迷子の灯台守とビブリオドールのお話




  幼き頃に見た夢はとうに去り

  遠く潮風の向こうに想いをはせる

  甘美なる小夜の歌声に

  酔いしれたのはいつの日か

  古びた灯りの日々を偲ぶれど

  波はざわめき、寄せては返せども

  白き浜辺に望みは虚しく

  今はいないあの人の夢を見る





   迷子の灯台守とビブリオドールのお話



 「泣く灯台守の話?」

 「そうさあ。昔、あんたらが今歩いてる道の先に、灯台があったんさ。いまもう別のところに新しいのが建っとるから、名残のレンガが残っとるだけやがなあ。そこにいるかわいそーな人の話しさあ」


 うららかな春のとある日。

 穏やかに吹いてくる潮風を肺いっぱいに吸い込みながら、気持ちのよい青空に目を細めて、海岸線に沿って伸びる道を歩いている二人の旅人がいました。

 透明な春の光を反射して輝く青い瞳の少女と、白い髪を風になびかせた精悍な顔つきの女性。親子にも姉妹にも見えない奇妙な二人は、ビブリオドールとその契約者でした。

 世界中の全てから忘れられた友だちの神さまが、死んでも死にきれずこの世界を彷徨っている魂を救うために造ったのが、ビブリオドールです。

 そしてそれに付き従い、共に世界中を旅する契約を交わしたのが、彼女から〈館長〉と呼ばれる人間です。当代の〈館長〉は名をカリオン・シュラークといい、元は腕の立つ傭兵でした。彼女はビブリオドールのことを、古い言葉で『書物』を意味する『セシェ』という名で呼んでいました。

 カリオンは馬を一頭牽いています。べつに荷物が多いからだとか、馬が怪我をしているから乗っていないわけではありません。ただ、景色も良いし気分も好いので、なんとなく自分たちの足で歩こうかという結論に至っただけです。

 右手には水平線が丸みをおびて見えるほど大きな海が視界を埋め、左手には可愛らしい花々が咲き乱れる緩やかな丘陵地帯が広がっていました。

 その中に整えられた道の一本を二人は歩いていたのですが、近くの家からひなたぼっこに出てきていたおじいさんに声をかけられて、思わず足を止めてしまったところでした。

 顔中にシワがより、ヒゲも髪も全部真っ白なおじいさんは、ほけほけとした笑顔で、体を少し左右に揺らしながらゆっくりと聞かせてくれました。


 「むかーしむかし、灯台の守番をしている少女がいた。その少女はとりたてて美しいというわけではなかったが、元気がよく愛嬌もあって、皆からよく好かれていた。

 彼女には船乗りの恋人がいて、子どもが見ても分かるほど、それはそれは仲が良かったもんだ。ここから遠い異国の知へ発つ時には抱き合って別れを惜しみ、帰ってきたら片時も離れようとせず、やはり抱き合って過ごしていたほどだったそうな。この春の光のようにあどけなく、仲睦まじい二人の幸せを多くの人が願い、そして祝福していた。

 もうすぐ恋人が帰ってくる日だと、少女が指折り数えていたある日、季節外れのひどい嵐がこの辺り一帯を襲った。日が落ちる前、空の端が赤く染まりはじめた頃には灯台に火をいれるのが昔からの習わしでなあ。少女は周りが止めるのも聞かず、家を出ていってしまったそうだ。

 ——そして、少女は海に落ちた。その夜灯台に火は灯らず、それから少女のことを誰も見なくなった。

 帰ってきてそれを知った恋人は、たいそう嘆き悲しんだ。しばらくの間、海に出ることもせず、灯台で泣き暮らしていたほどだったからなあ。やがて彼はもう一度船に乗るようになるんだけんど、帰る先は家ではなく、決まって灯台だった。そして少女のお墓の前に座って、ずーーっと話しかけていたよ。最初はみんな彼の気が触れてしまったんじゃないかと心配していたそうだが、彼の目がとても優しくて慈しみに溢れていたもんだから、結局だーれも、何も言えなかったらしい。

