第3話 動きだす世界

 かつて、人間界には数えきれないほどの国が存在していた。それぞれが異なる主義、思想、神を持ち、己の正義をぶつけ合う。そうして、また新たな正義が生まれ、過去のものは消えていった。こうした数えきれない争いの果てに、現王国は成り立っている。

 なぜ、帝国ではなく、王国なのか。それは単純なことで、現在人間界には、この王国以外の国、民族が存在しないからだ。王国は、全ての国を滅ぼし、あらゆる他国の記録を片っ端から抹消した。全ての民族は統合され、全人類は一つの思想を共有することを強制された。

 広大な人間界を、王国一つで統治することなどできるはずもなく、実際に国の管理が行き届いている場所は数少ない。それ以外の場所は、無法地帯と変わりがなかった。国の中枢さえ機能していればいいという、国の方針の現れと言えるだろう。国のというより、国を牛耳る貴族、神官達の方針だが。

 当然、一部の国民の不満の声は大きかった。王都から遠く離れた地域では、幾度となく反乱が起き、独立国家の樹立を宣言まで行われた事例もある。だが、どれも長続きせず、結局は王都から送り込まれた、一つの武装集団により壊滅させられた。名を『武神団』。一人の武神と呼ばれる武人を中核に据えた、一種の傭兵団のようなものだ。

 人間界で活動している武神団は二つ。そのうちの一つが、エドバ・エリトを団長とするフィーネル武神団である。

 初代団長であるフィーネル・エリトによって設立され、代々エリト家によって率いられている。エリト家は元々武を重視した家系で、王国設立時から王に使える貴族として、政治的な面でも大きな影響力を持っている。

 また王都、その周辺の街では、教会で初等教育を行っている。そこでは文字の読み書きや、生活に必要な様々な知識を教えられ、その中でも王に関する知識は徹底的に教え込まれた。この世を作った神が人間界に降り立ち、人間の女との間に子供を授かる。その子供がこの王国を作り上げたという伝説を元にした、王の神格化を、長い年月をかけて完成させた。その象徴として、一年に一度、王を祝うための『神母祭』が王都で盛大に執り行われ、都外からもたくさんの人々が訪れる。

 そして今。王都での教育を受けたエドバ・エリトは、ほぼ洗脳に近いような状態で、神の子——そう思っている——である王に忠誠を誓っている。王に仕えてきた家柄とその時の長さも合わさって、エドバ・エリトは王室から絶大な信頼を得ていた。

 そのエドバ・エリトは、任務を終え王都に帰還したところだった。本来の目的から外れたことだったとはいえ、凱旋とならなかったことを、若干の後味の悪さとして抱えながら、都の門を潜る。

 しかし、自分の思考に耽る時間は、すぐに無くなった。門を超えた瞬間、街に住む人々の熱狂的な拍手と歓声によって全て掻き消されてしまったからだ。

 エドバは、その容姿や、活躍、身分の違いを無視した交流、貧しい暮らしを強いられている特区への援助等から、王都に住む国民達に非常に人気があった。王都の子供達が口を揃えて、「将来はエドバ様のような人になりたい!」と言うほどに。

 王城に通じるまっすぐな道を馬で進むエドバの周りには、老若男女、たくさんの人々が集まって、まるでお祭りが行われているかのようだった。

 城に入り城門が閉じた後もその熱は冷めやらず、このまま門まで突き破ってくるのではないかと、エドバはいつも心配していた。無論、余計な心配ではあったが。


「みなさん、警護お疲れさまです」

「はっ!恐縮であります!」


 城を守る兵士の誰もが、エドバの顔を見ると道を開けた。エドバは任務が終了する度に必ず謁見の間に赴き、報告することが義務付けられていた。毎度のことで、いちいちエドバを煩わせまいと、顔を確認するだけに留めているのである。


「ただいま到着致しました。エドバ・エリトです。報告に上がりました」

「少々お待ちください」


 謁見の間の守護の任には、王立軍や武神団から独立した兵力として近衛兵団が就いている。当然精鋭揃いの集団だが、彼らの多くは過去に武神団に在籍し、そこでエドバによって鍛えられ、認められた者である。時間の空いている時には、エドバが近衛兵たちの相手をするなど、いまだに師弟関係は続いている。


