眠れる森の恋姫とビブリオドールのお話




  木陰の風が子守唄、薔薇の垣根は寝台よ

  小さな秘め事にさえ心を奪われていました

  野に響く幼い恋の笑い声を

  庭で踊ったあのワルツを

  今でもこんなに覚えています

  昼と夜がキスをした

  その瞬間に夏の幻のような私の恋は幸せな夢となり

  世界の終焉。

  静かに幕は降りました





   眠れる森の恋姫とビブリオドール


 星の瞬く音さえ聞こえてきそうな、静かな夜でした。細い三日月がゆっくりと、輝く瑠璃色の海を渡っていきます。


 暦の上では夏ですが、この土地は水も緑も多いせいか「夏」と呼ぶには随分と涼しいものでした。優しい葉擦れの音に耳を傾けながら森を行くには、薄手の上着が一枚必要なようです。この森の奥には美しい湖もあるので、吹く風がどこかひんやりとしているというのも理由のひとつでしょう。


 葉の間からのぞく満天の星明かりがなんとも愛おしく、ランプの火ですら無粋であるように思えました。闇そのものが仄かな光を放っているかのようなこの夜、小径を歩く人の手に灯りはありませんでした。


 そのとき、しめやかな夜の空気を震わす歌がありました。



  あなたはまだ寝起きのマーメイド・ボーイ

  ひまわりが顔を上げ始めたよ、ねえ

  太陽のキスを待っているよ、ねえ

  私もあなたを待っているの

  あなたの甘いキスを、あの日の丘で……



 ゆったりとしたリズムと喜びに溢れた詞。それは心の深いところまで響き、思わず足を止めて聞き惚れてしまいたくなるほどでした。



  覚えているよ、野兎と小鳥を追っていた幼い恋を

  忘れないよ、檸檬の香りの恋に落ちた少女おとめのときを

  夏が来たら私は恋をする……



 歌は、湖のほとりに建つ大きなお城の、一番高い塔の最上階から聞こえてきました。木々に遮られることもなく、月と星の光を余すことなく浴びて、彼女の恋歌こいうたは続きます。



  張り裂ける熱の眼差しに 私の心はわきたつの

  孕んだ熱はたとえ夜になっても冷めないわ

  薔薇の庭で踊り、窓辺で語り明かした

  熱く、甘く、ああ 

  蕩けるような私の恋の日よ

  だからこそ短い夜を呪います……



 あの城にかつて住んでいた彼女は、若く美しいまま亡くなった恋多き女性でした。

 幼い頃から自身が長く生きられないことを知っていた彼女は、今日という日を全力で生きていました。彼女にとって人と触れ合うこと、たくさん恋をすることこそが、生きる喜びだったのです。



  あなたはまだ午睡まどろみのマーメイド・ボーイ

  私もあなたと二人、木の下で目を閉じていたい

  誰も知らないのでしょう、知るのは私とあなただけ

  若い木の実は苦くとも、瑞々しい私は甘いのよ

  いつまでも、いつまでも、

  終わらない夏で私と恋をしましょう……



 ある時は羊飼いの少年と、あるときには青年貴族と。

 彼女と彼らの恋は、他の人から見れば不純で、不幸なものだったかもしれません。ですが、彼女と彼らにとっては忘れられない、大切なひとときでした。

 何にも思い煩わされることなく自由を謳歌し、互いの熱を分け合った幸福な逢瀬。


 彼らのおかげで、彼女はこの世の汚いものを知らず、美しいものだけを携えて永遠の眠りにつきました。……彼らの目に映るかぎりでは。


 『わたくし、本当に皆様には感謝しておりますわ。お花もお菓子もたくさんいただきました。物語を聞かせていただいたことも、夜の散歩に連れ出していただいたこともありました。遠乗りや木登りだってしたこともあるんですのよ?』


 開かれた窓から差し込む銀色のライトを背に、彼女はくすりと笑って天満つ夜の来客を振り返りました。


 『もっと生きてみたかった、などと思うことがなかったとは申しません。ですが、もしもあれ以上長く生きていたら、きっとわたくしはとても愚かで醜い女となっていたでしょう。ならば、このように早世したことも悪くはないと思えるのです。悔いもなく、十分に満ちた生でした』

