清し子とビブリオドールのお話




  始原、回帰すべき愛の囁きよ

  閉じられた世界の輝きはとめどなく

  澄み渡る彼のまなこに罪はない

  迷いもなく、痛みもなく、

  なんと悲しく愛おしいのだろう

  歓呼の歌、高らかに

  さあ、時のゆりかごを揺らせ

  あの日の夢を、もう一度見るために

  紅の空と砂だけが知っている

  私とあの子が歩んだあの道を





 カッッ……! 


 容赦ない日差しが降り注いでいました。ここは遮るもののない砂漠。日の光は痛く、生けるもの全てを焼きつくさんとするようでした。


 そんなうねる砂の海の、とあるところに木々が茂る小島のような一角がありました。地下を流れる冷たい水が湧き出す場所で、実は砂漠にはそのような場所がいくつかあるのでした。人々はそのような場所をオアシスと呼び、根を下ろして生活していました。


 ここは人が集まり街を形作るほど大きなオアシスではありませんでしたが、熱砂の海を旅する者たちが羽を休めるのには十分でした。今日もまた、一時の涼を求めた渡り鳥の影が二つ……


 「砂漠というのは、想像以上に過酷だな」

 「太陽が真上に昇るまでに、ここに辿り着けたのはよかったですね。ありがとうございます」

 『へっへーん。ここは地元の人ぐらいしか使わない小さなオアシスだもん。商隊のルートからだって外れてるから、使いたい放題だよ!』


 いいえ、もう一人いました。得意げに鼻の下をこすったのは、赤茶色に焼けた肌の、十歳ほどの幼い男の子でした。頭にはターバンを巻き、白い簡素な服を身につけています。その身なりや話ぶりから、彼はどうやら砂漠に住む民のようでした。


 彼とともにいる今日の渡り鳥は、腰に剣を下げた背の高い女性と、蜂蜜色の長い髪を高い位置でまとめた少女でした。女性はカリオン・シュラークという名の、元凄腕の傭兵です。蜂蜜色の髪の少女は、カリオンからセシェと呼ばれています。


 このセシェという少女、実は人間ではありません。世界の全てに忘れられた友だちの神さまによって造られた、死んでもなお地上を彷徨う魂を救うための人形でした。彼女の身を守り、サポートするための契約者たるカリオンとともに世界中を巡り歩いている中でこの砂漠に辿り着き、この男の子と出会ったのです。


 「道中で君に会えてよかった。助かったよ」


 全身を巡る水の冷たさが心地良く、思っていたよりも厳しい日差しに水分を奪われていたのだと、カリオンは初めて気がつきました。


 『気にしないでよおねえさん。砂漠は持ちつ持たれつ! 助け合わないと生きていけないんだって、ねーちゃんも言ってたしね!』


 男の子は親指を立ててニカッと笑いました。


 「貴方は本当に、お姉さんのことがお好きなのですね」

 『もちろん! ねーちゃんは自慢のねーちゃんなんだ! おいしいご飯を作ってくれるし、優しいし、怒るとちょっと怖いけど、お手伝いしたらちゃんと褒めてくれるんだ! よく頭も撫でてくれるし! あと、すっごい美人なんだよ!』


 男の子は『他にもね、』と楽しそうに続けました。

 彼は出会ってからこれまでの間、何かといえばねーちゃんがねーちゃんがとキラキラした顔で二人に話していました。その笑顔を見れば、彼がどれだけ姉を慕っているかよく分かります。


 『あー! 早くねーちゃんに会いたいなー!』

 「お姉さんとは、今は一緒に住んでいないのでしたか」

 『うん。ねーちゃんは、なんとかっていう街のなんとかっていう人と結婚して出て行っちゃったんだ。……ねーちゃんいじめられたりしてないかなあ。病気とかケガとか……。ぼくがもっと大きかったら、ねーちゃんをしっかり守ってあげれたのに……』


 男の子は唇を尖らして、膝を抱えました。


 ——日が沈む方角の、空の水面みなもを越えた先にある街の人と、私は結婚するの。だからもうすぐ家を出て行くわ。


 夕日がまぶしかった帰り道。かつてそう言われた男の子は、泣きじゃくりました。大好きな姉が遠くへ行ってしまう。よく知らない人と結婚して、「お父さんとお母さん」という二人だけの特別な人になってしまう。

