紅天女とビブリオドールのお話




  始まりにただひとつの命ありき

  淡く儚き無垢なるものに

  ある日には残酷な雨が降り注ぐ

  羽衣を濡らしたのは人の涙か己の血汐か

  あはれ天女の叫びは深く、嘆きもまた遠い

  呪わしく恐ろしく穢れたるものに

  ある日には恵みの光が降り注ぐ

  羽衣を蘇らせたのは人の想いか女神の微笑みか

  あはれ天女の喜びは大きく、慈しみもまた高く

  幾千の紅葉とともに、導きの扇は翻らん……





   紅天女とビブリオドールのお話 


 それは秋も深まる頃、葉が黄や赤の盛りを迎えて美しく染まったとある山でのことでした。


 木の下を歩く人の肌まで紅く染まるような、素晴らしい紅葉。行く人々がため息を零すのも、当たり前だと言えるでしょう。雲ひとつない今日の水色の空には、真っ赤な楓がよく映えます。

 山越えの旅人だけでなく、こんなにも鮮やかに色づいた山の装いを楽しもうという人々で、山の中は大変にぎわっていました。


 「……それにしてもだ。さすがに多すぎないか? まったく落ち着かない」


 木々から零れ落ちた葉が織り成す錦の絨毯も、それはそれはきっと美しいのでしょう。ですが残念ながら、今日は木を見上げて楽しげな多くの人に埋め尽くされて、土の色すら分かりません。

 げんなりしたような白い髪の女性の声には少しだけ、棘が含まれていました。


 「諦めも肝心ですよ、館長さん。ここは元々紅葉の名所として広く知られていますし、ここの山頂からは霊峰として古くから崇められている山も見えるそうです。天気もよく、これほど素晴らしい景色を楽しめるのですから、少し足を運んでみようという人たちの気持ちも分かるではありませんか」

 「だかといって、こんなひとつの町ほどの人間がつめかけずとも……」


 腕の中の少女に微笑まれながら諭された女性は、また大きなため息をつくのでした。


 女性が腕に抱えたこの少女は、とても整った顔をしていました。白磁の肌、深く澄んだ青い瞳、薔薇色の頬、桜色の小さな唇に、それらを縁取るような長く波打つ蜂蜜色の髪。着ているものがまた、重厚なゴシックドレスでしたから、時折舞い落ちてくる葉をとろうとする幼気な動きがなければ、精巧な人形と見間違えていたかもしれません。


 最初は、少女も女性の隣を自分の足で歩くつもりだったのです。ところが、あっという間に人だかりに押し潰されそうになってしまいましたので、女性が少女を抱き上げて歩くことになったのでした。


 周囲の絶え間ないざわめきと普段よりも何倍も遅い歩みに、いいかげん無我の境地にまで至りそうな女性でしたが、人波から弾き出された老女をとっさに支えたことで、意識は現実へと引き戻されました。


 「ああどうも、ごめんなさいね。ありがとう」

 「いや、怪我は?」

 「それはもう、おかげさまで。大丈夫よ」

 「それはよかったです。ここへはお一人で?」


 少女にそう声をかけられて、老女は目を丸くしましたがすぐに目を細めて、「まあまあとてもべっぴんさんねえ」と優しく笑いました。そして女性を見上げて、かわいらしく首をかしげながら尋ねました。

