朧桜とビブリオドールのお話



  浮き足揺れる、心も惑う

  朧月夜の花見酒

  色づく霞の雲から

  ひらめきこぼれる

  可憐にして妖しの花よ

  あけぼのの空にも光を灯せ

  ああ、お前は人が夢に見るもの

  待ち望むもの

  浅き夢の微睡みから

  目覚める日が巡ってきた

  幾万の愛を糧にして

  今という時にどうか咲いてくれ

  


   朧桜とビブリオドールのお話


 力強く、しなやかに、晴れた空へ伸びた枝の先に至るまで美しい命が咲き誇っていました。そよ風が吹くたびにちらちらと揺れ、小さなひとひらの花びらが見上げる人々へと降り注いでいます。枝と枝、花と花の間を飛び交う鳥たちの声も、どこか楽しそうなもののように聞こえてきます。


 「見事なものだな」

 「ええ、本当に」


 何百と植えられた桜の木に挟まれた道を、のんびりと歩きながら感嘆のため息をこぼす旅人たちがいました。


 一人は背が高く、白い髪をした女性です。細められた目は柔らかく、一年の中でもわずかな間しか見れないこの光景を楽しんでいるようです。

 もう一人は、レースとフリルで飾られた豪奢なゴシックドレスを着た少女でした。少女の髪に絡まる桜の花びらを、女性が苦笑しながら優しく取ってやっていました。


 わずかに霞んだような薄い空色と淡い淡い桜色の花々を見ていると、なんだかこちらの心まで洗われて透き通るような美しい気持ちになる気がします。そんな心で春の佳き日を過ごせるとは、なんという贅沢なことでしょう。


 そのとき、ドッと大勢の笑い声が響きました。そちらへ目をやると、ご近所さん同士で誘いあったのか、何組もの家族がお酒を片手に談笑していました。


 「花より団子というやつか?」

 「お花見の楽しみ方は人それぞれですし、いいじゃないですか」


 くすくすと少女が楽しそうに忍び笑いをもらしました。するとそのとき、バッと小さな人影が二人の前に飛び出してきました。


 「アメおひとついかがっすか!」


 首から下げたお盆の上には、飴でコーティングされた様々な果実が並び、差し込む太陽の光を反射してきらきらと輝いていました。


 「あら、おいしそうですね」

 「リンゴとミカンとイチゴとブドウの四つも味があるんだぜ、あるんですよ! おひとついかがっすか!」


 ずいっとお盆を突き出してくる少年の年の頃は、まだ十歳かそこら。家族の手伝いでもしているのでしょう。


 「そうですね、せっかくですからいただきましょう。……とは言うものの、どれにしようか悩みますが……では、ブドウの飴をひとつ」

 「ブドウな。ほいっ、どうぞ!」

 「ええ、ありがとうございます」


 代金と引き換えに飴を受け取り、ふんわりと微笑んだ少女を真正面から見てしまった少年は、たちまち顔を赤く染めました。そして、


 「ね、ねえちゃん美人だから、こ、これもやるよ!」


 バッと一番取りやすいところにあったリンゴの飴を、どもりながら叫んで少女に差し出しました。


 「よろしいのですか?」

 「べ、べつに、その、なんていうか、あの……!」


 もにょもにょと唇が動いていましたが、結局言葉になることはなく、彼は「ま、まいどありー!」と叫ぶと凄い勢いで人ごみの中に走っていってしまいました。


 「かわいいですね。あんな速さで走って、転ばないといいのですが」

 「……お前みたいな奴を、罪な女というんだろうな」


 みごと初恋を奪われてしまったらしい少年に、女性は多少の憐れみを感じながら苦笑を零しました。


 「まあ、失礼な。……それに、大丈夫ですよ。人はちゃんと、わたしを美しい思い出にできます」


 カリッと、薄くて小さな口に赤い飴が消えていきました。神の秘め事に一端触れてしまったような決まりの悪さを感じながら、女性はうなじをかいて言いました。


 「初恋泥棒はこれが初めてではないというわけか、ビブリオドール」

 「まあ、少々目立つ姿で造られましたから」


 少女が困ったように眉を少しだけ下げて笑いました。


 実は人ではなく、少女はビブリオドールと名付けられた人形でした。遥か遠い昔、世界中の全てから忘れられた友だちの神さまによって造られた、意志を持つ人形。人とは生きる時が異なる存在でした。

