真理の狂信者とビブリオドールのお話





  真珠を含ませた薔薇の花

  硝子の杯に横たわる葡萄の果実

  今でも君は色褪せない追憶の庭にいる

  触れれば脆く、甘やかな夢の牢獄よ

  僕は招かれざる客人まれびと、彼方は赦されざる罪人

  ここで真理が我らを自由にする日を待ちわびよう

  遥かに幸多き楽園は愛の名の下にあるのだから






   真理の狂信者とビブリオドールのお話


 パチパチと、小さな赤い光が夜空へと弾かれて飛んでいきました。ここは、二つの国を隔てる大きな川のほとり。星の河も見えるほどよく晴れた今晩、ここで夜を明かそうとする旅人たちがいました。


 枝を折って火にくべている白い髪が特徴的な女性は、カリオン・シュラークといって、とても腕の立つ元傭兵でした。彼女の隣で食後のお茶を楽しんでいる少女は、呼び名をセシェ、正体をビブリオドールといいました。


 ビブリオドールとは、遥かに旧き神話の頃、世界中の全てに忘れられた友だちの神さまが造った人形のことです。未練や後悔、怒り、悲しみ、憎しみ、愛おしさなど、色んな理由があって、死んでもなお天の園へ逝けなかった彷徨う魂を救うため。荒れる精霊を鎮めるため。たくさんの愛と願いを込めて造られました。


 たくさんのリボンとフリルで飾られたドレスに身を包み、ビブリオドールは世界中を旅します。そのときに伴うのが契約者です。ビブリオドールは、彷徨う魂や荒れる精霊に聞かせるための祝詞を身の内に保管・管理しています。それが世の図書館の役割に似ているため、彼女はビブリオドールと呼ばれ、ビブリオドールは契約者のことを「館長さん」と呼んでいました。契約者がビブリオドールを呼ぶ名は人によって様々です。カリオンが呼ぶ「セシェ」という言葉には、書物という意味がありました。


 明日の予定を確認しようというとき、二人はたき火の傍に立つ朧げな女性の姿を見ました。彼女は豊かな栗色の髪をおろし、この地方の伝統的なドレスを着ていました。


 『彼……止め…………ねが…………』


 そんな切れ切れのか細い声と、濃い紅玉色の瞳から一雫の涙を落として、女性の姿はふっとかき消えてしまいました。


 「今のは……?」

 「あれだけではさすがになんとも……。何か訳ありのご様子でしたので、もう少し話を聞いてみたかったところですが……」


 ビブリオドールは思案顔でもう一口、マグカップの甘いお茶を飲むにとどめました。



 翌朝。昇る日の光を受けて、水面をキラキラと白い粒が飛び交っていました。


 顔を上げれば、川が流れ込むずっと先、海の上に浮かぶシルエットがぼんやりと見えました。それは、潮が引いている間だけ通うことができる、難攻不落の知の要塞として知られた世界一の蔵書量を誇る図書館でした。

 ビブリオドールが近くに来たときは必ず寄るようにしているというので、今回もそのつもりで二人は昼前に川のこちら側の国へ入りました。


 二つの国は、長く緊張状態が続いていました。実際、全面戦争こそ起こりませんでしたが、国の端々では戦火を交えたことがあったと言います。停戦条約が結ばれ、今では戦争の爪痕も薄れて人の行き来が活発になり、平和が築かれていると二人は聞いていました。


 そう、聞いていました。


 「これは……明らかに襲撃を受けた跡だろう。一体何があったんだ?」


 焼け落ちた家、踏み荒らされた道路、道行く人の多くも体のどこかに包帯を巻いていました。

 昼食をとるために立ち寄ったお店で聞いてみると、髪に白いものが混じる大柄な男性の店主は、それはそれは深いため息をつきました。


 「んっとになあ……。戦争が終わって十年、ようやく落ち着いてきたかと思えば、今度は信仰を掲げた賊だとよ。勘弁してくれってな」

 「というと、賊が出始めたのは最近のことか?」

 「そうだな。ここ三、四年ぐらいの話だ。最初は向こうの国だけだったようだが、ついにこっちにまで現れるようになりやがった。両国とも、戦争で弱った軍は回復しきっていないから、好きなように暴れ回られてんだ。ムカつくことにな」

 「それでも、こんな街中にまで賊が来ることは珍しいだろう。国の外の道で商人を襲うのが普通だ。何か目的があるのか?」

 「……本、ですね」


 一言、ビブリオドールはそう呟きました。とたんに店主は苦虫を噛み潰したような顔になり、小さく舌打ちをこぼしました。


 「本? どういうことだ、セシェ」

 「この国も、そして向こうの国も、近くにあの大図書館があるからでしょうか。作家が多く住み、製本する工房も多く、全体的な識字率も高めでした。当然、本屋もたくさん軒を並べていました。……それが、今日は一軒も見かけていません」


 ぎゅっとビブリオドールはテーブルの上で両手を握りしめました。名前故か、ビブリオドールは殊に本が好きでした。


 「そうか……。嬢ちゃん、前にもこの国に来てくれたことがあるんだな。……ああ、そうだ。連中の狙いは本だ。本屋や工房が真っ先に焼かれ、次は各家だ。小説でも料理本でも艶本でも教科書でも、とにかく本の形をしたものを片っ端から奪っていくんだよ。おとなしく全て差し出せば命は見逃してもらえるが、思い入れのあるものだからと隠したり抵抗したりした奴は容赦なく……な」

