花の遊び女とビブリオドールのお話





  理不尽なこの世界。

  貴女に希望はありますか? ————否。

  貴方に幸福はありますか? ————否。

  お前に夢はあるか? ————否。

  汝に愛はあるのか? ————否。

  私に終わりは————








 山の木々が葉を緑から赤や黄色へ変え、あたかも錦の布を広げたかのような美しさで道行く旅人の目をたいそう楽しませてくれています。ですがそれは同時に、日の入りが早くなる季節の到来も告げるのでした。

 周りをぐるりと山に囲まれたこの地では、いっそう暗さと寒さの訪れが早いようです。


 「参ったな。さっきからまったく人を見ないぞ。宿らしきものも見当たらないし」


 防寒のためにやや厚手の長ズボンと長袖のシャツを着て、上着をはおった白い髪の女性が頭をかきました。使い込まれ、まるで歴戦の勇士を思わせるような剣を腰から下げています。

 彼女はカリオン・シュラークと言い、元凄腕の傭兵として名を知られていました。


 「日も遠く山の向こうへ行ってしまって気温も下がってきています。皆さん我が家へと帰ってしまわれたのでしょうね。何より、ここは陶芸を主とする芸術家たちの集う里。屋内にこもって、土と向き合いながら作品作りに精を出しているのかもしれません」


 そう答えたのは、カリオンの隣を歩く少女でした。小さな体を白いフリルやリボンがたくさんついた黒のコートで包み、ピンクの手袋をしています。蜂蜜色の長い髪越しにのぞく顔はとても愛らしいものでしたが、彼女がまとう雰囲気には独特のものがありました。


 この少女はビブリオドール。カリオンには古い言葉で書物をさすセシェの名で呼ばれています。

 ビブリオドールとは、人間ではありません。遥か昔、世界の全てに忘れられた友だちの神さまによって造られた、彷徨う魂を救い、荒れる精霊を鎮めるための人形でした。そのための祝詞を身の内に保管し、読み聞かせるその姿が世の図書館に似ていることから、人々は誰からともなく少女のことを「ビブリオドール」と呼ぶようになりました。ゆえに、ビブリオドールは自分との契約者のことを館長と呼ぶのでした。


 「芸術家、な。その手の話は、特に縁がなかったな」

 「館長さんは戦場にいた期間が長かったんですよね。でも、立ち寄った街で芝居を見たり、待機中に絵を描いたりしませんでしたか? 束の間の娯楽だったでしょう」

 「他の者にとってはな。だが私は剣を振るか、食うか寝るかの三つしか興味がなかった」

 「それはそれでいかがなものかと……。どうですか。これを機に、ひとつ何か陶工の作を探されてみては……」

 『おや、こないなところでどないしはったんですか?』


 ビブリオドールの言葉に重ねるように、落ち着きの中に甘さを感じさせる女性の声がしました。


 「!?」


 気がつけば、すぐとなりに鮮やかな着物を身につけた女性が立っていました。彼女はそのままカリオンの腕に自身の豊かな双丘を押し付けると、耳元でゆったりと囁きました。


 『旦那みたいなええひとがお一人なんて、お寂しいことで……』


 カリオンを見上げる瞳はしっとりと濡れており、えも言われぬ色香を漂わせています。彼女が首を傾げた拍子に、髪につけた花の簪がしゃらり……と小さくなりました。それすらも、男を惑わす魔性のさえずりのようです。


 『夜長の慰めに、私なんてどうですえ? 旦那でしたらいくらでもお好きに……』


 白魚のような指で、女性はカリオンの鎖骨から心臓の上を通り、臍までをゆっくりとなぞりました。

 そんな淫靡な誘いを受けても、カリオンから警戒心がなくなることはありませんでした。先にも言いましたが、カリオンは元々傭兵として数多の戦場を駆けてきたのです。今は実戦から遠ざかっていますが、そのとき磨いた腕は鈍っていません。にもかかわらず、声をかけられるまで一切の気配を感じなかったのです。それは不審にも思うでしょう。

