地中の画人とビブリオドールのお話
赤のゆらぎ 青の波紋 緑の調べ
溶け合う光が垂れて
貴方の世界を色づかせる
滲んだ時は
森羅万象よ、その手の中へおかえりなさい
光の上に色を重ねたとき
世界の全ては停止する
貴方の真理は摩訶不思議なパレットに
きっとあるのでしょう
地中の画人とビブリオドールのお話
広い海にぽっかりと浮かぶここは、そう大きな島ではありませんでした。その気になれば、一日で一周できてしまうほどです。特に目立った観光資源もなく、のんびり釣りをしたりおしゃべりに興じたりして時を過ごすのどかな島でした。
そんなこの島へ、旅の休息がてら立ち寄った人たちがいました。人の入れ替わりがそう多くない場所でしたので、島に住む人たちはとにかく彼女たちを珍しがりました。
彼女たちと呼ぶことからも分かるように、やってきたのは二人組の女性でした。一人は鋭い顔つきに白い髪で腰に剣を佩いた女性で、もう一人は波打つ蜂蜜色の髪を腰まで伸ばしたゴシックドレスの少女でした。二人は人目を引くことに慣れているのでしょう。すれ違い様にすごい勢いで振り向かれても、わざわざ立ち止まってじろじろと見られても、特に驚くことなく歩みを進めていきました。
それを見てまた、島の外の人はクールだなあ、などという感心しているのかバカにしているのか非常に分かりづらい話が島中を回るのでした。
さて、二人は盛夏の暑い風とともに山の中に整備された道を歩いていました。島の東側にあるこの山はさほど標高が高くなく、緑の木々が豊かに生い茂っていました。ですが一部、表層の土が流れてしまったのか岩肌が露出しているところもありました。
「大丈夫か。私が背負ってもいいが」
急な坂の道が続いていましたので、女性は少女にそう声をかけました。ほっそりとした美しい少女が、一歩ずつ地面を踏みしめる姿は、どことなく心を痛ませます。ですが当の少女は、無理をまったく感じさせない笑顔で答えました。
「いいえ、問題ありません。お気遣いありがとうございます」
「そうか。まあ今日は幸い雲もあるしな」
「ええ。それに、この水平線まで見える素晴らしい景色を眺めていたら、そう辛くもありませんよ」
知らない人がこの少女の声を聞けば、おや? と首をかしげたかもしれません。彼女は、ともすれば大きめの人形と間違えられてしまうほど、背の低い愛らしい見た目の少女です。ところがその声は、幼子特有の甲高いものではなく、上品な淑女のような甘さと、時を重ねた賢者のような穏やかさがありました。
「ところでセシェ。さっきから私たち以外の声が聞こえるのだが」
「館長さんがそう言うのなら、わたしの聞き間違いということはないのでしょう。問題なのは、宿のご主人から立ち入り禁止だといわれた区画のほうから聞こえてくるということですね」
セシェ。
館長さん。
二人は互いをそう呼び合っていましたが、本当の名前ではありません。この世界で、二人の間にだけ伝わる名前です。
セシェと呼ばれた少女は、実は人ではありません。その昔、世界中の全てのものに忘れられた友だちの神さまが、死んでもなお死にきれずに苦しんでいる魂たちを救うために作った人形でした。その名も、ビブリオドール。彷徨う魂の苦痛を和らげ、還るべき天の園へ葬るための祝詞を内に保有・管理していることから、まるで図書館のようだとして、こう名付けられたのです。
だからこそ、ビブリオドールの身を守り、共に旅路を行く契約者は「館長」と呼ばれているのです。今のビブリオドールの「館長」を務めている女性は、カリオン・シュラークといって、元は凄腕の傭兵として名を馳せた人でした。
風もないのに聞こえる葉ずれの音に導かれて、二人はそっと獣道のように細い道へ分け入っていきました。先ほどまでの道に比べたら平坦で、前後左右から伸びている枝や草に目をつぶれば、歩きやすいといえるでしょう。そのままどんどん進んでいくと、やがて植物は少なくなり、岩場のほうへとやってきました。
「……あ……の……」
「さ……は……」
とぎれとぎれですが、人の声がします。聞こえたかぎりでは、言い争っているようではなさそうですが……。
少し警戒しながら岩場の影にかがんでそっとうかがうと、三人の子どもたちがそこにはいました。
歩き続けていようよ
ぼくときみと手を繋いで
雨の日 風の日 雪の日
どんなときでも
手に持った紙を広げているところを見ると、歌の練習をしているようです。
二人は顔を見合わせて頷くと、わざと音を立てて岩陰から出て行きました。