 「一体何のために……いや、それよりあの大図書館は無事なのか? そんな過激な連中の狙いが本だというなら大図書館は」

 「ああ、それなら大丈夫だ。あそこは戦争中も中立を守って公平に人を招き入れ、貸出も返却も平時と変わらずやっていたし、今もそうだ。それだけの警備体勢が許されてるんだよ。オレも昨日予約してた本を借りにいったが、変わらず美しい静謐と深い知と美の臭いがしていて、安心したよ。こんなことになっている以上、あそこだけが心の支えだ。ああほら、これだ」


 ゴミ箱に捨てたものを、二人のためにわざわざ取り出してきて見せてくれました。白い紙の真ん中に十字架のシンボルが描かれており、「真理が我らを自由にする」というキャッチコピーがその下に並んでいました。


 「これは?」

 「連中が襲った家に置いていくんだよ。入信者募集ってことだろ。ったく、どこまで人を馬鹿にすれば気が済むんだか。てめえらこそバチに当たっちまえってんだ」


 これがあるということは、この店もごく最近、被害にあったのでしょう。どんなものか目を通して、カリオンはすぐさま顔色を変えて叫びました。


 「『真理とはすなわち、知の集合体。この世にあらざるものまで全てを知る者。愛を失った者たちよ。今の悲しみや苦しみに耐え、供物として本を捧げながら死者を蘇らせるビブリオドールの降臨を待て』だと!? なんだこれはふざけるなっ! こんな無茶苦茶なことがあるか! だいたい、」

 「落ち着いてください。ここで言ったところで、どうにもなりません」

 「っ、だが……!」


 勝手に担ぎ上げられて、身に覚えのない罪を着せられ、一番文句を言いたいのはビブリオドール本人だったでしょう。それでも彼女は、穏やかな表情を崩さずカリオンの手を静かに撫でました。


 「よそから来た奴はだいたい、アンタみたいに怒ってくれる。嬉しいと思うが、本を愛する者にとって今のここは危険な場所だ。早々に出て行ってくれ」


 せっかく会えた同士を相手に、そんなことを言わなければならない店主の声に滲む悲しさと怒りと悔しさは、察してあまりあるものでした。



 おいしい昼食をいただいて店を出た二人は、宿に荷物を置いたあと、すぐさま大図書館へ向かいました。本を狩るという悪辣な賊が、世界一本が集まるあの大図書館に何もしないのは、何か理由があるからだろうと考えたからです。


 わずかにぬかるむ海の上にできた道を足早に渡り、辿り着いた小島はぐるりと高い石の壁に囲まれていました。島へ入る門の左右には武器を持った人が立っていましたが、ただそれだけで、国境を守る兵士たちのように身元を尋ねたり持ち物を検めたりすることはしていませんでした。ここは図書館ですからそれでもかまわないのでしょうが、今のこの地域の状況を思えば、少し不用心であるようにカリオンには思えました。


 長い階段を上っていくと、やがて通路は二手に分かれました。右手に進めば大きな書架が整然と並んだ大図書館の中へ入ることができます。ビブリオドールは左に折れ、中庭へ向かいました。


 燦々と太陽が当たる広い緑の中庭にはベンチがいくつも置かれていて、人々が思い思いにくつろぎながら読書を楽しんでいました。その周りをぐるりと囲む列柱廊からは、図書館の他に食堂や集会所、希少本の保管室などへ行けるようでした。


 時代を重ねた見事な造りに感嘆しながらいくつかの階段、通路、部屋を過ぎて、入ってきた門から見て反対側へ下りる階段にさしかかったとき、通路の端から呼び止められました。


 「そこから先は関係者以外立ち入り禁止です。迷ったのであれば、閲覧室までご案内しましょう」


 彼は丈の長い白いローブを着ていました。この図書館で働く司書の制服です。ここはちょうど建物の陰になるところで涼しく、暗く、顔の横に垂れた一房の濃いラベンダー色の髪以外に、彼の特徴を示すものは何も見えませんでした。


 「すみません。こんな立派な建物を見る機会がほとんどなくて。ちなみにこの先にはどんなお部屋があるのですか?」

 「我々司書の部屋や、祈りを捧げる神聖な部屋があります。おいそれと人を招ける場所ではないのですよ」

 「祈りを? 学問と知の神ヴェネトにか?」


 ここは図書館であり、神殿ではありません。思わずカリオンがそう聞き返せば、彼は変わらず抑揚のない声で続けました。


 「いいえ。もっと貴く、もっと近しいお方にです。いずれ来るあのお方のために、知の玉座はいつでも空けてあります」

 「はあ……?」


 謎めいた答えに、カリオンは曖昧な相づちを返すことしかできませんでした。


 「ではこちらへ。この図書館の歴史や使われている建築の様式などを記した本も所蔵されています。閉館までまだ時間がありますから、これからは閲覧室でゆっくりお過ごしください」

 「はい、ありがとうございます」


 男性は先頭に立って、まっすぐ背を伸ばし、足音を立てず一定のスピードで二人を中庭まで案内しました。ビブリオドールとはあっちへこっちへ色々なところを覗いてまわっていたので気がつきませんでしたが、さっきの階段と中庭はそう離れていたわけではなかったようでした。


 「あそこの扉から閲覧室へ入れます。小腹が空いたのなら、右の扉から食堂へも行けます。この大図書館は複雑ですから、慣れない方は歩き回られないほうがよいでしょう」

 「ええ、ありがとうございます。助かりました。……最後にひとつ、よろしいですか?」

 「どうぞ」

 「貴方は、『真理が我らを自由にする』という理念を、どう思いますか?」

 「なっ、セシェ⁉」


 焦ったのはカリオンです。なぜ今、街を騒がせる賊の教義をわざわざ口にしたのか。いたずらにもめ事を起こすようなことをビブリオドールが言うのは初めてのことでした。

 重い沈黙があたりを支配したのは、一瞬のことでした。


 「……良い響きだと思います。知識を得ることで人は思想的な自由をも得ることができるのだとすれば、まさに大図書館にふさわしい言葉でしょう。……君は、見た目によらずずいぶんと賢いようだ。そして美しい」