 まあそもそもカリオンは女性ですし、同性を相手に食指を動かすような趣味ももっていなかったので、女性のセリフに困惑していたというのもありますが。


 眉を寄せて睨みつけても、女性は真っ赤な紅をひいた唇を吊り上げるだけです。そのままカリオンの顔に自身の唇を寄せて——


 「こんばんは、花の遊び女さん」


 それまで黙っていたビブリオドールが口を開きました。女性は、この世に未練や執着があってこの世を彷徨う魂でした。


 女性の言うことにはさしものビブリオドールも、初めは戸惑いましたが、彷徨う魂は時に生きている者とは別の視点をもつこともあります。ビブリオドールは彼女を葬るにふさわしい言葉を探すため、彼女と触れ合おうと手を伸ばしました。


 「非常に可愛らしい真似だとは思いますが、残念ながらその人はじょ『なによ、ババアなんかに用はないわ』……はい?」


 女性ですよ、と続けようとしたビブリオドールの言葉も手も、思わず止まってしまいました。カリオンも珍しく、目を見開いて驚いています。

 ビブリオドールの見た目は幼い少女です。人形として何百年、何千年と生きていますから、たしかに中身は見た目以上に老成しています。同じく生者ならざるものとして、女性がビブリオドールの正体を見破っていたとしても、ババアという呼び方はさっきまでの女性の雰囲気とは合わないような気がします。


 『この人は今夜はあたしと過ごすの。それに口出しするなんて、野暮ってものじゃなくて?』


 頬を膨らませて女性はカリオンの首に腕を回し、さらに体を密着させてきました。

 カリオンは、自分の体が女性としての魅力をおおよそ持っていないことを知っていましたが、ここまで見事に勘違いされたのは初めてです。とにもかくにも誤解を解こうと女性の肩に手を置いて、軽く彼女の体を押しました。


 「おい、いい加減にしてくれ。私は……」

 『お嫌ですか?』

 「は?」

 『私では、嫌ですか?』


 カリオンが見下ろした先にあった女性の顔は、先ほどまでの色香を漂わせるものではなく、表情が抜け落ちた能面のような顔でした。

 おりからに吹いた冷たい秋風がカリオンの背をさらい、柄にもなく体の芯から凍えた気がしました。


 『私、ようやくお客さんをとれるようになったんです。一年ぐらいずっと小間使いやってましたよ。月のものが来るまでは、女じゃないんですって。あの男、自分で連れてきたくせに、失礼なこと言うと思いませんか? 

 けれど、ここまで育つ猶予が与えられたのだと思うことにしたのですわ。ほら、柔らかいですやろ? 旦那の頭を受け止めることぐらい、たわいもないことですわ。その手でどうぞ優しく包んでくださいまし。どうですえ? 私の肌は、香は、身の内は、お前様に合うてござりましょう?』


 表情なく、ただ爛々と輝く黒曜の瞳に射抜かれて、カリオンは身じろぎひとつできなくなりました。


 『ほぅら、よう見ておくんなまし。わざわざ白粉なぞ塗らんでも、私の肌は十分白うござんす。滑らかで柔らかく、まったく飽きがこぬと皆言うてござんした。

 目も口も、熱く蕩けるようで、ずっと吸うていたいと。ああ、ああ! ようござんしょう? 金の帯をほどいて、黒絹の髪をといて、お前様の目に映るのは私だけ!』


 真っ赤な唇が開いて閉じてを繰り返す様は、まるで壊れた絡繰のよう。


 『今宵の私はお前様のもの。頬紅さして、目元には朱を引いて、そう、お前様が私に贈りくだんしたものでざんす。金の簪か、藤の髪飾りか、それとも梅の小枝がようざんすか? 

 唐紅の小鳥か、黒の松か、萌黄の辻が花もようござんしょう。ええ、ええ、香も髪も、お前様の望むようにしておくんなまし。お前様と床に入るのは私だけでようざんす。今宵の私はお前様だけのものでござんす……』

 

着ているものを変え、焚いている香を変え、つけている飾りを変え、施す化粧を変え、カリオンに縋り付く姿もまた、気の触れた絡繰人形のようでした。


 梅花へ。


 赤へ。


 桜へ。


 荷葉かようへ。


 黒へ。


 金へ。


 亀甲へ。


 鶴へ。


 白へ。


 緑へ。


 牡丹へ。


 青へ。


 目まぐるしく変わる女性の姿に、カリオンはだんだん目がくらんで体を真っ直ぐに保てなくなるのを感じました。引きはがそうにも、女の細腕とは思えない強い力がこもっていて、それもかないません。