 幼心にも、姉が自分の知らないところで知らない人になってしまうのが恐ろしかったのです。いやでいやでしょうがなくて、泣いて喚いて、姉に縋り付きました。


 ——そんなに泣かないでちょうだい、私のかわいい弟。私はべつに死ぬわけではないのだから。ほら見て、あなたがくれたこの綺麗な石を、私はずっと大切に持ってるわ。だからあなたも、私があげたこのターバンをいつまでも大事に使ってね。


 頭を撫でる優しい手つきがもうすぐなくなってしまうと思うと、寂しくて、悲しくて、やっぱり涙はなかなか止まりませんでした。


 ——そんなに泣いたらおめめが溶けちゃうわ。大丈夫よ、私がいなくても、あなたはもう立派にやっていける。お父さんとお母さんの言うことをよく聞いて、いい子にするのよ。


 時は無情にも流れ、姉は遠い街へ嫁いでいきました。その顔が幸せそうだったので、男の子は姉の結婚相手に向かって舌を出すぐらいのことしかできませんでした。


 ——空の水面は簡単に越えられない、危険な場所よ。それを越えれるようになったら会いにおいで。待っているから。


 それが、姉と交わした最後の約束でした。

 それからまたいくらか時が経ち、男の子は街の子どもたちと一緒に勉強したり遊んだり、男の子なりに楽しく過ごしていました。

 けれども、姉がいない寂しさは薄れません。


 『ねーちゃん、元気かなぁ……』


 ぽつりと、男の子の口からそんなセリフがこぼれました。どこか遠いところを見つめる男の子の頭に、ビブリオドールはそっと手を乗せました。


 「大丈夫です。貴方が会いたいと願い続けるならば、必ず会えますよ」

 『そうかなあ』

 「もちろんですよ」

 『……えへへ、ありがとう』


 男の子は嬉しそうに顔をほころばせましたが、それが少し気恥ずかしかったのか、急いで違う話題を取り出しました。


 『そうだ! また歩けるようになるまで、もう少し時間があるんだ。ここは木の陰だし、水もすぐ近くにあるから、吹いてくる風が意外と涼しいんだよ。だから昼寝にぴったりなんだ!』

 「そうなのか。それはとてもありがたい」


 暑さにまいっていたカリオンは、男の子の言葉を聞いて、心の底からそう思いました。


 『でしょっ! ぼく、ここで昼寝をするのが一番好きなんだ! だからおねえさんたちも遠慮なく寝てね!』


 男の子はカリオンの手をひいて、砂の上に寝転びました。日光に照らされて焼けた鉄の上かと思うほど熱かったところとは違い、ここの砂は幾分か和らいで適度な温かさを持っていました。

 試しにカリオンも手をひかれるまま横になってみました。砂地自体がクッションになっていることもあり、たしかに気持ちがよいものでした。


 ふと横に目をやれば、すでに男の子は健やかな寝息を立てていました。それに苦笑しながらカリオンは身を起こして、濡らしたタオルで顔を冷やしているビブリオドールに肩をすくめてみせました。


 「いつ見ても思うが、本当に彼らは生きている人となにも変わらないな。すっかり寝てしまっているよ」

 「ええ。特に、この子は自分が死んでいることに気がついていないようですからね」


 砂漠で最初に出会ったとき、彼は『ねーちゃんに会いにいく途中なんだ!』と胸を張っていました。

 ろくな装備も持たず、徒歩で、彼はそう言ったのです。

 彼が彷徨う魂であることは、一目で分かりました。ですが、彼が本気で「そう」であると信じていることも分かってしまいました。


 子どもの思い込みはとても強固で、彼らにとってそれは真実でした。だから彼らの中では、些細な疑問や矛盾は絶妙に「真実」に編み込まれて、存在しないのです。


 人は年をとるにつれ、いろんなことを自分の目で見て耳で聞いて、たくさん知って、世界を広げていくものです。ですがこの男の子はその前に命を落としました。そして姉に会いたいという強い想いが、男の子の魂を神々が住まう天の園ではなく、この砂漠に縫いとめているのです。


