第5話 夜の街
その後の日々は、何の滞りもなく過ぎていった。二人の関係が特別良くなるわけでもなく、悪くなるわけでもなく。剣の鍛錬をする時と夕食の時以外顔を合わせることはなく、桜を見た夜のように二人きりになることもない。
それが一週間ほど続いた後のこと。この沈黙状態を破ったのはテルンだった。
「今日の夜部屋に戻った後、すぐに寝ないでしばらく起きていてくれ」
「え?どういうこと?」
息を整え休憩している間に、テルンがさりげなくサラに近づきこっそりと耳打ちしたのだった。サラの問いはすぐに離れてしまったテルンには届かず、もやもやとした気持ちだけが残り、それを剣で吹き飛ばそうにもなかなか離れていかず、その夜まで続いたことは言うまでもない。
そして、夜に自室のドアがノックされた瞬間それに飛びついたのも、無理はないだろう。
「どういうつもり!」
「おい! 大きい声出すなよ!」
空いた隙間からするりとサラの部屋に忍び込んだのはテルンだった。大きめの荷物を背中に背負っている。サラは不審と思いながらもドアを閉めると、腕を組み、不機嫌な気持ちを全面に出して腕組みした。
「こんな時間になんの用なの? 夕食はいつも一緒なんだから、話したいことがあるならその時でいいじゃない。それとも、他人には言えないようなことなのかしら? ……ま、まさか!」
自分で言って何かの可能性に思い至ったのか、サラは顔を赤らめ腕組みの高さを上げて、膨らみ始めている小さな胸を隠すようにした。
「は? ……ち、違うっての! 告白しに来たわけでも、夜這いしに来たわけでもねえよ!」
「よば……! 大きな声でそういうこと言わないで!」
部屋前の廊下に人をいないことを確かめて、二人はほっと胸を撫で下ろす。
「俺が来たのは、準備が出来たからだ」
まだほんの少し体温が上がったままのテルンは、気まずくなる前に本来の目的を話し出す。
「お前を母親のところに連れて行く」
「……気持ちだけ貰っておくわ。話は終わり?それなら早く出て行って」
ドアを開け放ち、サラはテルンを睨み付けた。
「会いたいんだろ?」
「……頼んでないわよ、そんなこと」
テルンは睨まれても、一切引かなかった。むしろサラと眼を合わせ続けた。サラは自分の心の奥底が読み取られているような感覚を覚えて目線を切り、言葉を吐き出した。
「そういうの、要らぬ世話っていうのよ」
「確かに、頼まれてない。お前が頼むはずがない。でも、それじゃ答えになってない」
テルンはサラに詰め寄り、右手を乱暴に掴んだ。
「行くぞ」
もはや見つかることも気にせず、廊下をずんずんと進んでいく。テルンはその間もずっと、サラの手を握ったままで。サラもなぜか、振り払う気になれなくて。
階段を次々と降りて玄関に辿りつくと、そこにはハービットが待ち構えていた。サラはテルンが隠れるように言うだろうことを予期して陰に身を置こうとしたが、それに反して、テルンはサラの手を引っ張り続ける。二人はそのまま玄関ロビーの明るみの中に足を踏み入れた。
「ハービットさん。こんばんわ」
「おやおや、そろそろおやすみになる時間ではありませんか?」
「ここには三人だけです。……ご迷惑をおかけします」
「話は通してあります。これが、サラ様の荷物です。……主のこと、よろしくお願いします」
ハービットが錠を解き、玄関がゆっくりと押し開けられていく。灯りが外に漏れ、屋敷の外に繋がる道を照らす。
家の執事がテルンに協力していることを知って、サラは動揺した。自分が母親に会いに行くことが、正式に許されたということなのだろうか? それならば、一体なぜ、こんなにもこそこそとしなければならないのか。
それでも、サラの足は前へと進み続けている。テルンの力は強くて、止まることを許さなかった。迷わせないように、考えさせないようにするために。
正門の守衛はテルン達が近づくと、何も言わずに道を開けた。
その境を超えれば、目の前には暗く深い叢林が広がっている。父の許可を得ずに屋敷を出るだけでなく、禁止されていた母親との面会を叶えにいく。サラは後ろめたい気持ちが湧くのを抑えきれないでいた。
「今は振り返っちゃだめだ」
サラは図星を突かれ、びくっと身体を震わせる。それはテルンにも伝わったが、テルンは構わずサラの手を引いていく。
それに導かれているうちに、サラは自分が敷居を踏み越えていることに気が付いた。もう二人は駆け足になっていて、背負っていた荷物が身体の動きに合わせゆさゆさと揺れている。下り坂を降りている間、周囲はあまりにも静かで、二人の息遣いや地面を蹴る音、荷物の擦れる音がやけに大きく聞こえた。
二人は道なりにひたすら進み、最寄りの街を目指していた。夜中でも光に溢れるその街は、多くの人間が遅くまで活発に活動していることを示している。テルン達はそこで宿を探さなくてはならなかった。