 「あなたのお子さん?」

 「いや、護衛対象だ。ある町まで届けるように頼まれている」


 少し早口になりましたが、あらかじめ決めていた言葉は無事に女性の口から流れていきました。演技とは縁遠かった女性は、こっそりと胸を撫で下ろしました。


 「あら、そうだったの。それは責任重大よ、あなた。お嬢ちゃんもこんなに小さいのに偉いわね」


 そう言って老女は、シワの浮かんだ小さな手で少女の頭を撫でました。少女も子どもらしい無邪気な笑顔を浮かべて答えました。


 「はい、ありがとうございます」

 「今でもこんなに可愛らしいんだもの。きっと将来は、もっと素敵な美女になるわよ、美女に」

 「そう言われると、少し照れてしまいます」

 「あら、本当のことよ? もっと自信を持っていいわ」


 老女は真面目な顔つきで頷きました。


 「ふふっ。ありがとうございます。ところで、ここへはお一人で来られたのですか? さぞ大変だったでしょう」

 「ああ、そう! そうなのよ!」


 少女がもう一度同じことを尋ねれば、老女はようやく思い出したように手を叩きました。


 「実はおじいさんと娘家族とここへ来たのだけど、はぐれてしまったのよ。こんなに人が多いとは思わなくって」

 「同感だな」

 「はぐれたときの集合場所などは決めていませんでしたか? よろしければお連れしますけど」

 「それが決めてないのよ。ほんと今、すぐそこで姿が見えなくなっただけだから、そのあたりにまだいると思うのだけど……」


 老女は眉を下げると、曲がった背中を精一杯伸ばして人ごみの中から家族を見つけようと懸命になっていました。


 「ご家族で紅葉狩りに来られたのですか? 素敵ですね」


 少女がそう話しかけると、老女の顔はパッと明るくなりました。


 「ああ、違うのよ。紅葉はどちらかといえばオマケで、ほんとは紅天女様のお社にお参りに来たの」

 「くれないてんにょ?」


 初めて聞く名前に、女性は首を傾げました。


 「あら、ご存じない? 紅天女様っていうのは、安産とか子孫繁栄とか、諸々含めた女性の守護を司る神様なの。ここの頂上に行く道の途中にあるお社に祀られているのよ。実はついこの間、下の娘に子どもができてね」

 「まあ、それはおめでとうございます」

 「うふふっ、ありがとう。それで、無事に子どもが生まれるまではもう毎日でもここに通おうかと思って。ま、それはちょっと難しいんだけどね、あはは」


 老女がコロコロと楽しそうに笑ったとき、人ごみの間をぬって近づいてくる人がいました。


 「もー、おばあちゃんやっと見つけたわー」

 「あら、娘だわ」

 「ああ、そうでしたか。よかったですね」

 「ほんとにねえ。こんなおばあちゃんに気を使ってくれてありがとう。体に気をつけて、旅をしてちょうだいね」

 「ああ、あなたも気をつけて」

 「健やかなお子さんが産まれるように、わたしたちも祈っています」


 親子は何度も頭を下げて、人ごみの向こうへ見えなくなっていきました。


 「さて、わたしたちも行きましょう」

 「ああ」


 少し外れていた人の波にもう一度乗って、女性は少女を抱き上げたまま歩き出しました。


 「さっきの話だが」

 「はい」

 「紅天女というのは、いわゆる民間信仰のようなものか? そんな神の名前を今まで耳にしたことがない」


 光に照らされて輝く緋色、木の影になって深く落ち着いた唐紅。織り重なった葉は、そっと吹くひんやりとした風に柔らかく揺れ、少しずつ色を移ろわせていました。

 ここに住まう紅天女という女性も、このような繊細な美しさを持っているのでしょうか。

 

 「そうですね。正確には、民間伝承だったものが、やがては神と混同されるようになった……というかんじでしょうか」


 一枚の楓が何かに導かれるように、はらりと少女の胸元へ落ちてきました。それを愛おしげに見つめ、少女は口を開きました。


 「今はこうして道も整備され、素晴らしい賑わいを見せていますが、その昔山越えというのは、非常に危険なことでした」

 「野生動物、気候、地形……。理由は色々あるだろうが、他のところでもおおむねそうだったろうな」

 「はい。そしてこの地域ではその原因を『鬼』に求めました。美し紅葉もみじの山には、道行く人を喰らう恐ろしい鬼女・紅天女が住むのだと……」


 人と人の波が偶然にも途切れ、女性と少女の元へ冷たい山の風が届けられました。二人の髪がそれに煽られ、宙に舞い上がります。乱れた髪を手ぐしで整えながら、少女は続きを語り出しました。


