比翼の想い人とビブリオドールのお話



  荘厳清澄なる音の巡り、時を駆ける

  星降る夜、流れる奇跡に祈れ

  天球てんきゅうの光 こだまする

  運命の欠片 繋ぎ合わせて

  生きて帰れよ、天に召されよ

  あの約束に満ちた空を行け!

  希望は鍵、夢は扉

  夜明けの眼差しが戦士を射抜く

  いざ、破滅の航海へ






 隊商の一団が楽々とすれ違えるほどの広い山道を、一頭の馬がゆっくりと歩いていました。それに乗っているのは、剣を腰に下げた白い髪の女性と、蜂蜜色の髪を持つ儚げな美少女という変わった取り合わせの二人組でした。


 鳥の声などを楽しみながら進んでいると、ふと視界の端に、人の頭ほどもある大きな石に座り込む人の姿を捉えました。


 「大丈夫ですか? どこか怪我でもしましたか??」

 「ああ、べつにどうもしていませんわ。ただ、この老体に山越えは思いほか堪えたものですから、少し休憩をしていましたの」


 少女が馬から下りて駆け寄ると、つばの広い帽子をかぶった老女は上品に微笑んでそう答えました。


 「そうでしたか。お怪我がなくてなによりです。……が、まさか本当にお一人でここに?」

 「ええ。すごく個人的な理由の旅ですので、他の方の手を煩わせるのは忍びなくて」

 「そうは言っても、女性の一人旅は危険ですよ。よろしければ一緒に行きませんか?」

 「まあまあ、嬉しいお言葉ですけど、ご迷惑でしょう。こんなおばあさんは放っておいて、どうぞ先にお進みなさって」


 辛そうな様子は微塵も見せず、あくまで穏やかにそう返されては、もう何も言えなくなってしまいます。


 「……そういえば、もう何時間も休憩していませんね、館長さん」

 「……そうだな。広い道だし、端に寄れば休んでいても邪魔にはならないだろう」


 二人は頷き合い、てきぱきと馬を道の端に寄せ、飲み物と軽食を揃えて老女の隣に座りました。


 「お一ついかがですか? 先日東方からの行商人という方々に会いまして。すごく美味しいんですよ、この焼き菓子」


 そして少女が老女に籠に入った菓子を差し出せば、面食らったような顔をしていた彼女もまなじりを下げて、吐息のような笑い声をもらしました。


 「ありがとう。それでは、一つ」


 小さなそれをかじった老女の目が、驚きに開かれます。


 「あらまあ。本当に美味しいこと」

 「そうでしょう? こちらのお茶もいかがですか? よい香りのする茶葉を使っていて、とても心が安らぐんです」

 「よろしいんですか?」

 「ええ。こういうものは、一人より二人。二人より三人。誰かと一緒のほうが、ずっと美味しくなるものなんですよ」

 「……やっぱり。わたくしに気を遣って下さったんですね」


 少女がにっこりと笑えば、老女は観念したようにため息をついて、お茶の入ったカップをゆっくりとした動作で受け取りました。


 「さあ。なんのことでしょうか」

 「まあ、なんて悪い方。ふふっ」


 吹く風は暖かく、非常に心地いいものでした。馬を下りても剣を手放さなかった女性が、思わず時が止まっているかと錯覚してしまうほど穏やかな時間が流れています。


 「……お茶とお菓子、ありがとう。とても美味しかったわ」


 しばらく経って、老女がカップをソーサラーの上に戻して言いました。


 「お口にあってよかったです」

 「わたくしはアメリア・ハングラット。あなたたちのお名前は?」

 「わたしはセシェと申します。よろしくお願いしますね、アメリアさん」

 「私はカリオン・シュラーク」


 少女の名前はセシェ、女性はカリオンと言うそうです。


 「セシェ……古い言葉で『書物』を指す言葉ですね。ご両親はとてもよい名前を付けられたと思いますわ」

 「……ええ。ですからわたしは、たくさんの物語に触れたいと思っているのです。立派に装丁されて幾年も語り継がれるようなものも、誰かが気まぐれに紙片に書き記した言葉でも。もしくは、形あるものとしてどこにも残されない、誰かが語るだけの、その人だけの物語でもかまいません」


