龍宮姫と漁師とビブリオドールのお話
百花咲き乱れて光、海に満つ
色鮮やかに、歌声高らかに
微笑みの欠片が宙に舞う
永遠の平和を約束されていると
そう信じていたけれど
命が失われ、苔むした古里は
ただ静かに朽ちるのだろう
ならばどうか今
ただひとときの追想を許したまえ
水気を含んだ草の匂いが肺に溜まっているような、不思議な感じがします。並木の影を選んで歩いていても、残念ながら気休めにもなりません。
ここは世界でも珍しい、海の上を蛇行して伸びる砂の道でした。大陸から少し離れた小島まで続いており、道というよりは橋と言うほうがよいでしょう。いつからあるのか、どうやってできたのか、誰も知りません。
ときおり海から風が吹いても、涼しいと感じるのはその一瞬だけ。あとはずーっと、蒸し風呂の中にいるようでした。肌を焦がすような痛みのある熱ではありませんが、どこか重たく、一度体の中に取り込んでしまうとなかなか逃げてくれません。
「こういう暑さが一番厄介だ。体のあちこちの動きが鈍る」
白い長い髪を頭の高いところでひとつに束ねた女性が、タオルで首筋の汗を拭いながらげんなりとした表情で言いました。
彼女は名をカリオン・シュラークといい、元々は傭兵でしたがとある
ビブリオドールとは、神さまに造られた世界でただ一つの人形です。
遠い遠い昔、世界中の全てから忘れられてしまった神さまがいました。友だちの神さまと呼ばれていたその人は、ある日世界の片隅で死んでもなお死にきれずに苦しんでいる若者と出会いました。彼を天の園へ導いた友だちの神さまは、同じように苦しんでいる人を助けるために、ビブリオドールを造ったのでした。
いつもはリボンとフリルとレースをたっぷり使った、黒を基調とした重厚なドレスを着ているのですが、今はこの地の季節にあわせて涼しげな装いをしていました。
「他の皆さんのように、海水浴とまでは言いませんが、海に足を浸してみますか? 気持ち良さそうですよ」
つばの広い帽子をかぶり、淡い水色のスカートをふわりと広げて、ビブリオドールは白波の立つ海を指差しました。
海の上の砂浜ですから、どこからでも海に入れます。太陽の勢いが増す夏は特に、水浴びを楽しむ人たちがたくさんここを訪れていました。
「……そうだな。少しはマシになるかもしれない」
この暑さの中で歩き続けることに疲れていたカリオンは、ビブリオドールの提案に頷くとすぐに足の向きを変えました。
光を反射する白い砂浜に目を細めながら、二人は靴を脱いでさっそく海に入りました。
波打ち際の水は温められていましたが、波が去って風が吹くと、濡れた肌がひんやりとして心地良いものでした。さらに一歩踏み出すと、押しよせる水はもう少し冷たくなりました。
頭上から降り注ぐ熱量は変わりませんが、潮の匂いを含んだ海から風と足下の水の冷たさを感じていると、少しずつ気分が落ち着いてきたカリオンでした。
「ふー……」
長く息を吐きながら、水平線をぼんやりと見ていると船が何艘も視界を横切っていきました。
「遊覧船でしょうか。釣りもできるそうなので、そちらかもしれませんね」
「ああ、そういえばそんな案内も見たな」
夏特有のやや光に霞んだ青空の下、風もなく波は穏やかなので、さぞ気持ちの良いことでしょう。
そんな少しの休憩を挟んで砂の橋を渡り終えた先、島の入口にあたる一帯には土産物屋や料理屋の看板がたくさん並んでいました。
そのほとんどが、細かな図柄の違いはあれど、同じ絵を外から見えるところに飾っていました。
光が差し込む海の底を、色とりどりの魚とともに歩いている乙女の横顔です。
気になったカリオンは、料理屋で給仕をしている女性に訊いてみました。
「あの絵は何か意味があるのか? どこの店も同じような絵があったが」
「お店だけじゃなくて、各家庭にもありますよー。あれはお守りなんです。他のところと違って、これといったご利益があるものじゃなくて、こう……全般的なお守りですね」
「全般的なお守り」
「はい。うちは商売繁盛と家内安全をお祈りしてますかねー。どのお土産屋さんにも必ずあるので、良ければお好きなものを探してみてください」
女性はそう言いながら厨房へ戻っていきました。そのあとを引き継いだのはビブリオドールです。
「この島には
「龍宮姫伝説?」
「はい」
——この島は元々、大陸とずっと陸続きだった。