 「長い緑の黒髪に、濡れて輝く黒曜石のごとき瞳、赤い衣をまとって朧月夜の下に立つ姿はいかにも妖しく、艶かしい。道行く者は男も女も皆等しく魅了され、自ら彼女のもとへと赴いていく。

 そうして近づいてきた者たちに、深紅の扇で隠されていた大きな口が牙をむくのだ。血を啜り、肉を食み、精も根も尽き果てるまで吸い取られ、あとに残るものはない。おお、げに恐ろしきかな、紅に染まる人喰い鬼よ……」


 妙に古めかしい芝居がかった口調で一旦しめると、少女はついと指を伸ばしました。


 「こちらの道を行きましょう、館長さん」

 「そっちか? かまわないが、この人が多い道ほどは整備されてないようだな」


 その道を行く人は、やはり珍しいのでしょう。二人が人ごみを抜け出してそちらへ行こうとすると、近くの茶屋から青年が驚いたように呼び止めてきました。


 「えっ⁉ お姉さんたちそっちの道を行くのかい?」

 「そのつもりだが」

 「この道は人が多くて、思うように紅葉が楽しめなくて」


 少女が眉をハの時に下げてそう言うと、青年は「それはたしかにそうかも」と頬をかきました。


 「けど、そっちの道は人がすれ違うのもできないようなとこだってある細い山道なんだ。滑落事故だって何度も起きてる。そんな小さい子を連れているなら、あまりおすすめはしないよ」

 「……忠告だけいただいていこう」

 「お兄さん、ありがとうございます」


 ニコッと少女が笑えば、青年はそれ以上は何も言わず、二人の姿が見えなくなるまで手を振って見送ってくれました。


 「気をつけてね! お姉さんみたいな美人には、死に化粧より笑顔の方が似合うんだからねー!」

 「……なんだ、あれは」

 「心配してくださっているだけだと思いますよ?」


 少女も思わず苦笑を漏らしました。


 この道は、たしかにきちんと均されて整備されている様子はありませんでした。ですが、崩れているところもなく、草が伸びっぱなしになっているわけでもなく、神経質にならなければならないほどひどい道でもありませんでした。


 ですので、少女も安心して自分の足で土の上を歩くことができました。


 「……このあたりの子は皆、紅天女の恐ろしさを母から聞いて育つのです。その中でたくさんの物語が作られ、紅天女の伝承は色んな側面を持つようになっていきました。

 『新月の晩には山に入ってはいけない。紅天女の御殿の門が最も開かれる日だから』

 『日が落ちてから子どもをひとりで外に出してはいけないよ。山から紅天女が攫いにくるからね』

 『その昔、男に捨てられた女は鬼となった。目をあわせてはならぬ、口もきいてはならぬ、ただただ逃げるのみ』『人を喰らい続けた鬼女も、我が子ほどの無辜な幼子は喰うことができなかった。鬼といえども女は女。愛おしさと欲望の狭間でもがき苦しんだあと、ついには自らの喉を掻き切って命を絶った』……」


 女性の脳裏を、様々な情景がよぎっては消えていきました。その中心に、美しい紅の女性を据えて。


 「民間伝承ではよくあることだな。親から子へ、寝物語として口で伝えられるため、覚え違いや自身の想像、色んなものが混ざる」


 少女は女性を仰ぎ見ると、大きく頷きました。


 「ええ、その通りです。そして時が経つと、このように道は整備され、旅の道具も発展し、この山は紅葉の名所として世に知られるようになりました。すると恐ろしい紅天女の伝承は真実味を失い、代わりにこの山に住まう者として、旅の安全を祈る対象となっていきました。やがて旅や道を司る女神アルシノンと同一視されるようになり、同じくアルシノンが司る女性の守護も、紅天女は担うようになったのです」


