世界喰らいの大罪人とビブリオドールのお話
中身の見えない金の檻に
銀の錠をさして銅の鍵をかける
そして君はこう嘯いた
「この中には何があると思う?」
ああ、君は世界を食い殺した残酷な人
どうせろくなもんじゃないでしょう
だからせめてその死の餞に
花めく君が代の思い出を歌おうか
ただ広々と、濃い青空と濃い緑の山々が連なっているのを眺めていました。
「たいしたものだな」
「そうですね」
ここは、標高千メートルを超える山脈の頂上にほど近い場所。このあたりまで来ると身の丈を越すような大きな木々はなくなり、石や砂だらけの固い地面に逞しく咲く花が目を引きます。
ときおり吹く爽やかな風に髪を遊ばせながら、二人の旅人がゆっくりと山道を登っていました。
一人は、リボンとレースをふんだんに使ったゴシックドレスに身を包んだ美しい少女でした。深く澄んだ青い瞳と桜のような唇が形よく収まった小さな顔を、蜂蜜色の波打つ長髪が縁取っています。
もう一人は、白い髪を無造作に伸ばした背の高い女性でした。いつもは鋭い紫の瞳で辺りを見回しているのですが、今はこの絶景を見て少し緩んでいます。
一見、奇妙な組み合わせのこの二人は、ビブリオドールとその契約者でした。
とある役目を負って、世界中の全てから忘れられた友だちの神さまに造られた人形。それがビブリオドールです。
彼女が天使と見間違うほどの愛らしい姿でありながら、長く根を下ろした大樹のような老成した雰囲気をまとっているのは、そのためです。
そして、千八百四十三代目となる今の契約者は、カリオン・シュラークという名前の元傭兵の女性でした。腰からは使い込まれた剣を下げ、歩くたびに小さな音を立てていました。
二人の他に山道を行く人はおらず、高らかに鳴く鳥の声ばかりが響いていた、そのときのことです。
「あらまあ人がいる。いったいいつぶりのことかしら」
朗らかな声が降ってきました。
空から、あるいは山から少し目線をずらすと、頂上で女性が手を振っているのが見えました。
「こんにちは。貴女も旅の……ではないですよね」
「ええ、違うわね」
女性は足首までの長いワンピースにエプロンをつけていました。家庭的で、とても旅をしている人の格好ではありません。
「私はね、ここで墓守のまねごとをしているの」
「墓守?」
「ええ」
道を登りきり、それほど広くない頂上を見回して、カリオンは首をかしげました。
「……それで、その肝心の墓はどこに?」
気を抜けば足をとられそうな小石だらけのそこに、墓標のようなものは何一つありません。それ以外と言えば質素な小屋だけですが、あれは彼女が住んでいる家でしょう。
「ああ、お墓はね、ないの」
「ない?」
「あのオッサンは、大罪人だったから」
女性が伸ばした指の先には、緑がぽっかりとなくなった一角がありました。
「旅人さんは知ってるかしら。あの古びた集落のこと」
「はい。地図では確認できませんでしたが、前に立ち寄った街で、山のどこかに人が住んでいる小さな集落があるらしいという噂は聞きました」
「その程度で十分」
二人に向けられた口調は穏やかなものでしたが、集落を見下ろす目には、バカにしたような、哀れんでいるような、複雑な感情が見え隠れしていました。
「こんな場所だけど、お茶ぐらい出せるのよ。よければどう?」
そして女性は小屋へ戻りながらそう声をかけました。特に断る理由もない二人は、休憩がてらごちそうになることにしました。
「はい、どうぞ。この間の満月の日にもらったばっかりの茶葉だから、飲んでもお腹を壊したりしないわよ」
冗談めかしてそう言う女性から、かすかな苦笑を浮かべてカリオンは古いティーカップを受け取りました。
「それにしても、こんなところで一人とは、大変じゃないのか」
「そうでもないわ。少し下りれば山菜も木の実も取れるし、雨水をろ過して溜めておけば、ちょっと沸かすだけで十分飲める水になるもの。あとは、時々通りかかるあなたたちのような旅の人が恵んでくれたり、ね」
「……図々しいことだ」
何かを期待する上目遣いに、カリオンは肩をすくめ、ビブリオドールは楽しそうに笑いました。