「準備が整いました。どうぞ、お入りください」


 謁見の間に繋がる扉が開く。厚さといい重さといい、とてつもない重厚感の漂う扉は、存外静かに、そして滑らかに開く。

 人間界を支配する面々が、エドバの報告を待っていた。王はこの部屋の一番奥で、エドバと正面から対面する。しかし、その姿を直接見ることは叶わない。布によって遮られ、見えるのはその影のみ。

 エドバは王の御前であるからと、いつも通り膝をつき、頭を垂れた。


「エドバよ。ご苦労であった。して、どうであったか」


 エドバは驚いた。いつも通りならば、ここからくどくどとした大臣たちの言葉が続くのだが、今日は真逆で、随分と催促されていると感じていた。調査の結果を聞いて早く安心したいのだろうと予想し、大臣たちの胆の小ささに少々呆れてしまった。もちろん、そんな様子はおくびにも出しはしないが。


「はっ!妖精によって焼かれた村の名はゴードン。近くの山に深い洞窟がありましたので、そこに発生した異世界門ゲートからこちらに侵入したものと思われます。詳しい被害者数などは後ほど、報告書を部下に提出させましょう」


 本来、このような調査はエドバ達武神団ではなく、王立軍の仕事であった。武神団は王都を守るかなめ。なんらかの抜け道で亜人や妖精が侵入しても、彼らがいる限り易々と王都が落ちることはないとされている。それでも今回、エドバ達が王都を離れたのは、やはり妖精が関わっているからに他ならなかった。


「先に調査に送りだした王立軍兵士はどうなっておった? 連絡も取れず、行方不明になっておったが」


 これが、エドバ達が派遣された理由である。第一陣の調査部隊との連絡が付かなくなり、これが現地に妖精が潜伏しているのではないかという推測に結びついた。


「残念ながら、彼らの姿を確認することは出来ませんでした。周辺も捜索しましたが、妖精たちの姿も見当たりませんでした。恐らく、既に向こうに戻ったのではないかと」

「そうか……わかった。下がってよい」

「……はっ! 失礼致します!」


 大臣は用は済んだと言わんばかりに、エドバを下がらせる。


「待て」


 突然の声に、エドバは振り返った。非礼であるということも忘れて、声の主を見つめてしまった。


「エドバよ。まだ何か言いたいことがあるのではないか? この件に他にも、何かあったのでは?」


 今までで王の声をエドバが聞いたのは、彼が武神団の団長に就任した時が最初で最後であった。それだけでも彼は満足していたし、王に仕えることが出来るという喜びを噛み締めていた。それが突然、自分を気にかけてもらえた。エドバは舞い上がるような気分であった。


「は……はっ! 恐れながら! 妖精の件の他に、もう一件、報告致したく」

「申してみよ」

「……今回の任務から帰還する際、マリーディアに立ち寄ったのですが、そこでハル・アリア、及びその仲間たちと遭遇致しました」

「その件であれば、既にマリーディア支部から報告が来ているぞ。逃がしてしまったそうだな」

「……はい。それに関しましては私の責任です。いつか必ず、この手で奴を捕えます」

「ではもうよいな? 国王陛下はご多忙で在られる。下がりな——」

「いえ、私が報告しなければならないことは、そのことではありません」


 エドバは大臣の言葉を遮りながら、伝えるべきことを喋り続けた。


「私がハル・アリアを逃がした時の話です。屋根の上でのことでしたから、通りからではよく見えていなかったとしても無理はありません。報告に六歳くらいの少女のことはありましたか?」

