ダイアの獣の子とビブリオドールのお話



  音をも凍らす雪夜の星を窓辺に飾り

  今はもういない貴方に愛を歌う

  夢見る少女の小さな世界は

  あの日の宝石のように綺麗で

  されどそれは触れれば壊れるほど脆かった

  そしてそれは触れれば傷つくほど痛かった

  ここに居ていいよ

  ずっとそばにいるからね

  貴方の面影が残るこの言葉たちを

  角砂糖のように瓶に詰めてしまえたらいいのに

  そしたら私はそれを雪解けの泉に沈めるでしょう




   ダイアの獣の子とビブリオドールのお話


 遅い夜明けの頃はまばらに雲が空を埋めていたというのに、日が昇るにつれて波がひいていくように、あんなにあった雲はどこかへいってしまいました。


 (まぶしい……)


 今は青空の高い高いところから、何にも遮られることなく、太陽が明るい光を投げ掛けていました。それを受け止める大地は真っ白な雪に覆われています。手触りこそフワフワしていましたが、目に飛び込んでくる光に容赦はありません。


 ポフポフと可愛らしい音を立てながらゆっくりと歩いている馬の上で、女性がぎゅっと眉を寄せていました。


 「……そういえば、雪でも日焼けをすることがあるそうだな」

 「雪が反射する太陽の光で、ですか?」

 「雪が反射する太陽の光で、だ」


 女性の前に座っていた少女がきょとんとした顔で女性を見上げれば、女性は同じ言葉で答えを返しました。


 「だから、雪国で野に出ている者は見れば分かると言われていた。手足に比べて顔だけが黒くなっているからだ。雪をバカにするなと、昔会った楽団の女性が日焼け止めを塗りながら言っていた」

 「そうでしたか。女性にとってはたしかに大問題ですよね」


 そう頷いていましたが、少女には無縁の悩みでしょう。柔らかい弾力こそありますが、少女の肌は冷たい陶器と同じ。今、女性が感じているちりちりとした焦げつくような痛みもまるで感じない造られた人形なのですから。


 少女の名はビブリオドール。遥かなる昔、世界中の全てに忘れられた友だちの神さまが、彷徨う魂を還るべき場所へおくるために、荒れる精霊たちを鎮めるために造りました。

 一方、ビブリオドールに付き従う女性はカリオン・シュラークと言います。ビブリオドールと共に世界を巡る彼女は「館長さん」と呼ばれ、逆に彼女はビブリオドールのことを古い言葉で書物を意味する「セシェ」と呼んでいました。


 今二人はちょうど、次の町へ向かう坂道の頂上にさしかかったところでした。辺りは広々とした野原のようで、吐く息すらも音を立てて凍っていくようなこの季節では誰もいませんが、雪が溶けたあとの春や夏になればきっと、多くの人が憩いに訪れるでしょう。


 そこには一本、葉が落ちてしまっているため何の木かは分かりませんが、たいそう立派な木が植わっていました。

 その横を通り過ぎようとしたとき、カリオンは吹雪の幻を見ました。



 夜なのか辺りは黒く、なのに目の前を真横に通り過ぎていく雪の白さだけはくっきりと見えて。

 その向こうにいるのは泣き叫ぶ獣か、それとも立ち竦む青年か——。



 「ハッ!」


 我に返ったカリオンの目の前には、さっきまでとなにも変わらない、青い空と白い大地が広がっているばかりでした。


 「行きましょう、館長さん。何か催し事があるみたいですよ」


 トントンとビブリオドールに手を叩かれて気づきましたが、町のほうではポンポンッと花火があがっており、なにやら楽しそうな雰囲気です。


 「……ああ、そうだな。行ってみようか」


 カリオンはそう言って手綱を握り直し、また歩きはじめました。



 町で行われていたのは、雪像作りの大会でした。小さな雪だるまをたくさん作って数で勝負をする人や、身の丈よりも大きな雪像を拵えて迫力で勝負に出る人など、様々な作品が登場し、観客たちをわかしていました。