 『ぼくはねーちゃんに会いにいく途中なんだ』


 彼にとってはそれが信じるべき事実であり、お腹が空かないのも、いくら歩いても疲れないのも、道行く人の誰にも声をかけられなくても、そういうものなんだと受け入れてしまっているのでした。


 (今までセシェと一緒にいた経験からすると、姉に会わせてやるのが一番なんだろうな。しかし、彼女が生きているかも分からんし、そもそもどこにいるのかすら……)


 そこまで考えたとき、カリオンは男の子が言っていた姉の言葉というものを思い出しました。


 「そういえばセシェ、この子の姉が言っていたという『空の水面を越えた先』というのは、一体どういう意味だ?」

 「ああ、館長さんは砂漠に来るのは初めてでしたね。……そう、ちょうどここから見てもらえれば、分かっていただけるかと」

 「? 空の水面があるということか? なら、この子の姉が嫁いだ街というのもそんなに遠くないのか?」


 ビブリオドールに手招きされて彼女の傍まで寄ったカリオンは、木陰からビブリオドールの白い指が示す方向に目をやりました。

 地平線が見えるほど広く、まっすぐな砂漠は距離感を見失わせます。その中でひとつ、形はおぼろげながら、明らかに自然のものではない何かが見えました。


 「……遠いか近いか、なかなかつかみきれないな。あれが空の水面の先、なのか?」

 「厳密にいえば少し違います。空の水面を越えた先、というのは、実際にどこかの場所をさすものではないからです」

 「どういうことだ?」

 「あれは、蜃気楼というのですよ。館長さん」


 蜃気楼。

 カリオンが初めて聞く言葉でした。


 「なんだ? それは」

 「蜃気楼というのは、砂漠などの暑い地域で見られる幻のことです」

 「幻? あれがそうなのか?」


 カリオンは思わず、ビブリオドールと砂漠の中で揺れている何かを見比べました。たしかに正体がはっきりせず、目を離した隙にでもなくなってしまいそうなほど存在感も現実感もありません。それはただ距離が離れすぎているせいだとカリオンは思っていましたが……。


 「ええ。蜃気楼の正体は、未だにはっきりとしていません。何かの神の気まぐれなのか、それとも精霊の悪戯なのか……。ですが、空の水面というのは、詩的でよい表現だと思います。蜃気楼はおぼろげでつかみどころがなく、触れるに触れられない幻ですから」

 「しかし、そうならばこの子どもの姉が嫁いだ先というのは一体どこなんだ?」


 顔を男の子のほうに戻せば、その先で静かに青く輝く水をたたえた楽園オアシスの水も目に映りました。

 そこでは、映り込んだ木々やカリオン自身の影が時折吹く風に煽られて、ゆらゆらと震えていました。改めてそれを見たカリオンは思いました。輪郭がぼやけ、目の前に水の膜が張られたかのように距離感も姿もはっきりしない蜃気楼の幻を、「空の水面」とたとえたのは、実に的確であったと。


 けれど、それが幻を指すならば、この男の子の姉という人は、なぜわざわざそれを言い残したのでしょう。そして彼女は今、一体どこにいるのでしょうか。


 「そればかりは、彼女に聞いてみないと分かりませんね」


 ビブリオドールはそういうと、カリオンと男の子から少し離れたところで座り直して、寝ている男の子を起こさないように小さな声で囁き始めました。



  待ち人待って季節とき巡り

  探し人探してここに会う

  水面に雫が滴るように

  私の声をこの世界に届けましょう

  漂い遊び溶けゆく小さな小さな声たちよ

  ああ、貴女は今どこに…………




 それから数日の間、二人は男の子と一緒に過ごしていました。その間に何度も、カリオンは子どもならではの無邪気で無根拠な想像力というものに驚かされていました。子どもたちの世界はとても狭いはずなのに、彼らの思う世界は自由でとても広いものだったのです。


 『ここもねーちゃんがいるところじゃない……。もぅ、ねーちゃんは本当に遠くに行き過ぎだよ!』

 「では、次の街へ行ってみましょうか。今度こそ、お姉さんがいるかもしれませんよ」

 『うん!』


 そうして歩き出したのは日がすでに傾き始めた頃。地平線にかかり始めた丸い大きな日の光によって、空も砂も温かな赤に染め上げられていました。静かで穏やかなその空気を楽しむように、三人は黙って歩いていました。