 そして、じっと広いつばの下で小さく潤んでいる老女の瞳を見つめました。


 「アメリアさん。わたしは、貴女の物語も聞いてみたいです」

 「……語ってあげられるほど良いものがあればよかったのだけれど。残念ながらわたくしの物語は、劇的でも、感動的でもなかったわ」


 深く沈みきった声でした。一体何が彼女の心に重石となってのしかかっているのでしょう。


 「ですが、その体に鞭打ってまで旅をするのは、並ならぬ決意があるからでしょう。貴女のどんな物語が、そんなにも貴女を駆り立てるのですか? アメリアさん」


 セシェがそっと老女の手に自分の手を重ねました。


 「貴女の物語を、劇的でも感動的でもなかったと、他ならぬ貴女自身で卑下するのはやめて下さい。わたしは、貴女の物語を聞いてみたいのです」


 しばらく自分の手に添えられた真っ白なセシェの手を見つめていた老女でしたが、やがてゆっくりと引き結んでいた口を開きました。


 「わたくしの物語……? それは、人でなしの物語よ。悔恨と、懺悔の物語……」



         *         *         *



 ハングラットというのは、嫁入りした相手方のお名前。わたくしが生まれ持った名前は、アメリア・ナスラインでした。

 この地方有数の貴族の家で、お父さまは公爵の地位を賜っていました。優しいお母さまとお兄さま、お姉さまとかわいい弟妹に囲まれて、わたくしは幸せでした。


 そう、幸せな日々が過ぎ……十四になった年、わたくしは運命の出会いをしたのです。

 ロシュアール・カーティシア。彼はお父さまが先日の狩猟会でお世話になった子爵の息子だそうで、その縁があって、わたくしの誕生パーティーにお父様がご招待したとか。

 優しい夜風に踊る鮮やかな緑の髪、ダンスホールを満たす光を反射する白い肌、澄みきった琥珀色の瞳……。彼と目が合った瞬間、世界の全てが動きを止めました。わたくしの心臓が高鳴る音だけが、これが夢ではなく現実だと教えてくれていました。どれだけそのままでいたかは、分かりません。だけどその時間は、とても幸せな時間でした。


 当時の私にはそれがどういうことかよく分からなかったけれど、それはたしかに恋でした。

 わたくしは、一目でロシュアールに恋をしたのです。


 ですがわたくしには、お父さまが定めた婚約者がいました。彼を愛し、彼につくすことがわたくしに求められていたことですし、わたくしもそうするべきだと思いこんでいました。だからわたくしは、しばらくロシュアールへの想いを持て余していたのです。

 わたくしがロシュアールへの想いを「恋」と呼ぶのだと知ったのは、彼の告白を受けたときでした。


 「俺はあなたと初めて会ったときから、あなたに恋をしていました。あなたとずっと話していたいと思う、あなたに触れたいと思う、あなたの傍にずっといたい……」


 ロシュアールが口にしてくれたその望みは、わたくしが彼に望んでいたことでもありました。だからわたくしは、その夜の彼の口づけを受け入れたのです。

 ですがわたくしは、どうしても彼の気持ちの全てを心から受け止めることはできなかった。家族や婚約者を……彼もまた、わたくしのことを十二分に愛してくれていました……裏切る行為だと、よく分かっていたからです。


 ときにそのころ、わたくしの国は戦争をしていました。女の身であったわたくしには詳しい話は伝わってきませんでしたが、報償や名誉を勝ち取ろうと、かなり多くの者が戦場へ赴いているとは、ぼんやりと聞き及んでいました。

 ですがまさか、ロシュアールもその一員に加わるとは夢にも思っていませんでした。


 血の気が引く、心臓が止まる、肝が冷える……言い方は色々ありますが、そのどれもを一気に味わった気分でした。瞬時に身体中の熱を奪われ、わたくしは目の前のロシュアールに対して、何も言うことができませんでした。

 励ましも、心配も、わたくしの望みすら、色々かけるべき言葉があるはずなのに、何一つ口から発せられることはありませんでした。凍りついた脳が、思考するという行為を全力で拒んでいるようでもありました。


 「明朝、朝一番の船で俺は戦争の最前線へと向かいます」


 何も言わないわたくしを、ロシュアールは責めませんでした。ただ、いつもの優しい顔の中にひっそりと苦しさを混ぜて、わたくしの手を取って言うのです。


 「俺がここに帰ることはないでしょう。俺のことなど一時の戯れ、どうぞお忘れ下さい。そして……幸せになって下さい。いいですね、アメリア」


 満天の星が輝く真夜中にわたくしを訪ねてきたロシュアールは、それだけを言い残して来たときと同じくひっそりと去っていきました。まるで、わたくしの思い出の中から音も立てずにいなくなろうとしているかのように。

 ロシュアールのこと、婚約者のこと、お父さまのこと、家族のこと、わたくし自身のこと……。それから夜が明けるまでのわずかな間、わたくしの中を色々なことがぐるぐると渦を巻いて、いっそこの身を裂いてくれればどんなに楽かと思うほどでした。


 そんな息苦しいわたくしの思考を断ち切ったのは、屋敷で飼っていた鶏の一声でした。

 はっとして顔をあげれば、夜明けにはまだかなり早い時間でした。丘の上から見下ろした先の水平線が、わずかに白くなっているぐらいです。こんなにも早い時に鳴く鶏など、聞いたことがありません。ですがわたくしは、それがまるで天啓であるかのように思えました。


 わたくしは、この世の誰よりも愛しているロシュアールに、何も伝えていないのです。朝一番の船は、夜明けとともに出る船のことです。わたくしの足でも、今なら走ればなんとか間に合うかもしれません。早く行けという神のお告げであると、わたくしは感じました。


 走って、船の出発に間に合って、わたくしはロシュアールになんと声をかけるの?