 さわさわと木の葉が風に吹かれて軽やかな音を立てていました。それは訪れる人々を歓迎し楽しんでいるようにも、また不思議なことに、どうしようもない痛みに震える誰かを悲しんでいるようにも聞こえました。


 「そう、今では紅天女という名前は、人々の信仰を集めています。あのおばあさんのように。……ですが、その生まれは。はじまりの紅天女は、今もまだ、苦しみから抜け出せていないのです」


 少女は、そう言って崖の下の方に立つ、まだ若い一本の楓の木を指差しました。


 「館長さん。悲しい事故になどならないように、この下へ降りることはできますか?」


 「事故」の言葉に先ほどの青年を思い出して、女性はなんとも形容しがたい表情を浮かべました。ですがすぐに首を振ると、足下の土の具合や不規則に育った木々の様子を一通り見て答えました。


 「しばらく雨が降ってないことが幸いしたな。これなら、お前を抱えてでもいけそうだ」

 「それはなによりです」


 決して緩やかとは言いがたい崖を、女性は少女を横抱きにして軽々と滑り降りていきました。多少枝葉が腕や頬を叩いたようですが、血も流れぬ程度のことであったようです。


 『ほっほっほ。これはまたおかしな者が来たのう。なんじゃ、曲芸を生業をする者か?』


 谷の底にほど近いところ。ひときわ紅く色づいた木がありました。その根元で、悠然と笑う美しいひとがひとり。


 「あいにく曲芸にはなじみがない。まあ、昔取った杵柄というやつだ。普通の奴よりは、こういうことに慣れている」


 女性がそう答えると、頭上の楓にも負けぬほど鮮やかに染められた赤い着物を着たその人は、目を丸くしました。


 『これは驚きじゃ。おぬし、妾のことが見えるのか』

 「ええ、玉のようなその美貌を、余すことなく」


 少女は地面に下り立つと、スカートの裾を少し持ち上げて一礼しました。


 「はじめまして。紅天女、はじまりのその人よ。わたしは大母より彷徨う魂を救うべく遣わされし葬者そうしゃ。人にはおとぎ話として伝わっているようですが、貴女にもなじみがあれば幸いです」

 『……さて、聞かぬな。じゃが、おぬしからは生きている人間とは違う匂いがするのう。妾と同じ、人ならざる者の匂いじゃ』


 顔のほとんどを扇に隠されて、表情から紅天女の思いをうかがい知ることはできません。ですがやがて、わずかに目が細められ、のどを微かに震わせる音が聞こえました。


 『それにしても、妾をつかまえて天女とは。ずいぶんと面白い名を付けたものじゃ』

 「貴女ほどの美しい女性を見かけたら、誰しも天の都から参られたのかと思ってしまっても仕方がないと思うのですが」

 『ふん。そのような者がおるならば、そやつの目は節穴じゃ。妾が天女じゃと? 何を言うか、妾は鬼ぞ。山を跋扈し、血と魂を求める飢えた鬼じゃ』


 こちらを見下ろす目を冷ややかで、なのに、その奥で怒りの炎は燃え滾っていて。薄ら寒いのに、灼きつくようなこの眼差しの、なんと恐ろしいことか。

 女性の手は無意識のうちに、腰の剣に触れていました。


 『ほう、妾を討ち取り、名を挙げんと欲するか。それもまた一興、試して見るがよい。もっとも、おぬしなぞ妾に比べれば赤子同然じゃがの』


 女性は、少し前までは腕が立つことでよく知られた傭兵でした。危険な仕事も、何度も引き受けてきたつもりです。ですが、実はそんなことはなかったのかもしれないと、ここにきて思いました。


 扇を持つ白魚のような手は、いかにも非力そうな気がします。地面にかかるほどの長い髪も、何枚にも重ねた衣も、動きを邪魔するだけのように思えます。何より彼女は、人を傷つけるためのものを何ひとつ持っていないのです。なのに、どうして燃える氷のような微笑みはこうも恐ろしく、死の香りを放つのでしょう。