 「……っ、ぁ」


 カリオンの喉から小さな音が発せられ、彼女の体がぐらりとよろめいたとき、



  飛べない小鳥の声が呼んでいる

  籠の中へおいでなさいと



 ビブリオドールの声がカリオンの鼓膜を震わせました。見れば、女性の細い腰にビブリオドールの腕が回っています。



  格子の向こうは天国の如き荒野



 その声は不思議と、湿り気を帯びていました。いつもはひだまりのように穏やかなのですが。


 『なによアンタ! 離しなさいよ! ちょっと!』


 うわ言を繰り返してカリオンに取りついていた先ほどとは一転し、女性は艶かしさをかなぐり捨ててヒステリックに叫びました。



  ああ、色めく世界の守り手よ

  目眩めくるめ嬌乱きょうらんの担い手よ!

  歌っている、踊っている、笑っている

  黄金こがねに満たされた闇の中を

  精も根も尽き果てろと誘っている!



 『いい加減にしなさいよ! 聞こえてるの!? 離しなさいってば!』


 どれだけ身をよじっても、ビブリオドールの手が彼女の腰から外れることはありませんでした。痺れを切らした彼女は、抱きついていたカリオンの体から腕を離すと、力づくでビブリオドールの手を外しにかかりました。


 『うるさいのよ! 止めなさいよ! 黙って! どこかへ行って! 離しなさいって言ってるのよ、このあたしが!』



  黄昏の月が昇る時、傾城けいせいの門は開かれん

  花の街に翻る笛の音を聞きなさい

  燈る提灯あかり(あかり)に映る影を見なさい

  強くい娘たち……


 『いやああああああああああああああああああああああああああああああああ!』


 長い長い絶叫が、触れれば折れそうに細い喉から迸りました。そしてふいに、がくっと糸が切れたように力なくうなだれました。


 「大丈夫ですか、館長さん」

 「……まあ、なんとかな」


 カリオンは二、三度首を振ってまばたきを繰り返し、やっと落ち着いたようでした。そしてゆっくり顔をあげると、激しく移り変わった女性の成れの果てを見つめました。


 「それが、彼女の今の姿か」

 「ええ、そうです。……夜中に発生した火事から逃げ遅れ、遊女としての人気も名誉も失ってしまった女性です」


 それを聞いた女性の体が、ぴくりと動きました。


 『…………なによ』

 「え?」

 『なによなによなによ! あの男ども、あたしにあれほど入れ込んでおきながら、あたしのことを置き去りにして! 自分のことしか考えてない、卑しい畜生め!』


 艶を失い、焼けちぢれた髪を振り乱して女性は叫びました。


 『誰も、かれも、みんな! あたしのことを褒め讃えて、夢中になってたわ。自分以外とは誰とも寝ないでくれ、いっそ結婚してくれだなんて、全員がしょっちゅう言っていたもの。回数なんて数えちゃいいないほどよ! 

 あたしがちょっと睦言を囁けば、情けない間抜け面を晒すし、新しい簪が欲しいなーって店の者に言うだけで、その晩からわんさか新作の簪が届くんだから。庶民だろうが権力者だろうが、みんなあたしの掌の上だったのよ! あたしは言葉ひとつで、体ひとつで、なんでも好きにできたんだから! 並の女じゃできない芸当よ、なのにっっ!』


 煙を吸って喉を痛めたのでしょうか。時々聞き取れないほどに掠れてしまって、甘さの欠片もありません。


 『乾いた冬の、風の強い真夜中だったわ。いつ、どこで、最初の火の手が上がったかなんて知らない。火事を知らせる鐘の音も聞こえないほど、私は深く眠りこんでいたわ。ああ、今でも覚えているわ、あののっぺらぼうみたいな薄い顔の男! あたしの上客で金の弾みはよかったけど、ひょろひょろで、筋肉のきの字もないような生っ白い男だった』


 紫蘭が咲き乱れるその深紅の着物は、かつてはそれはそれは美しく豪華で、一等良いものだったのでしょう。ですが今は煤に汚れ、金の糸も銀の糸もほつれ、破れ裂かれて見るも無惨としか言いようがないほどに、ひどい状態でした。


