春待つ戦士とビブリオドールのお話



  赤を溶かす黒の残酷さよ

  私は独りここにいる

  世界は今日も美しい彩りで巡り

  ここには今日も灰色の弔いが響く

  最果ての蒼すらも

  私には眩しすぎるから

  少し俯き、時々顔を上げて

  手はポケットに、足は留めて

  私は独りここにいる






 すぐそばに町があって、山もあって、川も流れている。なのにそこだけは不思議と、何もない灰色の砂礫の荒野でした。上から見ればそこだけぽっかりと、色を失ってしまったように見えるでしょう。


 いつからそうだったのか、どうしてそうだったのか、誰も知りません。だからこそ、旅人や商人たちはみんな、この荒野を足早に駆け抜けていくのです。


 「なるほどな。どんな暑さの夏でも、薄気味悪い寒々しさを感じると言われるだけのことはある」


 むせび泣くような音を立てて、強い風が通り過ぎていきます。吹き上げられた白い髪をおさえて、背の高い女性がそう呟きました。


 「昔は人が住んでいた、と言われても、にわかには信じられないな」

 「ええ。長い時の中で少しずつ失われ、忘れられていったのでしょう」


 女性の隣に立っている少女の艶めく蜂蜜色の長髪も、激しく乱れ散っていました。

 リボンとフリルで飾られたゴシックドレスを着たこの少女──に見えるのは、ビブリオドールと呼ばれる人ならざるモノです。


 ビブリオドール。


 それはかつて世界中の全てに忘れられた友だちの神さまが、死んでもなお彷徨い続ける魂を救うための祝詞を預けて、この世界に遣わしたただ一つの人形でした。自らの内にその祝詞を保管・管理していることから、「図書館の人形」と呼ばれています。


 そして背の高い女性は、ビブリオドールと共に世界を巡る契約者で、ビブリオドールは「館長さん」と呼んでいます。本名はカリオン・シュラークといい、元は傭兵として名を知られていました。

 そんな彼女は今、奇妙な懐かしさを感じてぐるりと首を巡らせていました。


 (そうか、ここは……)


 わずかな水気も、草木の一本も、まったく見当たらない不毛の大地。そういえば、カリオンがビブリオドールと出会った箱庭せかいの片隅の島も、こんな様子でした。


 「それで、ここでいったい何があってこんな風になってしまったんだ?」

 「……不運な、と言ってしまえば、そうなのかもしれません」


 髪を軽く梳いて整えたビブリオドールは、さくっと乾いた音を立てて歩き始めました。


 「そのとき世界では、天候不順が続いて作物が実らない飢えの時を迎えていました。


 元々ここは、薬用や染料に使う花を多く育てていた町でした。ですが実りの悪さは穀物以外にも及び、生計を立てられなくなった人々は出稼ぎのために、あるいは口減らしのために、他の町へと流れていきました。


 その中で一人、狩りの腕を活かした戦士として出稼ぎに出ていた男性がいました。

 彼はある日、病に罹って解雇されてしまったので、この町に戻ってきました。幼馴染みであり、妻でもあった女性が彼を温かく迎えてくれました。


 幸いにして病は重いものでもなく、妻の看病のもと、徐々に良くなっていきました」


 そしてビブリオドールは一瞬立ち止まると、山へ顔を向けました。


 「ところが、実りが少ない山から食べるものを求めて、夕暮れにまぎれるように狼の群れが町へ下りてきてしまったのです。


 飢えた獣ほど恐ろしいものはありません。人々は逃げ惑い、追い払おうとして熾した火が家に燃え移って大きな火事になってしまうなど、町は混乱を極めました。


 彼も妻の手を引いて町から避難しようとしていましたが、いくら狩りが上手くても病の身。倒した狼の数が片手を越えたところで目眩に襲われ、膝をついてしまいました。


 狡猾な生き物としても知られる狼がそれを見逃すはずもなく、すぐに一匹の狼が飛びかかってきました。


 死を覚悟した男性でしたが、直後に飛び散った血は、愛する妻のものでした。


 深い慟哭の果てに彼は──」


 ビブリオドールが足を止めた先、もうあと五歩でも進めば触れ合えるところに、皮の鎧を着た男が直立不動で立っていました。

 短く刈り込まれた髪に、全体的に痩せた印象の体つきで、虚ろな瞳はどこか遠くを見ていました。その足下に、影はありません。


 『何者だ』


 ひび割れた唇からふいに落とされた声は、聞き逃してしまいそうなほど掠れたものでした。まるで、この何もない土地そのもののような。


 「はじめまして。わたしはビブリオドール。大いなる母より貴方を……」

 『去れ。彼女以外の何者も、この地に在ることは許さない』

 「……尋ねておいてそれとは、あんまりではありませんか」


 ビブリオドールは思わず微苦笑を浮かべ、挨拶のために持ち上げていたドレスの裾を元に戻しました。


 『繰り返す。ここは私と彼女の約束を待つ地。どこの馬の骨とも知れぬ者どもが踏み入るな』

 「約束?」

 『そうだ。また会えると、彼女は言ってくれた。だからここで待っている』

 「彼女の墓の前でもなく、こんな何もないところでか」


 何度見渡しても、ここには水の一滴、花の一本もありません。ここにあったはずの町の跡は、全て朽ち果てたあとなのでしょう。彼女と住んでいた家も、彼女を弔った墓も。


 縋る思い出のよすがもないというのは、辛いことだろう。


 カリオンがそう思って尋ねると、返ってきた答えは真逆のものでした。


 『いらない』

 「は?」

 『墓も、家も、何もいらない。そんなものがあれば、いずれ他人に踏み込まれ、荒らされてしまう』


 虚ろな目に光が戻り、カリオンを強く睨みつけました。


 『私はいまでも忘れていない。日が沈み、夜の闇が全てを消していくように、失われていった彼女の命を。だからこそ、何もいらない。何かを残しても必ず奪われるならば、そんなものはなくていい』


