御伽語りの姥とビブリオドールのお話
広がり、まとう
拡がり、まわる
共に通うこの道で
なよ竹の風乙女は
はなりと笑う
御伽語りの
薄い皮膚の下に直接冷気を吹き込まれる幻覚すら覚えたあの冬は終わりを告げ、多くのものが待ち焦がれていた春がやってきました。心地良い
陽射しの温もりに、ずっと張りつめていた緊張が緩んだようで、道行く旅人たちの雰囲気もどことなくのんびりゆったり、おおらかなものでした。
そんな人たちが集まる平野の町の、とある宿に併設された食事処。時は日も落ちて、わずかに霞んだような黒い夜空を篝火が照らす頃でした。
「やあ、これは可愛いお供だね、お姉さん。こんな子を連れて一体どこへ?」
お腹もほどよく満たされて、この地方で有名なお酒を美味しく飲んでいたほろ酔い機嫌の男性は、ふととなりの席にやってきた二人の旅人に声をかけました。
ひとりは均整のとれた体つきの若い女性でした。彼女の白い髪はさぞ人目を引くでしょう。その無駄のない仕草から、傭兵の男性は自分と同業者だろうと当たりをつけました。であるならば、彼女が連れているリボンとフリルのドレスを着た人形と見まごうばかりに美しい少女は、護衛の相手でしょうか。
「南の山の向こうまで少しな」
女性の返事は素っ気ないものでした。いくらか怪しむように眉をひそめられて、男性は苦笑とともにひらひらと手を振り返しました。
「いやいや、なに、ただの世間話だよ。そんな気を悪くしないでくれ。実はオレも仕事の途中なんだが、コレも縁だ、一杯どうだい? お近づきの印に奢らせてもらうよ。お嬢ちゃんにはジュースがいいかな」
そう言いながら男性が手を上げてお店の人をを呼んでしまったので、女性は諦めてこのお店で一番高いお酒を、少女にはフルーツがたくさん乗ったパンケーキを頼みました。男性の顔が少し引きつったように見えたのは、きっと気のせいでしょう。
「とても美味しそうですね。ご馳走になります」
「どうぞどうぞ。どんな甘い砂糖のお菓子よりも可愛らしい君に食べられるなら、パンケーキもきっと本望だろうさ」
肩をすくめると男性は一気にグラスの中身をあおりました。本気の冗談か、それともやけっぱちの捨てゼリフか。女性は喉を鳴らして奢らせたお酒を男性のグラスに注いでやりました。
男性はなかなかの話し上手で、この町や他の町で仕入れてきたうわさ話を面白おかしく聞かせてくれました。
「東に小さな山があっただろ? あそこの天辺から告白すると恋が叶うっていうジンクスがあるそうなんだが、この前なんかここの上級役人が、人妻と知らずに酒場の若い女に告って旦那と決闘沙汰になったらしい。笑っちまうよな」
「ああ、その話は知っている。私たちは東から来たからな。……が、惚れたくせに相手のこともろくに知らずとは。マヌケな話だ」
「これは手厳しい。……ああ、そうだ、お二人さんは南へ行くんだったよな? なら南の山に出るという年老いた女の幽霊の噂を教えよう」
「幽霊?」
わずかに顰められた眉を、なんだそれはと怪しむものだととらえた男性は、ぐっと声を落として言いました。
「南の山は、ここと他の町を繋ぐ一番太い道が通っていて、毎日多くの人が行き交っている。その頂上には花の咲く開けた場所があるんだ。高原ってほど広くはねえんだけど」
そのとき、ちょうど男性が頼んだ骨付き肉が運ばれてきました。「ここの名物なんだってよ」と言いながら勧めてきたので、女性も一本ちょうだいしました。
ピリッとスパイスが利いていて、熱い肉汁も口の中にこぼれてきてとてもおいしかったです。なるほど、名物というのはウソではなかったようです。
「で、いつの時だったかある日、そこを通りがかった旅人が、『いい天気ですね』と声をかけられた。しかし周りを見ても道には誰もいない。
気のせいかと思った旅人だったが、また声がするんだ。『こっち、そら、そこを右ですよ』って感じで。旅人が右に曲がって野原の中へ入ると、小さな年老いた女が座っていた。
目が合うと、その女は『こんにちは。面白い話があるのですが、休憩のお供に聞いていきませんか?』と誘ってくるそうだ」
「ほう。まるでさっきのお前のようだな」
「おっと、勘弁してくれよ。オレはこうしてちゃんと両手両足揃ってる」
からかうように女性が目を細めれば、男性もおどけて両手を叩き、足で床を鳴らしました。
「オホン。……さて旅人は、『なら少しだけ』と答えて女の前に座った。それ以来、その旅人の生きた姿を見たものはいないそうだ。次に人がそいつを思い出したのは、目が落ちくぼみ、痩せて骨と皮だけになった死体を見たときだったとさ。それからというものあの山では、何度となく人が消え、いまでも死体は発見され続けているって話」
