美し涙の姫君とビブリオドールのお話
玉の楼閣
月に映え
翠の花
風に踊る
雨に濡れて
香り芳し
碧落の果て
黄泉の奥
白き翼の
鳥は行く
美し涙の姫君とビブリオドールのお話
日も暮れ、そろそろ夕食が出来上がるという頃でした。一件の農家の戸を、遠慮がちに叩く音がしました。
「へえ、一体どちらさんでございやしょ」
髪に白いものが混ざり始めた主人が、よっこらしょと腰をあげました。戸は立て付けが悪いのか、がたがたと音を立てます。ここでもまたよっこらしょと言いながら、主人は戸を開けました。
「すまないが、一晩宿を貸してもらえないだろうか。連れと泊まれるところを探していたのだが、なかなか見つからなくてな」
戸の外にいた人は、主人が見上げるほど背が高かったのでてっきり男性かと思いましたが、その声はたしかに女性のものでした。目深にかぶっていた雨よけのフードを少し持ち上げ、のぞかせた目は澄んだ綺麗な紫色でした。
主人はそれを見て、心の中でこっそりと思いました。
ああ、これは物盗りの類ではないな、と。
「このあたりは民家も少ねえですし、お宿なんて立派なもんもねえですから。どうぞお上がりくだせえ。小汚いところで申し訳ねえですけんど」
「いや、雨を凌げるだけでもありがたい」
「ここらはいつもこんな天気なんでして。おーいお前、お客さんだ。何か拭くものを持ってきてくれー」
快く迎え入れてくれた主人は、奥に向かって声をかけました。部屋へ上がる前に、女性とその後ろに実は立っていた連れの子どもは、軽く雨具を叩いて雫を落としました。
「この家の方が優しい人たちでよかったですね。雨の中、途方に暮れるところでした」
「ああ。まさか、昼に人を見たときから、こんな時間になるまで誰とも会わず、民家も見ないとは思わなかった」
そこへ、主人と同じくらいの年かさの女性が重ねたタオルを持ってやってきました。
「まあまあ、こんな雨の中大変でしたでしょう。さあどうぞ、こちらをお使いください」
「ありがとうございます、奥様。助かります」
「すまない。ありがたく使わせてもらう。……それと、できればこの雨よけの上着を干しておきたいのだが」
「ええ、ええ。よろしいですとも。さ、こちらをどうぞ」
ハンガーを手渡しながら、上着を脱いであらわになった二人の姿を見て、女性は思わずおお、と息をのみました。
紫の瞳の女性の背が高いことは見ての通りです。ですがそれに加え、すっと鼻筋の通った顔や服の上からでも分かる均整のとれた体、月光を固めたような白く輝く髪など、もしも彼女が本当に男だったら、世の女性たちはきっと放っておかなかっただろうと思うほどの美形でした。
子どもの方も、またタイプは違いますが大変可愛らしい容姿をしていました。長い蜂蜜色の髪に白磁の肌、深く透き通った青い瞳。そして黒と白を基調とした重厚なドレス。こんなあばら屋には不釣り合いなほどです。
(これはどちらもいい目の保養だねえ。……けど、親子や姉妹みたいにも見えないし、何者だろうねえ……?)