 澱んで底の見えない二つの瞳が見ている。相変わらず暗がりにあって、表情は読めませんでしたがその目だけは、不思議とはっきりと感じ取れました。不穏な気配を察知したカリオンがビブリオドールを庇うように前に出ようとしたとき、男性はすっと身をひきました。


 「では、私はこれで失礼します」


 会釈をして去る男性の背中を、ビブリオドールはずっと見ていました。



 「あまりヒヤヒヤさせないでくれ。驚いたぞ」


 結局閲覧室には寄らず、二人はまっすぐに宿へ帰ってきました。


 「すみません、どうしても気になってしまって」

 「底が知れず薄気味悪い男だったとは思うが、言ってること自体は司書として妥当じゃなかったか?」

 「ええ、そうですね。ただ、昨晩お会いした女性の想いが彼の傍に見えたので……。おそらく、彼は今回の本を狩る者たちと何か関係があるのではないでしょうか」


 彼を止めてください。お願いします。


 昨夜の刹那に、彼女はそう言い残していたのですから。


 「それが本当なら、あの大図書館が被害に遭ってないのも分かる。いい隠れ蓑ということだな。……ん?」


 苦々しい顔でそう答えたカリオンでしたが、宿の前が少し騒がしくなったので窓から道を見下ろしました。剣を下げた男性が二人、そこには立っていました。


 「どうかしましたか?」

 「いや、兵が来ている。夜の見回り……とかならまだ平和でいいが」


 天井を仰いでカリオンは嘆息しましたが、残念ながら実際にはそれだけではありませんでした。


 「あの大図書館に攻め入る……⁉ それは本当ですか?」

 「あくまで噂だよ。でもきっと、遠からず現実になるだろうね。なんでも、例の賊を指揮しているのが、以前この国で一番だと評判だった将軍らしくて……。味方でいるうちは心強かったが、敵となればこれほど恐ろしいことはない。そういうことらしいよ」


 宿の主人は、残念そうな面持ちで首を横に振りました。きっとこの国の人々の誰にとっても、苦渋の決断でしょう。歴史ある文化の象徴である大図書館への攻撃も、かつての戦争で人々を守って戦った将軍を倒さねばならないことも。ですが、今を生きる人の命と生活には変えられません。


 「そんなことは……ダメです。傷つけばそこには悲しみと苦しみが生まれます。あそこにあるたくさんの本も損なわれてしまうかもしれません。それは避けるべきです」


 本を狩るという野蛮な行為は、もはや一刻の猶予もなく、止めさせなければいけません。ビブリオドールは部屋へ戻ると、カリオンの服の裾を引きました。


 「館長さん。貴女に〈閲覧〉の許可を出します」

 「……ああ、分かった。我探し、我読み解く。示せ、真理の狂信者に繋がる物語を」


 青く深く澄んだビブリオドールの瞳に手をかざし、覗き込んでそう厳かに告げると、カリオンの目の前に異空が現出しました。


 気づけば、彼女は天も地もない濃紺地に無数の小さな光を散りばめた無限の空間の中にいました。それはまるで、夕暮れの先に待つ果てない星空のようでした。


 彼女が手を伸ばすと、その手のひらの上に光の一つがそっと乗りました。光を握りしめると、彼女の脳裏に一つの物語が走馬燈のように流れていきました。



         *         *         *



 数十年前、川向こうの国で一人の少女が生まれた。栗色の髪の少女はマリアンヌと名付けられ、貧しいその日暮らしの生活ながらも、優しく明るい両親のもとで育った。


 数十年前、川向こうの国で一人の少年が生まれた。濃いラベンダー色の髪の少年はアルベルトと名付けられ、裕福な侯爵家で強く聡明な両親のもとで育った。


 その頃の川向こうの国といえば、他国と戦争を繰り返しており、国内も日々荒廃していくような時代だった。


 そんな時代だったから、野盗に押し入られ親を殺されるという不幸は、まだ幼いマリアンヌにとっては大きく痛いものだったが、ごくありふれたものでもあった。母親に庇われて命こそ助かったマリアンヌだったが、頼るものが何もない五つの子供が、この国で生きていけるはずもなかった。


 だが、それでもマリアンヌは生き延びた。ただ生まれ持った命の本能だけで、泥水を啜り、塵をあさり、人に手をかけて、生き延びた。


 そして三年だったか五年だったか定かではないけれど、おそらくそれぐらいの年月の後、雨に打たれて行き倒れたマリアンヌを拾ったのが、アルベルトとその両親だった。


 高熱にうなされるマリアンヌは、明日をも知れぬ状態だった。自分よりも遥かに小さく細い女の子が苦しんでいる様子が見ておれず、アルベルトは日に何度もマリアンヌが寝ている部屋へ通った。


 そんなマリアンヌが目を開け、体を起こし、歩けるようになるまで、実に一ヶ月以上の時がかかった。


 温かいベットに温かい食事。自分の手を握り、頭を撫でてくれる温かい手。マリアンヌは、たしかにそれを知っていた。でも、もう失われ、忘れてしまったものだった。マリアンヌは、ぼんやりと、夢心地でずっとアルベルトを見ていた。