男性はそこで一度言葉を切ると、ぐいっとお酒でのどを湿らせました。
「どうだい。ぞぉ〜っとして、実に冒険心をあおる話だろ?」
「その
「まあね。けど、ここのはどうやらホントの本物らしいんだよ。信じてる奴が多いっていうかさ。今のオレの雇い主に、手が空いてるときに行ってみたいと言っても、頑として許してくれなかった。『給料も払ってねえのにいなくなられたら、なんか嫌だろが!』ってな」
「……たしかに、前金で払った金を肝試しにかこつけて途中で持ち逃げされたら困る、なら普通だが逆となると……」
「だろ? ま、そんなわけだから、あの道をいくときは気をつけな」
「ああ、そうさせてもらう」
翌日は残念ながら春曇りの空でしたが、首元を撫でるそよ風は温かく、薄手のシャツ一枚でも山を登っているとうっすらと汗をかくほどでした。
男性が言っていた通り、山の頂上にはそう広くはないけれど、とても美しい花畑が広がっていました。青や白の小さな花が揺れる中には、真新しい木のベンチがいくつか設置されていて、昼食をとっている家族を見ました。近くに泉が湧いているのか、馬を休ませている旅の一団もいました。
「セシェ、もしかしてあれか? あの、
白い髪の女性がさりげなく辺りを見回したところ、街道からちょっと外れたところに淡い菫色の服を着た老女がちょこんと座っていました。
「ええ、そのようですね」
豪奢なドレスに身を包んだ少女はそう言うと、迷いなく野原の中へ足を踏み入れていきました。男性から幽霊の噂を聞いたのはつい昨夜のこと。忠告を忘れたはずもないのに、どうして二人はわざわざ危険を冒そうとするのでしょうか。
それは、少女が神の御遣いたるビブリオドールであり、女性がビブリオドールの契約者だからです。
ビブリオドールとは遥かな昔、彷徨う魂を還るべき場所へ葬|おくるため、世界中の全てに忘れられた友だちの神さまによって造られた人ならざる人形のことです。幼い少女のような見目をしていますが、もう何千年という永い時に存在し続けていました。
一方の白い髪の女性はカリオン・シュラークといいます。彼女は、元は凄腕と評判の傭兵でした。あの男性の予想は当たっていたというわけです。ビブリオドールを助け、共に世界を巡る彼女がビブリオドールに『セシェ』という呼び名をつけたのは、古い言葉で書物という意味があるからです。
老女に誘われるより先に、ビブリオドールは彼女の前に座ると声をかけました。
「こんにちは、今日も佳き日ですね」
「失礼する」
『まあ、こんにちは。可愛らしいお嬢さん方』
「こちらに来れば面白いお話がたくさん聞けるとうかがったのですが……」
『あらあらあら、とても嬉しいことを仰ってくれるわねえ』
自分の言いたいことを先回りするようなビブリオドールのセリフには多少の驚きが見えましたが、それよりも自分に会いに来てくれたという喜びのほうが勝ったようです。老女は破顔するとさっそく語りだしました。
『もちろん、たくさん聞かせてさしあげますとも。
たとえばこちら、樅の木ですけども、昔々、北の土地に住んでいたという体の大きなエトラントという種族は、異性に求愛するときはこの樅の木を引っこ抜いてビオレッタ火山の火口に先を浸し、燃える火をインクの代わりにして夜空へ想いを綴ったそうですよ。それに対して相手が金色の櫛を返したら、求愛を受け入れたという返事なのだとか。とってもロマンチックで素敵でしょう?』
続いて、
『東のほうにとある島国がありまして、その中心にはひとつの街ほどの広さもある赤茶色の台地がどんっとそびえているそうです。あまりにも高くて今だ上まで登りきれた者はおらず、そこに何があるのかは誰も知りません。一説によれば、そこには鮮やかな翡翠色に輝く人物がいて、毎夜空に星を描いているのだとか。だから毎日微妙に星空の形は違うんですよ』
さらに、
『いつとも知れぬとある夏の日、城の王女と薄汚れた英雄が出会いました。王女はいずれこの国を統べる者として、英雄は圧政に死にゆく者たちを救うため、二人は何度も戦火を交えました。永きにわたる争いに終止符が打たれるとき、王女は誇りと命の選択を迫られました。そして塔から身を投げた王女が湖へと落ちていくのを見下ろしながら、本物の英雄となった青年は言いました。
「いずれ時と世界を越えてお前に会いに行く! 全てはお前を愛するためにッ!」
きっと今頃どこか遠くで幸せに暮らしていることでしょう』
それからカリオンの感覚で、時の鐘が五つ鳴っても老女の話は終わりませんでした。短い息継ぎを挟むだけで休むことなく語られるおとぎ話を聞いているうちに、カリオンは自我が歪んでいくような目眩を感じました。
今はいつだろう……いつ……いつでしょう……いつなの?