 ドンッ、と彼は拳で自分の胸を打ちました。


 『彼女を想う私の心だけが、ここに在ればいい』


 それはカリオンの知らない強さでした。彼の意を汲んで、このままここから立ち去りたくなってしまいます。


 『ゆえに、お前たちの望むものなどない。去れ』

 「……っ」


 恐怖ではない何かに気圧されて、反射的にカリオンの足が半歩下がりました。


 ですが、それもまた許されないことなのです。

 この世に未練を、愛着を、後悔を残し、還るべき天の園へ還れなかった彷徨う魂を救うことがビブリオドールの使命であり、契約者たるカリオンの使命でもあるのだから。


 「……少し、不思議に思っていました。どうしてここはこんなにも乾いた、寂しい場所なのかと」


 ゆっくりと、深く落ち着いた声で、ビブリオドールは手を伸ばして辺りを示しました。


 「彼女を待つだけならば、ここに何があっても、誰がいても関係ないでしょう。二人きりの再会を望んでいるから? ……いいえ。貴方は、んですね」


 ピクリ、と彼の眉が動きました。


 「彼女を想う心だけは奪われないように、それだけは守れるように、その他の全てを──悲しみをかき立てる人も物も、安らぎをもたらしてくれる花の色も香りも、全てを捨てることを、貴方は選んだ。


 だから、ここからは全てがなくなってしまったんです。それはとても強いけれど、悲しい強さですね」


 彼は「そうだ」という肯定もせず、「それは違う」という否定もしませんでした。ただ、


 『さっさとどこかへ行ってしまえ』


 そう繰り返すだけでした。


 「いいえ、そうはいきません。わたしはビブリオドールですから」


 ビブリオドールは両手をあわせてお椀の形に組むと、戦士へ差しのべました。



  書架配列六八二番より──開架

  春待つ戦士に紡ぐ天水あまみずの詩



 詠い上げるのは葬唄おくりうた。死者を慰め、彼の地へおくる詩。



  春謳う風の

  あなたの友を呼んできて

  ここに新たな種を蒔くために



 白い手の中に透明な水が集まり、みるみるうちに溢れ出して足下に小さな川を作るほどになりました。戦士の男性はそれを無感動に、ただ意図を図りかねるようにかすかに眉を寄せて見ていました。


 彼だけが気づかなかったのです。


 ひだまりを乗せた雨が、風に乗ってやってくる気配に。



  灰色に固められた大地を洗い流して

  今一度、温かな夢絆、命がここに結ばれるように

  天からそそぎし雫はどこまでも沁みわたり

  心の奥深く、枯れた心も渇いた心も癒してくれる



 『なっ……⁉』


 初めて戦士が狼狽したような声をあげて身じろぎしました。

 これまでにも雨が降る日はあったでしょう。ですが、地面にあたって弾けた雨粒の波紋から、花が開くようなことはなかったでしょう。


 『これはいったい……! なんのつもりだ貴様ら!』



  だからどうか受け入れて

  生命の息吹の訪れを

  花の芽吹きが福音となるように



 幻とはいえ、あまりに望まぬ光景に文句のひとつでも言ってやりたくて。

 けれど戦士は、それ以上何かを言うことはありませんでした。


 いつの間にか目の前で微笑んでくれていたのは、会いたくて会いたくてたまらなかった、愛する妻だったからです。


 『ユーリカ……? そんなまさか……そんなバカな!』


 後ずさり、頭を掻きむしった彼は初めて自分の足下へ視線を落としました。そこに咲いていたのは、夏空のように明るい青い花。


 妻が一番好きだった花でした。


 『……』



  それは貴方が望む、ただ一つの愛なのだから



 潰してしまわないように、そっと戦士はその花を摘みました。


 『そうか……。君はもしかしたらずっと、私に会いにこようとしてくれていたのかもしれないな。あれほどそれを待っていたのに……自分でそれを拒んでいたなんて、どんな皮肉だろうか』


 気にしてないわ。


 そう言うかのように、彼女は手を差し出してきました。

 戦士はしっかりと握り返して、別れる前の仲睦まじいまま、花の絨毯を歩いていきました。



  願わくば、

  貴方の次なる目覚めにも光があらんことを……




 戦士の孤独が癒された地は、これからゆっくりともとのように緑豊かな場所へと戻るでしょう。


 いつかまた、そうなったときにここへ来ようか。


 そんな約束をして、ビブリオドールと契約者は歩き去っていきました。





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