 海よりも深く澄んだ青い硝子球の瞳、白磁の肌。頬は薔薇色で、唇はここの桜と同じ色で塗られ、長い髪は濃い蜂蜜色に染め上げられて……その美しく、愛らしい姿には一点の曇りもありません。


 友だちの神さまは、彼女に死んでもなお死にきれず苦しんでいる彷徨う魂を救い、荒れる精霊を鎮めるために命を与えました。そのような誰かがいないか探して世界中を転々としてきましたから、出会った人の数も、きっと星の数すら越えてしまったでしょう。その中にはビブリオドールに恋をして、報われぬ心だと涙を流した人もたしかにいたのです。


 穏やかな風に吹かれて、儚いものによくたとえられる花が空を舞っていきました。


 「館長さんも、一口いかがですか」


 ビブリオドールが艶やかなリンゴを差し出しました。

 彼女と人生のひとときを過ごすことが許されるのは、「館長さん」と呼ばれる契約者たちだけでした。今代の「館長」である女性の名はカリオン・シュラークといい、元は凄腕の傭兵として知られていました。


 「……美味いな」


 腰をかがめてかじったリンゴあめは、果実の瑞々しさと口いっぱいに広がる飴の甘さが絶妙で、甘いものがあまり得意ではないカリオンも、思わずそう呟いていました。



 視界を埋め尽くすほどの、いえ、視界の外いっぱいにまで広がる盛りの花は、まるでピンクのトンネルのようです。その下をゆったりと歩き続けていると、二人の前のほうを走り回っていた子どもたちのうち、ひとりの女の子が足を滑らして転んでしまいました。


 「あっ! ふーせんが……!」


 幸い女子はたいした傷もなく、すぐに起き上がりました。ですが転んだひょうしに手から離れてしまった風船を見て、悲しい声をあげました。


 風船はそのまま引っ張られるように青空へ昇っていくかと思われましたが、ざわざわっと桜の枝が突然揺れ、風船の行く手を阻むように絡めとってしまいました。


 それでも小さな女の子から見れば手が届かないほどの高さでしたが、元々背が高く、体も鍛えているカリオンならば跳んで届かない高さではありません。

 無事に風船をつかまえて地面に下り立つと、わあっと子どもたちから歓声が上がりました。何対もの期待に満ちた視線を浴びて気まずかったカリオンでしたが、ひとまずほっとして膝を折りました。


 「ほら、もう飛ばすんじゃないぞ」

 「うんっ! ありがとぉ、おねえちゃん!」


 満面の笑顔で駆け寄ってきた女の子に風船を渡し、ついでに紐を手首に結んでやりました。もう一度お礼を言って、女の子はまた他の子どもたちと走って遊びにいってしまいました。


 「風船はもう飛ばさないかもしれませんが、あれではきっとまた転んでしまいますね」

 「子どもなんてそんなもんだろう」


 カリオンは肩をすくめてすぐに歩き出してしまいましたが、ビブリオドールは風船をとめた桜の木が気になるのか、しばらく見つめていました。


 そのまましばらく歩き続けていると、桜のトンネルが一度途切れるところへさしかかりました。狙ったように人が集まっているのは、屋台が出ているからでしょう。威勢のいい呼び込みがあちこちから聞こえてきました。


 「にぎやかですね。しっとり桜を眺めるのもいいですが、こういうのも胸が躍ります」

 「どうせなら何か食べるか。小腹も空いてきたしな」


 そして二人は近くの屋台へ寄っていきました。薄く衣をつけて揚げたお餅を売っている屋台でした。


 「いらっしゃいませぇ」

 「二つくれ」

 「はい、どうもおおきにー」


 口調はおっとりとしていましたが動きはテキパキしていて、長年この屋台を切り盛りしてきたのだろうと感じさせました。ちょうどそのとき、テントをくぐって子どもが二人中に飛び込んできました。