ここはどこで……したか? どこだ……っけ?
わた、わたくし……わたし……は……。
「館長さん」
ふいに手を握られて、ハッと我に返りました。波打つ蜂蜜色の髪に縁取られた白い顔がすぐ目の前にあって、埋め込まれた透き通る青い硝子球が覗き込んでいました。
「ご自分の名前を言えますか?」
「わたしのなまえ…………いや、」
いつの間にか流れていた汗で首筋に張りついていた髪を払いながら、掠れた声で言い直しました。
「私は、カリオン・シュラーク。お前の……ビブリオドールの、契約者だ」
「はい、そうです。よかった、思い出していただけましたね」
ビブリオドールの滑らかな陶器の指がカリオンの頭を撫でました。
いつの間にか当たりには薄く灰色の靄がかかり、歩いてきた道はおろか、樅の木ですら見えませんでした。少しだけぬるくなった水筒の水でのどを潤しながら、カリオンはどこを見てるかも分からない笑顔で口を動かし続ける老女を見て尋ねました。
「それで、これは一体どういう状況だ?」
「最初、通りすがりの者はあの方をお話好きのおばあさんだと思います。あの方も、通りすがりの者をお客様だと思って迎え入れています。ですが話が進むに連れて、通りすがりの者はあの方が望む世界へ取り込まれてしまうんです。わたしたちは、その世界から完全に離れられたわけではないようですね」
「望む世界……自分の話を聞いてくれる者がいる世界、ということか?」
「正確には、自分の話を聞いてくれるお嬢様がいる世界、です」
「お嬢様?」
ビブリオドールは一つ頷くと、老女と膝が触れ合うぐらい近くに、膝をつきました。
『とある古いお屋敷にある分厚い本の中には、星をちりばめた空色の光をまとった少女がいるそうです。夢もなく、愛もなく、ただ決められた歌だけを決められたように歌うだけの
雨の日も風の日も、結婚しても年老いても、必ず会いにきてくれていたその友人が、ある日急に会いに来なくなってから数日。少女は割れた窓から葬列を見ました。友人の葬式でした。棺に納められ、土を被せられた友人はもう、ここには来てくれません。
少女は泣きました。泣きながら歌いました。ありがとうもさようならも、少女は言えません。だけど歌う、だから歌うのでした。少女と友人の想い出は、その歌だけでしたから』
またひとつ語り終えた老女が息を吸い、おとぎ話が止まったそのタイミングでビブリオドールは手を叩きました。
「とても美しいお話ばかりですね。素敵です。どうして貴女はこんなにたくさんのおとぎ話を知っていて、わたしたちに聞かせてくれるのですか?」
『どうして……?』
老女はきょとんとして少し視線をさまよわせていましたが、やがてビブリオドールとカリオンに焦点があうと笑顔で答えました。
『ええ、それはもちろん、お嬢様にお聞かせするためです。お嬢様はわたくしより十五ばかり下のお年で、とても可愛らしく、お優しい方でした。一緒によくこの野原へ遊びにきたものです。いまでもよく思い出されます。栗色の髪を風になびかせながら蝶を追いかけていたお姿や、編んだ花冠を持ってわたくしへ駆け寄ってくるお姿が……。
お嬢様はいずれ他家へ嫁がれる方。まだ幼い頃、それを嫌がって泣いてしまわれたことがありました。旦那様や奥様、わたくしどもと離れたくはないと……。だからわたくしはそのとき、お嬢様と約束したのです。
「お嬢様が家を出られる時まで毎日、わたくしがひとつずつおとぎ話を聞かせて差し上げます。たとえそれが幾千の数になろうとも必ず、です。契約と信義の神・ウェレディに誓いをたてましょう。いつか寂しくなった時には思い出してください。わたくしはどこに居てもお嬢様のことを想っております。だからもう、泣かないでくださいませ」
お嬢様もそれで泣き止んでくださいました。それから約束通り、古いものから新しいものまで毎日、世界中の色んなおとぎ話を寝る前にお嬢様にお話しました。お嬢様も嬉しそうに笑って聞いてくださっていたのですが……。