 両親とアルベルトは、話し合ってひとつの結論を出した。すなわち、戦災孤児であろうマリアンヌを娘として、妹として侯爵家に迎え入れることを。それがマリアンヌの幸せに繋がると信じて疑わなかったし、喜んでくれるだろうとアルベルトは思っていた。


 かわいらしいドレスに身を包み、アルベルトにエスコートされてマリアンヌは、その日初めて食堂を訪れた。大きな窓から差し込む昼の光が、分厚い赤のカーペットと磨かれた長いテーブルと木の椅子、そして、その上に並べられた色とりどりの食事を照らしていた。壁には肖像画が並べられ、天井からは大きなシャンデリアが吊り下がっていた。傍には何人もの使用人が控えていた。


 どれも、マリアンヌの知らないものだった。


 「やあ、よく来たね、マリアンヌ。どうだろう。少しは体調は良くなったかな」

 「……はい」

 「それはよかった。それで、今日は君にひとつ話があってね」

 「……?」


 艶やかなラベンダー色の髪を背中でひとつに束ねた若々しい姿の侯爵は、慈愛のまなざしをマリアンヌへ注いだ。


 「私たちと、新しい家族にならないかい、マリアンヌ。これから共に、この家で暮らすんだ」

 「ね、そうしようよ、マリア。勉強も僕が教えてあげるし、遠乗りにも連れて行ってあげる。きっと楽しいよ」


 子供特有の高い声で、無邪気にアルベルトもそう言った。


 家族。


 この家で。


 勉強。


 楽しいよ。


 マリアンヌの中の何かが傷ついた。どれがどこを傷つけたのか、マリアンヌ自身にも分からなかったのだから、きっとこの先も誰も分からないままだろう。



 「ふざけるなッッッッ!」



 マリアンヌは両拳を力一杯テーブルに叩き付けた。衝撃で近くにあった皿がはねて中身が零れ、カトラリーは床を叩いた。


 「何様のつもりだ⁉ 一緒にここで暮らそうだと? よくそんなことが言えるな! お前たちがこんなところでのうのうと生きている間に、どれくらいの奴が死んでるか知ってるか⁉ たまたま拾っただけのガキ一匹、憐れみで救ってやろうなんて、人をバカにすんじゃねえッッ‼」


 侯爵もアルベルトも、その場にいた全員が、人が変わったように喉を裂くように叫ぶマリアンヌをただ呆然と見ていた。


 「なんでお前たちは生きてる⁉ お前たちは何をした⁉ なんでパパとママは死んだ⁉ 何が二人を殺した⁉ どうして私が殺して奪い、殺されかけて奪われなきゃいけない⁉ 私たちだって、寒くても腹が減っても、誰も助けてくれなくても! 生きてんのに! 私たちだって、お前たちのようになにものにも怯えずにすむ明日が欲しいのに!」


 頭の片隅では、マリアンヌも分かっていた。これはただの逆恨みで、侯爵の申し出を受ければそんな『明日』も手に入ると。それでも、腹の底で渦巻く怒りの炎は収まってくれなかった。火を吐けない代わりに紅蓮のような瞳から熱い水をまき散らしながら、叫んでいた。


 だって。家族に囲まれて、豊かで穏やかなこんな暮らしが許されるなら、


 「……復讐してやる」


 獣のような唸り声で最後に絞り出したのは、そんな言葉だった。


 「私をこんな目に遭わせた全てに復讐してやる! 絶対許さないッ! お前たちのような奴が、私の人生を好きにできると思い上がるなよッッッ‼」


 そしてマリアンヌは屋敷を飛び出した。誰も、止めることができなかった。

 アルベルトの手に残ったのは、家族になるつもりでマリアンヌに贈った、揃いのピアスの片方だけだった。


 またいつかどこかで会えるといいね、彼女に神のご加護があるように。アルベルトが両親たちとともに祈ったそんな想いは、遠からぬ未来に火の海に沈んだ。


 戦争で国土が荒れれば、人の心も卑しく荒む。政争に巻き込まれ、侯爵は妻とともに命を落とした。すべてを奪われたアルベルトもまた、血と涙とともにこの国への復讐を誓い、単身川を超えた。



 一度交わった道が分かたれ、同じものを目指すようになった二人の道が再び交わったのは、二十年先の話だった。



 長きにわたる戦争の講和会議は、先に講和を申し出た川向こうの国の城で行われた。

 その夜に開かれた晩餐会で。


 「……エーデンクロイツ侯爵?」


 ふと目に止まった濃いラベンダー色の髪が、在りし日の恩人と重なって見えた。それは隣に立つ養父でさえも気づかなかったようなささやきだったはずなのに、彼は弾かれたようにこちらを振り返った。


 (違う。あのときも若く見えたけど、いくらなんでも若すぎる)


 ならば彼は何者か。答えは、ひとつしかない。

 限界まで目を見開いた彼の薄い唇が、かすかに「マリア」と、たしかに動いた。


 まさか、という彼女の驚きは確信に変わった。


 「……っ、」

 「ヒルデガルト。こちらは、向こうの国で武勇と知略の両面に優れていると名高いカミル将軍だ。ご挨拶を」


 すぐそこまで出かかっていた懐かしい名前は、養父によって寸前で止められた。はっとお互い我に返った二人は、ぎこちなく挨拶を交わした。


 「……陸軍大将の娘、ヒルデガルトと申します。お噂はかねがねうかがっておりました」

 「……お初にお目にかかります、ヒルデガルト殿。カミルと申します」


 彼は彼女の手をとると、甲に軽くキスを落とした。

 話したいことがたくさんあった二人は、人目を避けて開放中の薔薇園を訪れた。彼が前を行き、彼女が三歩ほどあとに続く。星と月の美しい夜だった。他に人はいない。どちらも黙っていたので、晩餐会のざわめきが遠くとも風に乗って聞こえた。何から言えばいいのか、二人とも分からなかった。