 「おかーさーん! おかあさんきいてー!」

 「ことしもおばけざくらがでたんやってー!」

 「もうっ、なんなん二人とも! ここにおっても邪魔なんやから、他の子と遊んどき言うたやろ!」


 売り子の女性がすぐさま叱りつけますが、興奮したように目を輝かせている子どもたちにはまるで聞こえてないようです。


 「みこっちゃんとヨンヨンがみたんやって!」

 「いくときかぞえたら十七ほんあったんに、かえりは十六ぽんやったんやってさ!」

 「はいはい、すごいすごい。ほら、さっさとどっか行ってきぃ。お客さんの前で恥ずかしいわ」


 そこで初めて、子どもたちはカリオンとビブリオドールに気がついたようです。


 「あっ、さっきのおねえちゃん!」

 「また会ったな。もう転んだり風船飛ばしたりしてないか?」

 「とばしてないよー。ほらっ!」


 女の子はブンブンと勢いよく右手を振りました。それにあわせて、風船は空中で上下に跳ねましたが、女の子の手から離れることはありませんでした。


 「えっ、なんなんもう迷惑かけた後なん? 嫌やわぁ。これ、お詫びにもう一個もろて下さい」

 「いや、飛ばされた風船を取ってやっただけだ。気にしてもらうほどのことじゃない」

 「心の広いお人ですなぁ。せやったらお礼として受け取って下さい」

 「いや、だからそれほどのことでは……」


 カリオンはもう一度断りましたが、ニコニコと微笑んだままの女性も譲りそうにありません。困ったように口ごもるカリオンに助け舟を出したのはビブリオドールでした。


 「ご丁寧にありがとうございます。本当に貰ってもよろしいのですか?」

 「お詫びとお礼やし、どうぞもらってやって」

 「それではありがたくいただきます」


 容器を受け取って、さっそくお餅を口にしたビブリオドールは、美味しいですと言って顔をほころばせました。


 「そういえば、さっき言っていたおばけ桜というのはなんだ?」

 「ああ、昔からこの辺りにある、いわゆる怪談話です。ここの桜、めっちゃきれいですやろ? もう何百年も前から名所として知られてたぐらいやそうで」


 女性は花吹雪を降らせる桜を見上げました。その顔は誇らしげで、心から地元を愛していることが分かります。


 「せやけどいつからか、きれいに咲いとる並木の桜には、一本この世のもんではない木がまぎれとるなんて噂がたつようになったんですわ。現れる場所もその日その日によってバラバラで、気ぃついたらあるし、気ぃついたら消えとる、まるでおばけのような木やから、おばけ桜て地元の者は呼んどるんです」


 そこまで説明すると、女性は苦笑して肩をすくめました。


 「まあ言うても、毎年のように新しく植えたり枯れたやつを伐ったりしとりますから、ここに今なんぼの桜があるんか、誰も知らへんのですよ。どうせ酔っぱらいが見間違えたみたいなオチちゃいますやろか」

 「ちーがーうー!」

 「ちゃんとおるもんー!」


 女性の大人な答えに誰よりも早く文句を言って手足をバタバタさせたのは、やはり子どもたちでした。


 「あーもうっ! 分かりました、分かりました。やから早よ出て行きなさい、邪魔やから」


 しっしっと片手を振る女性に、頬を膨らませてまだ不満を訴えていた子どもたちでしたが、テントの外から呼ばれるとすぐに返事をして駆け出していきました。


 「うるさぁしてほんまにすんませんなぁ。元気がよすぎるんも困ったもんで」

 「子どもはそれぐらいでいいんじゃないでしょうか。こちらも面白いお話を聞くことができて、楽しかったです」

 「よくできた子やねえ」


 女性は感心したようにビブリオドールの頭を撫でました。そしてもうひとつオマケと、ビブリオドールの手にまだ温かい餅の入った容器を握らせて笑顔で見送ってくれました。

 ひとり一つのつもりが、結局ひとり二つ食べることになり、それだけでお腹が満たされてしまったカリオンとビブリオドールでした。



 まだ太陽が天地を照らしていた頃は、幼い子どもたちを連れた家族の集まりが多かったように思えます。深い紫紺の色が空を染める今、桜の下に集うのはもう少し年が上の者たちばかりでした。