首を傾げながらも、女性は二人を奥へと案内しました。
そういうことで、夕食の人数は予定外に増えましたが、家の主人たち二人は他の誰かと食べるのは久しぶりだと喜んでいました。
「ほぅ……。この温かさが身に染みますね」
「ここらの雨は、強さはないがその分、冷たく長く降るでなあ」
「遠慮はいらないからね。さあ、こちらもお食べ」
紫の瞳の女性はカリオン・シュラーク、少女の方はセシェと二人に名乗りました。
カリオンは、セシェを遠く離れた母元まで送り届けるように依頼されていると述べ、二人の涙を誘いました。詳しい話を聞くのは傷を抉るだろうと、二人はそれ以上のことには一切触れず、まるで孫のように接しています。
(……このままうちで引き取るとか言いだしそうな勢いだな。まいった……)
カリオンたちが二人に述べた旅の目的は、悲しいですがまったくの嘘でした。ついでに言うと、セシェという名前もカリオンが便宜上つけただけの呼び名であり、本来の彼女に名前はありません。
長い蜂蜜色の髪に白磁の肌、深く透き通った青い瞳、重厚なゴシックドレス。小さな体も相まって、ビスクドールにも見える彼女はその名もまさしく、ビブリオドール。世界中の全てのものに忘れられた友だちの神さまによって造られた、本物の人形でした。荒れる精霊を鎮め、死してもなお天の園へ還れずにいる彷徨う魂を救うことが彼女の使命。その旅路に、カリオンはビブリオドールの身を守り、時に手助けを行う「契約者」として同行していました。
(半分お伽噺のようなものだからな。信じてもらえないだろうと思ってああは言ったものの、ここまで心を尽くされているのを見ると、さすがに心苦しいな)
そんな気まずい笑いは心の中だけに留めておいて、カリオンは温かいお椀の中身をすすりました。山菜と茸のすまし汁でした。
周囲を山に囲まれたこの土地を、カリオンたちは道なりにずっと進んできました。左右には田畑が広がっていましたが、荒れているところが多く目につきました。民家もまばらで、随分と物寂しい風景だと思ったものです。
そして道中のほとんどを共にしていたのが、しっとりと体を濡らすこの雨でした。朝も夜も関係なく降るこの雨のせいもあって、余計に哀愁を掻き立てられたのでしょう。
目に見えないほど細やかで、天と地の間を埋め尽くさんとばかりに降り続く雨は、やむことを知らないのでしょうか。それとも、やみたくても自分ではやむことができないのでしょうか。
道行く人の体に染み込んでは熱を奪い、土地の遍くを光から隠し、ただ静かに涙を流す天は、一体何を想って泣いているのでしょう。
「それにしても、よく降る雨ですね。もう五日ほど、太陽を見ていません」
囲炉裏を囲んで食後のお茶をいただく傍ら、ビブリオドールが家の主人に話しかけました。主人も同じように温かいお茶に息を吹きかけながら答えました。
「ここら一帯はいつもそんなもんさ。ひと月の半分もお天道さんは出てやしねえ。おかげで水に困ったことは一度もねえが、作物の育ちはイマイチ、崖崩れもよく起こる。いいことばかりではねえさ」
「なるほどな。だからあんなに田畑が荒れていて、人もいなかったんだな」
「へえ。わしらの知らん奴も知ってる奴も、他に行くところのあるもんはみんな出て行きやした。自分たちで食べるもんぐらいはどうにかなるで、わしらは残っとりやすが」
そこへ女性がお茶菓子を持ってきました。
「まあ言い伝えでは、るい様の涙だとも言われてますが」
「るい様?」
「ええ。昔ここらにあった国の皇女様のお名前ですよ。皇女様が世を儚み、国を偲んで流す涙が雨になっているんだというお話です」
それにぴくりと反応したのは、ビブリオドールです。
「どんなお話なんですか?」
「ん? そうだねえ。るい様は実際にいらっしゃった方で、それはそれはたいそうお美しい方だったらしいのよ。微笑むだけで庭の花が恥じらって全て散ってしまったとか、風上に立たれたらその芳しい体香が百里先まで届いたとかっていう話がいくつも残っているぐらいだからねえ。月の神にすら求婚されたとかっていう伝説まであってね」
「それは凄いですね。さぞ美しい方だったのでしょう」
「うん、うん。でしょう? まあ最後のやつはさすがに作り話だと思うけどね? いっそ本当に月の神様のもとに嫁いでいた方がよっぽど幸せだったんじゃないかねえ」
「と、いうと?」
「るい様の美貌を巡って、人間同士が争いを始めてしまったからさ!」