 「へえ、アンタたちは旅人かい! 雪祭りはどうだい、すごかったろう。この町唯一にして最大の自慢なのさ!」


 宿屋に併設されている食堂で、絶妙なバランスで山と盛られた料理が乗ったお盆を器用に持ちながら、店のおかみはそう言いました。


 大きな暖炉で赤々と燃える炎と、天井からつり下げられたカラフルなランタンに灯った火で、食堂の中はほっとする暖かさで満たされていました。おかみの闊達で温かみのある人柄も手伝って、食堂にはたくさんの人がやってきていました。


 「ええ、とてもすばらしかったです。雪像もそうでしたが、ここに飾られているランタンも全て皆さんの手作りですよね? 手先が器用な方が多いのでしょうか」

 「そうだねえ、この地域は冬の季節が長い。家の中でやれることと言えば限られるし、みんなわりと工芸や裁縫は得意だね。あとはまあ、あれよ、買うより作ったほうが安上がりっていうのもあるね!」

 「なるほど」


 茶目っ気たっぷりに笑ったおかみにつられて、カリオンも思わず小さな苦笑を漏らしました。


 そのときふと見た窓から、昼間の大きな木が見えました。あのとき見えた幻はなんだったのか……そんなことを考えていると、顔と同じくらいの高さから声をかけられました。


 「どうぞ、おかわりのスープです」

 「ああ、ありがとう」


 房飾りのついた暖かそうなワンピースを着た女の子が、お盆ごとカリオンに湯気の立つスープの器を差し出していました。おかみの一人娘だというこの子は、幼いながらもよく両親の手伝いをしにこの食堂へ出てくるそうで、常連客たちの間ではちょっとしたアイドルのように見守られていました。


 礼を言ってカリオンが器を受け取ると、彼女は不思議そうに窓の外とカリオンの顔の間で視線を行き来させました。


 「あの、外に、何か?」

 「ん? ああ、いや。あの丘の上にある木が何の木かと思ってな」

 「あれはアズトニカ・ル・フレムの木です。春になるととってもきれいな黄色い花を咲かせるんですよ!」

 「ああ、幸福と火の神フレムの髪のように黄色い花と、瞳のように赤い実をつける木だったか。もっとも、その実には強い幻覚作用があるため食用には適さないらしいが」

 「はい。けど、あの実を食べないようにっていうのとはべつに、この町の子は注意するようにって言われてることがあるんです」

 「注意? 何にだ?」

 「今夜は大丈夫なはずなんですけど、旅人さんも気をつけてくださいね——」



 早朝。夜明けの最初の光が差し込むとき、あの木にダイアモンドの霧がかかった日の夜は、かならず猛吹雪になる。



 「ダイアモンドの霧、か」

 「先ほどのお話ですか?」

 「ああ」


 ベットに腰掛けて本を読んでいたビブリオドールが、カリオンのつぶやきを拾って小さく首をかしげました。

 分厚いガラスの外に広がる家々の窓からは明かりが消えつつあり、夜もだいぶ更けてきたことが分かります。


 「ダイアモンドとは、またずいぶん豪勢な話だと思ってな」

 「そうですね。でも、実際に見てみれば納得すると思います。星に囲まれているような、宝石を空へ投げたまま時を止めたような、不思議で美しい光景ですよ。……もっとも、直接触れてみようと思えば、多少痛い思いも覚悟しなければならないですけど」