いつの頃からか、お嬢様に断られるようになってしまいました。わたくしの話よりも、ダンスをしたり甘いものを食べたりするほうがお好きになってしまったようで……。わたくしは神に誓いを立てたにもかかわらず、それを守れぬ日々が続いておりました。今日もおとぎ話を聞いていただけなかったと、指折り数えている間にそれが百となり千となり、ああ、わたくしはいつこの誓いを果たすことができるのでしょう。わたくしはただ、お嬢様にいつまでも笑っていてほしいだけですのに……』
きゅっと唇を引き結んだ老女はそっと目を伏せました。
「そうでしたか……。ありがとうございます。お話くださって」
そう言うと、ビブリオドールは皺が並んだ温度のない手を、同じく温度のない手でそっと包みこみました。その瞳に浮かんでいたのは同情ではなく、慈愛の柔らかい色でした。
「そして、おめでとうございます。貴女の誓いは今、貴女自身の物語をもって果たされました」
『え……?』
戸惑う老女をカリオンは、納得の気持ちで見下ろしていました。
(読み聞かせることができなかった日々のおとぎ話。何百と積もらせてきたそれを解放するための『御伽語りの幽霊』だったというわけか)
ビブリオドールは老女から目を逸らさず繰り返しました。
「わたしたちに今聞かせてくださった、貴女自身の物語。それが最後のひとつだったのです。長い間、読み聞かせを続けてこられたのでしょう? お疲れさまでした。貴女がかつてお嬢様と交わされた約束は、今日ここで、無事に果たされましたよ」
『ほ、本当ですか? ではお嬢様は……お嬢様はもう寂しいと泣いてしまうことはありませんか?』
「ええ、きっと大丈夫でしょう。貴女の愛はきっと伝わっています」
思わずといったように身を乗り出してきた老女を宥め、ビブリオドールはすぅと息を吸い込みました。
書架配列三六四番より——開架
御伽語りの姥に紡ぐ結びの詩
詠い上げるのは
数多の文に導かれた夢見の旋律よ
その前に全ての門の鍵は開くでしょう
真夏の夜の夢で秋の詩人は世界を創ると言う
少しずつ靄が薄れ、あたりに明るさが戻ってきました。
その向こうから聞こえてくるはしゃいだ声は、今のものか、それとも昔のものか。
心の糸、幾重にも幾年にも紡がれ
暁の空 ただ、伝えたい想いだけを………
夢よ、醒めても尚美し花となれ
美し花よ、朽ちても尚麗し明日であれ
ああ、楽園の鐘が鳴っている
私たちに始まりを告げている
ほら、耳を澄ましてみて
破るでもなく、叶うでもなく、宙ぶらりんのようになっていた願掛けの約束。老女はそれをなかったことにもできず、こうして死んだあとに歪んだ形で清算してしまっていました。
『ありがとう、もう大丈夫。寂しくなんかないわ』
大切で世界一愛おしいお嬢様の、その一言を聞きたいがために。
世界は移ろい、幾万の詩編は千年の時でも巡るでしょう
手をとって立ち上がらせてくれたビブリオドールの姿に、老女は在りし日のお嬢様の幻を見ました。それは、結婚して生まれ育った家を離れる時に見せた、とびっきり幸せそうな笑顔でした。
『アニー、今までありがとう。あなたも体に気をつけてね』
そんな声は記憶の中のものだったかもしれませんし、薄靄のベールの向こうから聞こえたものだったかもしれません。
願わくば、
貴女の次なる目覚めにも光があらんことを……
こうして、平野の町を騒がせていた幽霊はいなくなりました。
代わりに、誰が伝えたのか新しい噂がまことしやかに語られるようになりました。
曰く、『頂上に一本だけ植わっている樅の木の下で愛を誓った恋人は、末永く幸福でいられる』。
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