 ふわりと吹いた風が彼女の髪を攫い、思った以上にひんやりとしていたそれに、胸元が開いたドレスを着ていた彼女はわずかに身を震わせた。


 「……着ているといい」

 「……ありがとう」


 肩にかけられた上着に残ったわずかな温かさは、過去のひとときを思い出させた。


 「……生きてたんだね、アルベルト。風の噂で、侯爵家が取り潰しになったって聞いてたから」


 それが、ほんの少し口を軽くしてくれた。


 「……それは私の台詞だ、マリアンヌ。君のように痩せて何の力もなかった女の子が、今でも生きているとは思わなかった。……しかも、この国の城で、この国の軍人の娘として再会するとは、想像すらしなかった」


 再び背を向けたアルベルトの言葉の最後、棘が混じっていることにマリアンヌは気づいた。


 「私が放った密偵から報告は受けていた。あの大規模な民衆の反乱には、影で先導していた者がいる、と。まさかとは思うが……君か?」


 ふっと、困ったようなかすかな吐息がマリアンヌの唇からこぼれていった。


 「……そうだよ、アルベルト。あれが、私の復讐の総仕上げ」

 「……どういう意味だ?」



 兵士や商人すらも取り込んだ、ほぼ全ての国民による一斉蜂起。



 史上類を見ないような大規模な反乱の発生に、この国はとても他国との戦争を続けられる状態ではなくなった。


 今すぐ飯を寄越せ! 今すぐ戦争をやめろ! 腹が減った! 今すぐ息子を返せ! 今すぐ金を寄越せ! 今すぐ薬を寄越せ! 今すぐ食うものを寄越せ! 今すぐ服を寄越せ! 今! 今っ! 今ッッ!


 未来も見ず、他人も省みず、目の前の不満を解消することだけに囚われた幾万の民を止めることはできなかった、いや、止めようとすることすら愚かだった。結局、少数の戦争反対派の大臣たちの説得によって、王は方針を転換。食料と金の再配分を直接行い、兵士の任を解いて故郷へ帰らせた。さらに今後も支援を続けるという宣言をして、ようやく反乱軍たちは解散し、食料と金を手に来た道を戻りだした。


 「……二十年。ずっと、ずっと、この国に毒の麦を蒔き続けてきた。自分たちは惨めで不幸なんだと思わせて、王や貴族に怒りを持つように。王や貴族を恨むように。そして行動を誘導した。大変だったんだよ? でも頑張った。頭が悪くて弱いなりに、頑張った。それがようやく実を結んだの。どう、凄いでしょ?」


 仄暗い笑みを浮かべながらマリアンヌは両手を広げた。


 「それが……君の復讐だと?」

 「うん。だって、私の望むようにこの国は変わった。私のようなとるに足らない小娘ごときに、強大な国が膝を屈したのよ。凄く無様でかっこ悪い。いい気味よ。胸がすくわ」


 マリアンヌはうっとりと頬を染め、くるりと裾を広げて優雅に回ってみせた。


 「だからもう、やりたいことがなくなった」


 急に動きを止めて、虚空を見上げた。


 「私は私の復讐をやり遂げた。やりたいことをやりきって、満足した。だから……なんかもう、全部どうでもいいかなって」


 アルベルトは気づいた。昔、侯爵家を飛び出していくときに見せた、美しささえ感じるほどのマリアンヌの憤怒。それが今は、まったくと言っていいほど感じなかった。だからいっそう、か弱く見えるのだと。


 「お父様とは貴族たちを襲撃したときに何度か顔をあわせてたんだけど、まさか養女にするなんてね。境遇に同情したのかなって思うけど、それもべつに……」

 「ふざけるな、マリア」


 棘の鋭さが先ほどの比ではない。声こそ荒げていなかったがそのぶん冷たく痛く、音のひとつひとつに込められた憤りは計り知れなかった。


 「それが復讐だと? その程度で満足だと? お前は何を言っているっ。私だってあの日からずっと、復讐のために生きてきた。この国を滅ぼすために生きてきた。策を巡らし力をつけ、あと少し、あと少しでそれが叶ったのに……! あの反乱のせいで、戦争が終わってしまった! 絶好の機会が失われてしまった!」


 押し殺しきれなかった叫び。こちらを睨みつける鋭い瞳。マリアンヌはどちらにも臆しなかった。拭いきれない諦観に、申し訳なさを少し混ぜたようなまなざしを返すだけだった。


 「……うん、だと思った。カミル将軍の噂は本当にお父様から聞いてたんだよ? 強硬派のキレ者だって。それがさっきアルベルトのことだって知って、『ああ、やっちゃったなあ』って。まさかさ、こんなことになるなんてね」

 「この国が変わったと、君は本気で思っているのか? だとすればそれはただの見せかけだ。為政者も変わらずに国が変わるものか! 化けの皮はすぐに剥がれる」


 大きく息を吸うと、アルベルトはずっと握りしめていた手を開いてマリアンヌへ差し出した。


 「私と来い、マリアンヌ」

 「……は?」


 その手の意味が分からず、強張った顔を向けた。


 「私は絶対に諦めない。必ずこの国を滅ぼしてやる。だから今、私と来るんだ」


 アルベルトの言っていることをようやく理解して、マリアンヌの全身をぞわりと悪寒が駆け抜けた。


 「まさか……まだ戦争を続けるつもり⁉ 無理に決まってるじゃない! 講和を結んだのにそれを破って戦争をしようなんて……。そんなことをしたら、諸外国から批判されるのはそっちじゃない! 攻められる大義名分を与えるつもりなの⁉」