「では、こちらのパンでもお出ししましょうか。街一番と評判のお店で買ったものなんです」
「あら、嬉しい。穀物はめったに食べられないの」
墓守と言えば陰気な印象がありますが、日持ちさせるために固く焼かれたパンでも幸せそうに食べる女性を見ていると、とてもそんなふうには見えません。
「私はね。あの集落で生まれて、森の外には何もない闇が広がっていて、世界とはすなわちこの集落のことであると教えられて生きていたの」
食べ終えた女性は、一息ついてそう切り出しました。
「酋長は神に選ばれた統治者なんだって言われて、そんなもんなんだって疑いもせずに生きていた。文字や
* * *
集落には馴染んでいたものの、「オッサン」が何者だったのか、今でも女性は分かっていません。
当時はまだ小さな女の子だった女性が「オッサン」と初めて話をしたのは、大人の手伝いで収穫してきたものを酋長の家に運んでいる最中でした。
ひょいっと房ごと取られたかと思うと、一口で食べられてしまったのです。止める間もないほどの早業で、さらに「オッサン」は女の子の口にも赤く熟れた実を押し込みました。
「取ったものは全部酋長に渡して、酋長が神さまに恵みの感謝の言葉を述べてから、みんなの家に平等に配ってくれるんだよ」
それが当たり前で、つまみ食いしたことがバレれば、棒で打たれる決まりでした。
反射的に飲み込んでしまい、なんてことをしてくれたんだと怒る女の子に、彼はオレンジの百合の髪飾りを揺らして、「ごちそーさん」と返しました。
「自分ががんばって採ったのに、一番美味いものを自分が食えないなんて、割にあわねえ。間違ってるんだよ。努力の成果は自分がもらうもんだ」
横取りした「オッサン」がそれを言うのは筋が通らないと、女の子にも分かっていました。でもそれをうまく言葉にできなくて、しばらく地団駄を踏んだものです。
女の子は、いつかやり返してやろうと「オッサン」の観察を始めました。
そしてすぐに、「オッサン」が集落の他の大人たちと違うことに気がつきました。
「オッサン」は星を指差して、誰からも聞いたことのない名前を歌うように口ずさんでいました。
「オッサン」は地面によく分からない模様を書いて、お前の名前はこういう字で書くんだと教えていました。
「オッサン」はよく、誰も収穫しない花や実を採ってきては刻んだり砕いたり、料理をするように処理していました。でも、食べているところは一回も見ませんでした。
「オッサン」は時々、集落の中でも森の中でも見たことのない、つまり世界に存在しないはずの琥珀色の水を飲んでいました。
「オッサン」はよく、日が暮れても集落に戻っていないことがありました。日の出とともに起きて、日が沈むときには家に入るのが決まりだというのに。
女の子は、「オッサン」をおかしいと結論づけました。その上で、本人を直接問い質しました。
「ねえ、オッサンってなんなの?」
たいした度胸と言えばそうですが、女の子はただ、その異質さに惹かれてしまったのです。
「なんだとはまたずいぶんな言い草だな、オイ。自分では人間のつもりだが?」
「ウソだあ。だってオッサン、変だもん。誰もやってないことやってるし、誰も言わないこと言うし、なんかおかしい。あと、いつも私たちを見下してバカにしてるでしょ! 他の人たちは時々しかそんな目しないもん」
バカにしているというのが図星だったのか、「オッサン」は初めて、片眉をあげて面白そうだという表情をしました。
「だからきっと、天上の神様の遣いとか、そういうのでしょ!」
しかし次の瞬間、そう指を突きつけられて、大爆笑しました。それも、水が沸いてお湯になるほどのたっぷりの時間を使って。
なんとか笑いをおさめた「オッサン」は、膨れっ面の女の子に向かってピンッと何かを弾きました。
とっさにキャッチしたそれは、赤銅色に輝く花の彫り物細工でした。それを「銅貨」と呼ぶのだと知るのは、まだ先のことです。
「やるよ。そいつは、お前の知らない世界の常識のひとつだ」
「世界の常識?」
「言っとくが、この猫の額みたいに小せえ土地のことじゃねえぞ。もっと広い世界の話だ」