 その一点に考えをしぼったとき、答えは瞬く間に出ました。つい今しがたまで、あんなに悩んでいたというのに。

 そしてわたくしは部屋を飛び出し、伴も付けず誰もいない道を走り続けました。わたくしが港に続く道に入ったとき、わたくしの目に映ったのは出征する兵士たちを見送る人だかりと、動き出した一隻の船でした。

 わたくしは走るスピードを緩めないまま人込みをかき分け一番前に飛び出すと、


 「ロシュアール様!」


 叫びました。あんな大声を出したのは、後にも先にもこのときでだけです。


 「わたくしは、あなたを愛しております! だから、必ず生きて帰ってらして——!」


 船尾でこちらを見つめるあの人の顔を、わたくしは今でも忘れられません。泣きそうな、嬉しそうな、悔しそうな、あのお顔を……。

 それからしばらくして、和平交渉が行われて戦争は終結したという早馬がわたくしの領地にも届きました。ですが、いくら待ってもロシュアールは帰ってきませんでした。


 その時になって初めて、わたくしは重く苦しい後悔というものをしました。

 もし、わたくしがもっと早くロシュアールに自分の気持ちを伝えていたら。もし、わたくしがもっと早く婚約者に別れを告げて、ロシュアールと添い遂げたいとお父さまに伝えていたら。もし、わたくしがあの夜、わたくしと駆け落ちしてほしいとロシュアールに強く願っていたら! もっと違う未来もあったはずなのに!


 わたくしはそのまま婚約者と結婚しました。一度は断りましたが、お父さまが段取りを進められていて、気がつけば……。ですがあの方は、わたくしがロシュアールのことを忘れられないと分かっていても、それを非難したり忘れろと言ったりはしませんでした。


 ああ! 本当に、わたくしはなんと非道な女! 何もかも捨て去り一途になる純真さもなく、死んで詫びる勇気もなく! わたくしが情けないばかりに、わたくしは愛するロシュアールも愛してくれた夫も裏切り続け、彼らに何一つ報いれてないのです。 


 もう、誰に何を謝ればいいのか分からないけれど、こんな非道な女は許してくれなくてもいいけれど、それでも言わせてほしい。

 ただ、ごめんなさいと……。



         *         *         *



 「……というわけなのです。面白くもなければ。楽しいものでもなかったでしょう?」


 そう言って彼女は一つ鼻をすすりました。話しているうちに感情が高ぶり、涙が止まらなくなってしまったようです。


 「……泣きたいときは思いっきり泣けばいいのですよ。抑えたままではすっきりもしませんし。それに、貴女は自分のことを非道な女だと言っていましたが、それは違います」


 セシェはそっと彼女のかぶっていた帽子を取りました。すっかり白くなった長い髪が、陽光を反射してキラキラと輝きます。セシェは小さな老女の頭を優しく自身の腕で包み込みました。


 「貴女のそれは、優しさというのですよ」

 「っ……!」


 老女が強く強く歯を食いしばりました。セシェはその力を抜かせるようにそっと彼女の背中を撫でていましたが、彼女が涙腺を決壊させることはありませんでした。大きな深呼吸を繰り返し、気持ちを落ち着かせたようです。


 「大丈夫ですか?」

 「……ええ。思わず取り乱してしまいました。ごめんなさいね、見苦しくて」

 「いいえ、そんなことありませんよ」

 「どうぞ、ハンカチです」


 老女はカリオンが差し出した木綿のハンカチに躊躇いがちに手を伸ばしましたが、まだ感情の高ぶりが収まっていないのか手元がおぼつかなく、なかなかハンカチを掴むことができませんでした。見かねたカリオンは老女の手を取ると、その手にしっかりとハンカチを握らせてやりました。

 かすれた声で礼を言った老女は、ハンカチを目元に当てました。その様子を黙って見ていたセシェは、突然衝撃的な発言を落としました。


 「だから、死のうと思ったのですか? この先にある、かつて貴女が恋人を見送った海に沈んで。共に生きれなかった分、せめて同じ場所で死のうと」

 「!」

 「⁉」


 老女と、カリオンの目も驚きに見開かれました。


 「な、なぜ……? わたくしはそのようなこと一度も……」


 唇をふるわせる老女に、セシェは苦笑のような、困ったような微妙な笑みを浮かべました。


 「なんとなく……とでも言いますか。おそらくそうなんだろうな、と感じました」

 「なんとなくで……?」


 老女はそう言ってしばらく口をつぐんでいましたが、もの問いたげな二対の視線を受けて、やがて口を開きました。


 「…………ええ、あなたの言う通り。わたくしは、この先の海に身を投げるつもりでいるわ」

 「どうしてそんなことを考えたのか、理由をうかがっても? 貴女にも家族はいるはずです」

 「ついこの間、最後の娘が嫁ぎました。十年前に死んだ夫と約束したのです。『子どもたちが全員嫁ぐまで、どんなことがあっても死んではいけないよ。子どもたちを送り出し、見届けるのが母としての務めだからね』と。わたくしと夫の間に生まれたのは全員娘でしたから……。ですが、あの人は最期にこう言ってくれたのです」