 『気がつけば、あたりは火の海よ! あの男、あたしのことなんか省みず、服もろくに着ないで外に飛び出していったわ! 血も涙もないとはあのことよ! ごうごうと音を立てて迫ってくる炎を前に、一人でどうしろと!? 今もまだ耳に残っている、目を閉じれば瞼の裏が赤く燃えている! 炎の赤に目を焼かれ、灰と煙に声を奪われて! いつ落ちてくるかも分からない壁と天井に怯えながら、ようやく郭の外に出ても、そこは安全じゃなかった!』


 肌が爛れて肉が見え隠れする手足。肩から胸にかけてついた傷口はぐちゃぐちゃで、人の手によるものではないでしょう。火傷のあとにできた水ぶくれを潰したせいか、顔はでこぼこに崩れてしまっていました。


 『ええ、そうよ! あたしたちは籠の中の鳥! 籠の外は知らない。どこへ行けば何があるのかも分からない。ただ囀るだけの私たちは、空を飛ぶための風切羽さえも切られてしまった! 建物の下敷きになって泣き叫ぶ人の声も無視して、男も女も人を突き飛ばして押しのけ、みんな自分のことしか考えない! そんな中で、あたしがどれだけ立っていられたと思う? 嘲笑う火の手から、無傷で逃れるだけの力があたしにはなかった!』


 はあ、はあ、はあ。彼女は荒い呼吸を繰り返しました。

 生前の怒りを思い出した彼女の握った手は、肩は、大きく震えていました。


 『だけどあたしは生き残った。運良くね。気がつけば診療所にいて、しっかり手当てがなされていたわ。そのときは神様に感謝したぐらいよ。だけど! だけどだけどだけどよ!』


 大粒の涙が、彼女の目から零れ落ちました。


 『もう誰もあたしに見向きもしなくなっていた。あたしが最高級の遊女『紫蘭』であることは身につけていたものを見れば分かったはずなのに! 誰一人あたしのことを見ようとはしなかった! 憐れむことすらしなかったのよ! 挙げ句の果てには汚いだの醜いだの言ってのけた! あたしを愛していると、素晴らしい、最高だ、美しい、君ほどの女はいないと言っていたのと同じ口で! あたしには女としての価値も、人としての魅力もないとまで! 

 ふざけんじゃないわよ! あんたたちみんな、あたしに鼻の下伸ばして、あたしが零す微笑みの欠片すら争うように拾っていたくせに! 高嶺の花をどうにか摘もうと手を伸ばしまくっていたくせに! あっさりと手のひらを返して! ああ、口惜しい! どうして! あたしはあたしよ! あたしは、光を放つほどに美しいと言われた紫蘭なのよっ!!』


 爪は剥がれ、火傷のせいで真っ直ぐに伸びなくなってしまった指で、髪を、顔を、全身を彼女はかきむしりました。


 『ああ、口惜しい! 男という男を虜にしてきたあたしの美貌が! 顔も、体も、声すらも! 全てたった一度の火事で失ってしまったことが口惜しくてたまらない! あたしを褒めそやしてきた奴らの、あの道ばたの石を見るかのような無感動な瞳! まるで穢れを見たかのような嫌悪の目! それほどまでに醜くなってしまったことが一番口惜しいっっっ!』


 もしも彼女の運命というものが、姿をもって今ここにあれば、それは彼女のこの燃え立つ怒りの眼差しに焼かれてしまっていたでしょう。それほどまでに、彼女の黒い瞳は鋭いものでした。