ある日、海底にある龍宮城の姫が人に化けてこの地で遊んでいた。
そのとき村長の家が火事になり、幼い孫娘が取り残されていると騒ぎになった。
龍宮城の姫は、その不思議な神通力をもって火事を鎮め、孫娘の命を救った。
村長はいたく感謝して、龍宮城の姫を別邸に招いて手厚くもてなした。
村長の孫娘も龍宮城の姫に懐いて、楽しい時を過ごしていた。
宴は三日三晩続き、龍宮城の姫の美貌と神通力に惚れ込んだ村長は、龍宮城の姫が必ず身につけていた大きな鱗の髪飾りをこっそり盗んだ。
あの鱗がなければ、元の姿に戻って龍宮城に帰ることができない。
髪飾りがなくなったことに気がついた龍宮城の姫は、深く嘆き悲しんだ。
龍宮城の姫を元気づけるために、人々は舞を披露し、豪華な食事を用意してさらにもてなした。
一年、二年と時が経ち、龍宮城の姫が地上で暮らした日々が三年を過ぎた頃。
地上を大地震が襲った。
大地が崩れ、海も割れ、天は雷を落として荒れ狂った。
「龍神様のお怒りじゃ」
人々はそう叫んで震え上がった。
娘を返さない村人への龍神の怒りは凄まじく、このあたりで一番高い山の周りの地面は全て海の中へ消えてしまった。
山に身を寄せ合った人々は必死で許しを請うた。
人々のもてなしに感謝していた龍宮城の姫は、山と大陸を繋ぐ橋を架けて人々を救った。
人々は慈悲深い姫に感謝し、姫を祀る社を山の上と海の近くに建てた。
「また別の話では、龍宮城の姫が神通力で自身を橋と変えたとも言われています」
「そうなると、私たちは龍宮城の姫の背中を歩いて島に来たということか?」
「その伝説の通りにいえばそうですね。せっかくですから、お参りしていきますか?」
「それもいいな。それに小さい島だし、見て回れば自然と社にも行くことになるだろう」
この島の全体になんとなく勾配がついているのも、元は山だからということなのでしょうか。
一番高いところに建てられた立派な社には、たくさんの人が訪れていました。この暑さにも負けずに坂を登ってきた彼らのお目当ては、どちらかというと社を背にして広がる絶景だったようです。
真っ青な海と、その上を悠々とゆく白い砂、並木の緑。高いところから見ないと、この美しいコントラストは分かりません。地域の人々が宝石と呼んで大事にするのも当然でした。
「なるほど、ここからなら姫の姿がよく見えるな」
「はい。感謝を捧げるにはふさわしい場所ですね」
社の近くの茶屋で休みながら、カリオンは雄大な景色にほれぼれとして、気がつくとため息をこぼしていました。
もうひとつの社は、砂の橋とは反対側の岩屋の中にありました。日も当たらず、海にも近いためか外よりずいぶん気温が低いようです。
岩屋の奥には瞳を閉じた女性の像が祀ってあり、花や海の幸などたくさんの供え物が並んでいました。この像をモデルに、あのお守りの乙女は描かれているのでしょう。
岩屋のすぐ傍は、船が発着する小さな港のような場所になっていました。
観光客を乗せる商業用の船がほとんどの中で一隻だけ、明らかに違う船がありました。乗っていたのは焼けた肌に皺を刻んだ老漁師でした。珊瑚の首飾りの白さがより際立っています。
老漁師が獲物の入ってない網を半ば引きずるようにして船から降りると、何かがコンコンッと落ちてきて、ビブリオドールの足下まで転がってきました。
「ずいぶん立派な貝だな」
軽く目を見張ったカリオンが言う通り、それはビブリオドールの両手に余るくらいの大きな貝でした。
「すみません。こちら落とされましたよ」
ビブリオドールが声をかけると、老漁師はちらりと視線を向けましたが、素っ気ない態度で立ち去ってしまいました。
「たまたま引っかかったやつだ。お前にやる」
「え、でも……」
取りつく島もなく、困っていると近くで見ていた遊覧船の船長が肩をすくめて教えてくれました。
「気にせんでください。あのじいさん、誰にでもあんな感じなんですよ。もうけたと思って、食べてやってもらえませんか。あっちに釣った魚が食べれる場所がありますから。貝は鮮度が命ですんで、なるべく急いで」
「……そうですか。分かりました、ありがとうございます」
案内された市場へ行くと、たしかに魚の焼けるおいしそうな匂いが、そこかしこからしていました。
ここが子供の頃からの遊び場だったという女性に焼くのを任せて、二人はただその手際の良さに感心していました。