 全身の毛が逆立ち、耳鳴りを覚え、冷や汗が滝のように背中を伝い落ちていきました。

 自分の心臓の音の他には何も聞こえない、風がひとつ吹くだけでも剣閃が宙を裂くだろう——。


 それほどまで、女性の緊張は高まっていたのです。ところが、


 「いけませんよ、館長さん。それはダメです」


 いつの間に傍まで来ていたのか、女性は気がつくことができませんでした。


 「…………は」


 剣の柄にかけた女性の手ごと、少女がぎゅっと握りしめていました。心なしかしかめ面をしていて、まるで幼子を諭すときの母親のようでした。


 「この世界は神々の箱庭、そこに生きるのは全て神々によって造られた〝おもちゃ〟です。死すれば〝おもちゃ〟は皆、神々の住まう天の園へ還るのが定め。けれど、その定めに逆らってでもこの世界にありたいと望む人たちがいるのです。そのような彷徨う魂たちを救うのが、わたしたちの役目。いたずらに彼らを傷つけるようなことをしてはいけないのです」


 愛らしい見た目と、それに反して老成したもの言い。紅天女は今もまだこちらに敵意のこもった凄みのある笑みを浮かべているというのに、まるで少女は気にしていないようです。あまりにも普段と変わらない態度なものですから、女性もつられて力が抜けていきました。


 「……ああ、そうだったな」

 「はい、そうですよ」


 ふふっという少女の笑い声は柔らかくて、どうにも心地が良く、女性は大きく息を吐き出すと、剣から手を離しました。


 『なんじゃ、茶番か。つまらぬの』


 一方の紅天女は、興ざめという顔でした。ですがそれで二人から興味がなくなったというわけでもないようです。


 『まあ妾には関係ないことよな。どれ、妾自らがおぬしらを妾の屋敷に案内してくれようぞ。死ぬまで飼うてやろうではないか』

 「まあ、そのような場所があったのですね」

 『無論じゃ。妾に似合いの美しい紅の御殿よ。美味な食事の用意もある。妾は鬼なれど、鬼には鬼の粋というものがあるのじゃ』


 ほほほと気のよい声をあげる紅天女に、少女は柔らかな微笑みを崩さず、静かに問いかけました。


 「最初は、そんなものなかったのに?」


 ぴたりと紅天女の笑いが止まりました。辺りが痛いほどの静寂に包まれます。腹の底を、何かで圧されているような息苦しさまで感じてきました。


 『……何が言いたいのじゃ?』

 「御殿も食事も、いいえ、その艶やかな美貌も衣も、紅天女という名前さえ、全ては貴女を畏れ慕い、まことの御伽草子と信じた後世の人間たちによって与えられたものです」


 先ほどまで瞳の奥に燃えていた冷たい炎さえ、一切の感情が紅天女の顔から失せていました。けれどもそれは、見えなくなっただけであって、消え去ったわけではありません。

 怒りなのか、悲しみなのか、何か言葉にならないようなものが、彼女のうちに圧し込められているように、女性には見えました。


 「最初はただ、恨み叫ぶしかなかった普通のひとつの彷徨う魂に、いつしか物語がつくようになりました。それが語り継がれる中で変わっていったように、紅天女と名付けられたその魂もまた、自分ではそうと分からぬうちに少しずつ姿を変えていったのです」

 『……妾は天女などではないと言うたはずじゃ。妾は鬼よ』

 「失礼しました。そうでしたね。ですが、貴女は紅天女です。貴女にふさわしい名であるから、貴女は今もこの地の人々の心に根づいているのですよ。たとえその正体が鬼であろうと、恋に裏切られたひとりの女性であったとしても」