 「そんなヘマはしない。この国と戦争する理由なんて、いくらでも作れる。……あの反乱がなければ、私は今頃この国を滅ぼせていた。下準備はできているんだ。一からじゃないなら、今度は二十年も時間をかけない。僕の復讐はまだ終わっていないッ‼」

 「……っ!」


 ラベンダー色の瞳の奥で燃えている業火と同じものを、つい数ヶ月前までマリアンヌも鏡の中に見ていた。復讐を終えた側のマリアンヌは、口を噤むしかなかった。


 「皮肉なものだ、マリアンヌ。僕は君と出会っていたから、復讐という道を選べた。なのにその君が、僕の長年の計画を阻むとは……。だが君が僕と来てくれれば、もうそんなことは心配しなくてすむ。生活も保障しよう。君は安全なところで、この国が滅ぶのを見ていればいい」

 「そんな……勝手に言わないで。生まれ育った故郷を捨てれるなら、私はこんな手間のかかる復讐をしていない。だいたい、私はべつに、私が嫌いなやつ以外に死んでほしいわけじゃない。戦争なんて求めてないの。せっかく終わったんだもの。このままもう……」

 「人が生きているかぎり死はつきまとう。争いともなればなおさらだ。君が引き起こした反乱でだって、君の知らないところで君が嫌いじゃない人も死んでいったはずだ。人の死を選ぼうなんて、傲慢だ。だが少なくとも僕と来れば、君がこの国との戦争で死ぬことはない」

 「…………なら私も言わせてもらうけど。あなたがこの国に戻ってくればいい」

 「……は?」


 視線を逸らし、絞り出された声に今度はアルベルトの顔が強張る番だった。

 泣き叫びたいのをこらえるように、マリアンヌはドレスの裾を握りしめた。


 「あなたがアルベルト・エーデンクロイツ侯爵として国政に参加するの。あなたならこの国を平和と安定に導くことができるでしょ? そうすればもう誰も死なない。お父様を通じて戦争反対派の貴族に掛け合えば、爵位とかはきっとなんとかしてくれるわ。向こうの国の実力者であるあなたを無下にはしないはず。あなたの望むような地位を……」

 「本気で、君はそんなことを言っているのかマリアッ……!」


 地の底を這う、まさにマグマのように煮えたぎる怒りの叫びが、マリアンヌの切ない訴えを遮った。


 「僕は、この国が僕にした仕打ちを忘れない。必ず滅ぼしてやると誓った! 赦せるはずもないのに……戻ってこいだと⁉ 君もこの国を憎んでいただろう。なのによくそんなことが言えたものだ!」

 「……そうだよ。憎かった。悲しくて、苦しくて、辛くて、許せなかった。だから私は私の全てを懸けてこの国を否定した。お前たちは間違えてる大バカ者だって言ってやった」

 「甘いっ! そんなものは今だけの一時的なものだ。この国が元に戻って、また虐げられ貶められる人が出てからでは手遅れなことぐらい分かるだろう。今の弱っている間に、確実に滅ぼしておくべきだ!」


 知っていた。


 マリアンヌはずっと、お前ごときがそんなやり方で国を変えるなど不可能だと、ずっと嗤われてきた。それを上回る恨みと怒りで立ち塞がるものを蹴散らし、脇目もふらずに突き進んできた。


 あなたの望みを捨てて。このまま綺麗に終わらせて忘れましょう。


 なんて、誰が言えるだろうか。


 この暴れ回る激情は、そんな簡単に諦められるものじゃないということは、マリアンヌが誰よりも知っていた。


 「でもさ、私はお前に死んでほしくねえよ。アルベルト」

 「……っ!」


 それ以上を言えない寂しそうな微笑みに、血が出るほど唇を噛む。

 反抗による変革をやり遂げた者と、暴力による破壊を成し遂げていない者。限りなく似ているのに、交えることができない手がもどかしい。二人の間に横たわる溝を深めるように、強い風が吹いた。


 「…………いいや。僕はこの国を認めない。全てを懸けてでも滅ぼす。そして我が国の領土とした暁には、古代の国にも負けぬ長き繁栄を約束しよう。そのときには僕も、君のようにこの国を赦せることだろう」