「あ、ああ。確かにあったが、それがどうしたというのだ」


 大臣は自分の知らない事実があるかもしれないということに焦り始めたのか、エドバに対する語気が若干穏やかではなくなっていた。


「彼女は『異次元門ゲート』を作り出す力を持っています。それを使って、奴らはあの場を脱したのです」


 誰もがエドバの言葉を理解するまでに、時間を要した。


「エドバよ。それは真実であろうな?」

「はっ!あの悍ましい気配は『異次元門ゲート』そのものです。間違いありません」


 一度始まった大臣達の騒めきは、なかなか収まらない。そんな力が存在することが各世界に広まれば、彼女を手中に収めようと大きな動きがあることは必然。この情報が今、どの程度広まっているのか、どんな手を打たなければならないのか。すぐに対策、調査しなくてはいけなくなってしまったのである。


「皆、このことは他言無用である。急ぎ協議を執り行い、今後の予定を組みなおさなくては」


 エドバは一礼すると、一気に慌ただしくなった部屋を後にした。王に語り掛けてもらえたということで気分は浮いていたが、それでも長旅の後で休息が欲しいと思うのは、人間の心理として自然なものである。武神とはいえエドバも人間であり、王城の中に与えられている個室で休もうとするのもまた、自然なことであった。

 著名な芸術家の作品が廊下を彩り、エドバの目を楽しませる。いずれ時間があるときにじっくりと鑑賞したいと考えていたが、今の状況ではそれも叶わないであろうことは、想像に難くなかった。

 次の角を曲がれば部屋に辿りつくというところで、壁に寄りかかり煙草を吹かす人影に気が付く。本来ならもっと早くに気づいていただろうが、疲れからか、部屋に到着しそうだという安心感からか、どちらにせよ感覚が鈍っているに違いなかった。


「よお。今帰ってきたところなんだってな。お疲れさん」

「それはどうも。しかし、城の中で煙草など、あまり褒められるものではないな」

「出会っていきなり説教かよ。我が兄は随分と面倒見がいいな」

「いつまでも手を焼かされるのでは、こちらも呆れてしまうがね」


 メネル・エリト。エドバ・エリトの実弟である。同じ父、母から生まれながら、兄と弟の容姿は正反対と言える。エドバが母親に似て鮮麗であるのに対して、メネルは父親に似たいかつい顔つきをしていた。肉体もそれに似合う逞しさだが、決して無駄に筋肉が太いというわけではなく、無駄を極限まで削ぎ落とし、使部分を締め上げ、鍛え抜いた身体だった。鎧などの重装備は一切身に付けず、関節等を守るための最低限の防具を揃え、動きやすさを重視したものとなっていた。


「妖精の件は俺のミスだった。まだ妖精がいるかもしれねえっていうのに、簡単に対処し過ぎた。結果的に兄貴に尻拭いさせることになっちまった」

「気に病む必要はない。そもそも人間界での異世界生命体の対応は、私たち武神団の務めだ。お前達は異世界で結果を出せば、何の問題もない」


 メネル・エリトは、エドバがフィーネル武神団の団長になったと同時に、父親から王立軍総帥の任を引き継いだ。しかし、それは表向きの顔である。メネルのもう一つの顔は、王立軍特殊部隊である『対異世界生命体特務部隊』、その隊長である。

 異世界での活動、魔砲フィリアガン等の武装魔道具を駆使し、亜人や妖精達と戦うことを目的として訓練された精鋭部隊。武神団が盾なら、こちらは矛といったところである。異世界に潜入し、資源調査、諜報活動、必要ならば異世界生命体との戦闘もこなす。


「俺が言いたいのはそういうことじゃねえ。こういうことがあると、兄貴に借りを作ったみたいで気に食わないんだよ」

「心配せずとも、貸しを作ったつもりはない。私は王の命に従っただけ。それ以上の意味は、今回のことに存在しない」

「……そうだな。兄貴は昔からそういう奴だ。しっかし、ついこの前も一人部下がいなくなって、次は十人単位か……。こういうことも考えなきゃなんねえのは、やっぱり疲れる。机よりも戦場に向かわせて欲しいもんだ」