「にしても、貝とはねえ。しかもこんな大きいのなんて。珍しいよー。どうやって獲ったんだい?」
「いえ、獲ったのではなくもらったんです。たまたま引っかかっただけだから、と」
それだけで女性は思い当たったのか、「あー」と微妙な声をこぼして苦笑しました。
「さてはあの珊瑚を首から下げたじいさんだね? 五、六年ぐらい前にどこからか越してきたんだけど、誰と喋るでもなく毎日毎日海に出てるんだよねえ。そのくせ獲物を売りにくることもない。全部食ってるのかというと、そうでもないようだし。あんな立派な網を持ってるくせに、変な人だよ。ほら、もう食べていいよ」
疎んでいるというよりは、好奇心半分心配半分といったところでしょうか。そんな口ぶりでした。
大きくてプリッとした貝はさすが、とても美味しいものでした。ちなみにカリオンも魚を一匹お裾分けしてもらっていただきました。
「この貝のお礼を言いたいのですが、お家は港の近くなんですか?」
「ああ、そうだね。船着き場からの道を右に曲がってこっちに来ただろ? あそこを真っ直ぐに行ったら、庭先で網を広げて干してる家があるから、そこだよ」
「そうなんですね。分かりました、ありがとうございます」
「魚をありがとう。美味かった」
「はいはい、どういたしまして。あっ、そうだ。この時期は夕方から大雨が降りやすいんだ。じいさんのところに行くのは明日にして、今日はもう宿に戻っておきな」
はたして女性の言う通り、日が沈む前から辺りは薄暗くなっていき、やがて窓を打つ激しい雨の音が聞こえ始めました。
「昼間は、雲で少しぐらい翳ってくれないかと思うのも虚しいぐらい、よく晴れていたのにな。もしかしたら龍神はまだ怒っているんじゃないか?」
「伝説の先のお話ですか。それもまた面白いですね」
忠告のおかげで濡れずにすんだ二人は、宿のベッドに座ってそんなことを話していました。
水の音はどんどん大きくなり。
水の匂いもまたどんどん強くなって。
それはまるで、自分が水の中にいるような……。
その夜、カリオンは不思議な夢を見ました。
ゴポポッと水の流れる音がします。
視界は暗く、でもそれは光がないせいなのか、自分の目が開いてないからなのか、今ひとつはっきりしません。
時間の感覚も分からない中で、泣きそうな声だけははっきりと、耳に残りました。
『私の髪飾りを知りませんか?』
カリオンが目を開けると、日が昇り始めて周りが少し明るくなり始めた頃でした。
窓を開けると雨の気配はすっかり去っていて、今日も暑くなることを予感させるような空が見えました。
「館長さん。夢は見ましたか?」
朝食の席で、ビブリオドールはカリオンにそう尋ねました。
「水の音しかしない場所で、髪飾りを知らないかと聞いてきた女の夢なら見た。まるで、伝説の龍宮姫だな」
急な質問でしたが、戸惑わずに答えたばかりか、カリオンはその先にも気がつきました。
「……あの女は、彷徨う魂か」
ビブリオドールは小さく首を縦に振りました。
この世界には、強い未練や死への恐怖で、還るべき天の園へ逝けない魂が少なからずいます。彼らを天の園へ無事に葬るのがビブリオドールに与えられた役目です。
では、カリオンたちが見た夢の女性は、なぜ天の園へ還れないのか。
「おそらくは、海に落としてしまった髪飾りを探しているのかと」
「それは……見つけてやるのに骨が折れるどころの話じゃないぞ。海は広いうえに波もあって、さらに深い。無謀だ」
もちろん、それはビブリオドールも承知しています。それでも期待を寄せる眼差しで外を見ました。
「ええ、普通はそう思います。ですがもしかしたら、その無謀に挑んだ人がいるのかもしれません」
夏の朝は足が早く、二人がごはんを食べ終わるときにはもう、重たい熱が押し寄せつつありました。
二人はそのまま、昨日の貝のお礼を兼ねて老漁師の家を訪れました。甘いものが好きだという情報を得ていたので、手土産はいろんな味の餡がつまった饅頭です。
「おはようございます。美味しい貝のお礼にうかがいました」
老漁師は、庭の一角で花に囲まれていた盛り土に手をあわせていました。突然やってきた二人を警戒を滲ませて睨んでいましたが、ビブリオドールが見た夢の話をすると無言で二人を招き入れました。