 「? ああ、寒すぎてか」

 「はい」


 どういう意味だと首をひねったのは、一瞬だけでした。この町のように雪が多く、冬が長い地域の空気は比喩などでなく、本当に肌を刺し切り裂くように鋭いのです。


 「『棘の女王の息吹』と呼ぶ地域もあるそうですよ」

 「それはまた、特に痛そうな名前だ」


 カリオンは身を寄せていた窓から離れると、柔らかいベットの中に体を潜らせました。ビブリオドールも栞を挟んで本を置き、枕元のランプを吹き消しました。


 「おやすみ、セシェ」

 「はい。おやすみなさい、館長さん。よい夢を」



 翌朝、カリオンは朝日が昇るよりも前に目を覚ましました。特に何かがあったわけではなく、ただの習慣です。


 夜の間に冷えてしまった部屋の空気に、温かい布団に馴染んだ体を辛さを訴えます。その誘惑を振り払い、何気にカーテンを開けたカリオンは目を丸くしました。


 町を覆うように、小さな光の粒が舞っていたからです。


 ビブリオドールはまだ健やかな寝息を立てて眠っています。いつものように音を立てず柔軟運動を終えたカリオンは、コートを着ると部屋を出ていきました。「散歩してくる」という素っ気ない一文のメモを残して。


 空の端が白んできたとはいえ、まだまだ町並みは暗い夜の中で眠りについています。カリオン以外に動くものは何一つありません。

 だからこそ、カリオンはこの降り注ぐ雨が凍りついたような幻想的な光景を独り占めすることができたのでした。


 星々が空の舞台から下りる頃、太陽が近づく足音だけが聞こえるようなこの時間。世界が入れ替わる空白の間を埋めるように、宝石に喩えられた光は密やかに光っていました。


 カリオンの動く音は雪に吸収されていきますが、しゃらしゃらと鳴る氷の音は、不思議と耳の奥へ奥へと転がってきました。


 そんな景色に無言で見蕩れているといつの間にか、カリオンは坂の上まで歩いてきていました。ちょうど昇った太陽の光がまっすぐに目に飛び込んできたので、それから逃れるように思わず顔を背けようとした瞬間、彼女はハッと息をのみました。



 広く、遠く、世界の全てを覆う偉大な光に照らされて、アズトニカ・ル・フレムの木にかかった光が先ほどよりもずっと強い輝きを放っていたのです。



 〝星に囲まれているような、宝石を空へ投げたまま時を止めたような、不思議で美しい光景ですよ。〟


 ビブリオドールの言葉が、ぼんやりと頭の中にこだましました。さっきまでカリオンが見ていたのは、本当のダイアモンドの霧ではなかったのです。夜明けの最初の光が差し込んでこそ、ダイアモンドの霧の美しさは完成するのでした。


 金色に、虹色に。風に踊っていた光が太陽の熱で溶けていくまで、カリオンは息をするのも忘れてそのキラキラとした光景を見つめていました。



 「おかえりなさい、館長さん。ダイアモンドの霧はいかがでしたか?」

 「とても綺麗だった。あいにく私は、それ以上の言葉を持ち合わせていない。残念なことにな」


 宿屋へ戻ってくると、起きていたビブリオドールが食堂で紅茶を飲んでいました。彼女の前に座ると、おかみがスープの器を持ってきました。


 「私らにとっちゃ、もう見慣れたもんなんだけどねえ。やっぱ珍しいのかい? アンタ以外にも時々いるんだよ、このクソ寒い中に出ていく人が」

 「初めて見たから思わず、な」

 「ふーん、そうかい。ほら、とりあえずこれでも飲みな。サービスだよ」

 「ああ、ありがとう」


 口にしたスープはとても熱く、喉から胸、胃まで落ちていくのがはっきりと分かりました。大きな火ですっかり温められた部屋の空気に触れた指先がじんじんと痛んでくるのも感じて、カリオンは自分の体が思った以上に冷えきっていたことを知りました。


 「まあ朝や昼間のうちは大丈夫だと思うけどね。夜にはこの辺り一帯が猛吹雪になるだろうから、気をつけなよ」

 「ああ、ダイアモンドの霧が出た日の夜は吹雪になるということでしたよね。昨日の夜、貴女の娘さんから聞きました。言い伝えなどではないのですね」

 「あの子は一体何をお客様にしゃべってるんだかねぇ……。信じられないかもしれないけど、本当のことさ。いつの頃からかは誰も知らないことだけどね、この町じゃみんな知ってるよ。太陽が昇れば朝になるのと同じくらい、当たり前のことさ」