「こんなところで何をしてるんだ? お前たち。ここは立ち入り禁止だと聞いているが」
『うわあ⁉』
子どもたちの声がしっかりと揃いました。よほど驚いたのでしょう、体が地面から十センチは浮き上がっていました。
「だ、だ、だれ⁉ なんでここに⁉」
「や、やばいって! どうすんの⁉」
「にげよーよ!」
「ああ、待ってください。こんな危なそうなところから人の声がするので、見に来ただけなんです。驚かせてごめんなさい」
慌てふためく子どもたちに、ビブリオドールは急いで声をかけました。自分たちと年が近そうに見えるビブリオドールからそう言われると、子どもたちも少し落ち着きを取り戻したようです。
ですが、カリオンをチラチラとうかがう目は、どうやら怖がっているようでした。カリオンは女性にしては背も高めですし、お世辞にも優しい顔つきとは言えません。きっと「怖そうな大人に叱られる」と思ったのでしょう。それをひしひしと感じたカリオンは一歩下がり、同じ「お子様」であるビブリオドールに任せることにしました。
「それで、どうしてこんなところで歌っていたんですか? 下の海岸とかでもよかったのでは?」
「だめだよそれじゃ! だって、」
「わー! バカ、言うなって!」
「ないしょのとっくんだって言ったじゃん!」
「あ、そっか……!」
反論しようとした小さな口は、両隣から伸びてきた手で閉じられました。なかなか息のあったコンビネーションです。
「島の人たちには内緒なんですか?」
ビブリオドールが首をかしげると、子どもたちは目だけで会話を交わしましたが、どうするか決めあぐねているようです。
「わたしたちは昨日たまたまここへやってきた旅人です。旅の者は風のようにさすらうのが務め。風に独り言を囁いても怒られたりしませんし、誰かに告げ口されるることもないでしょう? そんな気楽な感じで教えてはくれませんか?」
沈黙が続いていましたので、そう促してみれば、ようやく子供たちの口も動き出しました。
「……もうすぐ、おまつりで歌のはっぴょうかいがあるんだ」
「お兄やお姉をびっくりさせたくて、こっそりとっくんしようってなったんだけど……」
「きょうしつも空き地もみーんなほかの人にとられちゃってさ! 他にばしょがなかったんだ」
「それでね、ここならだれもいないんじゃないかって、ためしに来てみたの」
「とちゅうの草はチクチクするし、枝は頭にあたっていたかったけど、だれもいないし大声だしたっておこられないし、よっしゃここでするかーってとっくんを始めたのはいいんだけど……」
急に声がかげったのでどうしたのかと、ビブリオドールがもう一度首をかしげると、一番右にいたそばかすの男の子がぼそっと言いました。
「始めてすぐに、言われたんだ」
「何をですか?」
「『へたくそ!』って」
「? どなたにですか?」
「あっちの、どっかにいるだれかから」
男の子が指差したのは、人っ子一人いない吹きっさらしの岩場でした。なんと返すべきか、一瞬ビブリオドールが迷ったのを敏感に感じ取った子どもたちは、それぞれに声をあげました。
「ほらもー! やっぱり信じてないだろー!」
「ほんとにほんとなんだよ! だれもいないのに声がしたの!」
「ありえないかもしれないけど、マジなんだよこれが!」
「実は誰かがいた……というわけではなく?」
『わけではなく!』
三人はビブリオドールに詰め寄りますが、ビブリオドールが瞬きをしながら言いよどんでいるのを見て、また腕を振り回したり地団駄を踏んだりして主張しました。
「ほーらーもー! だから言うのイヤだったんだって! 信じてくれないからさー!」
「三人で見て回ったから! 二周ぐらいしたから! それでもいなかったから!」
「ほんとなの! ね、信じて!」
「気のせいでも……」
『ない!』
「ですよね」
力一杯の声に、ビブリオドールは神妙な顔で頷くしかありません。
「ですが、誰かも分からない人の声がするところで、よく練習を続けようと思いましたね。どうしてですか?」
すると子供たちはきょとんとした顔で答えました。
「え、だってなんかくやしいじゃん」
「しかも、だれ⁉ ってきいたら、『お前たちみたいな美しさのかけらもないドへたくそに名のる名はない』って言ったんだよ? ちょームカツクじゃん!」
「だからいじでもここでとっくんしてやろうと思ってさ。いつかあのオッサンにぎゃふんと言わせてやるっ!」
