白い咎人とビブリオドールのお話


 

  炎に舞うは金色こんじきの蝶

  ひらりひらりと 誰かをからかうように

  はらりはらりと 誰かを嘲笑うかのように

  胡蝶が踊るその地は

  くろがねの獣とそれを飾る緋色の花が美しい戦場で

  怒号と悲鳴が狂気の円舞曲ワルツとなり、絶えることなく響き渡る

  嗚呼……。なんという皮肉な空でしょう

  狂おしい熱に包まれた赤い大地の上に広がるその空は

  どこまでも高く、どこまでも涼しげで、とても清らかな青空だったのです

  願わくば私の罪よ、どうか赦されること勿れ

  私の願い叶うその時に、この身に断罪のいかづちを落とし給え——





 彼女の目には常に赤い色しか映りませんでした。


 彼女の耳には常に断末魔の叫びしか聞こえませんでした。


 彼女の鼻には常に鉄の臭いしか感じられませんでした。


 彼女の舌には常に灰と砂の味しかしませんでした。


 彼女の手には常に肉を裂き骨を断つ感触しか残りませんでした。


 彼女は今も散る血で洗う戦場に……


 「はじめまして。白の咎人さん」


 とても悲しく、とても恐ろしい光景は、彼女の目の前から消え去りました。


 「ぁ……?」


 短く、かすれた疑問の声が彼女の口から漏れました。


 目の前に垂れてくる白い髪の間から覗く景色のどこにも、血の海と死体の山はありません。


 代わりに、どこまでも乾いた大地が広がっていました。わずかな水気も、草木の一本も、まったく見当たりませんでした。


 そして、そんな不毛な大地には不釣り合いな美しい少女が、ゆったりと微笑んで座っていました。


 蜂蜜色の波打つ長髪、透き通った青い瞳、薄い紅色に染まった頬、桜色の小さな唇。リボンとレースをふんだんに使ったゆったりとしたドレスを着て、その姿はまるで、精巧に造られたビスクドールのようでした。


 「……ここはどこで、お前は誰だ」


 自分の知らない人物に対してその素性を問わずにはいられないのは、兵士の悲しい習性というものなのでしょうか。


 けれど、その声に覇気はまったくありませんでした。


 「さて、ここはどこかと聞かれても。『煉獄』『最果ての島』『罪人の楽園』……。何通りも呼び方がありまして、なんと言えばよろしいのか」


 「……質問を変える。どうやって私をここに連れてきた」


 のろのろと腰に伸ばされた手は空を切りました。そこにいつもと同じ剣はなかったのです。


 彼女はやや不愉快に思えて舌打ちをしました。


 「わたしが連れてきたのではありません。貴女は自ら海を渡って、ここへ来たのです」

 

 「なに」


 「ここは死に近づいた者しか来ることができません。そうは見えませんが、貴女は死を求めているのでしょう」


 彼女は虚をつかれたようでした。一拍の間をおいて、彼女は自嘲の笑みを零しました。


 「……死を求めているだと? まさか。私はそんなもの求めてなどいない。いや、もはや何も求めていやしない。私が生涯求めたものはただひとつ。だがそれももう手に入らない。私には、もはや求めるものもないのだ……」