 すると、ふいに。


 『サーバラ』

 『……ねーちゃんっ!!』


 長い金髪をまっすぐに伸ばした女性が目の前に立っていました。男の子と同じ色の瞳には、うっすらと涙が浮かんでいました。

 男の子はあまりに突然の再会に一瞬動きを止めましたが、すぐに嬉しさを全身に滲ませながら、女性に駆け寄り抱きつきました。


 『会いたかった……。会いたかったよねーちゃん!』

 『サーバラ……!』


 力の許すかぎりお互いを抱きしめる姉弟の姿は、たとえ何も事情を知らなくても胸を温かくしてくれるものでした。昼と夜の境目が曖昧になってきたこの時間、砂漠は思う以上に冷えるものです。だからこそよりいっそう、温かみを感じてしまったのでしょうか。


 『まったくお前という子は……! どうしてこんな無茶をっ……!』

 『ごめんなさい……。でも、どうしてもねーちゃんに会いたくて……』

 『私は空の水面を越えた先の街に行くと言ったでしょう? すごく遠くてすぐには会えないから、会えるようになるまで待ってなさいと言ったのに……』

 『うん……。分かってたよ。分かってたけど、どうしても会いたかったんだ! ぼく、空の水面っていうやつを越えて、ねーちゃんにちゃんと会えたよ! ぼくは来たんだ! すごいでしょ?』


 女性は結婚して幾ばくもたたないうちに、可愛がっていた弟が砂漠で遭難して死んだことを知りました。自分に会いに来ようとしたのだと、すぐに分かりました。

 もっと強く言っておけばよかった。砂漠を越えるのがどれだけ危険なのか、ちゃんと言い聞かせておけばよかった……。


 その知らせを受け取ってしばらくは、女性は後悔の涙で枕を濡らしていました。それがずっとずっと心に残っていたのです。その気持ちだけが地上を離れられず、淡い綿雲のような存在になっても、彼女もまたずっと砂漠にいたのでした。

 天の園へ旅立った魂が落としたかすかな残り香。そんな彼女は今、ビブリオドールの呼び声に答えて、こうしてここに人の形をもって現れることができたのです。


 『……ええ、そうね。すごいわ、サーバラ。立派になったのね』

 『〜〜っ!』


 真実も悲しさも腹立たしさも、彼女は全てを飲み込んで、かつてそうしていたように男の子の頭を撫でました。男の子はそれが何も言えないほど嬉しかったのでしょう。耳まで赤くして、女性の胸に頭を押し付けて、彼女の背中に回した腕により強い力をこめていました。


 二人の時間を邪魔しないようにと、少し離れたところで見守っていたカリオンとビブリオドールでしたが、女性が顔を上げたので目線をあわせました、


 『……幾重にもお礼を申し上げます。本当に……本当に弟がお世話になりました』

 『ありがとう! おねーさんたち!』


 姉にならい、男の子も二人に向かって頭を下げました。


 『本来ならば、もっと礼を尽くさねばならないのですが、こんな身では何もできず……! 私たちは、一体どうやってあなた方の恩に報いれば……!』


 心苦しそうに顔を歪める女性でしたが、ビブリオドールはそっと首を横に振るだけです。


 「そんな顔をしないでください。きれいなお顔が台無しですよ。……わたしたちは、見返りを求めて行動しているわけではありませんから、一言お礼をいただけただけでも十分なのですよ」

 『ですがそれでは、こちらの気が収まりません! 私は、あなた方に感謝してもしきれないのです! そんなことを言わずに、何かさせてください!』

 「……それではひとつ、唄わせてください」

 『……え?』


 女性がまばたきを繰り返して聞き直しました。男の子は今ひとつ状況がよく分かっていないのか、きょとんとした顔で姉の服の裾を握っていました。


 『唄わせてほしい、とは……?』

 「わたしはビブリオドール。神より造られし葬送の人形。お二人の再会を祝して、またその子が、貴女も歩んだ、皆が等しく還る天の園への道で迷わぬように」


 そしてビブリオドールはすぅと息を吸い込みました。



  書架配列七三三番より——開架

  清し子に紡ぐ遊歩の詩



 詠い上げるのは葬唄おくりうた。死者を慰め、彼の地へおくる詩。

 それは、とても不思議な光景でした。



  ねえ、知ってる?