 流石に王城の中で煙草を投げ捨てたりはせず、らしくもない専用の煙草ケースにしまい込む。


「まあ兄貴に会う少し前に、召集を受けたからな。ちょうどいい。俺を呼ぶってことは、お前の言ってた嬢ちゃんの捜索でもさせられるんかね?」

「……盗み聞きとは、感心しないな」

「おいおい、それはひどいんじゃないか?俺の部下が、話の聞こえるところにいただけのことだ。王の命令とあれば、俺は全力でそれをこなす。必ず良い知らせを、王のお耳に入れてみせる。有能であるのが兄貴だけじゃないと、偉そうな大臣や神官どもに分からせてやる」


 メネルは幼少の頃から、兄に嫉妬していた。彼もとても優秀で、誇ることのできる力を備えていた。両親もその周りの環境も、彼のことを認めていた。エリト家に相応しい人間であると。

 しかし、兄には敵わなかった。どんなことでも、上には兄がいる。兄は当然のように、全てをメネルより一回り上手くこなしていく。エドバの才能に、深く嫉妬した。

 二人は成長し、当時、叔父が団長を務めていたフィーネル武神団へと入団した。単純に入団といっても、武神団の中で加入するのが最も難しいのがフィーネル武神団である。王への絶対的忠誠心、命令を完遂するために、困難を乗り越えるための意思の強さ。そしてなにより、目的を果たす実力。これらを備えていると判断されて初めて加入が許可される。そんな集団の中で二人は研鑽を積み、順調に成長していった。

 叔父が引退を決めるころ、二人は武神団内で一、二を争う存在となり、彼らは次期団長を決める決闘を行い——エドバが勝利した。エドバが武神となったことの証として、圧倒的な敗北がメネルに突き付けられた。

 決闘が終わると同時に、メネルは武神団を脱退。王立軍総帥の座を父親から受け継ぎ、今に至る。


「時間だな。あんまり遅くなるとどやされちまう。そんなに慌てなくても、俺が直々に出向けば簡単なことだって分からせてやんねえとなあ」

「油断は禁物だ。見つけるのは容易くても、確保するとなれば話は違う。——ハル・アリアを侮るな」


 珍しく語気を強める兄を見て、メネルはわざとらしく大きな溜息を吐いた。


「そんなことは、俺が一番よくわかってる。同じ間違いを繰り返すのは人間の性だが、俺は違う」


 吐き捨てるように言葉を発し、エドバの来た道をたどっていく。その背中を見送る目には、少しだけ悲しみが含まれていた。


 *     *     *     *


 石造りの飾り気のない大部屋で集まる、身なりの良い妖精達。

 彼らの慣習として、議論を行う際には、円形に切り出された石を机として加工したものが用いられる。お互いが向き合ってしまえば、それは仲間内の中での分断を表すとし、それを忌避する意味でこのような方法がとられていた。妖精達は過去の歴史から、同種の対立というものに、相当過敏であると言える。実際、政治を行う以上主張の違いは出てくるものなので、あくまでおおやけでの話ではある。


「全く進展のない侵攻計画に不満をもつ者達が出てきています。一刻も早く人間界に移住したいと考えているようだ」

「そのような輩のために、先日人間界を襲わせたというのに……あの程度では手緩いか」

「若い者は血気盛んだ。敵がいるとなればそれを打倒したいと、そう思うのは仕方のないことかもしれん」

「人間たちは我らのように強くはない。魔術を使う特殊な道具がなければ、奴らは私たちに蹂躙されるほかないのだ。そう急ぐこともあるまい」


 近頃の議題は、対外的なものより、内側、特に過激派と呼ばれる若者達への対策と配慮が話し合われている。彼らは、人間や亜人のことを下等な生き物として扱い、いざとなれば即時殲滅できると、そう考えていた。


「そろそろ、大規模な戦闘でも起こしましょうか。彼らの意識をもっと外に向けるには、それが一番でしょうから」

「そういえば、もうすぐ人間界で『神母祭』などという祭りが開かれる、という報告がきていました。人間の王を神として崇める彼らが、神の誕生した日を一年に一度祝うために行う催しらしいですよ」

「はっ! 神など馬鹿々々しい! もし神が存在するならば、どうして我々の歴史を傍観していた?この世を創造したもののことを神とするならば、そやつは相当無責任であるな!」