 そう言って彼女は空を見上げました。毛先だけがわずかに黒い、長い白い髪がさらさらと揺れました。


 その先に広がるのはきれいな青空であるはずですが、彼女はとてもつらいものでも見たかのように、顔をしかめました。


 彼女の目には、青い空も白い雲も、何もかも映っていなかったのでした。



         *         *         *



 私は六歳のとき、母と死に別れた。残された家族は、厳格な元傭兵の父と、四歳年の離れた弟の二人だけだった。


 父は母亡き後、私に剣を握らせ、鍛え始めた。弟が六歳になってからは弟も一緒に。


 私たちは死なないように——いや、父に殺されないように剣を振り、体を動かし続けた。


 私は年上だったが、女であったため、父は特に弟に目をかけた。弟には朱塗りの鞘とともに刀を贈っていたが、父が私に何かを与えてくれたことはなかった。


 父が私に与えて——いや、押し付けたのは、普通の生活には全く必要のないものばかりだった。


 いつまでこんな毎日が続くのかと思っていたとき、転機は突然訪れた。私が十八歳のときのことだった。


 父が出先で死んだのだ。


 普段殺しても死なないような人であっただけに、傷だらけの父の遺体を目の前にしてもすぐに信じることができなかったのを覚えている。


 そのとき初めて私は、父のことが好きではなかったが、憎んでもいなかったのだと気づいた。


 それでもたしかに、私は父の死を喜んでいた。これでやっと、弟と普通の生活が送れると思ったからだ。


 ぎこちなくも、しばらくは弟と普通の人と同じような生活を心がけて過ごした。このときが、私の血塗られた人生の中で一番幸せなときだっただろう。


 けど、嗚呼……。始まりが唐突なら、終わりも唐突なのだろうか。


 私が仕事で隣町へ行ったとき、父に恨みがあるという男たちに襲われた。


 ひとりひとりが相当の手練で、全て倒し終わった時には、中天にあった太陽が西に傾き始めていた。


 嫌な予感が私の体の中を渦巻いて収まらない。


 傷の手当てもせず、私は馬に飛び乗ると自分の街へ急いで帰った。だが、全ては遅かった。


 いつも私を出迎えてくれた緑溢れる穏やかな街はどこにも見当たらなかった。


 そこら中から火の粉が黒へと移り変わる空に舞い上がり、幻想的ですらあった。たとえ地上が、炎の奔流と人の血によって、いまだに夕焼けの大地の色を残していたとしても。


 生き残ったわずかな人たちから向けられるのは、見当違いな怒りの視線と言葉。ここを襲った者たちも、私の父に恨みがあるとほざいていたのだろう。


 私はそれらを全て黙殺した。弟の姿が、死人の中にも生き残った連中の中にも、どこにもなかったことだけが私の気がかりだったからだ。


 弟と交流のあった人が、弟は襲撃者の半分をここで殺し、もう半分を引きつけるために街を出て行ったと教えてくれた。


 そのあと私は街を追い出されたが、私も弟のいない街などに未練はなかった。私の望みは弟と普通に暮らすこと、それひとつだけだったからだ。


 弟はこの先どこへ行くか。どうやって身を立てるか。それを考えたとき、浮かんだのは悲しいことに「戦場」だった。


 苛烈な戦闘欲を秘め、父に戦場で生き延びる技術を叩き込まれたあの弟が、普通の商店で働くなどとても考えられない。


 そして私は傭兵となり、弟を捜して世界中の戦場を転々とすることになった。



 私の目は赤い色しか映さなくなった。


 私の耳は断末魔の叫びしか聞かなくなった。


 私の鼻は鉄の臭いしか感じなくなった。


 私の舌は灰と砂の味しかしなくなった。


 私の手は肉を裂き骨を断つ感触しか残らなくなった。



 この殺人劇が、ただのエゴだということは分かっていた。私は弟すら関係ない、自分勝手な願いの為に、大勢の人を殺し続けた。


 殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺して殺し続けた。


 それが弟に会える唯一の道だと信じて。



 私が傭兵となって六年が過ぎた頃、私はある山道で山賊に襲われている姉弟を助けた。


 「ありがとうございました!」


 二人はたった十歳前後の幼子だった。二人で墓参りへ行くのだと言う。


 「今日のお姉さんと同じようにね、昔わたしたちを助けてくれた旅人さんがね、死んじゃった日が今日だからね、お花をあげに行くの」


 「めいにちって言うんだって。村のおじさんが教えてくれたんだ」


 「お前たちの親は?」


 「去年死んじゃった」


 「でも村の人たちがやさしいから、全然寂しくないんだよ」


 「……そうか」


 二人はとても愛らしい子供だった。なのに、上手く微笑わらえない自分がつくづく情けないと思った。


 「ついたよー!」


 「村のきょーどーぼちなんだって!」


 二人は元気よく目当ての墓へ走って行った。


 私の記憶をひどく刺激する鞘を、墓標の代わりにした墓に向かって。


 「今年も来たよ、お兄ちゃん」


 「あのね、ボクね、村の子供だけの腕試しで一番になったんだよ!」


 墓に話しかける子供たちの声も聞こえない。


 「…………それは、誰の墓だって言った?」


 私の声は恐ろしい予感に震えていたことだろう。


 「旅の人だよ?」


 「ボクたちよりずっと年上のお兄さん」


 「…………名前は……聞かなかったのか……?」


 「うん。知らない。すごく背が高くてね、ムキムキだったよ」


 「あと、片目がつぶれてたよ。こう、たてにビッと傷があって」


 「ボクやお姉ちゃんやお父さん、お母さんを助けてくれた時にはもう傷だらけだったんだ」


 「村のみんなで手当てをしたんだけど、いっぱい血も出てて……」


 「わたしたちが朝起きた時にはもう死んじゃってて……」


 子供たちの声がだんだん遠のく。自分の足が、本当に自分のものなのか疑った。寒くもないのにガクガク震えて、まったくおさまらなかった。


 墓の前に膝をついた私は、錆の浮いたその鞘を盛土から引き抜いた。このとき、後ろで子供たちが何か言ったかもしれないが、まったく耳に入らなかった。


 錆を軽く拭うと、朱色地に銀の龍の浮き彫りが現れた。


 さらに心臓が跳ね上がった。後ろの二人にも聞こえるのではないかと思ったほどだ。


 ……これは弟のものだ。刀身は見当たらなかったが、父が弟に贈ったもので、忘れるはずがない。


 口の中が乾く。吸った空気が肺まで届かない気さえした。


 ……ああ、そうだ。忘れられるものか。


 あの、父が振るった躊躇いなき一閃が、弟の片目を切り裂いた日のことを!


 「……なん、ねん……ぐらい、前なんだ? この人が……ここに来て…………死んだのは……?」


 私はちゃんと言葉を紡げていたのだろうか。それすらも自信が持てなかった。


 「えっとね、六……五年? それぐらい前だと思うよ」


 「そうだね、もうそんなに経つんだって思うけど」


 五、六年前——


 「ぁ」


 目の前が真っ暗になった。自分の体が支えられない。心臓が急停止した気がした。


 ひと呼吸をおいて、


 「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ‼」


 天を仰いで、声のかぎりに叫んだ。

 涙が滝となって目から流れ落ちた。


 「あああああああああああああああああああああああああああああああああああっ‼」


 私が今までやってきたことはいったいなんだったのか。


 私は何のために人を殺し続けてきたのか。


 私はあの日から、弟と会うそのためだけにこの手を汚してきたというのに、その弟はとっくの昔に死んでいた。


 なんという悲劇、いや、喜劇だろうか!