 提灯や灯籠に火がいれられ、昼間とは趣の異なる活気が辺りを満たしていました。

 一本の古い桜の木にもたれて、絹鼠色の髪の青年が、桜の花とその下でお酒を酌み交わす人々の喧噪をぼんやりと眺めていました。


 「こんばんは。夜桜見物ですか?」

 『……まあ、そうだね。君たちもかい?』


 青年は突然声をかけられたにもかかわらず、特に驚いた様子もなく緩慢とした動きで振り返ると尋ねました。


 「似たようなもの、といったところでしょうか。……それにしても、本当に幻想的で美しい景色ですね。小さな橙色の明かりは桜の木の先まで照らすことができませんが、それがまた夜闇に桜を仄かに浮かび上がらせていて……えも言われぬ美しさというのは、こういうことなのでしょうね」

 『……君は、なかなかいい感性を持っている』


 青年はわずかに表情を緩めて微笑しました。それは儚いようにも、妖しい喜びが溢れたようにも、どちらにも見える不思議な微笑みでした。


 「お褒めに預かり光栄です。桜を愛するあまり、己までも桜に変えてしまった朧な人の子よ」

 『……人の子?』


 青年はほんの少しだけ目を丸くして、ゆっくりと瞬きをしました。よく見ておかなければ分からないほど変化の乏しい顔色でしたが、どうやらこれは驚いて、かつ不思議がっている表情のようです。


 『違う。僕は人じゃない……。僕は……人の子では……僕、は…………桜の……桜、を……』


 調子の悪い蓄音機のように、彼は切れ切れに意味の繋がらない言葉を繰り返し呟きました。



         *         *         *



 僕は桜だ。時が来ればこの並木を華やかに染める、この町自慢の桜の木だ。


 ここはとてもいいところだ。風も穏やかで、人もみんな陽気で優しい。たまに粗相を働く者もいるが、ほら、みんないい顔をしているだろう? 彼らには、いつからかこの土地に咲いていた桜に見惚れ、その美しさを讃え、寄り添いたいと思い、この町を興した昔の人々の心が今も根付いている。僕は、そんな人たちの顔を見るのが好きなんだ。


 だって、ああ愛されているなぁと感じるだろ?


 冬枯れた枝の間は、誰も僕らに見向きもしない。それはそれで寂しいと思うが、雪解けが終わる頃の朝日が艶めく中で、たったひとつ蕾をつけてみるといい。すると驚いたことに、その知らせは夕日が空を赤くするときにはもう、町のみんなが知っている。そして人は僕らを見上げながら、蕾が花開くとき、満開になるときを指折り数え始めるんだ。


 毎年のことなのにおかしいと思うかい? 僕は思わない。美しいものはどれだけ愛でても、そう感じる心に底などないのだから、何度だって愛でればいい。僕は世界中にだって大声で叫びたい。


 そう、花吹雪も華やかなその色が、昼の空にも解けていきそうなほど薄くて淡いから。散る様の儚さが、あれほど際立つんだろう。


 目を奪うきらびやかな光も持たないのに、人が桜をいつまでも忘れたりしないのは。人の理には一切動かされず、ただその場に在り続ける自然の強さがあるからだ。


 月光に透かしてみれば反転、奇妙に艶かしい。灯籠の明かりは遠く、花と花の隙間からこの世ならざる何かが手招く幻を見る。鏡の水面にだって漣を立たせるに違いない。


 ああ、花に罪はなくとも恨めしい。眺めているだけで僕の心をこんなにも落ち着かなくさせる。そして眺めているだけでは、気がつけば全て散ってしまっている。どれほど焦っても、どんなに惜しんで手を伸ばしても、時は止まってくれない。


 いっそ僕も桜であったなら、あの花の全てを身いっぱいに享受できるのに‼



         *         *         *



 『…………あれ』


 青年の口から、ことのほか間の抜けたつぶやきが零れ落ちました。


 『僕は……桜で…………でも……僕は桜、に……なり……た…………?』


 たった今、自分が何を言ってしまったのか分からない。茫然と宙を見つめ、伸ばしていた腕をすごすごと下ろしました。


 「自分ではお気づきでなかったようですね」

 『……何、に?』

 「貴方の語りが、桜の木の目から、桜を見る貴方自身に変わっていたことに、ですよ」

 『…………』


 焦点が合ってないような虚ろな瞳が、ビブリオドールから再びひらひらと宙に踊る桜の花びらに移りました。なおも唇は動いていましたが、それが明確な音になることはなく、カリオンにもビブリオドールにも彼が自分に何を問い、何を答えとしているか聞くことができませんでした。