(いや、普通そこは怖いとか気持ち悪いとか思うところだろ)
などとカリオンは思うわけですが、子どもというのは時に大人の想像を易々と超えていきます。その自由奔放さと剛胆さこそが、子どもならではとでも言いましょうか。
「どうしておじさまだと分かったのですか?」
男の子がおっさんと呼んだので、よほど渋い声だったのかと思って尋ねると、
「え、だって女の人ってかんじの声じゃなかったから、おっさんでいいでしょ」
このように返ってきたものですから、カリオンは思わずのどで笑ってしまいました。ビブリオドールは「そうなんですね」と無難な笑顔で答えていましたが。
「しかもあのおっさんかなりわがままなんだぜ? こっちが話しかけてもたまにしかへんじしないくせに、あっちからはふつうにとっくんのじゃましてくんだよ」
「『今日の天気はどうだ。さわやかで世の中はキラキラして見えるか。それとも雨のにおいが強くて重たいか。風の流れはどうだ。すみきっているか、熱いか、苦しいか、うまいか』なーんて分かるわけないじゃんっ!」
「しかもこの前なんか、『その歌はあきたから他のにしろ』って言ってきたんだよ⁉」
「そんなの言われたって、どれを歌うかはきまってんだからしょうがないじゃんね!」
一度話し始めると、最初の警戒がウソのように子どもたちはビブリオドールのそばに寄って楽しそうにおしゃべりに花を咲かせていました。
そんな時、一人の子のお腹がグゥと鳴りました。ビブリオドールたちは食事を終えてから散歩に出ていましたが、どうやら彼らはまだだったようです。
「あー、おなかすいたー!」
「そろそろかえるか?」
「そうしよっかなー。おねーさんたちは?」
「わたしたちはもう食べてきましたから。とりあえず、このまま頂上まで行ってみようかなと思っています」
「そっかあ。じゃあね!」
「あ、このことはだれにも言うなよ! ぜったいだからな!」
帰り支度をしながら、ハッと思い出したようにそばかすの男の子は二人を指差しました。
「言わないから安心しろ。だが、お前たちもあまりここには来ないようにしたほうがいいぞ、本当に。危ないから入ったらダメだって言われてるんだからな」
そう言ってあげると、子どもたち頬を膨らませながらも、みんな頭を下げてから細い道を賑わして帰っていきました。
「礼儀正しいな」
「ご両親の教育がよろしいのでしょうね」
微笑ましげにに頷いたビブリオドールの傍まで行って、カリオンは改めて周囲を見回しました。
「まあ、立ち入り禁止のところに入っているのは感心しないが。……昔、転落事故があったからだとか陥没した穴があって危険だからだとかいう話だが、ここからだとよく分からないな」
「そうですね。もしかしたら、あの花たちが隠してしまっているのかもしれません」
「たしか、カミーユソウという名前だったか。水場の少ない荒野で見つけたら、水筒よりも先にそれを食って貴重な水を節約しろと教えられたことがある。花びらに多量の水分が含まれているから……という風に聞いた覚えがあるが」
「ええ、そうです。だから、カミーユソウは旅人たちに乱獲されました。ですが、不思議なことに、いつの間にか同じ場所にもう一度花を咲かせることから、再生の象徴としてよく物語や絵画に登場する花でもあります」
茶色い岩場に彩りを添えるもの。それは、深緑の花弁を揺らして咲き集いた可憐な花たちでした。
子どもたちが座っていたところにも、二人の足下にも、ひっそりと慎ましく、その花は不可思議な魅力を持って咲いていました。
* * *
「……この先か?」
「この先です」
「……どんな偏屈だ」
正直な感想をもらせば、ビブリオドールには苦笑されてしまいました。ですが、カリオンはしょうがないだろうとため息もつきたい気分です。
二人は今、ひとまず頂上に行くのを後回しにして、空いているかもしれない穴に気をつけながら、岩場をくだってきたところです。
子どもたちの歌に答えた声の主に会いに行くためでしたが、カリオンの目の前には人ひとりがようやく通れるほどの幅しかない裂け目が口を開けているだけでした。どうやら探し人は、この先の洞窟の中にいるようです。引きこもるにしても、場所というものがあるでしょうに。
「それにしても、よくこんなところを見つけたものだな、その偏屈は。人が通る場所ではないのに」
二人がいるのは、木々が健やかに伸びているところと岩場になるところのちょうど境い目あたりでした。道らしい道があるわけではありません。