 「ああ——————っ!」


 声が枯れてもなお、私は叫び続けた。


 他人を殺してその将来を奪い、その家族を嘆きの底へたたき落としてまで、求め続けた結果がこれとは。


 いっそ知らなければ、まだ希望が持てただろうに。


 弟と会えたら私の犯してきた星の数ほどの罪が赦されるのではないかと、愚かしくも期待できただろうに。


 これはその罰なのか。


 私は生きることも死ぬこともできずに、自分がどこへ行くかも分からないまま、数日後に弟の墓の前を去ったのだ。



         *         *         *



 彼女が長い回想の海から浮上してきたのを感じ取り、少女はもう一度ゆっくりと彼女に呼びかけました。


 「白の咎人、カリオン・シュラークさん」


 彼女は驚きました。


 「……なぜ私の名前を知っている?」


 「貴女がわたしの契約者に足る資格を持っているからです。慈愛の大母より、わたしは貴女の全てを知らされています」


 「……慈愛の大母?」


 「世界のあらゆる縁を司るが故に、世界中の全てのものに忘れられた神です。貴女もここへ来たとき思い出したはずです」


 「……ああ。死んでもなお死にきれぬ若者に救済を約束した、孤独な友だちの神さま」


 「そうです。そして、大母はこの世界で死と生の狭間を彷徨う魂を救うために、一体の人形を作りました。それがわたしです」


 「……つまり、お前は人ではないと言うんだな」


 「はい。大母の代行者として造られた人型のモノにすぎません」


 「……気味の悪い話だ」


 彼女はそう吐き捨てました。対人間であれば、彼女は恐れません。一度は「不死身の獅子レオ」と呼ばれ、畏れられたぐらいですから。


 しかし、目の前に座る少女は人知を超えた存在であるようです。そのようなものに関わると、ろくなことにならないだろうと思った彼女は、無言のまま立ち去ろうとしました。


 少女は慌てることなく、痩せた背中に声を投げ掛けました。


 「わたしと契約しませんか?」


 彼女は顔だけ後ろを向かせました。


 「……契約?」


 「はい。わたしの役目は世界を巡り、彷徨う魂を正しき場所へと導き、荒れる精霊たちを鎮めることにあります」


 「……それで?」


 「わたしは亡くなった人の魂が見えます。わたしと契約すれば、貴女にも彼らを知覚することができるでしょう」


 「……何が、言いたい」


 彼女は完全にこちらへ振り返っていました。その目は不安と期待で揺れています。


 「もし、貴女の弟の魂がこの世界で迷っているなら、会うことも話をすることもできるでしょう」


 「……っ」


 二人の間を、何の想いも乗せない風が虚しく吹いていきました。


 「……有り得ないな」


 彼女はどうにか声を絞り出しました。


 「あの弟が、そんな軟弱であるはずがない。死ぬときは死に、未練など欠片も遺しはしない。弟には、情よりもいかにして死ぬかのほうが重要だった」


 「万が一、ということもあるでしょう」


 「ない」


 彼女の答えは実に簡単でした。少女に次の言葉を与えないつもりのようです。


 あるいは、言い切ることで自分にもそうだと思いこませようとしているのかもしれません。


 血が滲むほど唇を噛みしめ、爪が食い込むぐらい手を握って、ようやく彼女は動揺を抑え込むことできたようです。


 「……ひとつ聞きたい」


 「なんでしょうか」


 「なぜ契約者を必要とする? 神の代行者がお前であるなら、彷徨う魂に救済を与えるのもお前であるはずだ。ならば、ただの人間は不要なはずだ」


 少女は少し嬉しそうに微笑みました。質問をするということは、彼女が「契約」に興味を持ってくれたということだからです。


 「人でも動物でも、そしてわたしでも、与えられた〝命〟の分しか何かを行うことはできません。

 〝命〟とは、天の神がそれぞれに意図をもって〝命〟じ与えたもの。

 貴女は火を起こすことができるけど、鳥にはできない。鳥は空を飛ぶことができるけど、貴女にはできない。

 貴女には剣を振るう強い体があり、ある人には人の心を揺さぶる歌声がある。

 そしてわたしは、この身の内に代行者として必要な力を有しています。

 それは、言うなれば一つの世界を抱えているようなもの。わたしに与えられた命の多くはその力の維持に使われていて、外はたいへん脆いのです。

 荒ぶる獣に襲われたりなどすれば、わたしは抵抗することもできず、瞬く間に壊れてしまうでしょう」


 「なるほど。契約者とは、お前の身を守る者のことか」


 「それだけではありませんが、おおむねそうです。ですから、契約者は心身共に強い人でなくてはなりません」


 「私が心の強い人間だと?」


 彼女は再び自嘲のつぶやきを零しました。


 「弟を失って塞ぎ込み、罪を償うために死ぬことも、また生きることも決められないというのにか」


 「だからこそ、貴女は契約者に相応しいのです。貴女は、唯一つの純粋な優しい願いの為に、剣を振るえる人なのですから」


 少女の微笑みはとても穏やかで、一切の汚れを含まないものでした。


 その笑顔をまぶしげに見つめたあと、彼女はゆっくり歩み寄ると膝をつき、少女のほっそりとした体温を持たない白い手をとりました。


 「お前と契約しよう。私はもともと傭兵、望まれれば誰とであっても契約を結ぶものだ。それがか弱き子供であればなおのこと」


 少女は立ち上がりました。ちょうど彼女の目線より少し高いぐらいです。


 「ありがとうございます、カリオン・シュラーク。貴女を千八百四十三代目〈館長〉に任命します」




 こうして二人は共に世界を旅することになったのです。

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