 朝食を注文し、おかみが厨房へ一度下がったところで、ビブリオドールがこっそりとカリオンに囁きました。


 「時に、館長さんは吹雪の中を歩いた経験はありますか?」

 「まあ、あるが……。ということは、やっぱり」

 「はい。あの木の下にいた、吹雪の中の小さな獣の子をおくりにいきます」


 いつものように慈愛に満ちた、そして強いまなざしでビブリオドールは答えました。




 空が橙色になりはじめた頃から、分厚い雲がかかりだしました。やがて雪が、と思った頃には既に風も荒れたものに変わり、あっという間に右も左も分からないほどのひどい吹雪になっていました。分厚い雲と夜のせいで、辺りは墨を溶かされたかのように黒く、横殴りの風にあおられる雪は、もはや白い塊でしかありません。


 「なかなか、思ったよりきついな」

 「あらかじめ木の前で待機していてよかったですね」


 いま、ビブリオドールはカリオンに抱えられています。それでも顔に口付けるほど近づけないと互いの声が聞こえないほどでした。カリオンの反対の手に握られたランタンは、強風に振り回されてあまり使い物になりません。あくまで、ないよりはマシというところでしょう。


 フードが飛ばされないようにしっかりと留め、手袋を二重にして分厚い上着を着ていても、寒さは容赦なく身体の内へと入り込んできます。目に入る雪を拭い、慎重に足踏みをして足の自由を確保することを何度繰り返した頃でしょうか。


 木の下に、この吹雪には相応しくないほど薄着の少女が立っていました。長袖のシャツと長ズボン、そして布の靴だけです。この暴風に煽られているうちに、千切れて飛んでいってしまうのではないかと、つい心配になってしまいました。


 「こんばんは」

 『……』


 少女はちらりと二人を見ましたが、すぐに背を向けてどこかへ行こうとしました。そのとき、カリオンは少女の手に小振りのナイフが握られていることに気がつきました。それについた誰かの赤い血が、もうずっと乾いてないだろうことにも。


 「その格好では寒くありませんか?」

 『……平気よ。むしろこの痛みと苦しみがあるほうが、生きていると感じられるもの』


 さらにビブリオドールが声をかけると、少女はそんな答えを返しました。そして少し振り返ると、二人を値踏みするように上へ下へと目を動かしました。


 『そういうあなたたちは温かそうな格好をしてるわね。どこか良い家の出なのかしら』

 「いいえ、わたしたちはただの根無し草。貴女のように美しい薔薇の前を、眺めては通り過ぎるだけの旅人にすぎません」


 ぴくりと少女の眉が動きましたが、ビブリオドールは気づかないふりで続けました。


 「だから行く先に合わせた格好をしているんです。とはいえ、ほんの十歩先も見えないようなこんなひどい吹雪は久しぶりです。ああでも、貴女のローズレッド色の髪はこんな中でも映えて美し……『私をその名で呼ぶな! その名で呼んで良いのは、死んだ父さんと母さんだけだッ!』


 少女の形相が変わり、唸る風にも負けぬほどの大声を二人にぶつけてきました。髪と同じ色の瞳には明確な怒りと殺意が宿り、今にもナイフを構えて飛びかかってきそうなほどでした。


 「それを、貴女を拾い育てた方に言ったとき、彼はなんと言いましたか?」

 『!』


 少女の瞳がめいいっぱいまで見開かれました。


 ——君の名前、ロゼッタというのはどうかな。君の髪と瞳が綺麗な薔薇色だから。


 かの青年がそれを言い終わる前に、少女は渾身の力で青年を殴り飛ばしました。渾身といっても当時の少女は今よりもっと幼く、病み上がりだったのでたいした力ではなかったと思うのですが。