 彼は生涯、海に出て灯台に帰ることを繰り返し、他に添い遂げる人もつくらず、少女と最期に別れたのと同じ春の長雨が来る頃に、ひっそりと息をひきとったのさあ。

 ところがそのあとから、よくよくすすり泣く声が聞こえるようになったんだ。きっとみんな思っただろうさ。ああ、やっぱり彼の悲しみは癒えてなかったのだな、と。だから少しでもその嘆きが和らぐようにと、ここらのもんはみーんな、二人の墓に花を供えに今でも行くんさ」


 これでおしまい、とおじいさんは長い語りの口を止めました。


 「そのようなことが……。その少女はきっと純粋で、恋人の船乗りの方もさぞ誠実な人だったのでしょう。……絡み合う糸のような運命の先を追うのは、神にもできぬこと」


 そう言ってビブリオドールは空を見上げました。つられてカリオンも顔を上に向けました。

 そこには柔らかく明るい空色と、飛び交う鳥の小さな黒い影、ゆったりと流されていく白い雲がありました。自分の立っている地上と、あの高い空では時間の流れが違うような錯覚さえ覚えるほどです。

 ふと、どうして空は青いのか、などという疑問が浮かびました。

 海の青を映しているから。とも言いますが、海の青はもっとずっと深く、濃い色をしています。溶け合いそうで溶け合わないのが、この空と海の理です。

 たしか神話では、天空の神・アドが、宵の一番星と富を司る女神・サントルマージュに一目惚れして、彼女が好む淡い青色に空と自身の衣を染めたからだと伝えていたはずです。ちなみに宵の星が昇る夕方の空が赤いのは、現れる女神の姿を見て、アドが照れて赤くなるからなのだとか。


 (いや、今はそんなことは関係ないか……)


 カリオンは頭を振ると、となりにいるビブリオドールをそっと見下ろしました。

 ビブリオドールには空がどういう風に見えているのだろうか。

 それがそもそも最初の疑問だったのです。神の御遣いであり、人ならざるモノであるビブリオドールは、はたして人たるカリオンと同じ空を見ているのでしょうか。もしかしたらこの小さな人形には、世界が神と同じように見えているのかもしれません。


 (まあ、だからどうという話ではなかったな。訊いて私が理解できる話かも分からんし)


 ビブリオドールは、ちょうどおじいさんに向き直ったところでした。


 「本当、痛ましいとしか言えませんね。この道の先にお墓があるというなら、それも導きでしょう。わたしたちも祈りを述べさせていただきます」

 「おお、ぜひそうしてやってもらえんか」


 手を振ってくれたおじいさんに軽く会釈を返して、二人はまた歩きはじめました。ですがカリオンは、そういえばと思ったことがあって、一旦足を止めると振り返っておじいさんを呼び止めました。


 「そうだ、ご老人。ひとつ訊いてもいいだろうか」

 「うん? どうかしたんか?」

 「いや、たいしたことではないんだが……。あなたの話がどうも伝聞だけではないような気がしてな。どうしてそんなに詳しかったのか聞きたいと思って」


 ああ、とおじいさんは表情を動かしました。その微笑みが懐かしさ故か、寂しさ故か、ヒゲとシワに埋もれたままでは、カリオンには判断がつきませんでした。


 「その少女はね、私の大叔母なんだよ」



 見晴らしのいい岬の上に二人のお墓はありました。仰々しいものではありませんでしたが、花が多く植えられた心温まるお墓でした。


 「この方達は、本当に今でも町の人たちに大切に思われているようですね」


 短い祈りの言葉を紡いだビブリオドールがそっと呟きました。

 名前が刻まれた石はよく磨かれていて、周りも綺麗に掃除がされています。灯台も丁寧に解体されたようで、草に埋もれるようにして基礎のレンガがいくつか残っているだけでした。

 雄大な海を眺め、花の揺れる野原を見渡して、

 