 老女はそこで一旦言葉を切りました。一度は止まった涙が再び彼女の青い目を満たし、みるみるうちに溢れていきました。


 「『それから先は君が心から思うようにするといい。この四十年間、ぼくと一緒に生きてくれただけで十分だ。ありがとう、ぼくは幸せだった』と!」


 そう言い切ると、老女はカリオンが渡したハンカチで目を覆い、わっと泣き崩れました。


 「……なるほど、そうでしたか。ですが、あの海への身投げはとても勧められません」

 「なぜ? ロシュアール様を裏切ったわたくしが、あの人と同じ場所で死ぬのは身勝手だというのですか⁉」

 「いえ、違います。落ち着いて下さい。なぜなら、いまあの海には得体の知れぬ怪物が出るという噂があるからです」

 「怪物が?」


 さすがに老女の涙も止まりました。まだしゃっくりあげていますが、セシェの話ぐらいは聞いてもらえそうです。


 「ええ。夜な夜な不気味な声をあげて海上を徘徊する怪物だそうです。真っ黒でおぼろげな影のような容姿でありながら、腐臭を発し、何十人もが一気にしゃべっているような気味が悪い声を出し続けるとか。いつどこに現れるかまったく分からないので、日中もおちおち海に出られないと聞いています」

 「……それが、ロシュアールだったら?」

 「⁉」


 今度はセシェが驚く番でした。


 「そう、そうよ。もしかしたらロシュアールが一人海の底に取り残されて、寂しがっているのかもしれない。死んだことが分からずに彷徨っているのかもしれない。ああ、早く行ってあげないと……。あなたは一人じゃないのよ、ロシュアール。ごめんなさい、遅くなって。わたくしもすぐに向かうから……」


 ふらふらとそんなことを呟きながら立ち上がった老女は、荷物も持たずに歩き出していきました。そしてすぐに、転がっていた小石につまずいてしまいました。


 「危ないっ」


 とっさにカリオンが前に出て彼女の体を受け止めました。


 「大丈夫ですか、アメリアさん。しっかりして下さい」

 「え、ええ。大丈夫ですわ。ありがとう……」


 お礼の言葉もそこそこに、心ここにあらずの状態で彼女は再び歩き出そうとしています。それを見過ごせるわけもなく、セシェはアメリアの袖を引いて引き止めました。


 「待って下さい、アメリアさん。では、わたしたちと一緒に行きましょう」

 「あなたたちと……?」

 「はい。わたしたちは、その怪物とやらの正体を明かそうとやってきたのです。もしそれがロシュアールさんではなかったら、貴女の身が危険です。ヘタをすると、食い殺されてしまうかもしれませんよ」

 「そ、それは……嫌だわ」

 「でしょう? ですから、一緒に行きましょう」

 「いいのかしら……。わたくしは、あなたたちとまったく無関係なのよ?」

 「気にしないで下さい。そんな危険なところへ、ご婦人一人で向かわせることこそ、非道な行いですから」


 セシェがアメリアの手をとって自分たちが乗ってきた馬の元へ連れてくる頃には、カリオンによって出発の準備がなされていました。


 「ありがとうございます、館長さん」

 「それこそ構わん。アメリアさんはこの馬に……いや、それでは体への負担も大きいか。私が背負いましょう」

 「えっ⁉」

 「セシェ、馬を引くことはできたな?」

 「はい」

 「それじゃあ頼んだ。アメリアさん、どうぞ」

 「そ、そんな! そんなことまでしてもらうわけには……」


 自分に背を向けてかがむカリオンに、慌てて手と首を振って固辞する老女でしたが、カリオンはいとも簡単に彼女を背負ってしまいました。


 「ご心配なく。これでも体は鍛えているほうなので。それに、馬というのは乗るだけでも疲れるものです。こちらのほうが幾分かマシでしょう」


 カリオンに譲る気が全くないと分かると、アメリアはおずおずと彼女に体を預けました。


 「ええっと……では、よろしくお願いします……」

 「はい。……じゃあ、いくか。セシェ」

 「そうですね」



 件の街についた三人は、ひとまず別に宿を取り、街の人々に聞き込みを行いました。


 「海上の怪物だって? やめとくれ、そんな話! 聞きたくもないよ、気持ち悪い!」

 「そうねえ。家で寝ていたら、突然『ヴオォォォォ……!』っていうこの世のものとは思えない恐ろしい唸り声が聞こえるわね。毎晩というわけじゃないけど……。え、私の家? あの坂の上にある赤い屋根の家よ。普段は獣の唸り声だってしないから、初めて聞いたときは十年ぶりぐらいに両親の布団に飛び込んだわ」