 「それにしても、あれだな。ずいぶんと熱烈な告白だったな」


 カリオンは呆れや気恥ずかしさからか、そっぽを向いて言いました。

 カリオンがそう思ったのは、青年の言葉選びや仕草というよりも、その眼差しにありました。


 二人が声をかけたときにはぼんやりとしていて、流れる水がひとときも映る景色をそこに留めておかぬように、動いていく時を瞳のガラスの上で流しているだけだった錫色。

 それが桜の木として語り出すと一変したのです。錫色は深みを増し、まるで瞳の奥にぼんぼりがあって、そこに火が灯されて妖しい熱を持ち始めたかのようでした。


 目は時に、言葉よりも雄弁にものを語ります。彼の眼差しに込められていたのは、たしかに一途な愛でした。きっとあの時の彼には、桜以外の全てが視界から消えてしまっていたでしょう。


 「ええ。だからこそ彼は、『おばけ桜』となったのです」

 『……ああ、そうだ』


 おもむろに彼は、はっきりとした声で言いました。


 『僕は人の子だった。だから、桜になりたがったんだ』


 それは絶望という重さを孕んではなく、むしろ憑き物が落ちたような軽やかさがありました。

 狂っていると評される一歩手前になるまで桜を愛していた彼のことですから、自分が桜ではなかったという真実を理解すれば、大きく気落ちするのではないかと思っていたカリオンは少し拍子抜けした気分でした。


 「あまりショックを受けないんだな」

 『……そうでもない。これでも残念だと思っている。けど、今は僕も桜の木になったのだから、僕の正体がなんであってもかまわないと、そう思う』

 「いいえ、それは違います」

 『なに?』


 悲しげに首を振ったビブリオドールに、初めて青年は剣呑な目を向けました。


 「亡くなったとしても、貴方はあくまで人の子。桜の木にはなれません」

 『……おかしなことを言う。僕は桜だ。昼間、君たちが風船を取るのを手伝ってあげただろう』

 (あのときの……!)


 たしかに、桜の枝が風船を絡めとってくれなければ、女の子の風船は空に飛んでいってしまっていたでしょう。あの枝は、偶然ではなかったようです。


 「ええ、あの時はありがとうございました」


 ビブリオドールは小さく頭を下げました。魂だけの存在となってしまった者たちを感じることができるビブリオドールは、青年の桜にも気がついていたようです。


 「散り落ちた桜の花が土に還り、また新たな花を咲かせる糧となるように、人の魂にも還るべき場所があります。貴方も、彷徨うままの朧桜でいてはいけないのです」


 『……嫌だな』


 青年は寄りかかっていた桜の幹に手を添えて、そう言いました。


 『美しさ、儚さ、妖しさ、綺麗さ、可憐さ、言葉では表しにくい心のざわめきまで、全て。桜というものの全てを心満たすまで味わいたくて、僕は桜になった。なのに、それを手放すなんてしたくない』

 「ですが、桜の花が咲いているのは一年の間でもほんの僅かな時だけです。それを過ぎれば新緑の葉が木を染め直し、冬になればそれも散ってしまいます。そして春になればまた、蕾を膨らませる。その廻る定めは、誰にも変えられません」

 『…………知っている』


 たっぷりと時間を使って、彼はその一言を吐き出しました。それはとても重く、彼の端正な顔もぎゅっと歪められていました。


 いつまでも桜の花を愛でていたい、けれど散らない桜は愛し求めるものではない。そんな葛藤が切なくて、息を詰まらせる。胸の辺りがひどく重くて、苦しい。


 目を伏せたそんな彼の前に、白く小さな手が差し出されました。


 「ですから貴方も、自身の廻る運命に戻りましょう。何度だってこの世界に巡り来て、そして、何度だって桜を愛でればよいのです」

 『……え』


 顔を上げて、ゆっくり瞬きをした青年にビブリオドールはそっと笑いかけました。


 「そうではありませんか? 永遠に咲き続ける桜の花などないのですから、留まることのない時の巡りを、桜とともに貴方も歩めばよいのです。そして何度でも、世界に叫んでください。桜の素晴らしさを知らない人がいるのは、もったいないと思っているのでしょう?」