「お前って、街で見つかるとめんどくさいよな?」
「どういうことよ」
「人が集まって来るだろってことさ」
ケミル家は世界的に有名な商売人であり、その一人娘となれば公の場に出たことは一度や二度ではない。そしてここは、彼女が別荘に住んでいる間、買い物によく訪れる場所だ。彼女の顔を知っている者は多い。普段お供している護衛が居ないとなれば、珍しさから集まる野次馬のほかに、何か良からぬことを企む輩がいないとは限らない。
「これ被って顔隠しとけ。そんで、できるだけ顔を伏せて歩いて」
テルンはサラの荷物の中からスカーフを取り出して持ち主に放り投げる。
「そんなことしたら前が見えないじゃない」
「俺が先に歩くから、その後をついてくればいい」
街に入れば、二人だけの山道とは正反対の喧しい空気が二人を包んだ。俯いて歩くサラは、幾つもの人影が道に映し出され、交わり離れ、視界から増えて消えていくのを見ていた。まるでダンスか、劇を見ているようだとサラは思った。その一部となり隙間を縫いながら、テルンは顔を上げ、宿の看板を探す。
サラはいつの間にかテルンの注意を忘れ、街の景色を目に焼き付けていた。酒場の窓から漏れ出す灯りの中では、店員たちが慌ただしく動く影があり、外では売り子たちが、声を張ってお客を呼び込んでいる。立ち食いの屋台に人が並び、片手には酒を持って踊る、顔の真っ赤な男が当たりをうろついていたり。
「そういえば、お金ってどれくらい持ってきたの?」
「……えーとだな」
サラは自分の荷物の一切を全て選んでもらったような状態で、テルンに問うより仕方がないのだが、その歯切れの悪い様子に嫌な予感を起こさずにはいられなかった。
「まさか一文無しなんてことは……」
「ないない!流石にお金は貰ってきてるって!ほら、確かこっちのポケットの中に……中に……?」
ごそごそとズボンの前ポケットを漁るが、テルンの手に当たるのはその布地ばかりで、肝心の堅い金貨の感覚が得られない。
続いて後ろのポケット、鞄の中、ひいては預かったサラの荷物の中身まで引っ掻き回し、中のサラの様々な衣類の、あるものは触らないよう気を付けながら探して——結論は出た。
「わ……忘れてきた……」
そのセリフに、サラは予感が的中したのと同時に、眩暈に襲われたような気がした。
「ちょっと……今日どこに泊まるのよ。こんなにこそこそ出てきておいて家に戻るなんて、無理矢理引っ張って来られただけの私ですら恥ずかしいわ」
そんなことは言うまでもなく、テルンも脂汗をつらーと流しながら、荷物をひっくり返して探し始める。道の真ん中で荷物をぶちまけるという突飛な行動に通行人は驚いたようだが、彼らはすぐに自分達の世界に戻っていく。
「いや、いざという時のためにハルからお金は貰ってるんだよ。どっかで迷子——一人になっても、何日かは過ごせるくらいの額をさ」
テルンが同じ意味のことをわざわざ言い換え、意地を張ったことにくすりと笑いながら、サラは少しだけ緊張がほぐれたことを自覚した。
「じゃあ問題ないわね。お母様の住む王都まではせいぜい三日程度だし。今日は
もう遅いし、疲れたわ。あそこの宿に泊まりましょう……どうかした?」
テルンはぽかんとした表情で話を聞いていた。何言ってんだこいつと言わんばかりの顔で。
「そうか……お前、そういうこと全然わかんないんだな。絶対に俺より頭いいのに」
「私、何か変なこと言った……んでしょうね。あなたのそのむかつく顔と声音と言葉を聞く限り」
その幼くも将来を期待される容姿に苛立ちの情を伺わせて、サラはテルンの脛を軽く蹴り飛ばした。
「いや、悪かった。お前の考えてることが間違ってるわけじゃないんだよ。ただ、俺とは違うってだけ。もっと言うなら、一般大衆と違うだけ」
ありそうな話だ。サラはケミル家の令嬢で、近くには必ず世話係がいて、あらゆる雑務は全て彼らがこなしていて。彼女が直接関わるものはその全てが一流で。箱入り娘のように——剣を振り出したのは誤算だったかもしれないが——大切に育てられ。
「ちなみに、今お前が入ろうって提案したところだけどな。今の持ち金じゃ、一泊どころか夕食もまともに食べられないと思うぞ」
今度はサラがぽかんとする番だった。自分が世間に疎い自覚がないわではなかったが、まさかここまでだとは自分で思っていなかった。
しかし、仕方がない。それが当たり前として育ってきたのだから。
「とにかく、もっと安く泊まれるところを探そう。値段に関しちゃ、どこの街にも必ずピンからキリまであるからな」
そういってテルンは再び足を繰り出していく。サラはショックを引きづっているのか、心なしか身を縮めながら、テルンの後をついて歩いた。