ああ、という声が思わずカリオンの口から漏れました。美女を取り合って男たちが醜い争いを繰り広げるのは、古今東西よく聞く話です。
「最初は家来たちの間で、誰がるい様の覚えよいかっていう話だったのが、成長して美しさに磨きがかかってくるとねえ。名のある家の男どもがこぞって求婚してきたそうよ。はてには叔父と従兄が、兄と弟が……っていう具合に親族で争うようになり、そこへ父たる皇帝が混ざってしまえばもう」
「そうまでなってくると、そのへんの修羅場がかわいく見えるな」
「ええ、本当に。るい様も最初はみんなを止めようとしたそうだけど、色に狂った男どもは止まらず。しだいに国が荒れていくのを見たるい様は、ついに全ての元凶である己の命を絶つことで、男たちの目を覚まさせようとした」
「とても健気な方だったのですね……」
そっとビブリオドールは目を伏せました。若くしてその命を散らした皇女の、民への懺悔と男たちへの哀切の想いから流れる涙が、今もこの地を覆っているのでしょうか。
ですが、話はまだ終わっていないと、女性はずいっと身を乗り出してきました。
「そう、それで終わりだったら、まだるい様も報われてただろうさ!」
「そんなことを言うということは、そうではなかったということですか?」
女性は大きく頷くと、まるで我が事のように憤慨あらわにしながら、続きを教えてくれました。
「実はそうなんだよ。るい様が露と消えてしまったと知ったとき、男たちはそれはそれは嘆き悲しんだ。中には失意のうちに、るい様のあとを追った人もいたそうだよ。ただ、それが一番害のないやつでね。残された多くの男たちは、やれ皇女が死んだのは貴様のせいだの、やれ皇女のために自分が勝者となってこの争いを終わらせるだの、好き勝手なことをいって戦争を始めてしまったのさ!」
「そんなことが……」
「……アホなのか?」
あいた口が塞がらないとはこのことでしょう。あまりに劇的すぎて、後世の脚色すら疑いたくなります。実際、女性はそこまで言い切ると、一転して朗らかな笑顔で言いました。
「とまあいうふうに言い伝えられてはいるけど、本当かどうかはもう誰も知らないよ。内乱で国が滅び、その頃から雨がやまない土地になったというけれど、るい様がどこまで関係してるかまではね」
「……それもそうですよね。面白いお話をありがとうございました」
つられたようにビブリオドールも笑いましたが、心の中ではそれが作り話ではないだろうと気がついていました。女性にとってはただの言い伝え、所詮はお伽噺ということなのでしょう。
ですが、ビブリオドールにとってはそうではありません。なぜなら、皇女は彷徨う魂となって、今も泣き暮らしているのかもしれないのですから。
一夜明けても、雨はやんでいませんでした。一晩の宿を探してこの家の戸を叩いたときよりも、心なしか風景が明るく見えるような気がするということだけが、今が朝なのだと思わせてくれる唯一でした。
「お世話になりました。ご飯、美味しかったです」
出発の準備を整えたとき、主人も女性も微妙な顔で見送りに立っていました。心配半分、寂しさ半分といったところでしょうか。
「やっぱり雨がやむまでぐらい……」
「いや、気持ちはありがたいが、あまり長居するわけにもいかないのでな」
「そうですか……」
残念そうな女性に、ビブリオドールがそういえば、と尋ねました。
「昨夜お話ししてくれた皇女様のお墓ってどこにあるのでしょう。もしも道中にあるようなら、手をあわせたいのですが」
「ああ、るい様のお墓はね、ないんだよ。ここからまっすぐしばらく行くと、右手に大きな湖がある。るい様は、そこに身投げされたんだ」
「この辺のもんも、よく花を手向けたりしてるんでさ。もし、よければ」
「ああ、そうだな」
隙間なんて見えそうもない灰色の分厚い雲から、糸のように細い雨が垂れて、木の葉を、屋根を、雨具を、伝い落ちていきます。
「それでは、道中気をつけて」
「はい。お二人も、お元気で」
二人は、カリオンとビブリオドールが雨にけぶって見えなくなるまで、ずっと見送ってくれました。
「湖……あれか?」
それから何時間も経った頃、二人は山間を抜けて、平野に出ていました。相変わらず人ひとり見かけませんが、崩れた漆喰の壁や雑草に埋もれた家の残骸などを見れば、ここがかつて皇女が暮らしていたのであろう都の跡ということが分かります。