「この島にはかつて、豊作と再生を司る女神アリオティスを信仰している人たちがいました。彼らは女神を讃えるため、大地を肌で感じられる地中に神殿を作り、その上にカミーユソウを植えたのです。
ただ、この島では地の恵みよりも海の幸のほうが好まれるようになりましたので、徐々にアリオティスへの信仰は廃れていきました。この中にいるどなたかは、何かのおりにこの神殿のことを誰かから聞いたのかもしれません」
「なるほどな」
カリオンは頷くと、まずは彼女から裂け目に身を滑り込ませました。灯りはありませんでしたので、目が慣れるまでは慎重に歩みを進めます。
裂け目や洞窟自体は自然にできたものなのでしょう。ですがそこには、気高き信仰の一心で手を加えた昔の人々の名残がたしかにありました。
「さすがにほこりっぽくはあるが、床も壁も綺麗に磨かれている。私がまっすぐに立ってもまだ余裕があるぐらい天井も高い。元々洞窟があったとはいえ、ここまでのものにするにはどれくらい時間がかかったんだろうな」
裂け目から入ると少しずつ幅は広がっていき、やがてエントランスホールのような広めの空間に出ました。壁をなぞると、朽ちた燭台や溶けた蝋のあとなどにも触れることができました。
「感心するのはまだ早いですよ、館長さん」
微笑んで先導するビブリオドールに、カリオンは黙ってついていきます。
「彼らがこの祭壇を訪れていたのは、ちょうど今頃のような暑い夏の季節だけでした。とはいえ、それはアリオティスを信仰する人々にはよくあることでもありました。
なぜなら冬になると実りは少なくなり、生き物も多くが活動しなくなって、女神の恩寵がもっとも衰えます。ゆえに自らも粛々と冬を過ごし、春の目覚めと夏の盛り、秋の実りを待つのです」
「女神に同調するというわけか。弱るなら助けてやろうというのではなく」
「ええ、そうです。この島の人も同じ想いだったのでしょう。……ですが、ひとつだけ。ひとつだけ、ほかの地域の人たちとは異なる理由がありました」
「その理由とは?」
「これです」
ビブリオドールの手の先を目で追って、カリオンは目を丸くして立ち止まりました。
角を曲がったとき、それはただ静かにそこにありました。
「それはこの季節にだけ、この上にある祭壇へ続く氷の階段が現れるからです」
自分たちの足下の岩盤から、どういうわけだか光の漏れる天井の入り口まで、美しく澄んだ階段がまっすぐに延びていました。表面を滑る水滴やそれが岩盤に落ちる水音が、階段は幻などではなく、今ここで同じ時を生きているのだと感じさせました。
「これがどうやってできているのかは分かりません。夏が終わると消え、また夏が来ると現れることから、カミーユソウの魔力が作り出すのだという人もいるぐらいです。いつからあるのかも分かっていません。何も分からないからこそ、神秘的でより人々を惹きつけたのでしょう」
限られた時の、限られた場所で、限られた人にしか上れない氷の階段。
その先に繋がるのは神の社。
とうに役目を終えたはずのそこに、今は一体誰がいるというのでしょうか。わずかに胸を高鳴らせながら、足を滑らせないように気をつけて上りきった先で目にしたもの。
それは、真っ白な壁に描かれた睡蓮の花でした。カリオンが両手を広げても足りないぐらい大きな絵でした。
緑を基調に、その絵は非常に繊細で、柔らかく、優しく描かれていました。花びらと水面、柳の葉と空、水面と空、絵の中の全ての境界は曖昧で、ぼんやりとした印象を与えます。なのに、どうしてこうも言葉を失ってしまうほど強く、強く、命の息吹を感じるのでしょう。今にも風が吹いて、花びらも水面も葉も、全てが動き出しそうです。
いいや、きっと絵の中の世界が動いた錯覚すら見えていた。
『む? なぜここに人がいる? さっさと出て行ってくれ。ここは私のアトリエだ』
ため息のひとつすら零さず、ただただ目を奪われているだけだった二人を現実に引き戻したのは、壮年の男性の声でした。
「……これは失礼しました。あまりに素晴らしいので、つい二人揃って見惚れてしまっていました」
『ほう。無駄に年は食ってないようだな、小娘。年を経なければ絵画は理解できんとよく言われている。私の絵を理解できるとは、なかなかだな』
「恐れ入ります」
『そっちの貴様はどうなのだ。そんな無粋で野蛮なものを持っているような奴に、私の聖域をうろつかれたくないのだが』
「そいつは悪かったな」