 『……ああ、そうだ。もちろんだ。花見の計画を立てる楽しげな声も、一瞬を焼き付けようとこらす大きな目の輝きも、全部僕は好きだ。世界中の人がそう思うようになったら、それはどれだけ素敵なことだろうか』

 「そう思うのならば、ぜひ」


 ビブリオドールの手に、青年の手がおずおずと重ねられました。



  書架配列五一六番より——開架

  朧桜に紡ぐ花風の詩



 詠い上げるのは葬唄。死者を慰め、彼の地へ葬る詩。

 


  爛漫に花ひら

  風、白藍しらあいの空に翻る

  朧に揺蕩う桜の君に

  巡る螺旋の願いを詠いましょう



 ふっ……と流れる風の匂いが変わった気がしました。さっきまで聞こえていた宴会の賑わいも遠ざかったようです。

 何百と並ぶ桜の木を柱に見立てた御社で、青年とビブリオドールが二人きりで向かい合っている錯覚を見ました。



  昼に会いては 子らと踊り舞い

  夜に会いては 月と一献傾ける

  幾千の彼方から

  人の春とともに生きてきた



 ひらりと、花びらが二人の間に一枚落ちてきました。それが仄かな光を湛えているように見えて、青年は思わず宙を仰いで手を伸ばしていました。

 優しくもまた妖しく、青年の心を掻き乱し続ける光を、さらに求めて。



  愛されたいのちの行き着く先は

  儚い散り際の嘆きではないのです



 ざぁっとひときわ強く枝が揺れました。

 青年の目の前を、触れただけで消えていってしまいそうな淡い桜色がたくさん、溢れて、零れて、濃紺の空へと流れていきました。

 空の色はみるみるうちに白くなり、やがては夜明けのまなざしがやってくるのでしょう。



  さあ、愛するものに身を写した人の子よ

  さやけき光の満ちる中、

  今日に散りゆく花たちとともにお逝きなさい



 ああけれど今、一足早く青年に愛と祝福の瞳を向けているのは、あけぼのの光を背負った心ある人形でした。


 『また僕がこの世界にやってきたとして……。本当に僕は桜を好きでいられるのだろうか……。もしも桜が嫌いな人間に生まれ変わってしまったら……』


 ぽつりとこぼれた青年の恐れを、ビブリオドールは朗らかに笑い飛ばしました。


 「まあ、貴方がご自分の桜への愛を疑うのですか? 先ほどまであんな熱心に語られていたというのに」

 『……ははっ。そうだった。僕としたことが、無様を晒してしまった』


 虚をつかれたような顔をした青年も、すぐに喉を鳴らして晴れやかな微笑みを見せました。


 『僕は人の身でありながら、桜の木になった男だ。これを奇跡と呼ばずしてなんと言うか。ああそうだ、何度生まれ変わったって、この愛が揺らぐことはない』



  貴方の逝く先にも 嘆きはないのだから



 ビブリオドールの背から吹いてくる風に乗るように、青年の体も少しずつ桜の花びらへ変わっていきました。


 『……君ともまたいつか、桜を見ながら話せる日が来るか?』

 「もちろんです。この世界はいつでもずっと、神々の名の下に廻っているのですから」

 『ああ、そうだったな。それじゃあ、その日を楽しみにしてる』



  願わくば、

  貴方の次なる目覚めにも光があらんことを……




 指の先まで花びらとなり、青年は天の園へと還っていきました。

 まるでそこにだけ風と桜の花を集めて吹き散らせたかのようなビブリオドールを、ぽかんと口を開けて見つめる人々がいました。


 「なんでぇ。嬢ちゃん……桜の精か……なんかかい?」


 呆けた顔のままそう言った花見客に、ビブリオドールは少しだけいたずらを企むような微笑みで答えました。


 「まさか。私はそのように大層なものではありませんよ」





 そうして、二人は昼と夜でもまた違う姿を見せるこの古き良き花を楽しんだ後、またいずれ出会うときに想いを馳せながら旅路を歩いていきました。



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