件の湖は、都の中心から少し外れたところにありました。おそらくは皇女の悲劇を記した石碑なのでしょう。湖のほとりに花が添えられた高さ一メートルほどの石がぽつんと立っていましたが、長年の雨で文字が削られ、一文も読み明かせませんでした。
「あそこの浮き島に、四阿がありますね」
「ああ、随分立派なものだね」
いっそ、不自然なほどに。
その一言をカリオンは飲み込みましたが、ここに来るまでに見た家々の荒れ具合を思えば、綺麗過ぎるでしょう。
「橋脚の跡がわずかに見える。かつては橋が架かっていたのだろうな」
「でも今はもう朽ちてしまっていますから、代わりの手段であそこまで行かなければならないのですが……」
周囲を見回したとき、目についたのは小さな木造の舟でした。今でも使われているのか、濡れて湿ってはいましたが、カビが生えていたり穴が空いたりしているような箇所は見当たりません。
勝手ながらその舟を拝借し、湖を渡ります。
浮き島に近づくに連れて、しくしくと泣く声が聞こえてきました。
『……どなた様でしょうか』
舟の音があちらにも聞こえたのでしょう。こちらが声をかけるよりも先に、鈴を転がしたような声が、玉が連なった御簾の向こうからしました。
「はじめまして。わたしはビブリオドール。大いなる母より遣わされし
『いいえ、こちらに来てはなりません。わたくしは皆を狂わす魔物なのです。どうかそのまま立ち去ってくださいませ』
「そうはいきません。わたしは、貴女を救いにきたのです」
屋根から下げられた御簾の向こうで、動く影がありました。わずかな衣擦れの音も。
(魔物、か……。分からなくもない)
彼女の声はどこか甘く、天上の楽器のように澄んで、いつまでも聞いていたいと思いました。それが今、涙で震え、言葉を詰まらせているのですから、どうしても慰めてやりたい気持ちになるのです。それもできれば、この手で抱きしめて。
顔すら見ていないのにこれとは、男たちが狂ったように彼女に入れ込んだというのも、頷ける話です。
カリオンは頭を振って、どうにかその衝動を払いのけました。
『いいえ、いけません。わたくしは救われるような人間ではないのです。皆、皆おかしくなってしまいました……。全てはわたくしのせいで……ああ! この身がただ恨めしい!』
影は髪を振り乱し、体をかきむしってなおも深い嘆きを訴えました。決して大きな声ではないのに、彼女の悔恨の念が重みをもって、カリオンたちの身体を打つようです。
『わたくしという存在の全てが、皆を狂わしてしまった。優しかったお兄様! 思慮深かった叔父上! かわいかった弟! 尊敬していたお姉様! たくさんの善良で愛おしい人々! 文武に秀で、誉高かったお父様でさえも! ああ、どうか罪深いこの身を許してください。争いを生むばかりで止めることもできず、死してなお幾多の幸せを踏みにじって、血にまみれた醜いこの女を!』
そうしてあとは、ただ謝罪の言葉を口にしながら、突っ伏して泣くだけです。
浮き島の周りをぐるりと回ると、四阿の中へ続く階段が一ヶ所ありました。そこに舟を寄せ、手すりにしっかりと縄を結んで流されていかないようにします。
「失礼します、皇女様」
ビブリオドールは御簾の外からそう声をかけると、返事も待たずに中に入ってしまいました。
『ああ、何故! 来てはならぬと申し上げましたのに……!』
するともちろんといいますか、怯えたような、絶望したような、そんな悲鳴が薄暗い四阿の中に響きました。ビブリオドールは気にせず彼女の傍まで歩み寄ると、少し腰をかがめて、椅子からわずかに体を起き上がらせた皇女と目を合わせました。
「貴女の嘆きを少しでも癒して差し上げたいと思いましたので。それに、わたしは人の熱を持たぬ人形。貴女の美しさで狂わされる心を持たないのですよ」
『……?』
「さあ、泣き止んでください。すっかり目元が晴れてしまっているではありませんか。女の子は誰でも笑顔でいるものですよ」
淡い菫色の瞳から未だに流れ落ちる雫を、ビブリオドールは優しく拭いました。そのまま白く柔らかい彼女の頬を両手で包み込み、ゆったりと微笑みました。
一方の皇女は、人ではないと説明した目の前の少女にどうしていいか分からず、白藍色の袖で口元を隠してぱちくりと目を瞬いていました。
カリオンはビブリオドールに続いて中に入ろうかどうするか少し迷いましたが、彼女は普通の「人間」であり、また皇女の「魅力」に当てられかねないと思いましたので、おとなしく四阿の外で待つことにしました。