くぼんだ目の奥からギラギラと睨みつけるのは、カリオンの使い込まれた剣でした。カリオンは柄を撫でながら、淡々と答えました。
「……たしかに、私は芸事には疎い。高尚な理念も細かい理屈もよく分からん。だが、アンタの絵は不思議と印象に残る。心を動かされるとはこういうことなのだと思えるほどだ。だからきっと、アンタの絵は素晴らしいのだろう。少なくとも、私にはとても好ましいものに見える」
『……』
淡々と。ええ、そうです、淡々と。いつもと変わらない口調でカリオンは話していました。ですが一方で、いつもより饒舌でもありました。これは珍しいことで、それだけカリオンがこの絵に感動したことの証でもあります。
まっすぐに褒められて照れたのか、カリオンのような芸術とは縁遠そうな人物に讃えられたのが気に食わないのか、あごひげの上の小さな口はへの字に曲がってしまいました。
『……それにしても貴様ら、どうやってここに来たのだ。今まで一度も誰かが来たことなどなかったのに。だからこそ、私の楽園でもあった』
「このアトリエの上で、いつも歌の練習をしている子どもたちに会いまして。彼らと話しているのは誰なのか、気になったものですから」
『子ども……? ああ、あの品性の欠片ものない喧しい奴らのことか。まったく、子どもというのはいつどこに行っても変わらない、いけ好かん奴らだ。
話の内容があっちこっちに飛び移るうえに、中身はまるでない! 連中の会話を聞いてみろ。何が言いたいのかさっぱり分からずイライラするぞ! しかもやたらと動き回るくせに、自然と語り合ったこともないという。だったらなぜ貴様らは野山を駆け回り海に潜るのだ。少しは止まって風の音を聞いてみろ! 寝転がって星を眺めてみろ! 一秒として同じ時のないこの美しい世界を、なぜ誰も残したいと思わないのだ!』
彼はまだ何かブツブツと言っていましたが、足下のパレットや筆を拾うとさらに奥のほうへ歩いて行きました。何も言われなかったのでそのあとをついていきながら、カリオンはこっそりとビブリオドールに声をかけました。
「セシェ、ずっと気になっていたんだが、なぜここはこんなにも明るいんだ? ランプや太陽光ではないだろ?」
そうです。地中の洞窟であるにも関わらず、この場所はお互いの顔がよく見えるほど、壁の絵がどんなものかはっきり分かるほど、光で満たされていました。先ほど上ってきた氷の階段が淡く光って見えたのも、ここがこれだけ明るいからだったのでしょう。
「紙もなく、壁にあれだけの絵を描くことができたのは、岩壁の表面がそれだけ滑らかに磨かれていたからだろう。凹凸のないその技術は、さっき下でも見た。だがこの明るさは……」
「その答えは、天井にあります」
「天井?」
見上げると、たしかに黒い岩盤を覆うように白い光が集まっていました。ですがここからは遠すぎて、光の正体まで掴めません。
「あれは植物の根について光を生む変わった植物です。ランプゴケなどと呼ばれていますね」
「そのままだな……。が、そのランプゴケとかいう植物は、一体なんの根に寄生しているんだ?」
呆れて肩をすくめたカリオンでしたが、また新しい疑問がわきました。ここは、表層の土がなくなって岩肌が露出した場所です。上には根を張るような木々も植物もないはず。
「……いや、まさか」
「そのまさかですよ、館長さん。ランプゴケは、カミーユソウの根についてるんです。カミーユソウは数ある植物の中でも、もっとも強靭で長い根を持つ花のひとつでしょう。そうして荒野でも地下水脈を探し当てることができるため、かの花は水分を保つことができ、何度花を摘まれても同じ場所で次も花を咲かせることができるのです」
「なるほどな。そんなからくりがあったのか」
納得する反面、ビブリオドールの話の中にちょっとした引っかかりを感じたのですが、それが何か分かる前に画家の男性の声によって思考が遮られてしまいました。
『貴様らもごちゃごちゃと喧しいぞ! というか、なんでついてきてるんだ。まったく、あの喧しいうえにコロコロと話すことやることが変わる落ち着きのない奴らのせいで全然筆が進んでいないというのに……』
男性が立った前の壁には、明らかに描きかけと分かる絵がありました。
「これは、人物画ですか」
『そうだ。久々にインスピレーションを受けたから描いてみたんだが、あのこうるさい上の連中に邪魔されてばかりなのだ。まったく気に食わん……』
繰り返し悪態をつく厳めしい顔と、制作途中の絵を見比べてカリオンは思いました。