 そこに、今までのような力強さはなかった。言い聞かせているだけのようにも見えた。


 それが、完璧で冷酷だと恐れられていた『カミル将軍』の唯一の隙だった。


 言うべき言葉を探していたマリアンヌの瞳が、離れた木陰で突然反射した月の光を捉えた。


 「アルベルトッ!」


 マリアンヌは全力でアルベルトを引き倒した。無防備だった彼はあっさりと地面に投げ出された。そして、



 一寸の狂いもなく、毒矢がマリアンヌの薄い胸を射抜いたのを見た。



 「……マリアアアアァァァァッッ!」


 アルベルトの絶叫が夜の庭を裂いた。


 その声を聞きつけて、晩餐会の参加者も警備の兵もすぐに駆けつけてきた。だが、どうしようもなかった。


 アルベルトがマリアンヌを抱き上げたときにはもはや、頬に触れるのが精一杯で、何かを言い残すような時間はなかったのだ。


 今まさに、自分の命が消えようとしているのを感じながらも、マリアンヌの心の中は穏やかだった。


 未練はない。


 後悔もない。


 怒りも悲しみも憎しみもない。


 なぜなら彼女の復讐は果たされ、大事な人の命も守ることができたのだから。


 自分を抱きしめ、大粒の涙を流しながら何かを言っている彼のことが少し心配だけど、大丈夫。


 だって彼は頭がいいから。


 恨みもいつかちゃんと昇華できるし、人々のために最善の道を選んでくれる。 


 だから、大丈夫。


 天の園への扉が開く音を聞いていた彼女にはもう、彼の声は何も聞こえていなかった。



 「父の命を奪い、母の命を奪い、家を奪い、財を奪い、思い出を奪い、誇りを奪い、今また君を奪おうとするこの国を、それでも赦せというのかッッッッ!」



 彼の悲痛な慟哭は。

 彼女には聞こえていなかったのだった。




 敵国で要人が殺されれば、また戦争になる。戦争の継続を望む一部の者たちによる思惑は失敗した。実行犯も指示を出した大臣も裁かれ、なんとか平和は守られた。


 カミル将軍と陸軍大将の娘との関係は誰も知らないまま、沈黙の彼方へ消えた。

 ひどく憔悴していたカミル将軍だが、国に戻る頃にはいつものように毒舌混じりの的確な指示で政務に取り組んでいた。ただ前にも増して部屋にこもりがちになり、古い文献をあさりはじめたので、周囲の人間は戸惑い、顔を合わせてはお互い首をひねるようになったという。



 二か国が再び戦火を交えることは、終ぞなかった。



         *         *         *



 「つまり、全てあの司書の男が元凶ということか……」


 カリオンは皺が寄っていた眉間を揉みほぐしながら呻きました。


 「失ったショックが大きすぎて、奇跡に縋ったか。その気持ちは私も知っているが、それがなぜ、あんな形でビブリオドールを信仰するということになったんだ」

 「……もしかすると彼にとって不幸だったのは、忘れられず心の支えとなっていた女(ひと)を失い、生きる糧だった復讐も道半ばで閉ざされ、ぐちゃぐちゃになってしまった心の辻褄を合わせるもっともらしい論理を組み上げてしまったことかもしれませんね」


 カリオンの胸に頭を寄せ、ビブリオドールはやるせない想いを零しました。その髪を撫でてやりながら見た窓の外は、今日も星と月が美しい夜でした。




 図書館が開館してしまえば、万が一戦闘になったときに無関係の人を巻き込んでしまうかもしれません。潮が引くのを待つのではなく、船を借りて二人は水平線が白くなりはじめた夜明け前に、一路図書館を目指しました。


 風向きが変わって、カリオンはかすかな焦げくささを感じました。


 「なんだ……? まさか火事か?」


 目を凝らせば、暗い紺色の空に立ち上る薄い灰色の筋が見えました。あの程度の煙では火事ではないでしょう。では何が燃えているのか、という話です。


 「火気厳禁の図書館だぞ。炊事でも火事でもなく、自分の拠点を燃やすとも思えないとなるとあとは……」

 「……まさか本、でしょうか」

 「は?」


 我が身を傷つけられたかのような表情で、ビブリオドールは大図書館を、ひいてはその中で行われている蛮行を睨みつけました。


 「この地域では古くから、祭壇の供物は儀式のあとに燃やすという慣習があります。神々が住まうローゼノーラの地は天の遥か遠く。たなびく煙にのせて、供物は神へ届けられるとされてきました。ならば、『真理は我らを自由にする』という教義のもと、ビブリオドールを信仰する彼らが、本という供物を燃やしていてもおかしくはありません」

 「っ! なるほど、そういうことか……!」


 舌打ちをして、カリオンは漕ぐ腕に力を込めました。


 二人がこっそりと入り込んだのは、大図書館の正門の反対側。昨日、あの司書に止められた関係者以外立ち入り禁止の区域でした。そこの少し開けた広場では、組まれた太い丸太の中で、たくさんの本が次々と赤い炎に飲まれては灰となって空へ、壁の向こうの海へと散っていました。もう、救い出す術はありません。


 近くに人影はありませんでした。残されているものもなかったので、務めは終えて次へ向かった、ということでしょうか。


 「セシェ、上だ」


 小さく、鋭い声でカリオンがビブリオドールへ警戒を促しました。広場の傍にそびえる鐘楼の一番上に、白いローブと濃いラベンダー色の髪を風になびかせている人物が見えました。

 見回りや護衛がいるかと心配していましたが、意外なことに鐘楼の中にも、螺旋階段を上った先にも、いたのは彼一人だけでした。


 「……今は私が瞑想している時刻。誰も近づくなと命じているはずだが」


 空がもう少し明るくなったおかげで、振り返った彼の顔がよく見えました。


 一切の表情を削ぎ落とした白皙の美青年。少なくとも三十代後半にはさしかかっているはずですが、そんな年齢を感じさせない彫刻のような男でした。本当にマリアンヌを亡くしたあのときから、時を止めたのかと疑ってしまいます。


 「これは失礼をしました。急いであなたに申し上げたいことがありましたので」

 「ほう」

 「これ以上本を狩り集めるなどという野蛮な行為はお止めなさい。わたしが、貴方たちの求めるビブリオドールです」


 凛とした宣告に、彼の表情は小さく軋んだ音を立てたようでした。


 「これは失礼をいたしました。ビブリオドール、神秘の花を咲かせた全智の世界樹を宿した我らの救世主よ。あなたがここに降り立つ日を心待ちにしておりました」


 膝をついた彼は、恭しく頭を垂れました。


 「あなたを迎えるための玉座は既に整っております。すぐにご案内いたしましょう。他の者たちにも、どうかそのお姿を見せてやってください」

 「けっこうです。それよりも、なぜ人々を傷つけ本を燃やしたのですか? それはわたしをここへ呼び招く儀式ではないというのに」

 「神へ供物と祈りを捧げ、その加護と恵みを願うことは、か弱い人の身にできる精一杯のことでございます。この大図書館の傍に控える我々が、そして長きにわたる戦争で悲しみを積もらせた我々が祈るべきは、亡き者と言葉を交わし、亡き者を今一度ここへ蘇らせてくれるあなたをおいて他にはありません。図書館をなぞらえたあなたに本を収めるのは当然のこと。それ拒むというのは神に背く行為でございます」