『あなたは……わたくしを見ても、なんとも思いませんの?』
「そうですね。可愛らしいとは思いますが、それだけです。まあ、貴女を見てそう思わぬ者はいないでしょうが」
ビブリオドールは苦笑気味に答えました。
艶やかな緑の黒髪は美しくまとめられ、背に流された残りに手を添えれば、絹のような触り心地が分かります。白い羽のような髪飾りも、黒髪によく映えています。わずかに朱に染まった頬に、桜色の小さな唇、菫色の瞳、泣き腫らしているにもかかわらず、その可憐な面立ちはまったく曇っていません。
袖口は広く丈は短い上衣に、足下まで隠す長い下衣は、この国の昔ながらの衣装です。胸元の天色から袖や裾にかけて白藍色に移る美しいグラデーションのこの衣は、清楚で純真な彼女によく似合っていました。そこからのぞくほっそりとした手足はまるで光を放っているように輝き、指は白魚の如く。
これを見て不細工だというような者は、世界中のどこを探してもいないでしょう。
「せっかくのお顔が台無しですよ? どうしてそんなに泣いているのですか?」
『……だって…………勝手に……出てくる……んですもの……』
皇女はグッと唇を噛みしめましたが、再び流れ落ちる珠のような雫を止められてはいませんでした。
『わたくしのせいでたくさんの人が亡くなったのに……わたくしが彼らにできることは何もありません……。それが申し訳なくて、悲しくて……』
また突っ伏してしまった皇女の頭を撫でながら、ビブリオドールはまた問いかけました。
「それは、貴女のせいなのですか? 貴女が自ら剣を取り、彼らを亡き者にしたわけではないのに?」
『ええ、そうですわ。全てはわたくしのせい。なぜなら、皆がそう言うからです。皆、わたくしの為に言うことを、やることを、まるで蛮族の鬼のように、顔つきまでも変えていったのです。…………そんなこと、望んでいなかったのに』
最後にぽつりと呟かれた言葉にビブリオドールが何か反応するまでもなく、皇女は少しずつ熱をこめていきました。
『ああ、まことに恐ろしい。恐ろしくて恐ろしくて……夢ならば覚めてくれと何度も願ったほどに……! 止めてほしいと言っても、誰も聞き入れてくださらなかった。意味もなく血が流れるのを、皆が口をそろえてわたくしがいるからだと言う……! どうして⁉ わたくしの何がいけなかったというのですか⁉』
ついに、皇女はがばっと身を起こすと、ビブリオドールの肩を砕かんばかりに強く掴みました。その拍子に、腰掛けていた椅子から落ちてしまいましたが、まったく気にも止めずに叫び続けました。
血も吐かんばかりの、悲痛な表情で。
『わたくしを褒めそやす裏で、畜生にも劣るような所業を行っているのだと疑わねばならないことが辛かった! わたくしが知らぬところで、わたくしのせいで踏みにじられている誰かがいるのだと知らされることが苦しかった! そして、それをどうすることもできなかったわたくしが悲しかった! わたくしは何もしていないのに! わたくしのせいで、わたくしの大好きな方達がおかしくなって死んでいくのを、もう見たくなかったッッ‼』
そして、自分よりもずっと小さいビブリオドールにしがみついて、泣き声を上げました。雨音をかき消すほどの、大きな大きな声でした。
「……だから、この湖に身を投げたのですね?」
それでも、耳元で囁いたビブリオドールの声は彼女に届いたようで、一度だけ首が上下に動きました。
「それは、とても辛かったでしょう。……だから、思いきり泣いていいのですよ。泣いて、叫んで、声になるものもならないものも全て吐き出して。そうすれば、少しは落ち着けますからね」
髪を優しく梳いて、赤子をあやすように背を一定のリズムで軽く叩いて。
どれくらいそうしていたでしょうか。皇女の泣いてる声がだんだん小さくなり、やがてしゃくり上げる声がかすかに漏れ聞こえるぐらいにまで落ち着いたようです。
「どうですか? 少しは気持ちがすっきりしませんか?」
『……はい……』
「それでは、椅子に座りましょうか。こんな冷たい石の上では、体が痛いでしょう」
ビブリオドールが手をとって促せば、彼女はおとなしくもとのように椅子に座り直しました。ですが、となりに腰掛けたビブリオドールが自分の膝を叩いてるのを見て、首を傾げました。
『えっと……?』
「膝枕です。してもらったことも、してあげたこともありませんか?」
『ええ、覚えがありません』