「?」
言っていることはよく分かりませんでしたが、「オッサン」はこのときそれ以上のことを話してはくれませんでした。
「そうそう。俺が何者か当てることができたら、もっといいものをやるよ」
いつの間にか「オッサン」の指には、ピカピカに磨かれた銀と金が挟まれていました。
女の子はまた仰天しました。川や森で時々見つける綺麗な石は、全て酋長に献上する決まりだったからです。
それから数年の時が流れました。女の子もすっかり、年頃の女性になっていました。
その間も「オッサン」は変なことを繰り返し、少しずつ、集落全体もおかしくなっていきました。酋長の言うことを聞かない青年が増えていったのです。
もちろん酋長は怒って、見せしめとしてむち打ちや指を切り落とすこともやりました。それがますます彼らをかたくなにさせたことに気づかず。
青年たちと大人たちの溝の広がりを、「オッサン」は愉快そうに、卑しい笑みで見つめていました。
ただその頃、「オッサン」は自分で調合した薬をよく飲むようになっていました。ひたすらそばについて、観察し続けた女性だけが知ることでした。
「病気なら、祈祷師になんとかしてもらったら?」
「そんな原始的なものに任せる方が、寒気増すわ。それに、死ぬまでにやってみたかったことが、もうすぐ叶うんだよ。なら、もうどうでもいい」
「ふーん?」
そしてその時は、すぐやってきました。
日が暮れようとしている晩秋の日、行商人の一団が集落にたどり着いたのです。
「やあ、よかった。本当に山の中に村があったぞ。申し訳ないが、一晩の宿を貸していただけないだろうか」
彼女たちの『世界』に、激震が走った瞬間でした。
「殺せッ! そ奴らは闇より出でし魔物! ワシらをたぶらかす化け物どもじゃ!」
酋長は激昂してそう叫び、何人もの大人が武器をかまえて飛び出してきました。
「やっぱりそうだったんだ! 世界でここだけが人が住めるなんてウソだったんだ! 世界はもっと広い、いや、オレたちの『世界』が狭すぎたんだ!」
青年たちは歓喜に震えてそう叫び、貴重な外の人間を守るために武器をかまえました。
そこからは、血で血を洗うような戦いになりました。
女性は、これが「オッサン」の死ぬまでにやってみたかったことだと理解しました。でも、自分がどうしたいのか決められず、集落の隅で固くなっていました。
「さーて、そろそろ最後の仕上げだ」
まだ何かあったのかと、驚きと呆れがないまぜになった顔で「オッサン」の指す先にある酋長の家に視線を移し、
轟音とともに、一番大き家は吹っ飛びました。
「⁉」
二度、三度と轟音は続き、キンモクセイが舞うように火の粉が散っていきました。それは他の家々に燃え移り、集落はあっという間に火の海になりました。争っていた人々も動きを止め、我に返ると逃げ惑い始めました。
「あれは花火っつーんだ。本来は空に向かって打ち上げるもんなんだが、それを地上で爆発させるとこうなる。どうだ、世界はおもしれーだろ」
あまりの出来事に声を失っている女性に、「オッサン」は得意気にそう解説しました。
どの口が言うかッ! と女性は思いましたが、口がぱくぱくと動いただけでした。
それを見てまた笑いながら、「オッサン」は女性に金貨と銀貨を投げ渡しました。そちらに女性の気がそれた隙に、「オッサン」は焼けていく家の前で気が触れたように喚いている酋長の方へと歩き出しました。
「餞別だ。好きに生きていけよ。まあ俺みたいな生き方はおススメしねえけどな」
(ああ、死ぬのか)
咳とともに吐き出した血をもはや拭おうともしない「オッサン」を見て女性はそう悟り、逡巡した後、身を翻して森へと走っていきました。
どうしても今、「オッサン」に付き従って自分も死ぬイメージができなかったのです。
──だから、そのあと彼が酋長に何を言っていたかも、彼女は知らないのでした。
「どうだジジイ! お前が王の世界がぶっ壊れる様は!
出来損ないの俺を川に突き落として処分したくせに、俺が酒と煙草を持って帰ってきて、仕入れもできると言っただけで受け入れやがって。馬鹿すぎて笑いをこらえるのが大変だったぜ!