 「あれはひどい雨の降る夜だったよ。ちょっと夜更かししすぎて寝るのが遅くなったとき、ふと窓の外を見たら小さな丸い目玉がたくさん浮かんでたんだ! 腰を抜かすかと思ったね。もちろん漁火や星の光なんかじゃないよ。ぼんやりと白とか黄色に光ってて、とても不気味だったよ。しかもそのうちの一つと目が合ったような気がして、その晩は結局恐怖で一睡もできなかったんだ」

 「あの怪物の話を聞きたいとは、また物好きだな。わしゃ思い出したくもねえよ。あんな恐ろしいもんは、他にねえだろうなあ。……ん? ああ、会ったことあるぞ。何年か前にな。きれいな月の夜だったから、ふらふらっと酒をお供に夜釣りに出たらなぁ……。そいつに遭遇したってわけだ。海の中からじゃねえぞ。まったく波が立たなかったからな。本当に突然、海の上に現れたのさ。思わずチビってしまいそうなぐらい怖かったよ。まったく質量を感じさせない真っ黒な靄みてえなナリをしているくせに、重圧感というか威圧感がすごくてなあ。口も鼻もないのに息が漏れるような音はするし、足がないくせに海上を動き回るし……。わしゃ持ってた荷物も釣った魚も全部放りだして急いで逃げ帰ったよ」


 年老いた漁師はそう言って、遠い目をしながら煙を吐き出しました。そして再び煙草をくわえながら、小舟に乗りこむ三人を奇異の目で見つめました。


 「しかし……正気かい、お三方。あの怪物の懐に自分から飛び込むなんて」

 「ええ。わたしたちはお互いその『怪物』に用がある身ですから」

 「そうです。わたくしは、どうしても確かめなくてはならないことがあるから参るのです」

 「ふーん。そうかい」


 よく分からないと顔をしかめる漁師に、カリオンは硬貨を数枚手渡しました。


 「では、舟を借り受ける。戻ってきたらここに繋いでおけばいいか?」

 「ああ。それで構わねえが、なるべく無傷で返してくれよ。大事な商売道具だからな」

 「努力しよう」


 カリオンは短く答えて小舟に乗ると、さっそく櫂を動かして沖へ出て行きました。

 一時間ばかり漕いでいると、街はすっかり遠ざかり、夜の闇にまぎれて影と空の境目も区別がつかなくなっていました。


 「静かですわね……」


 ぽつりと老女がそう零しました。遠くを見つめる彼女は、一体何を見ているのでしょうか。彼女は、何が見たいのでしょうか。


 「昔から時々思っていたのです。晴れた日の昼の海はとてもきれいだけれど……。この遥かな水砂漠は悲しみに似ているのではないかと。うねる波は慟哭に、深海は底なしの絶望によく似ていると思いませんか? ロシュアール様はそんなところでこの何十年という時を過ごしていらっしゃったのだと思うと……」


 老女は眉を寄せ、ぎゅっと胸元を握りしめると泣き叫ぶように声を絞り出しました。


 「ああ! 海上の怪物が本当にわたくしが恋したロシュアール様なら、どうか姿を見せてほしい! あなたの気持ちを聞かせてほしい! わたくしの気持ちを聞いて欲しい! 死にゆく愚かな女を哀れに思うなら、どうかわたくしの元へ帰っていらして!」


 まさかその声が聞こえたのでしょうか。三人が乗る小舟のすぐ近くで小さな黒い靄が漂いだしました。ソレはみるみるうちに渦を巻き、握り拳ぐらいの大きさだったのがあっという間に、天にも届くかというほどの巨大なモノへと変貌しました。


 「これは……」

 「舟をとめて下さい、館長さん」


 それにしたがってカリオンは櫂を器用に動かしました。いきなり舟の勢いを殺したので、若干揺れが大きくなりましたがセシェはふらつきもせず立ち上がると、現れたモノを見つめました。

 そのとき、


 「ロシュアール様! ロシュアール様ですわよね⁉」

 「危ない!」


 老女がいきなり身を乗り出しました。カリオンはその肩を掴むと急いで自分のほうに引き寄せました。痩せて軽い彼女の体は、易々とカリオンの腕の中に収まりました。


 「離して下さいな! あれはきっとロシュアール様なのです! ロシュアール様!」

 「待て! 落ちつけ! これはどう考えてもあなたが恋した男ではないだろう!」


 恨めしい、恋しい、悔しい、悲しい、痛い、辛い、苦しい。あらゆる人のあらゆる無念を結集して具現化したような感情の塊。ソレを前にするだけで、口の中が渇き、背中を嫌な汗が流れていきます。内蔵を直接掴まれたような不快感と、胸を締め付けるような深い哀惜の念……。このままでは遠からず、気が狂ってしまうでしょう。