「全ての神の起こす奇跡は魔術ユースフィリアによって説明できてしまう。もちろん、実際に実行可能な規模は限られてしまいますが」

「まあまあ。別に異種族の信仰のことなどどうでもよいではありませんか。それで、例の催しはいつ、どこで開かれるのですか?」

「はい。人間の暦でちょうど一カ月後、王都シャベラでの開催となっているようです」

「王都のう……。仕掛けるには少し、標的を急ぎすぎではないかの? いくら我らといえど、少数で突破できるほど奴らも脆弱ではないじゃろう」


 この場の中でもっとも最年長にあたる彼の名はキコ・フルー。正確な年齢、出生等は誰も知らない。

 数少ない彼の情報の中で有名なものは、通常の妖精の三倍以上の年月を生きているということ。二代前の女帝の時に起こった、妖精界史上最後の内乱。小規模ではあったものの、それを収めた功労人が、何を隠そうキコ・フルーなのであった。

 二代前の妖精女帝からは、みな何事もなく平穏に寿命を全うしている。つまり、キコ・フルーのみが異常に寿命が長いのである。

 何かしらの魔術ユースフィリアによるものだと予想されているが、もし本当に二百年以上その効果を持続させるだけの力を彼が持っているならば、一人で妖精界を支配することもできるだろう。そういうわけで、彼は妖精達の憧れと畏怖の的であり、敬意を込めて『老師』と呼ばれている。議会の実質的な決定権は、やはり彼に託されていた。


「しかし老師、今回のことは良い機会ではないでしょうか? 過激派の連中を先頭に立たせれば奴らも満足するでしょうし、こちらも様々な方面でやりやすくなります」


 要は過激派を先頭に立たせ、多くにということだ。


「ふむ……。王都を攻撃するとなれば、奴らは全力をもって守りを固めるであろうな。……よろしい。相手の戦力を徹底的に調べ上げ、こちらの被害が最小になるよう作戦を立て、遂行せよ。——いや、それも儂がやろう」

「老師ご自身がですか? しかし——」

「なんじゃ。何かまずいことでもあるのかの? それとも、こんな老体には任せておけんか」

「いえ! 決してそのようなことは」


 まだ若い議員は、キコに飲まれ、完全に気圧されていた。


「心配するでないぞ。儂とて、無駄に長く生きているわけではない。ああ、もちろん皆が反対ならば潔く引き下がるつもりじゃ。老害などと呼ばれてはたまらん。さあ、どうじゃ? 遠慮なく言うてくれ」


 キコは隣から順に、円になって座る同胞と目を合わせた。キコと目を合わせた者は誰もが冷静さを失い、脅迫されているような気分に陥っていく。温厚そうな目元の奥に宿る冷たさに、彼らは怖気づいてしまったのである。


「特に反対もないようじゃの。こんな年寄りにもできることがあるのはありがたいことじゃ。さて、先に失礼させてもらおうかの」


 キコが席を立ち、ゆっくりと部屋を出ていくまで、誰一人として身動ぎもしなかった。部屋の温度の低さは、彼の威圧感も手伝っていたのかもしれないと、残った誰もが考えていた。

 そんなことはつゆ知らず、キコは王宮から離れた小さな自宅へと急ぐ。そして到着すると書斎に籠り、休む間もなく手紙を書き始めた。

 ペンをおき、手紙に封蝋を施したところで部屋の前に人の気配を感じ、出迎えようと立ち上がる。


「私です。夕食を届けに参りました」


 声を聴きドアを開けると、一人の清廉な女性が控えていた。彼女は手に湯気の上る鍋を持っている。蓋をしているせいで中身は見えないが、漏れ出た香りから恐らくシチューだと判断した。キコの好物を、彼女はよく理解している。


「……毎度、苦労をかけるの」

「いえ、そんなことは。急ぎますので、これで失礼します」


 驚くほど素っ気ない短いやり取りの間に、老師の手には手作りのシチューが。女性の手には手紙が握られていた。

 ドアが閉まり足音が遠ざかると、キコは椅子に深く腰かけ、窓に降り積もる雪を眺める。彼の表情は、孫を心配するただの一老人であった。

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