 そしてビブリオドールに言ったのと同じセリフを叩き付ければ、彼はそっか、と言って微笑みました。


 ——それじゃ、ダイアナというのはどうだろう。君を拾ったあの日は、ダイアモンドの霧が出ていたから。


 そのとき、少女は自分が気を失う前に見た青年が、キラキラと光っていた理由を知りました。青年が神の御遣いだから光っていたのではなく、青年の後ろでダイアモンドの霧が輝いていたのです。


 少女は、ここから遠い別の町で生まれた孤児でした。


 雪国では少ない食料を巡って争うことが少なくなく、少女の両親は少女が物心つく前に、近くに住んでいた人に殺されました。


 それから少女は、ナイフ片手に人を襲っては物を奪い、奪う物がなければその死肉を食べ、雪を飲み、獣のように獰猛で孤独に生きてきました。そして何年かの後に、罰でもあたったのか病魔に冒されて、このアズトニカ・ル・フレムの木の下に倒れこみました。


 自分は死ぬんだろうな、とぼんやりした意識の中でそう思い、目を閉じようとしたとき、青年が少女を拾ったのです。


 青年の看病の甲斐あって、少女は一命を取り留めました。少女が行くあてのない孤児だと知り、青年は自分の妹(娘というには少し年が近すぎたので)として引き取り、育てることにしました。そして先に述べたような一悶着を経て、二人は一緒に暮らしはじめました。


 最初の数年は穏やかに過ぎました。


 青年は町の教師で、決して裕福ではありませんでしたが、兄妹二人が生活していくには十分でした。雨風に脅かされない家で寝起きし、温かい服を着て、おいしい食事をお腹いっぱい食べて、二人は仲睦まじく暮らしていました。


 ですが、だんだん少女は息苦しくなってきました。


 青年が丁寧に教えてくれる勉強も、編み物や料理も、全て少女がそれまで生きていくのに必要だったものではありません。少女にとって必要だったのは、誰から何をどう奪うかの見極め方と、逃げ足を速くすることでした。


 安定と平穏を約束された今の生活は、少女が慣れ親しんできた生き方とは真逆だったのです。


 一度それに気がついてしまえば、違和感がいつもついて回りました。少女は落ち着かなくて、息苦しくて、何度も泣き叫びました。そして何度も家を飛び出し、その度に青年は家に連れ戻しました。


 ——ダイアナ、お前はここに居ていいんだよ。焦らなくていい。ゆっくり人の生活に慣れていこうな。


 そういって頭を撫でました。青年は、少女が家の中に閉じこもったままなのがよくないのかもしれないと考え、少女を外に案内しました。他の子どもたちと同じようにそり遊びをさせてみたり、たとえば猟師に預けてみたり。ですが、どれも少女の心を慰めてはくれませんでした。


 そしてついに。雪が荒れ狂うとある晩に。少女は青年の体をナイフで刺しました。


 噴き出した血は温かく、震える少女の手を伝い、分厚いカーペットに染み込んでいきました。鉄臭いその匂いが、少女の心のどこかに突き立てられたままだった獣の記憶を揺さぶり起こしました。


 ——ごめんな、ダイアナ。


 そのあとに続いた言葉を、少女は忘れました。聞いたのに忘れたのか、聞いたことを忘れたのか、今の彼女にはもう分かりません。


 叫びながら何度も青年の体にナイフを突き立て、彼のくすんだ色の金髪が赤くなるまで刺し続けた少女は、そのまま外に飛び出しました。


 とめどなくあふれる涙は片端から凍りつき、流れていってもくれませんでした。いっそ目も、耳も、喉も手足も心すらも! 全て凍りついてくれたら、どれほどよかったでしょうか。