 「ロシュアール様!」


 どこにこんな力があるのかと疑うほど強い力で、カリオンの腕を振りほどこうともがく老女を、吐き気に耐えながら必死で押さえ込みます。


 「くっ……! セシェ……!」


 すがるようにセシェのほうを見れば、彼女はちょうどソレの意思を推し量り終えたところでした。


 「なるほど、そうですか……」


 口の中で小さくそう呟くと、おもむろにセシェは両手を胸の前で握りました。そして大きく息を吸い込むと、



  書架配列七二九番より——開架

  全ての迷い子たちに紡ぐひらきの詩



 その手にポゥと淡い光が灯りました。この静かな夜にふさわしい、穏やかな光です。



  眠れよ 諸人

  天つ空の先、大海の彼方の地で



 「……? 彼女は一体……?」


 いきなり唄い出したセシェを見て、老女が息を落ち着かせながらいぶかしげに首を傾げました。


 「あの娘はビブリオドール。世界中の全ての者に忘れられた友だちの神さまによって生み出された、彷徨う魂を救い、荒れる精霊を鎮めるための人ならざるモノだ」

 「ビブリオドール⁉ そんな、あれはお伽噺の中だけのはずじゃ……!」

 「いいや、彼女は実在する。はるか悠久の時を生きながら、世界中を巡り、幾億もの魂を救っているんだ。セシェというのは、私が与えた仮の名だ。ビブリオドールでは呼ぶときに長過ぎる」


 そしてカリオンは目を閉じました。ビブリオドールが葬唄おくりうたを詠い上げるときの声は、ことのほか心地良いのです。



  恐れおののく必要はない

  彼の地は神に愛されし全ての子が

  生まれ帰る故郷



 「……ビブリオドールの傍には、彼女の身を守り支えるための選ばれた者が常に付き従っているということですが……」

 「ああ、私がそうだ」


 ビブリオドールの名の由来は図書館にあります。彷徨う魂を還るべき場所へ導き、荒れる精霊を鎮めるための祝詞。それらを自らの内に保管・管理し、対象に提供するという役割は、世の中の図書館と酷似しているからです。だからビブリオドールは、自分との契約者を〈館長〉と呼ぶのです。



  さあ、お行きなさい 愛しき子らよ

  次なる目覚めへ螺旋の回廊を渡れ



 その一節を聞いたとき、それまでぼーっとビブリオドールの葬唄に聞き惚れていた老女が、ハッと身を起こしてビブリオドールの体に縋り付きました。


 「待って! お願い、待って! そうよ、あなたがビブリオドールだというのなら、ロシュアール様も一緒に今送り出してしまうのでしょう⁉ わたくしも一緒に連れて行って! わたくしを置いていかないで! お願いよ、ロシュアール様! ビブリオドール!」


 しかしビブリオドールは、老女の声が聞こえていないかのように振る舞います。ビブリオドールの光に包まれた手がゆっくりと海上の怪物に差し出されると、光が細い糸になって怪物の体へと伸びていきます。そして光の糸が怪物に触れたところから、妙に質量を感じさせる靄が溶けるように消えていきました。


 「いや! お願い、わたくしも連れて行って! ねえ、ビブリオドール!」


 

  御霊に刻まれるは  

  何にも代えられぬ出会いの記憶

  刻み続ける為に彼方あなたは彼の地を行くのです



 「ロシュアール様! お待ちください、ロシュアール様!」


 狂ったように泣き叫びながら海へ身投げしようとする老女を、カリオンは再び背後から抱え込みました。



  怖がらず旅立ちなさい 眠り逝く子らよ

  願わくば、

  彼方の次なる目覚めにこそ、光があらんことを……



 葬唄の最後の一説を詠い上げると同時に、黒い靄状の姿をとっていた怪物は姿を消していました。


 「————!」


 老女は声にならない叫びをあげると、そのまま泣き崩れてしまいました。葬唄の終詩とともに、この海を彷徨っていた魂は全て天の園へと還ってしまったと、そう思ったのでしょう。ですがそれは、早合点というものです。


 「セシェ、あれは……」


 幾多の戦場を渡り歩いてきたカリオンでしたが、思わずこれには眉を寄せて顔をそらしました。


 「はい。今は亡きロシュアール・カーティシア卿の魂です」

 「え……?」


 老女は声とも吐息ともつかない音をもらすと、泣き腫らした顔をゆっくりと上げました。


 「今……なんと……? ロシュアール様は先ほど……」

 『ア……メリ……ア……?』


 嗄れたような、掠れたような、なんとも形容しがたい声が三人の耳に届きました。老女はバッと声のほうを向きます。そして再び声が発せられるのを待ちました。


 『幻聴……か。アメリアは……こんなところには……』

 「いいえ! ロシュアール様! アメリアはここにいます!」


 老女は船縁を掴んで声のかぎり叫びました。ですが、相手の男は顔を左右に振るだけで、老女と視線を合わせようとはしませんでした。いいえ、あわせることができなかったのです。