「……いないな?」


 カリオンは首をかしげました。

 今もすすり泣いているという青年の、彷徨う魂はどこにも見当たりませんでした。それとも、カリオンには見えないというだけなのでしょうか。

 カリオンがそう問うように目線をビブリオドールに投げ掛ければ、ビブリオドールも首を振りました。


 「残念ながら、わたしにも見つけることができません。もしかしたら、何か条件があるのかもしれませんね」

 「条件だと?」

 「ええ。……ひとまず、灯台に火を入れていたという夕方を待ってみましょう」




 よく晴れた青い空を迎えた日の夕暮れはまた、淑やかで美しいものでした。

 まあるいオレンジの光がゆっくりと、遠い海と空の境い目に片付けられていくのを、カリオンはなんとなしに眺めていました。

 やがて、家路を急かす鳥の鳴き声にまぎれるように、高くしゃくり上げる声が聞こえてきました。


 『ひっく、ひっ……うっう……』


 か細い声に思わず心が痛みます。ところが不思議なことに、そのしゃくり上げる声は老いた男性のものではなく、まだ幼さすら感じる若い乙女のものでした。


 「どうしてそんなに泣いているのですか?」


 いつの間にかお墓の横に膝を抱えて座っていた女性に、ビブリオドールが近づいてそっと声をかけました。


 『…………ないの』

 「?」

 『……彼が、いないの。いつも、ヒック、いっしょ、だった、の、に。スンッ、どうして、どっかに……行っちゃったのよぉ……なん、なんで、ここに……来てくれないの〜〜!』


 ついに女性は顔を覆い、声をあげて泣き出してしまいました。さらに小さく丸まってしまった女性の背を撫でながら、ビブリオドールは落ち着かせるように耳元で静かに囁きかけました。


 「よしよし。大丈夫ですよ、大きく息を吸って」

 『ひぅ、う、うわあ〜〜! どうじでよ〜〜!』

 「よしよし……」

 『わあああああああん!』


 ビブリオドールがなだめようとしていますが、女性はなかなか泣き止んでくれません。

 そしてついに日が完全に沈み、月が昇り出した頃になって、カリオンの我慢が先に限界に来ました。


 「いいかげんにしないかっ」


 女性の目の前で大きく手を鳴らしました。すると女性はびっくりして、目を丸くするのと同時に声も飲み込んでしまったようで、一瞬泣き声が止まりました。

 ですが少々荒療治すぎたようで、カリオンはビブリオドールから咎めるような視線をもらってしまいました。それが気まずくて、さりげなさを装いつつカリオンは女性から目を逸らしました。


 「……迷子になった幼児じゃあるまいに。しっかりしないか」

 『で、でも』

 「大好きな人がいなくなってしまったんですものね。それは寂しかったし、悲しかったでしょう」

 『う、うん……』


 すかさずビブリオドールがそう声をかけると、女性の目にまた涙が溜まりはじめました。ですが今度は切れ切れながらも、先へと言葉を紡いでくれました。


 『だ、だって、ヒック。私、は、彼もここに来てくれるんだと……思って、た、のに、来てくれなかった、んだもん。ヒック、ヒッ』

 「ん?」


 やっと話が聞けそうだと腰を下ろしたカリオンでしたが、予想もしなかったようなセリフが聞こえたような気がして、思わず首を傾けました。


 『わ、私、嬉しかったのよ。私が死んじゃっても、彼が変わらなかったのが。私のことなんて見えていないはずなのに、いってきますって言ってここから出ていって、ただいまって言ってここに帰ってきてくれる。

 他に大切な人もつくらず、前と同じようによ。とっても嬉しかったわ。だから私も、ここでずっと彼が来るのを待ってたの。生きてる人間と死んでる人間じゃ、一緒になれないのは分かってたわ。

 だから、彼が私を思い続けてくれているなら、私も彼を思い続ける。きっと彼は死んだら、私に会いに来てくれるから、それまで待っていようって。そう……そう、思って、信じて、た、のに……』