 「では、貴女はなぜ今もまだここにいるのですか?」


 二人の来客のうち、背の低いほうがそう尋ねました。そこに責めるような意思はなく、幼い子を愛おしむ親のような温かい声でした。

 彼女は笑みを深くして、その質問に答えました。


 『それは、あなたに会いたかったからですわ、唄うビブリオドール』


 その答えは予想していなかったのか、尋ねた少女は一度ゆっくりと瞬きをしました。


 『ビブリオドール。大いなる母より遣わされた天への使者。あなたは肉体が滅び、魂だけの存在となった者の前にしか現れないと聞きました。ならば、わたくし自身がそうなるしか会う術はないと思いましたの』


 袖で口元を隠して屈託なく笑う彼女に、ビブリオドールもそれに付き従う契約者の女性も、すっかり毒気が抜かれてしまいました。


 「なんというべきか、大胆な理由ですね。そのような理由をおっしゃった方は、今まで一人もいませんでしたよ」

 『まあ。それでは世界で一番強く、あなたに会いたいと願ったのはわたくしだったということですのね。なんと嬉しいことでしょう!』

 「……きっと、ポジティブという言葉はこの娘のためにあるのだろうな」


 予想だにしない返しを受けて、契約者の女性は肩をすくめるしかありません。もはや笑いしか出て来ない、といった心情でしょうか。


 ——無人のはずの城から美しい歌声が聞こえてくる。


 怯え、恐れるように道中で会った行商人たちはこの城のことをそう話していました。あの城には魔物が住んでいる。だからあの城の周りの森には獣の一匹、鳥の一羽も寄りつかないのだと。

 そんな噂を聞いた二人は、それはきっと魂だけの存在になってもなお、地上を離れられずに苦しんでいる誰かのことだと思いました。


 「恋多き領主の娘が住んでいたというから、どんなおどろおどろしいものが出てくるかと思ったら。ずいぶん明るい奴だったな」


 口ではそう言って呆れていましたが、実はこの地に住む人たちから聞く「領主の娘」像と「魔物」の話がうまくかみ合っていないようには、感じていました。


 庭先で編み物をしていた老婦人は。


 「姫さまはとてもロマンチックな方だったらしいから、きっと白馬の王子様を待っていらっしゃるんじゃないかね」


 果物がいっぱいに入った籠を抱えた看板娘は。


 「花にも動物にも愛されていた方だったって聞いてるわ。だからきっとみんなお姫様を偲んでおとなしくしてるんじゃないかしら」


 仕事が一段落した農夫は。


 「定期的な清掃や補修が行われているから、あの城は古いわりに簡単には中に入れないんだ。だから、じいさんばあさんから聞いた話や、月夜にたまに聞こえてくる歌なんかを聞きながら、どんな美人な姫さんなんだろうってよく想像したよ。あ、これは嫁さんには内緒な。けど、ぶっちゃけここに住んでる男なら一度や二度……うーん、いや百回ぐらいはすることかな」


 ちなみに彼はこのあと、奥さんにすごい顔で睨まれていました。


 ですが、誰に聞いても、怯えや恐れのようなことを言う人は一人もいませんでした。それはきっと、彼女に恋をした人たちが彼女のことを語り継ぎ、そしてみんながこの土地の一人の住人として、彼女のことを愛し続けたからでしょう。


 「ところで貴女は、わたしに会って何をしたかったのですか?」


 ビブリオドールの問いかけに、彼女はしばらく黙ったあと首を静かに横に振りました。


 『いいえ、特に何も』

 「え?」

 『ただ、会ってみたかっただけなのです』


 そして、にっこりと。花がほころび開くような素敵な笑顔を見せました。


 『恋の始まりとは、それほど小さく、簡単なものなんですのよ』


 一瞬、彼女の周りにたくさんの舞い踊る花びらが見えたような気がしました。それはきっと錯覚だったのでしょう。けれど、


 「なんとなく、あなたに恋をした男の気持ちがわかる気がするよ」


 生々しい欲でもなく、どろどろとした情念でもなく。この土地の夏らしい熱さと爽やかさを併せもつ彼女に、彼らはきっと惹かれたのでしょう。


 『恋というのは、人の気持ち次第でいかようにも捉え方が変わるものです。これと言い切れるものではありませんわ。わたくしにとって恋とは、誰かに会いたい、知りたい、触れたいと思うことだった。それだけの話ですわ』