 彼の目は真一文字に切り裂かれ、永遠の闇に閉ざされてしまっていたからです。

 目だけではありません。胸にはぽっかりと穴が空き、左半身はひどい火傷を負って皮膚がただれ落ち、右腕などは健と筋でかろうじて繋がっているだけで今にも千切れ落ちてしまいそうです。そして下半身は……見えませんでした。彼の下半身は海の中に隠れてしまっていたのです。ですがこの損傷を見るかぎり、よいものではないでしょう。もしかしたら、下半身はすでに失せてしまっているということも有り得ます。


 『幻聴でも構わない……。もう一度君の声を聞けるとは思わなかった……』

 「ロシュアール様……」

 『ああ……アメリア……俺の愛しい人……アメリア……』


 うわごとのように彼女の名を繰り返すと、突然男は叫びだしました。


 『ああ、そうだ! 許してくれアメリア! 俺は俺の愛を貫き通せなかった! 優しい君にひどい苦痛を負わせてしまった! 許してくれ! アメリア!』

 「ロシュアール様……⁉ 一体何を……むしろ許しを請わねばならないのはわたくしのほう! わたくしはあなたの気持ちに何も応えられなかった! あなたに恋をしておきながら婚約者の方と伴になり……あなたを裏切った! ああ、ごめんなさいロシュアール様!」


 狼狽えながらそう返すと、老女はそのまま頭から海にどぼんと身を投げました。


 「っ、おい!」


 カリオンが手を焦ったように手を伸ばしましたが、彼女の手は水面に触れる前に止まりました。


 「は……⁉」


 思わず目をこすってしまうほど、カリオンは驚いて動揺していました。今しがた海に沈んだはずの老女が、まるで地上でも歩いているかのようにすいすいと水しぶきも立てずに海を進んで男の元へ向かっているのです。

 思わずビブリオドールを振り返れば、人差し指を口に当てて頷いたので、ひとまずカリオンは大人しく腰を下ろしました。


 『俺は君を愛していた! 俺の身分が君よりも低くて、俺が君より年下でも! それでも俺は君を愛していたんだ! だが君は俺の気持ちを素直に受け入れてはくれなかった。君には婚約者がいたのだから当然だ。優しい君はお父上や婚約者の彼を裏切ることなど到底できなかっただろう。それは全然構わなかった。だから俺は意を決して、君のお父上に願い出たんだ。君と結婚させてほしい、と』

 『え?』


 老女の進みが一瞬止まりました。初めて聞いた話です。


 『まったく受け入れてもらえなかったよ……。お前のような奴に、と散々罵られた。だから、ナスライン公爵の許しが出るまで何度も通おうと思った。あの方が俺を認めてくれるまで、君を正式に娶れるまで何度だって! 

 だが一度目の訪問の翌日に、俺には勅令が下った。俺とて貴族の端くれ、国王からの命令を無視できぬし、そんなことをすれば俺の家にも迷惑がかかる。ナスライン公爵の手回しがあったかどうかは知らない。だが俺に残された道は、潔く身を引くことだけだった。

 ……あの時はそれしかないと思っていた。だが! ああ、なぜ俺はあのとき君を連れ出そうとしなかったんだ! 君を愛していると言いながら、俺はその愛に自分から背いたんだ! しかも、君はあの朝に俺の元へ走ってきてくれたというのに、俺は君の元へ帰ってくることができなかった! ああ、許してくれアメリア! 意気地のない俺を! 情けない俺を! すまないアメリア!』

 『ロシュアール様!』


 ひたすら謝罪の言葉を述べる男を、老女はしっかりと抱きしめました。


 『そんなことありませんわ! わたくしはあなたのことを意気地がないとか情けないとか、一度も思ったことはありませんわ! だからどうかそんなことを言わないで、わたくしの愛しい人! あなたもわたくしと同じことを考えていたなんて……わたくしたち、なんと愚かだったのでしょう!』

 『ああ、アメリア。君の声がこんなに近くに聞こえるよ。君の温もりを感じるよ。ああ、俺たちはどこで間違ってしまったんだろう。俺は君とずっと生きたかった。たとえ何を敵に回しても、君と一緒に生きたかった! 死んでからそんなことを思う俺は、未練がましい情けない男なんだろうね』

 『いいえ、そんなことありませんわ。わたくしは、生涯ただ一人恋をした方に、そんな風に思ってもらえて幸せです。ですが、なぜわたくしたちは生きているときにこんな熱い想いを交わすことができなかったのでしょう。わたくしも肝心なときに口をつぐんだままあとから後悔をして……情けないと言うならわたくしのほうですわ。わたくしは何も優先させることができず、あなたを含めて色んな人を裏切った非道な女。あなたこそ、わたくしの人生を知ったら軽蔑するかもしれませんわ』