そして奥から、一晩かけて綺麗にしたという見事な細工の珠簪を持って来たのです。
金箔や銀箔を貼りつけた赤い珊瑚を軸に、珠の部分は大きくて白いシャコガイが使われていました。藤の花のように垂れて連なる鱗の飾りは、瑠璃や水晶、瑪瑙を薄く削ったものでした。一体どれほどの手間をかけて作られたものなのでしょう。
「まさか、見つけたのか⁉ 一体どうやって……⁉」
ビブリオドールなら、彷徨う魂の声を聞くことができます。例の女性から詳しく話を聞いて、髪飾りの場所にあたりをつけたら老漁師に教えるつもりでした。
ところが彼は、自分だけの力で髪飾りを見つけていたのです。
「ふん、どうやっても何も、ただの偶然だ。……だが、誰に話したって信じてもらえないようなあの夢の話をするお前らが、このタイミングで現れたってのには、何か不思議なものを感じるがな」
そう言って老漁師は、煙草をふかしながら、事の始まりを語りました。
「龍宮姫がワシの夢枕に立ったのは、この島に来てすぐの時だ。
この島は婆さんの生まれ故郷でな。婆さんが死んで子供もいねえってんで、なら婆さんが好きだったこの島で菩提を弔ってやろうって、越してきたんだ」
カランッと、お茶の入ったグラスで氷が音を立てました。
「では、お庭の花は奥様のものなんですね」
老漁師の無言が、そうだということを告げていました。
「……最初は、婆さんが生前の心残りでも言ってんのかと思ったが、それにしちゃ美人すぎたからなあ。だから、これはもしや伝説の龍宮姫じゃないかと思ったのさ。
特にやることもない、老い先短い命だ。それを夢で会った伝説の姫のために使うってのも、なかなか悪い話じゃねえだろ?」
フッ、と小さく鼻から息をこぼして老漁師は笑いました。無愛想な印象の表情が崩れ、どこか得意気な笑顔でした。
「それだけで何年も海をさらっていたのか?」
「……そりゃお前、泣いてる女を無視する奴がいたら、そいつは男じゃねえだろ」
まだ驚きが抜けきれていないカリオンがそう問えば、老漁師は聞こえるか怪しいぐらいの小さい声で答えました。
ですが、この家は観光客の賑わいから一歩離れたところにあります。絶え間なく聞こえる蝉の声と、時々吹くゆったりとした風に鳴る風鈴の音しかしませんので、老漁師が思った以上にカリオンとビブリオドールにははっきりと聞こえていたのでした。
二人の表情からそれに気がついた老漁師は、早口で付け足しました。
「まあ今となっちゃ、あの人が何者かなんてどうでもいいな。勝負に勝った爽快感みたいなほうが大きい」
その手には、簪が密封されていた箱が握られていました。
箱は錆びたり水草がこびりついていたり、小さな穴も開いていましたが、この箱のおかげで、簪は今もこうして夏の輝かしい太陽を浴びてキラキラと光を放っているのです。
「祭事を取り仕切ってる神官がいるのは、山の上の社のほうだ。お前らのほうが早く渡してやれるだろ。代わりに奉納してきてくれねえか」
老漁師は節くれだった手で、自身の膝を撫でました。年寄る波は大きかったということでしょう。簪を見つけることができたのは、まさに執念というほかありません。
その最後を、同じ夢を見た者同士とはいえ、他人に任せても悔しくはない。そんな満たされた表情でした。
「いいえ」
ですが、ビブリオドールは首を横に振りました。
「この髪飾りを探している人は、海にいます」
まさかそんな返事が返ってくることは思わなかった老漁師の目が、丸くなってビブリオドールを訝しむように見ました。
「もう一度、船を出してもらえませんか?」
昨日と変わらずよく晴れた空に、雲は小さなかたまりでちょっとずつ浮かんでいるだけでした。今日も雲で日が翳ることは期待できないでしょう。
いつもは一人で乗る老漁師の船に、今日はお客様が二人。その内の一人が、空を見上げながら進路を示していました。
「一角の涙星が東に過ぎたので、次は南の鳴星に向かって進んでください」
「お前は昼でも星が見えるんだな、セシェ」
「ええ、見ようと思えばいつだって」
カリオンもつられて見上げてみましたが、契約者といえど人間である彼女には、燦々と輝く太陽と、薄い青の平坦な空しか見えませんでした。
そして、無言で舵を取っている老漁師を振り返りました。
「何も聞かないんだな。どうしてセシェに星が見えるのかも、今どこへ向かっているのかも」