 『おぬし、妾の何を知っている⁉』


 カッと怒りの稲光が、紅天女の背後に走る幻覚を女性は見ました。それほどまでに紅天女の形相の変わりようは凄まじかったのです。


 『おぬしのようなどこの者ともしれぬやつが、気安く妾に触れるでないわっ!』

 「わたしの知っていることなど、わずかなものですよ。貴女がかつてこの地に生きていた普通の女性で、ある男性に恋をして、そしてその男性に殺されてしまったことぐらい」


 少女が言い終わるか終わらないかのうちに、紅天女はそれまで口元を隠し続けていた扇を乱暴に地に打ち捨て、人よりも鋭い犬歯をのぞかせながら、吠えるように叫びました。


 『そうじゃ! 妾がどれほどあの男に焦がれておったと思う? 会えぬ日には涙で月も星も見えず、声を聞いただけで天にも召されそうな喜びを感じ、別れのときには暁の残酷さをも呪うたわ! それほどまでに妾はあの男を愛しておったのじゃ! あの男も妾に愛をうたってくれた、心にもなかった愛を幾度も!』


 轟々と大きな音を立てて木々が揺れていました。たとえ根元から折れたとしても、ずっと泣きざわめくであろうと思わせるほど、激しく。


 「妾に子ができたと知るや、あの男は妾をこの山の、この谷底へ突き落としたのじゃ! あの男には妾の他にも通う女がいて、子もすでにおったのだ。あの男は妾とのことがその女に知られるのが恐ろしくて、妾を亡き者にしたのよ。妾は、その女のために殺されたようなものじゃっ!』


 紅天女の頭の上で、紅葉もみじが赤々と、まるでそれ自体が光を放っているかのように輝いていました。

 まるで肉から溢れたばかりの鮮やかな血色のように、朱く、赤く、緋く、赫く、紅く。


 『だから妾は決めたのじゃ。あの男も、その女も、奴らの一族を末代まで呪うてやると! たとえこの身が朽ちたとしても、妾のこの怒りは決して果てぬ! 不義の血脈が息絶えるまで、ここから祟り殺してくれる! 逃がしはせぬ、妾の怒りをその身で思い知るがよいわっっ!』



 「そして、それは達せられてしまった」



 少女の言葉はまるで、怒りの色だけに染まって暴れ狂う海に落とされた、一雫の灰色。まっさらな喜びだけでもなく、澱んだ悲しみだけでもなく、燃え尽きてしまったあとの虚しい灰の色は、あっという間に海の色を変えてしまいました。


 「貴女は自分を裏切った男性の一族を、一人残らず呪い殺しました。貴女は鬼となってでも叶えたかった願いを、叶え終えたのです。……そして、自分の想いの行き着くところを失ってしまった」

 『…………』


 紅天女は何も言いません。言わないことこそが、なによりの肯定であるというのに。


 「振り上げた拳をどこにも振り下ろすことができなくて、とても辛かったでしょう。なぜなら貴女は、誰彼かまわず殴りつけることができるほど、非情な方ではなかったから」


 風は緩やかになり、紅葉の色ももう元の通りに落ち着いていました。


 「たしかにこの山では不幸な事故が多かったかもしれません。ですがそれは貴女が意図的に引き起こしたものではなく、むしろ貴女はそれに心を痛めていた側だったのではないですか?」

 『……妾は、おぬしのような聡い者が嫌いじゃ。こちらが何も言わずとも、心の内を暴いてゆくのじゃからな』


 大きなため息には、呆れと苛立ちと、そしてほんの少しだけ安堵が含まれていました。


 「気を悪くさせてしまったのなら、申し訳ありません」

 『……べつにそこまでは言うておらぬ』


 鮮やかな紅葉が散らされた扇を拾い上げた紅天女は、それを意味もなく開いたり閉じたりしながら、どこかぼんやりとした調子で続けました。


 『飛ぶ鳥が落ちるように、あの男の一族がもがき苦しみながら死んでいく様は、眺めていて気味がよかったものよ。じゃが、あの男の血脈がこの世から一切絶えてしまい、復讐を果たした妾には、何も残らなかった。

 満たされた幸福すら、陽が昇り沈む頃には、霞のように消えてしまったのじゃ。もはやみっともなくわめくことも出ず、他に当たり散らすこともできぬ。そうして今日まで、無為に日々を過ごしておったのよ』