しばらくぶらぶらと見て回っていたが、ほどなくテルンは街の中心から離れ始め、脇道のような場所を通る回数が増えていった。
「ねえ、どんどん人も、明かりも少なくなってきてるのは気のせいじゃないわよね?」
「もちろん。そういう場所を選んで通ってる」
中には怪しげな店や露店が開かれている場所もあって、サラは気味悪そうにこそこそと歩く。
「理由を聞いてもいいかしら」
「安いからに決まってんだろ」
「こんなところにある宿って……ごはんとかでないわよね?」
当然、と答えながら、テルンは臆することなく自由に動き回る。もはや自分の知らない世界へと入り込んでしまったような感覚で、サラは唯一の頼みであるテルンの背中に、ほとんどくっつくようにして歩いていた。
「ここにしよう」
サラの想像を絶するものが、そこにはあった。
ようやくテルンが立ち止まったのは、街の中央どころか端もいいところの、今にも崩れそうな宿屋の前だった。営業しているかもよく分からず、壊れたドアは風に煽られ、背中に寒気の走る音を上げる。長いこと掃除していない、どこからか異臭もしてくるような、そんな建物。
「冗談よね……流石に」
「ここなんてまだいいほうだぞ。屋根と壁があるんだから」
サラの悲鳴のような抗議を気にするでもなく、テルンはすみませーんと気の抜けた声で建物の中に上がり込み、その後ろ姿は消えていった。
サラは今更になって、お金がないという現実と、それによって自分に降りかかっている災難を噛み締めていた。
「……帰りたい」
確かに、母親と会いたいと漏らしたのは自分で、テルンはそれを叶えようとしてくれている。こんなことをしたところで、彼は何も得られないというのに。わざわざ自分を連れ出して、世話を焼こうとしている。
サラはそんなことを考え始めた、情けない自分に耐え切れず、テルンを待たず走り出した。自分が今どこにいるかもわからず、目に付いた道に向かって夢中で走った。テルンから距離を取ることしか、サラは考えていなかった。
だから、自分の後をつけていた気配に気づくことなどできなかった。
サラは暗闇から現れた手に腕を掴まれ、そちらを振り返った瞬間、逆方向から強い衝撃を受けて地面に叩きつけられる。
慣れない砂利の感覚に顔をこすりつけられ、頬が少し擦りむけたのを感じた。
「こんな時間に女の子一人で出歩くなんざ、こうしてくださいって言ってるようなもんだよなあ」
「しばらく様子見てたが、たぶんこいつ、あの山の上に住んでるケミル家のお嬢ちゃんだぞ」
「もう少し大きければ、買い手も少なくないだろうが……まあ、素材は悪くねえな」
頭の上から聞こえる声は三つ。急速に冷え始めた思考で、今の状況を確かめた。
自分が暴走した結果、どことも分からない路地に迷い込み、大人の男達に囲まれている。見えるのは地面だけ。相手がどんな風貌なのかすら、押さえつけられた視界には映らない。
「離しなさい!あなたたちが誰かなんて知らないけれど、許されることじゃ……!」
なんとか起き上がろうと激しく身を捩るが、押さえつける力が強まるだけで脱出の見込みはどんどんと無くなっていく。
「あーややこしい。おい、さっさとこの町出るぞ。流石にここで売ったら足がつく」
「離して!誰か助けて!……っ!」
叫ぶように言葉を続けようとしたところで、男の拳がサラの身体にめり込んだ。普通の女の子ならば骨折の一つでもしていただろう暴力が軽々しく振るわれた事実に、サラの心は恐怖に塗られその覇気を奪っていく。
「近所迷惑だろうが。ちぃっと静かにしとけ」
サラが大人しくなったのを確認して、男はその小さな身体を担ぎ上げる。サラは弱々しく抵抗するも、もう体に力は入っていなかった。
三人の男は、仲間の待つ町外れのアジトへと向かう。見回りの成果を報告して、そのまま荷物をまとめるために。月が西に傾き始めた頃合いの郊外には人の気配など微塵もなくて、男達は悠々と街を抜ける。今回の報酬を予想し語らいながら、彼らは住処へと辿りつき、上機嫌にその中へと足を踏み入れた。
「おい、今日は金になりそうなのが手に入ったぞ」
「へえ、そいつは良かった。けど悪いね、それは俺の探し物なんだ」
報告に返事を返したのは、三人には聞きなれない、まだ声変わりも終わっていない、少年の声。それに、よく注意するとなにやら呻き声も聞こえて、そちらにはどうも覚えがあった。
男はもう一歩踏み込み、死角になっていた場所を覗き込む。すると、担いでいる少女と同じくらいの年の男の子が、剣を片手に仲間を踏みつけ、待ち受けていた。
「その肩の荷。返してもらうよ」
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