「それはもったいない。さ、どうぞ。遠慮なく」
どうしたものかと皇女はしばらく目線をさまよわせていましたが、ビブリオドールの笑顔に根負けして、おそるおそるビブリオドールの太腿に自身の頭を横たえました。
そのままゆっくりと頭を撫でられていると、不思議と眠くなってきました。生きているうちも、死んでからも、胸の内を締め上げる息苦しさに眠るどころではなかったというのに。
「くすっ。眠くなってきましたか?」
ビブリオドールにはお見通しのようです。
『ええ、少し……。それに、お母様のことを思い出していました』
「お母さまの?」
『はい。わたくしが幼い頃に亡くなってしまったのですが……。生きていたら、どうしても聞いてみたいことがありました』
「聞いてみたいこと、ですか」
『……何故、わたくしなどを産んでしまわれたのかと』
ぽつりとこぼれたその言葉は、冷ややかな温度を伴って、空中に溶けていきました。
『わたくしのような、男も女も、老いも若きも関係なく、全ての人を狂わしてしまうような魔物は、いっそのこと初めからこの世に産まれなければよかったのに、と』
ぎゅっと握りしめられた手とともに吐き出された恨み言。皇女が初めて口にした、他人を責める言葉でした。けれど、それはあまりに悲しすぎるものです。
「なぜ貴女を産んだのかなど……。もちろん、貴女が愛おしかったからですよ」
『そう……なのですか?』
「そうですとも。嫌いだと思いながら、子を産む母などおりません。貴女のお母さまも、貴女を慈しんでくれたでしょう?」
頭を撫でるビブリオドールの手が、在りし日の母と重なり、その温もりすら錯覚してしまいそうになります。
だんだん重くなる瞼に、心ばかりの抵抗を見せていると、ビブリオドールがそっと詠い出しました。
子守唄にも似たそれは、
書架配列四二四番より——開架
美し涙の姫君に紡ぐ安息の詩
東の風が吹き集めたるは一片の白雲
装い新たに雨歌い、水の香りをくゆらせる
晴れた日の鶯は 今日もどこを飛ぶ
その声があまりにも心地良くて。穏やかな気持ちで眠れそうな気がします。
そんな日は、一体いつぶりでしょう。
あわれ長夜に散る雨よ
花に佇む貴方の心を
湖面の月は素知らぬふりで
笑い嘆き、密やかに語り継ぐのでしょう
「貴女は何も悪くないのです。美しき涙の皇女。もちろん、貴女の周りにいた人々の誰も、悪くありません。ただ、全てが不幸に巡り合わせてしまっただけのこと。だからもう、ゆっくりとお眠りなさい」
春を偲び 寒に耐えた貴女には
わたしから青き佳き時代の夢を贈りましょう
楊柳の葉が導くままに 路に迷うこともなく
夢の渡し鳥よ、どうか彼女の心を連れて行ってください
願わくば、
貴女の次なる目覚めにも光があらんことを……
ビブリオドールの膝を枕に体を横たえたまま、涙を雨に変えてまで己と人を深く嘆いていた皇女は、安らかな眠りにつきました。
「終わったか?」
「……ええ、滞りなく」
外で待っていたカリオンの問いかけに答えるのに、少し間が空いたのは、思わず呆気にとられていたからです。随分と小雨になった鼠色の雲の下、借りた小舟を階段の上まで引き上げて、カリオンは濡れている石段の上に座っていました。
「転覆するかと焦ったぞ」
はあ、というため息とともに、やや物騒な単語が聞こえましたが、それでようやく何が起こったのか察しました。
「そんなにもひどく降りましたか?」
「降った。おかげで雨具の下にまで水が染み込んできた」
「そうですか……。それは、さすがは〝るい〟様というべきでしょうか」
「さすがは?」
「ええ。あの石碑の文字も読めなかったので、るいという字がどのように書くのかは分かりません。ですが、涙という字も〝るい〟と読むでしょう? とはいえ、館長さんには大変な目にあわせてしまいましたね。すみませんでした」
皇女の止まらない涙が雨になって降り注いでいると言われてきた土地です。皇女が大声をあげて泣けば、相応の影響もあるでしょう。
「まあ私としては、気がまぎれたからべつにかまわないのだがな」
「そう言っていただけましたら、こちらも気が楽ですよ」
そうして、浮き島から戻ってきた二人はやがて雲のヴェールを抜けてきた淡い日の光を見て、太陽のありがたみをしみじみと感じながら、次の彷徨う魂を救う旅へ戻っていきました。
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