「……ふん。今さら何を言う。可笑しいと言うなら、最初から可笑しかった」
「なるほど、もっともだ」
無愛想な答えでしたが、その一言に全てが込められているような気がしました。察したカリオンが頷いたとき、海面が強くたわみました。
「っ、なんだ?」
身構えても意味はなく、
「ああ、ここですね」
ビブリオドールの緊張感のない声と同時に、船はひっくり返ってしまいました。
突然海に投げ出され、塩辛い大量の水が無防備だったカリオンの目や鼻や喉を容赦なく痛めつけました。
「ゲホッ、ゲホッ!」
「チッ、なんなんだいきなり!」
水面から顔を出して海水を吐き出す横で、老漁師も悪態をついていました。空には変わらず雲がほとんどなく、風も忘れた頃にそよぐほどしかありません。転覆する理由がないのです。
そのとき、するはずの三つ目の声が聞こえないことにカリオンは気がついて、顔を青ざめさせました。
「セシェ!? どこだセシェ!」
「おい、泳げなかったのかあの子供は⁉」
「っ!」
老漁師の言葉が追い打ちをかけ、カリオンは大きく息を吸い込むと、再び海の中の人となりました。
そして、透明なアクアブルーの底に佇んでいる巨大な海底都市の姿を見たのです。
都市の一部は崩れていたものの、整然としたかつての街の名残を感じさせ、同時に暗がりや海草の中にたくさんの生き物たちが暮らしているのが見えました。
沈黙する廃墟であり、息づくものたちの住処でもある——。
水が動くだけの緩やかな無音の中、カリオンも老漁師も、そんな奇妙なバランスの美しさに目を奪われていました。
書架配列五三八番より——開架
龍宮姫に紡ぐ
溶けるように聞こえてきたのは、ビブリオドールが詠い上げる
さあ、こちらへおいで
沈んだ夢を探す
ビブリオドールの手の中にあった簪が、赤みを帯びた柔らかい光に包まれました。
誰がいなくても
大切にしたいものがあったから
海底都市のどこからか同じ色の光が浮き上がってきて、見る間に黒髪をなびかせた女性に姿を変えました。
『ああ、そうよ。これだわ。ずっと探していたの……。もう、もうダメかと思っていた……!』
心を震わせた痛み
或いは、
泣き叫ぶよろこび
『これはおばあちゃんから受け継いできた宝なの。ああ、良かった。本当に……嬉しい』
簪を受け取った女性は、感極まって強く目を閉じて、それをかき抱きました。
それが幸せでも、それが不幸でも
全て人の営みは時の波に流れてしまった
今はもう伝えられるばかりの夢だけど
貴女の願いを知る人はここにいる
空から差し込む光の中に溶けていく直前、女性は老漁師の手に触れました。
貴女に贈られ、
貴女の望んだ愛もまた、
ここにある
『どんな神の導きがあったのかは分からないけれど、あの日私の声を聞いてくれたこと。それからずっと探し続けてくれたこと。そして、この髪飾りをちゃんと見つけてくれたこと。どれだけ感謝してもしきれません。本当にありがとうございますっ……!』
目の前の出来事に終始戸惑っていた老漁師は、無言で頭を下げるばかりでした。
願わくば、
貴女の次なる目覚めにも光があらんことを……
『これでやっと、みんなのところへ……』
それが、彼女の最期のささやきでした。
やがて三人は、海面に浮いているところを通りがかった遊覧船の人たちに慌てて助けられました。
ですが、子どもは怯えている様子がないし、大人は何も言わないし、老漁師は心ここにあらずの状態だしで、さぞ船の人たちは困ったことでしょう。
「ワシは、やはり夢を見ていたのか」
毛布にくるまり、手元の湯呑みに映る自分の顔を見つめながら、老漁師は誰に問うでもなくそう言いました。温かい飲み物を出したり陸地へ連絡を取ったり、遊覧船の人たちはせわしなく動いていて聞こえなかったようです。
「夢ではなく、伝説の続きを見たんだろう」
そう返したのは、隣で同じように座っていたカリオンでした。
「……そうか」
老漁師は、目線を海へ戻しました。
大急ぎで陸地へ戻っていく遊覧船からはもう、あの海底都市を見ることはできませんでした。
こうして、人々の口が色を着けて織りなしてきた龍宮姫伝説に、新たな色が加えられた瞬間を見届けて、カリオンとビブリオドールは次の旅路へ進んでいきました。
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