 『あたしは、あたしは…………!』


 そしてなおも彼女が言いつのろうとしたとき、それに先んじてビブリオドールが語りかけようとしたとき。

 それよりもさらに早く、カリオンは動きました。

 彼女の崩れた頬に片手を添え、それを払いのけられるよりも前に、自身の唇を彼女の唇に押し当てたのです。


 『……』


 無言の間がありました。

 落ち葉が地を這う音も、吹きすさぶ風の音もしません。気を使って静まり返ったのでしょうか、それとも時が止まってしまったのでしょうか。

 長らく人に触れられてこなかった花の遊び女にとって、その一瞬はとてもとても長いもののように感じました。


 「……しょっぱいな」


 唇を離したカリオンは、そう感想をもらしました。


 「口づけというのは甘いものだと聞いていたが、そうでもないようだな」

 『…………旦那は、嫌じゃないの?』

 「何がだ」

 『……あたしみたいな、惨めで醜い女に触れることが』

 「私には、人間のの造作の良し悪しなどよく分からん。たしかにお前の今の姿は、いつまでも眺めていたいものではないかもしれないが……」


 そしてカリオンは、すっと指を伸ばしました。


 「お前のその目は、美しいと思う」

 『……え』


 女性の目が信じられないとでも言うように、見開かれました。


 『美しい……? あたしの目が……?』

 「そう言ったつもりだが」

 『え、ええ、そうだけど……でも……』


 自分の目は、自分では見ることも触れることもかないません。困ったような女性の手は、彼女の目元をさまよっていました。


 「お前の目は、怒りや悲しみという感情を雄弁に語っている。言葉で表せない想いも含めて、複雑で多様に揺れ動く感情があってこその人だ。絶望し、全てを諦め、輝きを失った瞳ほど、虚しく、醜いものはない」


 ふっとカリオンの目が女性から逸らされ、口元にわずかな自嘲の笑みがこぼれました。

 カリオンはかつて、生き別れた最愛の弟を捜して戦場を渡り歩いていました。その弟がとうの昔に亡くなってしまっていたことを知ったとき、カリオンは生きるも死ぬも全てを投げ捨てて、ビブリオドールに声をかけられるまで抜け殻のようになっていました。そのときのことを思い出したのです。


 『……そう、そうなの…………』


 女性が呟いたのが耳に届き、カリオンはもう一度彼女を見下ろしました。

 女性は先ほどよりも随分と表情を緩めて、いたずらを仕掛けるときの子どものような顔で、カリオンに問いました。


 『ねえ。あたし、綺麗? 美しい?』

 「そうだな。私は好きだぞ、お前のその目」

 『ふふっ。嘘もおべっかも言わないんですねえ、旦那は』


 袖口で口元を覆いながら、女性はしばらく笑っていました。


 『旦那みたいなお人は、初めてでござんす』


 すっと体をひいた女性は、深紅の着物をひらりと優雅に翻しました。


 『私にとって、遊女という職は誇りでござんす。美味しいものを食べるのも、綺麗な服を着ることも、いろんなことを学ぶのも、とても楽しいものでんした。

 ……けれど、町人たちのような、尽くし慈しまれる愛も羨ましゅうござんした。素敵な旦那と可愛い子どもに恵まれた幸福も、町娘たちのようにいつか物語のような恋がしたいと幼い夢を見ることも、明日もまた隣人と何気ない会話を楽しめるという朗らかな希望も、全て私には望めぬものでござんした』


 舞い上がる紫蘭の花びらに包まれて、振り返った女性の姿はたおやかで美しく、この世に二つとない至玉の如き輝きを放っていました。


 『だからこそ、私には美しさが全てでんした。……旦那の言葉、とても嬉しゅうござんした』


 そして女性はビブリオドールに目を移すと、膝を折って目線をあわせました。


 『今ならば分かりんす。……我らが母に遣わされし葬者。私に、健やかな眠りを与えるために赴きくだんしたか』

 「ええ。ですが、その様子を見ると、私の葬唄は必要なさそうですね」

 『おかげさまで。けんど、許されるならばもう一度、あなたの詩を聞いてみとうござんす。あなたの声は、とても心地良いものざんした』

 「もちろん。喜んで」


 ビブリオドールは大きく息を吸うと、のびやかに詠い始めました。



  子らのまどろみ 浮き世の夢

  さあ、寄ってらっしゃい

  隠された帳の向こう側に

  おお、華やかなりし我が蝶よ

  私のそばで踊っておくれ

  今宵の天満つ月は何処にあるのでしょう?

  叶うならば、想いを頼りに愛し君のところへ

  さあさ、おいでなさい

  秘すれば麗し灯りの先へ

  おお、艶やかなりし我が花よ

  私のもとで咲いておくれ

  今宵三日月の舟は何処へ行くのでしょう?