(そうは言うが、そのインスピレーションとやらは明らかにあの子たちから受けたものだろう。あの子たちの発表会が終わるまでに描き終えられるといいが)
昼というには遅く、夕暮れにはまだ早い。初夏の午睡にちょうど良さそうな白い光の差す空でした。豊かに萌えた緑の草原で、二人の男の子と一人の女の子が茶色い楽譜を広げています。それを、パラソルをさして深緑のドレスを着た女性が見守っていました。
こんな優しい絵に筆でさらに色を足していく姿を見て、誰がこの男性が本気であの子たちを嫌っていると思うでしょう。
しばらく男性が作業するのを見つめていましたが、やがてビブリオドールはほぅ、と溜息を漏らして言いました。
「貴方は本当に素晴らしい画家ですね。どれだけ鮮明な記憶でも、いつかは薄れてぼやけていく。けれど、決してなくなりはしません。貴方の絵はまるでそれと同じです。貴方の絵を見れば、神々さえも涙を流して誉め讃えるでしょう」
『下手なおべっかはいらんぞ。宗教画は専門外だし、神だのなんだのにはとことん興味がなくてな』
「そんな寂しいことを言わないでください。きっと、」
ビブリオドールがさらに続けようとしたとき、カリオンはどことなく嫌な気配を感じました。戦場で培ってきた危機察知能力とでもいいましょうか。
「セシェ!」
とっさに叫んだものの、何がどうなのか自分でもよく分かってないのです。名を呼んだにも関わらず、何も言わず動かないカリオンを、ビブリオドールは不思議そうに見つめました。
「どうかしましたか? 館長さん」
「あ、いや……」
引っ込めることもできず、中途半端に伸ばされた腕の先の指がぴくりと震えました。
(考えろ。今の私たちに敵兵はいない。一体誰に襲われるというのだ。そもそもこんなところに人が入ってくるはずもない。人でなければ自然現象、地震、竜巻、氾濫、落雷……)
カリオンの目がゆっくりと見開かれていきました。
(自然現象の……地震……)
この洞窟の上で咲いているカミーユソウは、岩と砂だらけの荒野でも地下水脈に辿り着くほどの強靭な根を持ち、今やその根はここの天井を這っているほどです。
それが示すところはつまり、
「逃げるぞセシェ! 天井が崩落する!」
カリオンの警告とほぼ同時、轟音とともに上から大きな大きな岩がたくさん降ってきました。
「きゃあ!」
『わ、私のアトリエが! 私の絵があああ!』
「チッ!」
筆もパレットも投げ出して、絵に縋り付く無力な画家にはあと一歩手が届きませんでした。
カリオンはやむなくビブリオドールだけを抱えると、氷の階段へ体をおどらせました。滑りやすいという特徴が今は功を奏し、一瞬で下に辿り着いたカリオンは、そのままひびの入る壁を睨みつけながら通路を駆け抜けました。
「ハァ、ハァ、ハァ……」
数分の後に、この大規模な崩落は一旦落ち着いたようでした。洞窟の入り口から少し離れた大木の上で、ビブリオドールを抱えたままカリオンは、知らず流れていた冷や汗を拭いました。
「ったく、これだけヒヤヒヤしたのは久しぶりだ」
そして長い息をつくと、眼前の惨状を見下ろしました。かなり広範囲にわたって崩落したのでしょう。土煙がひどくてほとんど何も見えません。
「……まだ先のことだろうと、高をくくっていました」
珍しく、ビブリオドールが眉を下げて落ち込んでいました。
「いけませんね、どうやらあの絵の素晴らしさばかりに心を奪われて、他を疎かにしてしまっていたようです。館長さん、ありがとうございました。それと、すみません」
「礼も謝罪もしなくていい。私はそのための『契約者』だからな。気にするな」
軽く背をポンポンと叩いてやれば、ビブリオドールの体からいくらか力が抜けたようです。
「ですが、彼にはひどい絶望を与えてしまいました。私はビブリオドール、彷徨う魂を慰め、安らかにあるべきところへ葬るのが役目。今回のことは、深く反省しなければなりませんね」
しばし目を閉じていましたが、やがて体を起こすと眼下を指差して言いました。
「彼のところへ行ってもらってもいいですか?」
「まだ危険だと思うが」
「それでも行かねばなりません。彼が暴走してしまうよりも前に、話をしなくては」
「……分かった」
カリオンはビブリオドールを抱え直すと、軽やかな足取りで岩の上を渡り、膝をついて茫然自失としている男性のもとへ向かいました。