 そのまま走り続けて町を出た少女は、やはり獣のように生きて、遠い未来に一人で死にました。


 『あの男の話はするな! 第一、もう顔も声も名前すらも覚えてない!』


 ぶるぶると震える体で少女はビブリオドールを睨みつけました。彼女は寒さではなく、少しの怒りと、大きな恐怖で体を震わせていました。


 『私は、私が一番楽で落ち着ける生き方をして、私に相応しい死に方をしたんだ! 未練もないし、後悔もしていない! あんなやつが居なくても、私はちゃんと生きることができたんだ!』


 はー、はー、と白くならない荒い息が少女の喉から吐き出されては、雪風に連れて行かれていきました。


 「未練もないし、後悔もしていない。ならば何故、貴女はまだこの世に留まっているのでしょうか」

 『知るか!』


 ひときわ強い風が吹きつけ、カリオンは思わず後ずさろうとして、自分の足が膝下まで埋もれていることに気がつきました。


 (気をつけていたつもりだが……。もしかして埋められたか?)


 この吹雪を少女が起こしているのだとしたら、ありえないことではありません。両足を引き抜いて自由を得たカリオンに、少女はナイフを向けました。


 『失せろ! 私の前に二度と現れるな!』

 「そういうわけにはいきません。わたしはビブリオドール、貴女を天の園へ葬り届けるためにいるのですから」

 『はあ?』


 少女の顔が、さっきまでとは別の意味で歪められました。ビブリオドールはおとぎ話の住人として知っている人には知られていますが、知らない人もまたこの世界には多いのです。少女は後者のようでした。


 「わたしは貴女のように、逝くべき天の園へ還れず彷徨う魂を救うため、この世界へ遣わされたのです。だから分かります。貴女が、今も息ができずに苦しんでいることが」


 赤い少女の瞳がもう一度見開かれました。今度は驚愕の他に、怯えも交えて。


 「この吹雪は、もう泣くこともできなくなった貴女の嘆きの声なのでしょうね」

 『違う! 私は自分の人生に納得してる! 恨みもたらればもあるものか! あの男の、あんなやつのことだって……もう忘れたっ! 何も覚えてない‼」


 


 少女は、今もまだ青年のことを覚えています。ですが、忘れないといけないのです。彼のことを忘れて、彼がくれたものは全て捨てて。そうでなければ、彼を殺した記憶がいつまでも少女の心に、取り除けない魚の小骨のように残り続けるからです。


 『私は覚えてない、思い出してない、忘れた、忘れてる、忘れたんだっ……!』


 膝をついて髪をかきむしりながらブツブツと呟く少女に、カリオンの腕から下りたビブリオドールがさくさくと音を立てて近寄りました。


 ビブリオドールの豪奢なドレスの裾と温かそうな黒いブーツの爪先が少女の視界に入ってきた瞬間、少女はビブリオドールが何かを言う前にその細い喉を掴んで押し倒すとナイフを振り上げました。


 ——いいかい、ダイアナ。人は人を傷つけずに生きていくことができるんだ。君には意外かもしれないけどね。


 ホットミルクのように甘くて温かい、青年の声が少女の頭に響きました。


 ああ、また思い出してしまった。


 少女の顔が痛みをこらえるように歪み、ナイフを振り下ろす速さが乱れました。それと同時に、カリオンの剣が少女の手からナイフを弾き飛ばしました。


 舌打ちをこぼし、ビブリオドールを置いて少女は後ろへと跳びました。追撃を警戒しての反射的な行動です。動揺しても体は動くのですから、少女の体に刻み込まれた生きることへの執着心は本物だったのでしょう。


 「大丈夫か」

 「はい、ありがとうございます」

 「……やっぱりもう少し警戒してくれ。私の心臓に悪いから」

 「そう言われましても、こればっかりは……」

 『……私を殺さないのか』


 ビブリオドールを助け起こすだけで何もしてこないカリオンを怪しんでそう問えば、カリオンはちょっと困ったように言いました。


 「殺すも何も、君はもう死んでいるしな。魂まではさすがに切れないし、セシェが無事なら君を切る理由もない」


 『……あ』


 そうです。少女はもう死んでいるのです。


 知らぬ間に凶悪な山賊の獲物に手を出していたようで、追われて矢を射かけられて、崖から落ちて。我ながら情けない死に様だとは思いましたが、まあこんなものだろうとぼやいて。それでも、目を閉じる間際に見えた兄の栗色の瞳に、何故か安心したものです。