 これが人の身であれば、いずれ肉体は朽ちて魂は天の園へ還ったのでしょう。ですが紅天女は、もはや魂だけとなった存在であり、人間の頃とは感覚も異なっていたでしょう。永劫は一瞬に、一瞬は永劫にも感じられたはずです。


 『どうしたいかも、どうするべきなのかも、何も分からぬ。……鬼と言うておきながらこのていたらくじゃ。笑いたくば笑うがよい』


 女性には、紅天女の憔悴がなんとなく分かりました。


 女性には、それこそ己の命を懸けて、必死で世界中を探していた最愛の弟がいました。ですがある日、何の前触れもなく、彼が生き別れた直後に死んでいたのだという真実を知りました。

 そのときは全てが虚しく思えたものです。胸をかきむしる悲しみさえも、やがて心の器を越え、ただただ何を思うでもなく宙を眺めていました。


 一度は生きる目的を見失った女性でしたが、この不思議な少女に出会い、もう一度生きる理由を与えられたのです。大いなる母の願いの代行者・ビブリオドール。その身を守り、女性の時が終わるまで共に世界を巡る契約者カリオン・シュラークとして。


 残念ながら紅天女にはもう、新たな生きる目的を与えることはできません。彼女はこの世にあらざる彷徨う魂。逝くべきところがあるのですから。


 「紅天女、痛ましくも優しい鬼の子よ。貴女がどうすればよいかは、わたしが知っています」


 体の芯まで凍るような冷たい紅天女の手に、温もりを持たないはずのビブリオドールの手が重ねられました。


 「貴女は自分を復讐の鬼と言うけれど、この地に生きる人々にはそうは見えなかった。かつてはこの大いなる山の美しさと恐ろしさを貴女に重ね、やがてはその力に祈りを捧げるようになりました。その想いを汲んであげてください。貴女のその、情を捨てきれなかった切ない心で、この地の人々を遥かな空から見守っていてください」


 深い青色の瞳に映るのは、迷い歩き続けて、すっかり途方に暮れてしまったうら若き娘の姿でした。



  書架配列七六八番より——開架

  紅天女に紡ぐ天召てんしょうの詩



 それは葬唄おくりうた。死者を慰め、彼の地へおくる詩。

 紅天女はぼんやりと、どうしてビブリオドールの手が温かく思えるのだろうと考えていました。



  貴女が身を投げたのは

  恨みと嘆きの底なし沼

  呪わしい哄笑と赤く塗れた手が

  共に参れと誰かを招いている



 ビブリオドール、またの呼び名を葬者そうしゃというこの少女のことを、紅天女は人であったときに本当は聞いたことがありました。

 彷徨う魂を救い、荒れる精霊を鎮めるために唄う人形。造られた物の身体が、温かいはずありません。



  いつしか貴女の時は錆ついて

  もはや動かすことはできぬと嗤った



 ですが、愛おしげに目を細めて自分の頬を撫でる姿は、心を寄せたあの恋人のものと不思議と重なり、恨みよりも幸せだった頃の気持ちがこみ上げてきました。


 思わず涙がこぼれた紅天女を、ビブリオドールはそっと抱き寄せてくれました。今度はそれに、絶えて久しく、そして最も我が子に与えたかった母の愛というものを感じました。



  いいえ、そうではありません



 急に目の前が明るくなったように思えました。谷の底に近いこの場所にも、時と季節の合間を縫うように、日の光が差すことが稀にありました。そのときばかりは、たとえ復讐の道半ばだったとしても、心は凪いだような穏やかな気持ちになれたものです。


 (そうじゃ。妾はただ、誰か他の人から愛される心地良さを、失いたくなかったのじゃ)