彼はこの崩落に遭ってもなお、自分の意識があることには疑問を持ってはいないようです。自分がとうに死した者であったことに、彼はもしかしたら気がついていたのかもしれません。その衝撃よりも、思う存分絵を描けたことがずっと大切だったのでしょう。
『私の……アトリエが……私の、私の、丹精込めた絵たちが……! おお、なんと残酷なことだっ!』
打ちひしがれ、滂沱する男性の肩をビブリオドールはそっと抱きました。
「同じ絵は二度と描けないのに、無惨な形で失ってしまった悲しさと悔しさ。心中お察しします」
『ああ、そうだ、そうなのだ! 私はあの絵全てに誇りを持っていた。色褪せるならまだしも、こんな二度と見られぬ姿になってしまうとは! アトリエもそうだ。あんなに心安らぐ居場所はほかになかったのに! 私しかいない、誰にも煩わされない、大切な、最高の、私のアトリエッッ! ああ、苦しさで胸が張り裂けそうだ!』
胸や頭をかきむしり、宙を殴る男性を、変わらずビブリオドールは抱きしめ続けました。そしてその手をとり、言ったのです。
「残念ながら貴方の言う通り、貴方が今まで描いてきた絵はもうもとには戻りません。ですが、貴方はまた何度でも、好きなように、思う存分絵を描くことができますよ」
『はあ? 一体何を言っているんだ。意味のない慰めはよしてくれ!』
男性は不機嫌な顔になって、ビブリオドールを突き飛ばそうとしました。ですが、ビブリオドールは倒れません。
スカートを少し持ち上げると、頭を垂れて敬意を伝えました。
「いいえ、慰めではありません。地中より生まれし光の画人よ。光の神が、芸術の神が、花の神が、美の神が、数多の神が貴方の絵に驚嘆し、貴方を見初めました」
『……は』
涙は変わらず頬を濡らしていましたが、眼に浮かぶのは困惑だけです。ビブリオドールの正気を疑うように、まじまじと彼女を見つめました。ですが、顔を上げたビブリオドールはただ微笑むだけです。
「貴方は今より神の御下へ迎えられるのです。ご安心ください。神々が住まうローゼノーラの地は穢れを知らぬ美しき場所。望めば地上の様子もうかがえましょう。貴方の美的好奇心も満たされるはず」
そしてビブリオドールは胸の前で手を組むと、高らかに詠い上げました。
書架配列六七八番より——開架
地中の画人に紡ぐ招来の詩
それは
人にあらざる彼の技の
なんと素晴らしきことかな
それは時をも止めた白壁の中の命
海に見蕩れ、野に恋した貴方が写した命
父母に心からの感謝を
その目に色を、その手に光を与えてくれたことに
『いやいやちょっと待て、小娘。いきなりわけ分からんことを言うな。第一、私はそんなこと了承してないぞ。勝手に話を進めるな』
男性は憤慨したように立ち上がりましたが、すぐに動きを止めるときょろきょろと辺りを見回しました。その理由はカリオンにもすぐ分かりました。なぜなら、カリオンもまた声の主を探して首を左右に振っていたからです。
「しかもこの香りは……なんだ? 果実、いや、水か?」
どこか甘やかで、涼しさを感じさせる瑞々しい匂い。
そして遠くから聞こえてくる高めの声で歌われる讃美歌。
どちらも、こんな危険な場所にはあるはずのないものでした。
『あれは……』
「は?」
ぽろっと口からこぼれた男性の言葉を拾ったカリオンは、同じように岩の上に目線を移し、瞬きを繰り返しました。
綿のシャツに紺のズボンと赤のスカートをはいた三人の子どもたちが、楽しそうに頬を紅潮させて歌っていました。手にはしっかりと茶色い表紙の楽譜が握られています。
その傍には、深緑のドレスを着た女性がパラソルをさして立っていて、目元は影になって見えませんでしたが桜色の唇が優しい弧を描いているのが分かりました。
こちらに気がつくと、女性は一礼して、三人を促して宙へ去っていきました。
竪琴に触れた幽かな音さえも
人の奥深くまでさざめかせるのだから
貴方の描いた命が心に残らぬ道理はない
『あ……待って、待ってくれ。今のは、私の……いや、それはどうでもいい。慈愛と祝福に満ちていて、なんと美しい……もっと私に……』
男性はうわ言のように呟くと、その手は何かを探して空を切りました。探していたのは、おそらく絵を描くための道具でしょう。それはついさっき、岩の下に埋もれてしまいました。
黎き日の出にはわずかな希望と薄闇の寂しさを携えて
夕暮れに積まれた藁束が家の灯りの郷愁をかきたてる
またも暗くなりかけた男性の顔を照らしたのは、天から差し込む光の階段でした。
ならばこそ
貴方の身には今、神の祝福がくだるのです