 「……そうか」


 これまで恋と呼べるようなものをしてこなかった女性が知るのは、一般論だけです。すなわち、恋をするということは、その人を好きになって愛すること。あまりに何人もの男性と恋をして愛を囁くというのは、ともすれば醜聞となってもおかしくはないものです。


 ですが、彼女が過去の恋人たちに想いを馳せながら語る「恋」は、とても温もりがあって、優しいものなのでしょう。それがとても、女性には眩しいもののように映りました。


 『……そういう意味では、ビブリオドール。もしかしたらわたくしは、あなたに恋をしていたのかもしれません』


 彼女は窓枠に手をつくと、ビブリオドールがやってくるのを待っていた間のことを思い返しました。いつ来てくれるかも、どんな姿をしているのかも、まったく知らない人を待つことの、あの胸の高鳴り。


 『大樹のような穏やかさを持ったおばあさまなのか、風を友にさすらう吟遊詩人のような乙女か、天使のように愛らしい子どもなのか……』


 くるっと彼女は振り返って微笑みました。


 『実際には、大樹のような穏やかさを持った、天使のように愛らしい子どもの吟遊詩人、でしたわね。ああ、ですが、どうしてただ会って話しているだけなのに、こうも満ち足りた気持ちになるのでしょう』

 「それは貴女が恋に恋をしているからですよ。人の出会いは楽しく、そして輝かしいものなのだと、貴女は知っているから」


 歌うような彼女にあわせて、ビブリオドールも伸びやかに、節をつけて応えました。


 『ああ、それでは恋しいあなた。会えるだけでよかったと、わたくしはあなたに言いました。なのにどうしましょう。嘘つきなわたくしを許してください。あなたの声を、詩を、わたくしのためだけの詞を聞いてみたいと思うわたくしがいるのです』

 「そんな悲しいことは言わないで。詩を望まれるのはわたしの本望。喜んでお聞かせしましょう」


 この高い塔からは、眼下の森のさらに向こうの丘までよく見えます。白く瞬く星の数も心なしか減り、暗くて見えづらかった丘の輪郭をなぞれるようになっていました。



  書架配列三四一番より——開架

  眠れる森の恋姫に紡ぐ夏音かのんの詩



 空の色は、瑠璃色から群青色へと少しずつ、少しずつ移ろっていました。



  静まる森の歌声に抱かれ

  恋い慕う花、人、獣は眠りについていた

  姫なる御手に辿られた 星の軌跡に祈りを重ね

  いつしかまみえる夜空の中で 妙なる光の調べをもおぼろめく

  織り成す言ノ葉、どこへ届こうか

  願わくば、あの夏のあなたへと

  笑いなさい 愛しき人よ

  明日に出会う誰かの恋はまだ知らず 熱く体を震わせる

  歌いなさい 愛しき人よ

  昨日に別れた誰かの恋はもう満たされて 甘く心を通わせる

  いつかは消えゆく命だとしても それでも夏の欠片を探していた

  百億の恋歌がこの世界に降り注ぐ、その日まで



 「さあ、夜明けの光が花の、人の、獣たちの旅立ちを呼んでいます。貴女も、森の目覚めとともに」


 ビブリオドールの手が示すほう。白を混ぜてずいぶんと薄くなった群青色の空から、窓辺へと光が差し込んでいました。


 光は森を渡り、丘を越え、この土地を全てを巡って天へと伸びていました。大切な思い出を余すことなく辿れるその計らいに、彼女は久しぶりに胸を熱くしました。そしてドレスの裾を持ち上げる貴族の礼を、二人へと返しました。


 『ごきげんよう、ビブリオドールとその契約者。この地を去ることは寂しいけれど、これも新しい恋に出会うため。わたくしの望みを聞き届けてくださったこと、感謝致しますわ。あなたたちの旅路に幸多からんことを』


 そして振り返らず、まっすぐに、鼻歌を歌いながら歩いていきました。



  あなたはもう目覚めたマーメイド・ボーイ

  露濡れたアサガオが、ほら

  太陽のハグを受けているよ、ほら

  わたしもあなたに抱きしめられたいよ

  今、あの日の丘に会いに行くわ……




 こうして、みんなに愛された恋謳う姫君に一目姿を見せ、彼女の期待に満ちた旅路を見送った二人もまた、果たすべき役目の旅へと歩んでいきました。



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