 ——おやすみ、ダイアナ。


 『〜〜〜〜やめろっ‼」


 そこまで思い出してしまった少女は再び声を張り上げました。


 『やめろ! 違う! 私は何も思い出してない! 忘れた! 知らないんだ!



 …………愛してるなんて言われたこと、覚えてないッッ!』



 絶叫した少女の目から、初めて涙があふれました。



  書架配列七七一番より——開架

  ダイアの獣の子に紡ぐ愛慕の詩



 ビブリオドールが詠い上げるのは葬唄おくりうた。死者を慰め、彼の地へおくる詩。



  ひらめく雪の星々よ

  綺羅やかに凍とおしく

  ああ、囁き歌う天使の微笑み



 少女が一番恐怖したものは、家でも服でも食事でもありません。それを与えてくれる青年自身でした。 


 青年の善良さは、少女がそれまで必死で築いてきた獣の泥人形のような醜さを浮き彫りにし、やがてはそれに跡形もなく溶かされて、流されてしまうだろう。そう思うと、少女の体は芯から震え、目の前が真っ暗になったのでした。


 だから少女は衝動的に、自分の意思で青年を殺しました。彼が居なくならないかぎり、彼女の自分を見失う恐怖はなくならないからです。


 『わ、私は……わたしは……!』


 

  白銀薫る空の下で

  飾らず、偽らず、

  貴女はそこにある声を聞くのでしょう



 けれど、それでも少女の心は元の通りにはなりませんでした。むしろ、より強く掻き乱されたままになったと言っていいかもしれません。

 少女はずっとずっと、その理由が分かりませんでした。ただ、青年のことを想うと苦しくなるので、必死で忘れようとしていたまでのことです。



  ふるえる瞼を開けてみて

  夜明けの光が世界を照らすから



 今までなら思い出してもすぐに忘れられたのに。どうして今日は、あれもこれもと思い出してしまうのでしょう。


 そう考えた少女は気がつきました。


 今まで少女は一人きりでした。ですが、今日は青年のことを知るビブリオドールがいます。ビブリオドールが、もう忘れさせてくれないのです。


 『わたしはっ……!』



  ああ、なんと美しいことでしょう

  それは無垢な少女の純真さと

  深き祈りの声に似て

  ひとときの慰めに世界を輝かせる



 『ごめんなさいって言いたかった……ありがとうって言いたかったの、ずっと……!』


 ついに、少女の心の内をせき止めていた何かが決壊しました。

 涙で濡れた顔を上げて、少女は掠れた声で叫びました。もうどこにも居ない青年に、どうしても伝えたくて。



  貴女の手にも

  憩うキャンドルの灯りが贈られますように

  貴女はずっと、愛されていたのだから



 『わたしも……! 大好きだったの、兄さんっ……‼』



  願わくば、

  貴女の次なる目覚めにも光があらんことを……




 涙ながらに叫ばれた悲痛な残響が消えてしまう前に、少女の体はダイアモンドの霧のように、細やかな光の欠片となって宙に消えていきました。


 「兄を殺したことを後悔しているんじゃなかったんだな?」


 カリオンは再び腕の中の人となったビブリオドールに問いかけました。


 「それもなかったということは、ないでしょう。ですがそれ以上に、彼女は『言いたくても言えなかったこと』があるのが心残りだったのではないでしょうか」




 そうして、この世界で次に目覚めたときには幸せに過ごしてくれたら良いと、二人は切に願いながら宿屋へと帰っていきました。

 吹雪はほんの少し、弱くなったようでした。


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