 『そんなことを言わないでくれ! 君は優しい人だ。俺が愛した慈愛の女(ひと)だ! なのに俺は君をこんなに苦しめてしまったのか。本当にすまない、アメリア……』

 『いいえ、いいえ、ロシュアール様。謝らないで下さい。どうか、ロシュアール様……』


 男は動かない腕を必死に持ち上げてアメリアの背に回しました。二人の体が少しずつ、抱き合ったまま海に沈もうとしています。この先二人がこの場所を離れて彷徨うことはないでしょう。ただお互いの傷をなめ合うように、海の底に沈んでいるだけでしょう。

 ですが……それを見過ごすわけにはいきません。ビブリオドールの使命は、色んな感情を抱えたままこの世に留まり続ける魂を、無事に天の園まで葬ることなのですから。


 「そんな悲しい愛でお互いを縛り付けても、苦しさは和らぎませんよ。アメリアさん、ロシュアールさん」

 『……?』


 ふいに呼びかけられ、怪訝そうな顔で二人がビブリオドールのほうに顔を向けました。



  書架配列五八五番より——開架 

  連理の想い人たちに紡ぐ相老あいおいの詩



 詠い上げるのは葬唄おくりうた。死者を慰め、彼の地へおくる詩。



  全ての子が生まれ還る地へ旅立つ

  あなたに捧げます



 優しく優しく、がんじがらめに結ばれている紐を解くように。なぜという答えのない問答を繰り返し、共に生きられなかったことへの後悔と負い目をお互いに背負う頑な彼らの心をほぐすように。



  かぐわし大樹も命永しと言えど

  百代ももよの先には土へと還るのです

  清風かぜに吹かれて雲は飛び去り

  天上の光がその腕を差し出すでしょう



 つられるように二人が顔を上げて天上を見上げました。チラチラと瞬く星の間から、すーっと一筋の光が二人に伸びてきました。



  大丈夫 怖がらないで

  大いなる神はあなたの眠りを祝福し

  とこしえの安らぎを与えてくれます



 「貴方たちのお互いを思う気持ちは、偽りがありません。どんな紆余曲折があれど、いまこうして一緒にいることがその証です。そろそろ、自分自身を許してあげてもいいんじゃないですか?」


 聖母と見紛う微笑みに、少しだけ二人の肩の力が抜けたようです。



  天に在りては鳳凰の如く

  地に在りては水魚の如く

  その想いは絶える暇もなかったことでしょう

  さあ手を取って お逝きなさい



 人の生きる道というのには、大小あれど必ず後悔がつきまといます。それを受け入れ、消化できなければ終わりなき苦しみの迷路に迷い込んでしまいます。


 しかしほんのわずかな何か。それがどんなものかは人それぞれですが、何か一つのきっかけがあれば迷路は簡単に破れるでしょう。

 この二人に必要なのは、相手は自分のことを許してくれているという事実を認めることです。たとえ自分にも落ち度があれど、相手がそれを許してくれているならば、もう少し自分の気持ちに素直になってみてもいいものです。荒れ狂う心を穏やかに安らげさせることこそ、この二人の迷路を破る鍵。


 お互いの手を強く握りしめたまま天の園へ逝く二人を見送りながら、ビブリオドールは胸の前で手を組みました。



  願わくば、

  あなたの次なる目覚めにも光があらんことを……




 すっかり夜闇が戻った海を、舟は港へ戻っていきます。


 「……ひとつ聞いておきたいんだが」

 「なんでしょうか」

 「アメリアはもう死んでいたのか? それとも、あの身投げしたときに死んだのか?」

 「……どちらかと言えば後者でしょう。彼女の体と魂は、わずかなバランスが崩れるだけですぐに離れるような危うい均衡の上にありましたから。とにかくロシュアールさんのところへ、というアメリアさんの強い想いが、海に沈んでいく体から魂を引きはがしたのでしょう」

 「なるほどな……。しかし、よくあの男の姿を見てひかなかったな。私から見てもなかなか凄惨な姿だったが」

 「ああ、それはそうです。アメリアさんには、おそらくロシュアールさんの姿はろくに見えていなかったはずですから」

 「……ん?」


 思わず三十度ほど、カリオンは首を傾げました。


 「どういう意味だ?」

 「そのままの意味です。彼女の目は高齢を向かえた体の弊害で、はっきりとものを見ることはできなかったということです」


 そう言えば、昼間カリオンが老女にハンカチを渡そうとしたとき、なかなかとれないということがありました。あれは、目がよく見えなかったからハンカチがどこにあるか分からなかったからだったのです。


 「そうだったのか」

 「ええ。ロシュアールさんも目を切られて見えなかった。なのに二人は、声だけでお互いをそうだと認めたのです。何十年も経っているのに。それだけ強く想い合っているのだから、何も遠慮することないのに。お二人とも本当に優しく誠実な方だったのですね」




 こうして、仲睦まじい恋人たちを見送ったビブリオドールとカリオンは、来世で幸せな巡り合わせをするように願いながら、今日もどこかで彷徨い苦しみ続けている魂を救うために翌日の朝早くに街を離れたのでした。

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