風がふく道

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第1話

 雪菜ゆきなは、「帰ります」と言って、席を立った。

 教室の空気は、今までのゆるやかな静けさから、ひきつった緊張の沈黙に。壇上の教授は、ぎゅっと口を結び、教卓の上に開いてあった教科書を睨みつけていた。

 彼は、痩せて背が高く、神経質そうな額の持ち主だったけれど、今、その額の皺と目と眉が、急に色濃く顔の上に浮かび上がって見えた。

 「失礼します」と小さく言って、教室を出た。「おいおい」と男子の声が聞こえたけれど、女子校と違って、男子が言う言葉の、本当の意味がわからない時がいまだにある、と雪菜は思った。単なるひとりごとなのか、自分に声をかけているのかどうかも、わからない。全員が黙っている集団よりは、何か誰かが言う方が、いい感じだと思うけれど。

 講義は、そのまま、通常通り続いたようだった。廊下を振り返らなかったけれど、くぐもって響く教授の声と気配から、そんな風に感じた。


 うすぐらい廊下。

 まっすぐ階段まで行く間に、暇な学生が数人、隅の歪んだベンチに腰掛けて小さくお喋りしたり本を読んだり、空き缶を持って煙草を吸ったりしていた。喫煙コーナー意外での煙草は禁止のはずだけれど、いつも当たり前のように、誰かが廊下で灰皿代わりの空き缶を持っているのが常だった。


「入学当時は、この校舎の薄汚さが嫌だった」

 階段を降りながら一人になると、雪菜は、小さく呟いた。


 あの頃、校舎の中が真っ暗に見えた。蛍光灯があっても陰気で、ドアは鍵が壊れてひん曲がってたし。古いものの情緒もなくて、綺麗なものとか素敵なものは、端から踏みにじられてた。

川添かわぞえさん」という声と、一段飛ばしで大股に階段を降りてくる音が同時にした。「授業ないの?」

右田みぎたくん。去年のクラスメート。

「出てきちゃったの。ちょっと先生と言い合って」

背の高い彼の目がびくっと大きくなったが、右田優一ゆういちは何も言わず、自分は生協まで行くところだと行った。生協には、文具も食品も大学グッズも売っているけれど、空き時間に本を見に行く学生が多い。

「この階段、駅の階段みたい。最近、駅はどんどん綺麗になっているのに」

「創立何周年かの記念授業で建て直すらしいじゃん」

「うん、そうだよね。寄付金募集しているよね」

「川添さん、いつも怒ってるな」

「・・・別に、わたしは、管理の行き届いている所が好きなわけじゃないけれど、ただ、ここは汚すぎるよ。綺麗な大学もあるのに。」

 雪菜は、それ以上は言わなかった。・・・女子トイレが暗くて古くて狭くて和式ばかりで、生理のときに色々難しくて気まで滅入ることとか、そこにあんな格好でしゃがんでいる目の前をゴキブリが横切ったこととか、蚊みたいな何かに臀部を刺されたこととか、そんな、悲鳴をあげたいことがいっぱいあるなんて、ここで彼に言うことじゃないよね・・・。


 階段を並んで降りるうちに、歩調があった。

「出席なんかとって。名前を呼ばれて返事をさせられて、“はい”なんて言う自分もいやなの」

 優一は、返事をしない代わりに、雪菜の歩調によりあわせたリズムで階段を降りているようだった。

「それで、授業中にけんかになったの?」

「けんか・・・なんていう乱暴なものじゃないよ。でも、いやだったの。返事をしないなら出席と認められないから帰って下さいと先生は言うから、もう講義も聞きたくなった。教授って独裁者?」

 階段を降り切るとすぐに校舎の外に出る。

「わ、冷たい風! 風の向こうに青空! 紅葉のメタセコイア並木!」

「詩みたいだな、そのセリフ。川添さん、このあと、どこ行くの?」

「ん? 決めてない」

「生協行かない? いい本あったら教えてよ」

 でも、雪菜は、ごめん、今度にする、と言って、手を振った。優一と別れたあとに、石畳のスロープを下る自分の足をもおろしながら、雪菜は、つぶやいた。

「今日じゃなければ、一緒に行ったかもしれないけど」


 門までのゆるやかなスロープ。大きなメタセコイアの並木。

「……なんて立派な樹」

 だから、本当はこの大学が好き、と雪菜は思う。

「この樹が素敵だと、わかる人がいるに違いない。世間では、そんなのわからない人ばかりなのに。文学、哲学……そこに道を見出した学者の人たちがいる……はず」


午後三時半を回ったところだった。約束は六時半、と雪菜は思った。今からお化粧を直したら早過ぎる。だけど、今日は休日と言ってたけれど、早く来てなんて甘えたことは言えない。でも、たとえなんでもない関係でも、空き時間に右田くんといるのも、何か違う・・・。

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