医者から不治の病を宣告されたとき、俺は世界をぶっ壊してみたいと思った。その『世界』にこの集落を選んだとは、想像もしなかったか⁉
今俺は最っ高の気分だぜ、クソジジイッ‼」
* * *
「数日経って、こっそり集落に戻ってみたの。そしてオッサンが死んだことと、ここに捨てられて鳥に食われることになったって知った。いいザマだとかなんとか言ってたから、ホント、殴ってやろうかと思った」
一瞬だけ、女性の眉間に深い皺が刻まれました。それには触れず、ビブリオドールは穏やかな声音で言いました。
「世の中には、鳥葬という葬送のやり方もあるそうですよ。鳥に食べてもらうことで、遺体を天へ送り届ける意味があるとか」
「へえ、それはステキな習慣ね。でもあの集落では違うわ。凶暴で卑しい野のモノに体を蹂躙されるのは、このうえない辱めであるっていう考え方だから」
気を落ち着かせるためか、女性は冷めてしまったお茶をゆっくりと飲み干しました。
「……私がここに来たときにはもう飢えた鳥に食い散らかされたあとで、埋葬できるようなものはなかった。
綺麗だった髪飾りも砕けちゃってて、それを直してるうちに、やっぱり私ぐらいはオッサンのとこにいよっかなって思ったのよ。でも、結果的にそれでよかったと思ってる。運がよかったとも言うかも?」
苦笑いを浮かべた女性は机の上の小さなアクセサリーボックスを開けて、一部が欠けたままの髪飾りと綺麗なまま並んでいる三枚のコインを見せました。
「このコインがオッサンにもらったやつね」
愛のスミレの銅貨、祝福のポインセチアの銀貨、富のディモルフォセカの金貨。どれも世界中で広く流通している代表的な柄のコインでした。
「実はあのオッサン、私以外の人にもいろんな理由をつけてコインを渡してたみたい。でも、それが『世界』でどれだけの価値と意味があるのか、具体的には教えてくれなかった。
もっと言うと、外にはどういう人が住んでいて、どういうものがあって、どうやって生きているのか、何も教えてくれなかった。ただ、そういう世界が『有る』としか言わなかった。
……数枚のコインを持っているだけの、何も知らない人が、ほとんど着の身着のまま飛び出して、ちゃんと生きていけるとはあまり思えないでしょ。あのオッサンは、絶対そこまで分かっていた」
「悪魔的な男だったようだな。ずいぶんとタチが悪い」
話を聞く限り、どうもその「オッサン」とやらは、回りくどく人を破滅に追いやることを楽しんでいたようです。
それをカリオンは悪魔と喩え、彼に魅せられてしまった女性を少しかわいそうだと思いました。
「悪魔的……そうね、そうかもしれない。私には、なんというか、我こそがこの世の春であるというような人に見えたけど」
ズルズルと項垂れていった女性は、机に額を当てて小さく、本当に小さく呟きました。
────あのオッサンは天の園へ逝けたのかしらね。
「ええ、もちろん。善人も悪人も、等しく天の園へ逝き、そしてまたこの世界に還って来るのが定めですから」
そう告げたのはビブリオドール。死んでもなお死にきれず、彷徨う魂を救うために神に造られた人形でした。
「それは寂しいことかもしれませんが、新たな喜びを見つけるためでもあるんですよ。だから、顔を上げてください。貴女が泣いても、彼は喜びませんよ」
短いオレンジの髪を優しく、何度も撫でてそう言いました。
女性はしばらくその心地良さに甘えていたようですが、やがて顔を上げ、すくっと立ち上がりました。
「そうね、あなたの言う通り。あのオッサンなら、むしろ泣いてたら指差して嘲笑ってくるわ。想像したらすごい腹立つ! だいたいここにいるって決めたのも、オッサンの思い通りにさっさとくたばってたまるかって思ったからだしね!」
もうすっかり、最初に会ったときのような快活さを取り戻していました。
「だから次会ったとき、勝ったって言うために私は生きていくの」
茶目っ気たっぷりに片目を閉じた彼女に、カリオンはうなずき返しました。
「その意気なら、婆さんになって天寿もまっとうしそうだ。……さて、そろそろ行くか」
「はい。お茶、ごちそうさまでした」
「いーえ、こちらこそ、パンをありがとう」
戸口まで見送ってくれた女性が、最後に言いました。
「あの、ね。ありがとう。他の人にはあんなことまで言わないんだけど、なんかつい、あなたたちには言っちゃった。でもちゃんと聞いて、答えてくれて、ありがとう。嬉しかった」
ビブリオドールは、自分のことは何も言わず、ただ微笑み返しました。
「どういたしまして。貴女の憂いが少しでも晴れたなら、喜ばしいことです」
こうして、明るい墓守の女性に幸あれと祈りながら、二人はまた世界を巡る道を歩き出したのでした。
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