  愛すべき人の心を捨てきれなかった貴女に

  いと願い高き人々は想い惹かれ

  何度も錆を拭ってくれました



 どこからともなく吹いてきた風は、たくさんのものを紅天女のもとへと運んできました。



  十重とえ二十重はたえ物語うたは連なり



 おっかないあやかしの物語に悲鳴をあげる子どもたちの声、あまりに悲しすぎる結末に涙を飲む母の声、そして未来へとたくさんのおとぎ話を語る老いた男と女の声……。



  千代に八千代に紡ぎ継がれてきた



 頂上から朝日を拝む人々がいました。道をそろえるために勇ましく動き回る人々がいました。工夫こうふや旅人たちを癒そうと酒を売り、菓子を売る人々がいました。



  もはや貴女は悲しみばかりの鬼ではないのです



 山を、空を、全てを彩るような満開の錦を指して、笑顔になる人々がいました。



  さあ、顔を上げて

  女神の下へ誘われた貴女は

  人々が愛し求める紅天女



 ふわりと宙に浮き上がった紅天女の衣は、まるでこの山を写したかのようにきらきらと美しく、鮮やかに、輝いていました。


 『こんなつまらぬ女をつかまえて天女とは、やはりおかしなことよ。……じゃが、妾がいることで、老いた親を思うこの心が、慕う男や娘がおるものの心が、子に溢れんばかりの愛を注ぐ親の心が、わずかでも慰められるのならば、それもよかろうな』


 そう微笑んだ紅天女には、ほの暗さも痛いほどの熱もなく、穏やかな喜びばかりが彼女を包んでいました。



  願わくば、

  貴女の次なる目覚めにも光があらんことを……



 立っているだけで空気が身体から熱を攫っていくこの季節の中で、心なしか温かさを感じる風をひとつ、紅天女は残していきました。

 彼女が見えなくなっていった方をじっと眺めていたカリオンは、どうにも言い表しにくい感情を覚えて、後頭部をかきました。


 「未だに信じられないな。現実なのか、夢を見ているのか……分からなくなる」


 戦場を渡り歩いていたカリオンにとって、信じられるものは自分の身だけでした。他のものは、全て二の次です。

 いつだって、自分がどう生き延びて弟と再会できるかということが、何よりも大切でした。自分の生きる意味も意義も、他人の喜びも悲しみも、世界の在り方も神々の存在も、全てはどうだってよかったのです。


 「夢ではありませんよ。貴女もきっとすぐに馴染めます」

 「そうか?」

 「ええ、そうですとも。ですから、気をつけてくださいね。彷徨う魂は、皆がそれぞれの理由を抱えて苦しんでいることが多いのです。殺気も傷つけるための鉄も、繊細で敏感な魂だけの存在となった彼らには、きっと良い印象を与えないでしょう。こればかりは、「館長」と名乗る方には譲るわけにはいきません」


 いつも和らいだ表情を崩さないビブリオドールにしては珍しい厳しい顔つきでした。


 「……ああ、分かっている。努力しよう」

 「お願いしますね。もしかしたら、館長さんだからこそおくれる魂もいるかもしれませんし」

 「いや、それはさすがにないんじゃないか?」

 「ふふっ。分かりませんよ。不思議なことがよく起こるのが、世界というものですから」


 そして、ビブリオドールは片手をカリオンへと差し出しました。母が子に向ける慈愛の眼差しで、道に迷わぬように。


 「さあいきましょうか、館長さん」

 「ああ」



 カリオンには、ビブリオドールを送り届けるような目指すべき場所は、実はありません。


 実は作られた人形の身体であるビブリオドールには、これ以上美しく成長するような未来はありません。


 老女が健やかな孫の誕生を願った紅天女は、実はつい先ほどまでここに立ち竦んでいました。


 社に参る人は、世界中に生きている人々は、皆それを知りません。

 けれどそれは、人には語られざる秘密でよいのです。伝承とは、おとぎ話とは、そういうものなのですから。




 こうして、正しい道へ戻ったあと、十分に紅葉を楽しんだ二人は、山を下りていつか誰かと出会う次のどこかまで歩き始めたのでした。

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