 そして、ぼろぼろと落ちていく雫を腕で乱暴に拭いました。


 『そ、そうした、ら、またいっしょに花冠を作ったり、夜の海辺を散歩したり、したかった、の、に……ヒック』


 うぅっと、食いしばった歯の隙間から、再び泣き声が堪えきれずに漏れていました。今度はカリオンも無理に止めようとはしませんでした。


 『……ック。……どこに、いっちゃったのぉ……ヒック、う、うぅ……わ、た、し……ここに……いる、の、にぃ……グズッ。……ずっと、まってぇ……うぅっ』


 ビブリオドールが女性の頭を撫でてあげているのを見ながら、カリオンは短く息を吐きました。


 「つまり、迷子というのはあながちハズレではなかったということか?」

 「ええ、そうですね。彼には、このひとのことが見えていなかった。それでありながら、最期まで愛を貫けたのは驚くべきことです。……ですが、だからこそ彼は、まっすぐに天の園へ向かってしまった。先に逝ってしまったはずの彼女を追おうとして」


 海から吹いてくる風は星降る夜になってもまだ暖かく、押しよせる波の音も優しい響きをしているような気がします。


 「寂しいすれ違いです。どうしようもなかったといえど」


 ビブリオドールは音もなく立ち上がると、顔を乱暴に拭い続ける女性の両手を取りました。


 「迷子の迷子の灯台守さん。もうそんなに泣かないでください。大丈夫ですよ、わたしが道を教えて差し上げますから」

 『……ほんと?』


 ビブリオドールに手をひかれるまま立ち上がった女性は、不安そうな目で彼女を見下ろしました。


 「はい、もちろんです。それがわたしのお仕事ですから」



  書架配列六二七番より——開架

  迷子の灯台守に紡ぐしるしの詩


  乙女は今日も願いをかけた

  愛しい人よ、どうか無事であるように



 詠い上げるのは葬唄おくりうた。死者を慰め、彼の地へおくる詩。



  月よりも星よりも明るく

  嵐の中でもなおまばゆく

  乙女は光を灯し続けた

  貴方の帰る場所はここだと伝えるために



 ビブリオドールがそうでしょう? と問いたげに首をかしげて見上げてみせれば、女性は自慢げに頷きを返しました。



  迷わぬように、見失わぬように

  愛しい人よ、私はここで貴方を待っています

  そして乙女は今日も光を灯す



 ビブリオドールが胸の前で両の手を椀のようにして差し出せば、そこにろうそくのように小さな火が灯りました。

 女性がそれをこわごわと受け取ると、見る間に透かし彫りのきれいな小さいランタンへと変わりました。

 オレンジの光はその中で揺らめいて、女性の足下を照らしてくれています。



  ああ、光を掲げた守人の乙女よ

  貴女の標はどこにある



 とたんに女性は顔を歪ませました。そこには広い世界にただひとり、取り残された心細さが滲み、何度目かも分からない水の膜が、ゆらゆらと小さな黒い宝石を覆い隠そうとしていました。

 ビブリオドールはそんな女性の手を握ると歩き出しました。女性も、一歩遅れてそれについていきます。



  分からないから怖くて、怖いから分からない

  もう大丈夫、泣かないで

  貴女を探している人のところへ

  ちゃんと連れて行ってあげるから



 それは永遠のようであり、一瞬のようでもありました。

 ビブリオドールに手をひかれるまま、どことも知れぬ道を歩いていた女性は、ふと名前を呼ばれたような気がして辺りを見回しました。

 黄昏を知らず、夜明けを知らず、大好きな彼と過ごした日々に似たぬくもりの中、もう一度名前を呼ばれました。聞き間違えではありません。



  ほら、笑って



 ビブリオドールが彼女と握っていた手を離して、背中をそっと押しました。



  貴女の迎えはもうそこに

  いってらっしゃい、お元気で



 女性は一度大きく頭を下げると、あとはもう一目散に駆け出しました。



  願わくば、

  貴女の次なる目覚めにも光があらんことを……




 

 こうして迷子になっていた灯台守の少女をしっかり送り届けた二人は、翌朝もう一度二人に花を手向けて、世界を巡る旅路へと戻っていきました。



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