  叶うのならば、想いを手繰りてあなたのところへ……



 ビブリオドールの声にあわせて、女性は足をひいて手をひるがえし、舞を披露していました。空に溶けるように、だんだん希薄になっていく彼女の体でしたがふいに。


 『ああ、そうだ』


 女性はカリオンの前までふわりとやってくると、その頬を両手で挟み込んで、


 『口づけは甘いもの、でござんしたか?』


 と言うと、カリオンも反応できない速さで、紅を塗った自身の唇をカリオンの薄くかさついた唇に重ね合わせました。


 「……むぐ」


 漏れたのは、随分と色気のない声でした。

 カリオンがしたときよりも長く口づけた女性は、最後にカリオンの唇をぺろりと舐めると、おかしそうに、そして心底楽しそうに笑いました。


 『いかがでしたえ? できることなら、旦那の初めては全て、私がもらいとうござんした』


 きっとそれが、生前の彼女の素の姿だったのでしょう。

 紺色の空に、一筋の光となって消えていった彼女を見送り、カリオンはぽつりと言いました。


 「『初めてをもらいたかった』と言われても、私は男じゃないから、やれる童貞も持っていないんだがな」

 「結局、最後まで彼女は貴女のことを男性だと勘違いしていましたね。……貴女は、月のものがないから」

 「ああ」


 月のものがなければ女でないと、女性はかつて遊女になるために連れてこられたころに言われたと、先ほど言っていました。それを信じ込んだ彼女は、過酷な環境に身をおいていたせいで月のものがないカリオンを、女性ではなく男性だと思ったのです。


 「月のものとは、女が子を授かるために必要な通過儀礼のようなものだと聞く。だが戦地で生きる私に、子を授かる余裕などなかった。おまけに、そんな体に負荷のかかる生活を強いていたせいか、戦場から離れた今も訪れる気配がない」

 「……べつに、死ぬまで〈館長〉を続ける必要はありません。貴女が望むのならば、いつでも契約を切ることができるんですよ? 好いた男性と穏やかな余生を過ごしたいと思うならば……」

 「さして興味ないな。お前と世界を旅するのも、悪くないと思っている」


 そう言って肩をすくめたカリオンに、嘘偽りはありませんでした。

 ビブリオドールは契約者が死んだりして契約が切れると、ひとりで世界を巡ることはせず、世界の全てに忘れられた最果ての島で、次の契約者が来るまで待ちます。心に傷を負い、死ぬに死ねぬ想いを抱えてやってきた契約者たちは、ビブリオドールとともに生きることに安らぎを求めます。だからこそ、ビブリオドール以外のことには目がいきにくいのです。


 ビブリオドールとしては、複雑な気持ちでした。それが彼らの救いになっていることは嬉しいのですが、人並みの幸せを考えてみてもいいのに、と思うのです。

 人並みの幸せ、という言葉を思い浮かべたとき、あの女性が言っていたことを思い出しました。素敵な旦那と可愛い子供に恵まれた幸福は、望めぬものであったと。


 「そういえば、少し意外でした。館長さんがあのような形で彼女を救ってくださるとは」


 カリオンが、唐突に口づけたときのことを言っているようでした。


 「私だって、お前とはもう短くない付き合いだ。彼女が何を望んでいるのか、推測を立てることはできるようになっている」

 「それが、口づけあれであったと?」

 「男に触れてもらって褒められること、だ。お前の葬唄おくりうたでもよかったんだろうが……少し思い出したことがあってな」

 「思い出したことですか?」

 「ああ」


 どこか遠い目をして、歩き出したカリオンの背をビブリオドールは追いかけました。ぽつりぽつりと、民家の玄関先に、オレンジ色の小さな火が灯り始めていました。


 「たまに、戦場でも見かけたんだ。軍に随従する水商売の女たちを。戦場というのは日常からかけ離れているからな。何かと気が荒れる。男たちのそれを宥めるために、自分の意思か売られたか知らないが、連れてこられていた。彼女たちは当然、身を守る術を持たない。あの女性以上の傷を負って、消し炭のような姿になって、死んでいく彼女たちを何度も見てきた。だが、私は何もしなかった。前線で戦う私が後方の彼女たちを守ることは無理だったろうが、身を守るための方法を教えることすら、私はしてやらなかった。……そのことを、少し思い出していた」


 冷たい秋の夜風が体の熱を奪おうと、服の隙間から入り込んできます。カリオンは、上着の前をかきあわせました。


 「罪滅ぼしというわけではないが、私が何かをすることで彼女が救われるなら、それもいいと思えたんだ」

 「なるほど、そうでしたか」




 こうして、その晩快く部屋を貸してくれた芸術家が作った紫蘭の耳飾りを、宿代代わりに二人分購入したカリオンとビブリオドールは、深まる秋の道を次に出会う魂に思いを馳せながら歩いていきました。


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