階段の先は霧がかかったようにおぼろげで、何が待っているのか分かりません。
かろうじて分かるのは、高い塔、しだれた木の枝、そしてこちらに向かって差しのべられる手、ぐらいです。
——さあ、おいで。我らの可愛い子よ
——あなたになら、わたくしたちと優雅な時間を共にすることを許しましょう。
——お主の才、我らが買った。
——お前が、お前自身に恥じないものを描いてくれれば、それでいい。
——あなたの次の絵、楽しみにしていますわよ。
それが神々の声だと、カリオンはすぐに気がつきました。同時に、全身の毛穴という毛穴が開き、意味もなく汗が伝い落ちていきました。何に圧迫されたのか、心臓は早鐘のように激しく打ち鳴らされています。口の中は、とっくに乾いてしまっていました。
ですが、男性はそんなプレッシャーなどまるで感じていないようです。
『そこへ行けば、私はまた好きなものを好きなだけ描けるのだな? 美しいこの世界を、描くことができるのだな⁉』
自らの求めるものを得るためならば、神にすら臆せぬ。その態度もまた、神々が彼を選んだ理由でもありました。彼は彼であるからこそよいのです。神々に媚を売る者も、神々の言う通りにしか動かない者も、必要ないのです。
さあ、地に根を下ろした光の画人よ
天の階を上り、誉高き楽園へおいでなさい
貴方を迎える席は、すぐそこに
男性の詰問に、数多の神は声を揃えて答えました。
——もちろん。
『ならばかまうことはない。そこがどこであろうとも、行ってやろう』
男性はそして迷いのない一歩を踏み出しました。少年のようにキラキラとした瞳で、若々しい元気を漲らせて。誰にも気づかれることのなかった光の画家は、神の寵愛を見事受けたのでした。
願わくば、
貴方の永い道行きが翳ることないように……
男性が去り、光の階段が消えたとき、カリオンはようやくいつも通りの呼吸ができるようになりました。足が震えて立っているのが辛かったので、落石に注意しながら近くの岩に座り込んでいました。ビブリオドールはその背をゆっくりと撫でています。
「なんてプレッシャーだ。二度と味わいたくない……」
「神の存在は、人間には重すぎますから」
仕方ありません、と気遣うビブリオドールは、いつも通りの温かな慈愛の微笑みを浮かべていて。
やっぱり、とても美しいものでした。
「……前に、お前を讃える詩を作った詩人がいたな」
「ええ、たしかに素晴らしい詩をいただきました。それがどうかしましたか?」
「いや。ただ、あの画家はとても惜しいことをしたんだろうなと思って」
「……?」
(なにせ、数多くいる神々の被造物の中で、もっとも神に近しい人形。その美しさも優しさも、神秘的で知的で愛らしいところも、何もかもを描かずに神の下へと行ってしまったのだからな)
言っている意味がよく分からなかったのか、ビブリオドールはいぶかしげに首を傾げていましたが、カリオンは軽く肩をすくめるだけです。
「さて、目眩も息苦しさも落ち着いた。そろそろ行くとするか」
「……そうですね。それに、そろそろ島の人たちがこちらへ向かってきているかもしれませんから。ここで鉢合わせするのはよくないでしょう」
カリオンに話す気がないと分かると、ビブリオドールは釈然としない気持ちはありましたが、おとなしくカリオンに抱きかかえられて岩場から離れました。
そしてビブリオドールの言葉通り、すぐに崩落の様子を見に来た島の人たちと出くわしました。驚いたことに、その中にはさっきの子どもたちもいて、三人はビブリオドールたちの無事な姿を見ると一目散に駆け寄ってきて泣き出しました。
「生きてたよー!」
「よかったー!」
「すっげーこわくて心配したんだからなー!」
照れくさいやら苦笑いしたいやら。複雑な気持ちではありましたが、二人とも子どもたちの優しさを体ごとしっかり受け止めることにしました。
「心配してくれてありがとうございます。貴方たちも無事だったんですね。巻き込まれてなくて、よかったです」
「本当にな。私たちは幸い大きなケガをしなかったが、一歩間違えるとお前たちが死んでいたかもしれないんだぞ。大人の言うことはしっかり聞けよ」
『聞く〜!』
「ふふっ。皆さん、本当によい子ですね」
そうして、せっかくだからと招待された三人の発表会を聞いたあと、ビブリオドールとカリオンは世界を巡る旅に戻りました。今日もどこかで苦しんでいる
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