 「……あなたは思い違いをしています。わたしはビブリオドール。死んでもなお死にきれない彷徨う魂を救うのが役目。荒れる精霊を鎮めるのが役目。そして、生者から死者へ、死者から生者へ、わずかばかりの言葉を読み聞かせるのが役目。ただそれだけしか、できません」

 「神の造りしこの世界の中で、あなたは唯一、無償で純粋に愛を尊び、愛を求め、愛を行う方でございます。どうかその愛で、我々をこの苦しみと悲しみの檻から解放して頂きたく存じます」

 「……会話する気があるのか、こいつは」


 既に剣を抜いているカリオンは不審そうに眉を寄せました。それに警戒するそぶりも見せない彼は、もしかしたらカリオンの姿自体目に入っていないのかもしれません。


 「神秘を傅かせ、全智を侍らした真理の担い手よ。どうかそのお力で、我らを自由にしてくださいませ」


 暗く澱んでいた瞳は一転、恍惚として絡みついていくような光を満たしていました。

 カリオンの疑問は、今の彼を正しく示していました。壊れた、まともでなくなってしまった、言い方は色々あるでしょう。


 ビブリオドールは憐れみを込めて、彼へ読み聞かせる『本』を開きました。



  書架配列九四五番より——開架

  灰かぶりの乙女から真理の狂信者へ



 「アルベルト」


 不思議でした。姿はビブリオドールのままなのに、声も、雰囲気も、表情も、まるで彼女のものではありません。


 「……マリアンヌ?」


 初めて、彼の顔が人間らしい喜びを示しました。


 「どこだマリアンヌ! もう一度君の声を聞かせてくれ! ずっと忘れたことはなかった……。ああ、ビブリオドールよ、私の願いを聞き届けてくれたこと、心から感謝いたします。マリア! どこにいる!」


 立ち上がった彼は、踊るような足取りで鐘楼の狭い一番上を何度も見回しました。ですが彼が望む光景は——蘇ったマリアンの姿はどこにもありませんでした。


 「マリア?」


 徐々にその顔は困惑に曇っていき、途方に暮れたように動きを止めました。


 「……どこにいる?」

 「どこにもいないさ。彼女の魂は天の園へ迷わず逝った。ここに残っているのは、わずかな思念だけだ」


 カリオンがそう教えると、ぎこちない動きで彼は初めてカリオンに顔を向けました。


 「馬鹿な……。今、たしかに声が……」

 「それは、大いなる母の御遣いが読み聞かせてくれているからだ。お前には聞こえない、亡き者からの言葉をな」


 カリオンが示したのは、彼の腰ほどまでしかない小柄な少女でした。

 けれども彼の目には、胸元が開いた美しいドレスのマリアンヌの姿が重なって見えました。紅玉色の瞳に、あの夜にはなかった慈しみの心をたたえて。


 「死んでしまってごめんなさい、アルベルト」

 「…………え」


 思ってもなかったことを言われて驚いたのか、彼の体がわずかに振れました。


 「復讐を果たせなかったあなたのことを受け止められるのは私だけだったのに。

 私はあのとき、あなたと生きなければならなかったのに。

 死んでしまって、ごめんなさい」


 ずっとずっと、怒りと恨みで身を焦がし、焼き尽くしてきて、全てが終わったあとには養父に、自らを燃え尽きた灰のようだと嗤っていました。そうして彼女は、ようやく誰かに優しくなれたのです。


 残した幽かな想いだけでは多くを語れません。だから、切々とした声音が言いたいのはひとつだけ。


 懺悔であり、懇願であり、何よりも深く澄んだ貴い愛の言葉でした。


 「はっきり言わなきゃダメだったね。言わなきゃいけなかったんだよね。

 私は、あなたと生きたかったよ。

 兄弟でも恋人でも友人でも、なんでも良かった。

 ただあなたと、もっと生きたかった」



 「……ァ」


 涙とともに囁かれた吐息のような一言を、ちゃんと彼女は聞いていました。


 「今のお前は、見てられないよ。アルベルト」


 困ったような微笑みが、最期でした。

 強い風が吹きました。吊り下げられた鐘を鳴らすだけのこの場所は、本来長居をして話し込むには不向きでした。


 「っ!」


 カリオンが気づき、とっさに腕を伸ばしても、わずかに届きませんでした。


 「君がいてくれればと、思ったことがあったんだ」


 風に押されて、風に導かれるように、ゆっくりとアルベルトの体は外へ傾いでいきました。


 「今ならあのときの君の気持ちも分かるから。君さえ傍に居てくれれば、僕はきっとどんな道も歩いていける。そう、思っていたんだ……」


 下へ落ちた音がしました。やがて彼の部下たちが見つけるでしょう。

 はたして彼は全てを赦して、諦めて、受け入れることができたのか。


 カリオンには分かりません。ですが、栗色の髪の女性が彼と一緒にいるのが一瞬だけですが見えたので、彷徨うことはないでしょう。




 こうして、大図書館にはしばらく入れなくなりましたが、両国には平和が戻りました。そのときそこにどんな想いがあって、何が起こったのかは誰も知らないまま、旅の彼方へと去っていきました。


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