   空に浮いてる雲って甘いんだって!


    あのお山には伝説の生き物がいるらしいよ


     虹のたもとには、宝箱が埋められているんだって


      おへそを出してると雷神様に取られちゃうらしいよ


       流れ星が消えてしまう前に願い事を唱えきれたらそれが叶うんだって


      うんと背伸びしたら星まで手が届くかもしれない!


     どうだ! この石は特別ですごいものなんだぞ!


    ウサギさんがのどかわいたって言ってるよ


   天使が飛んでいるよ、ほらあそこ!


  ねえ、聞いて!



 そこにいるのはビブリオドール一人だけのはずなのに。


 少し舌足らずな声。


 ひそひそと囁くような声。


 元気いっぱいな声。


 甲高い声。


 甘えたような声。


 幾通りもの声が使い分けられ重なり合い、女性はそこに、いないはずのたくさんの子どもたちの姿を見ました。

 一方で男の子には、子どもたちが自慢したいことや知ってほしいことを競うように言い合っているように映りました。ここで何も言わなければ、姉にがっかりされてしまうかもしれない。そんな危機感をとっさに持った男の子は、勢いよく手をあげていいました。


 『ぼくは、世界に一本しかない砂漠の薔薇を見つけたことがあるよ!』


 男の子の隣で女性は驚いたように目を丸くしましたが、すぐに胸元で揺れるロケットの蓋を外しました。そこには、小指の爪の先ほどの小さな岩石が収まっていました。

 砂漠の薔薇は、砂漠の外で見かけるような赤い花弁の植物ではありません。ですが、結晶が幾重もの層に分かれて重なり合ったその形は、まぎれもなく「薔薇」でした。

 大人でもめったに見つけられない希少なそれを見つけたとき、男の子は迷うことなく姉へのプレゼントにすることに決めました。彼女もまた、その価値を理解しながらも弟からの可愛らしい贈り物を生涯大事に持ち続けていました。


 姉のロケットの中を見た男の子は、『まだ持っててくれたんだ! うれしいなー!』と白い歯を見せています。男の子にも見えるようにかがんでいた女性は、耳をうつ声が落ち着いた心地いいものひとつになっていたことに気がつくのが、少し遅れました。


  ウソも信ずれば真になり、

  やがて語り継がれる伝承うたになるのでしょう


 はっとして女性が再びビブリオドールを見たときには、もうそこには一人しかいませんでした。そう、先ほどまでそこにいた子どもたちの姿は、聞こえていた楽しそうな話し声は、蜃気楼の如き幻であったかのように。


  今日もまた家路の灯りが呼んでいる

  ただいまとおかえりなさいを聞くために


 そっとビブリオドールの手が伸ばされて、女性は唐突に理解しました。

 さっきまでいた子どもたちは幻だったのではないと。みんなかえっただけなのです。そして今度は、自分たちが同じようにかえるべき場所へ……神々の住まうローゼノーラの地へ還らなければならないのだと。


 『……サーバラ』

 『なに? ねーちゃん』

 『そろそろかえろっか。もう暗くなってきちゃうしね』

 『うん、わかった!』


 立ち上がった女性は当たり前のように男の子へと片手を差し出しました。男の子にとってはそのなんでもないことが、ずっとずっと待ち望んでいたものであり、口元が緩んでしまうのをどうしても堪えることができませんでした。

 胸がドキドキして、足下がふわふわとして、とても不思議だったけれど、男の子には今が最高に幸せで嬉しくて。やっぱり、些細なことは気にならないのでした。


  さよならは言わないよ

  いつかまたどこかで会えるから

  ——それじゃあ、またね

 

 女性に促され、男の子は一度振り返ると大きく腕を振りました。


 『ばいばーい! おねえさんたちー! ありがとー! またねー!』


 ビブリオドールとカリオンも、はるか天上に向かって薄らいでいく男の子に手を振り返しました。女性は最後に、こちらに向かって深々とお辞儀をして、姉弟仲良く手を繋いでそのまま歩くように消えていきました。


  願わくば、

  貴方の次なる目覚めにも光があらんことを……




 こうして、どこまでも素直で純粋な子が無事に還れたのを見送った二人は、砂の海を渡りきり、さらにその先へと旅を続けていきました。


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