」
そもそも扱い慣れぬ手漕ぎ舟だというのに、この荒れ狂う波。バランスをとることの、なんと難しいことでしょう。
「まだか! セシェ!」
「もう少しです」
二人が目指しているのは、人魚と男が出会ったという海に突き出た岩でした。そこは人魚にとって思い入れ深い場所であり、彼女が三百年閉じ込められていた場所です。
「見えました」
本当に大きな岩でした。その上で、痩せこけ、輝きを失った髪を振り乱して泣くように歌っている人魚がいました。
「何か、鎖のようなもので縛られていないか?」
激しい風と波しぶきで視界はとても悪かったのですが、戦場で鍛え上げた優秀な目を持つカリオンには、そんな風に見えたのでした。
「館長さんがそういうのであれば、そうなのでしょう」
「海の女神というのは何をしているんだ? 可愛がっている女が鎖に縛られているのに何もしないとは……いや、それともあの鎖は女神がつけたものなのか?」
「いいえ。おそらく彼女自身がつけたものでしょう」
「なに?」
「無意識にでしょうか。愛した男のことを忘れたくない、悲しんで悲しんで、悲しみ続けることが彼へ報いる方法だと思っているのかもしれません。……しかし、それならば話は早い。あの鎖を外してあげればいいのですから」
スッとビブリオドールは舳先に立ち、高らかに歌い上げました。
書架配列二五八番より——開架
風の唸りにも、波の荒々しさにも負けぬように。
遥かな死のように冷たい天空にも
きららかな小さき星が輝くように
深い哀しみのような青い海にも
豊かな小さき命は息づくのです
焦点の定まらなかった人魚の瞳が、二人を捉えました。
彼女の小さな口が何かを叫ぶと海が踊り、小舟を跳ね上げ、叩き落として破壊しようとする大嵐となりました。
澱んだ水はいつしか流れ去り
清らかな泉へと変わるでしょう
ですが、ビブリオドールが指で触れると、船の前に立ちふさがる波という波が左右に割れ、音もなく海へと戻っていくのです。
さすがの人魚も、驚きのあまり声をつまらせました。そのわずかな隙に、カリオンは小舟を岩に寄せました。
さあ 泣くのはもうお止めなさい
愛の喜びを知る歌姫よ
ビブリオドールが人魚の手に触れた途端、彼女は強烈な拒絶の悲鳴を上げました。
『イヤ——————ッ!』
太い針で頭を刺されたような強い痛みがカリオンを襲いました。彼女は一瞬気を失いかけましたが、気力でどうにか持ちこたえました。
一方のビブリオドールは眉を寄せることもなく、穏やかな笑顔で鎖をなぞりました。
追想の鎖は錆つき
貴女を捕らえるものではありません
すると黒い鎖は虹色の鱗へと変わり、ぽろぽろと剥がれて海面へ落ちていきました。
それを見た人魚は喜ぶのではなく、激しく首を振って嫌がりました。
『やめて! やめて! いやよ、わたくしは……わたくしは……!』
涙は夢に溶かして いま目覚めなさい
『もう放っておいて下さいな! わたくしは……いやあ!』
大丈夫 怖がらないで
ビブリオドールの白く細い指が人魚の綺麗な青い瞳から流れる涙を拭い、そのままそっと抱きしめました。
幼き愛は散れど、その手に残ったぬくもりは
誰にも奪えぬ永遠の愛
人魚の興奮が少しずつおさまっていくようでした。
それにあわせるように、波も風も徐々に小さくなり、暗雲の隙間から太陽の光がのぞいてきました。
貴女に幸せをくれた
優しき人の願いなのだから
すっかり海は静まり、空は青く、本来の美しい眺めを取り戻していました。
(やれやれ。さすがに肝が冷えた)
カリオンは知らないうちに浮かんでいた額の汗を拭いました。今、人魚はビブリオドールの腕の中でおとなしくしています。
『……教えて下さいな』
「なんでしょう?」
『あの人は……ティトスはもういないのですか?』
「ええ。残念ですが」
『……では、わたくしは何を糧に生きていけばよいのでしょう。あの人を忘れて生きるなど……わたくしにはとても……』
「忘れる必要なんてありませんよ。ポレーヌ。ただ、囚われなければいい」
ビブリオドールはさらに強く、痩せた体を抱きしめました。
「彼は貴女の何を愛してくれましたか? その無垢で純粋なところだったはずです。何も変えることはありません。また魚たちと戯れ、仲間たちと踊り、波間に歌えばいいのです」
『ティトスはもういませんのに……?』
ビブリオドールよりも早く、カリオンが口を開きました。
「どれだけ嘆いても、死んだ人間が戻ってくることはない」
『……?』
「残された側の気持ちなんて考えてくれちゃいない。どれだけ大切に思っていても、どれだけ愛していても、死んだ人間がもう一度私たちに触れてくれることも、声をかけてくれることもない。まったく、勝手なものだ」
遠く、遠く。二度と戻らぬ日々。
今カリオンが見ているものは、そしてさっきまで人魚が見ていたのは、それでした。
『……どうして、そんなことを言うのですか?』
「ん?」
『ティトスはもっと生きたかったはずです。わたくしを遺して死ぬことは、とても悔しかったはずです。きっと彼は死の瞬間まで、私を想ってくれていましたわ』
「なぜそう言いきれるんだ?」
そう聞き返すカリオンの顔は、どこか泣きそうなものでした。
『ティトスがいつでもわたくしを抱きしめ、愛を囁いてくれていたからですわ。今でもわたくしは、ティトスのぬくもりも優しい声も、全て、全て思い出せますわ』
「なんだ、答えはもうでているじゃないか」
『え?』
「何を糧に生きていけばいいのか? 簡単だ。お前の中のティトスと生きていけばいい。彼は漁師、海の男だったはずだ。閉じ込めたままでは、可哀想だろう。お前が広く深い、この大海原へ連れて行ってやればいい」
人魚は目を見開き、黙ってしまいました。憑き物が落ちたようです。
軽やかに微笑んで、ビブリオドールは静かに身を引きました。
「さあ、帰るといいですよ、ポレーヌ。貴女の居場所は海にあるのですから」
人魚は小さく頷き、初めて笑顔を見せました。
『厚くお礼申し上げますわ、ビブリオドールとその契約者。あなた方の旅路が、誰かを幸せにするものでありますように』
そして人魚は美しい曲線を描いて海へ飛び込み、紺碧の中に消えていきました。
「お前のことを知っていたのか、ポレーヌは」
「精霊ですから。きっと海の女神から聞いていたのでしょう。この箱庭の中にいる以上、誰がどこで何をしているのかは神に筒抜けですから」
カリオンはゆっくりと櫂を漕いで、陸へ戻ることにしました。港には町の人たちが立ち並び、こちらへ手を振っていました。
「羨ましいのですね、彼女が」
ビブリオドールは変わらず舳先に立ち、前を向いているのでカリオンからはどんな表情をしているのか分かりません。——そう、お互いに。
「……ああ。私には、明確に思い出せる体温も声も無い。全て血だまりの向こうに消えてしまった……」
こうして、ローレライを鎮めた二人はたくさんの感謝の声とささやかな礼をもらって町を発ちました。まだこの世界で苦しんでいる誰かを幸せにできるように。
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