第2章 Reunion
第1話 真夏の雪
人間界屈指の豪邸が、喧騒から離れた自然の中に人知れず建てられたのは随分と前のことだ。
ケミル家は商売人として世界中に知られるほど稼ぎ、王都の一級地に屋敷を建てた後、持て余した財力を使っていくつもの別邸を建てた。その一つがこの屋敷であるが、ケミル家現当主は静寂を好み、こちらに本拠を移している。
その屋敷の一室。ドアが開き、一人の女性が柔らかな部屋の絨毯を踏みしめる。部屋に届けられていた新聞を手に取り、窓辺に置かれた椅子にそっと腰掛ける。彼女の腰まで届く黒髪はしっとりと濡れていて、月明かりを反射して妖しく光っていた。お風呂直後の身体の火照りで、頰はほんのりと紅くなっている。それを冷ますため、彼女の豊満な胸元ははだけていた。窓から流れ込む夏の冷んやりとした心地よい夜風が、彼女を包み込んでいく。
灯りを点けようとして
今日、王都では神母祭が開かれていたはずだと一面に目を通す。
「王都で行われた神母祭を、亜人、妖精、及び危険思想を持った人間が襲撃。王立軍は撃退に成功するも、罪人を奪われた。写真はその主犯格と思われる人間である——っ!」
一日の仕事の疲れで閉じかかっていた瞳が大きく開かれた。ガタンっと大きな音を立てて、椅子を蹴るようにして立ち上がる。身体が雷に撃たれたような衝撃が襲い、震える手は強く握られ、新聞はくしゃっと潰れてしまっていた。
「サラ様、如何なされましたか?」
ドアの前に控えているメイドが室内の騒音を不審がり、主人の無事を確認した。
「ごめんなさい、大丈夫よ。少し驚いてしまって」
サラは胸に手を当て、飛び出さんばかりに跳ね上がる心臓を抑えようとした。そのままふらふらと力無くベッドに倒れこむ。
「生きていたのね……。もう一度、私は彼に会える……」
目を閉じれば、溜まっていた涙と、過去の思い出が溢れ出す。
初めて会った日のこと。道場で木刀を構えあった印象は、どこにでもいる、弱い男の子だった。
* * *
サラ・ケミルは人間界の大商人、ケミル家の長女として生まれ、大切に育てられた。女性の嗜みとして多くのことを教え込まれ、それら全てを完璧にこなすサラは、その整った容姿を相まって将来を期待される令嬢となる……はずだった。
齢七つを数えた年のある日、サラは自分の身を守る術を身に付けることも必要だと、ケミル家の営む剣術道場に赴いた。最低限のことだけ学び、それでもうここに関わることはないと思っていた。
しかし、道場に足を踏み入れれば、そこはまるで異世界だった。今まで経験してきた社交場の馴れ合いと上辺の華やかさ、ねばつくような視線と空気とは全く別種で、自分見る視線は刺さるよう、肌に触れる空気はピリピリと震えている。今まで押し込めてきた、心にある靄のようなものが取り払われたような気がした。
サラは剣術に引き込まれていった。厳しい鍛錬を受けているうちに、サラは自分にとって何よりも身体を動かすことが楽しいと分かってしまったのだ。負けず嫌いの性格はそれに向いていたし、何より彼女にはその素質が備わっていたようで、二年も続けた頃には同年代の子供では相手にならなくなっていた。自分の強さに満足することはなかったが、それでも競うべき相手がいないという事実を、彼女はどこか退屈に感じていた。
サラがテルンと出会ったのは、そんな時だった。
「おーす。久しぶり。遊びに来たぞー」
道場に、今まで聞いたことのない声が響く。呑気だが良く通る、誰もがその主を探すような、そんな声。
「ハルか。随分と久しいな」
道場主でもあるサラの師匠が立ち上がり、入り口に立つ人物を迎えに出る。
連れられてきたのは、だらっとした雰囲気を纏いながらも、何故か隙の無い男と自分と同い年位の剣を背負った男の子。サラは珍しい道場へのお客を思わずまじまじと見つめていた。
男は道場主と何か話していたが、男の子は初めてきた場所が珍しいのか、きょろきょろと中の様子を観察していたが、そのうちサラの視線に気づいたようだった。
男の子は男から離れ、サラに近づいてくる。サラは同い年とはいえ、初対面の相手に失礼のないようきちんと挨拶しようと笑顔で立ち上がった。
「初めまして、私は——」
「あれ?女だったのか。髪も短いし、てっきり男かと思った」
握手しようとして差し出したサラの手がぴたりと止まり、静かに下ろされる。周りにいた歳の近い門下生たちは、それを見てそーっと離れていった。
突然黙りこんだことを不思議に思ったのか、男の子は怪訝な表情を浮かべる。
サラは顔を伏せていて、下ろした手は固く握りこまれ怒りにプルプルと震えていた。
「なあ、急にどうしたん——」
「だからなんだって言うの……」
「え?」
サラは顔を上げ、きっとテルンを睨み付ける。だんっと強く踏み出し、木張りの床は派手な音を立てる。詰め寄られた男の子はその様子に気圧されたのか、近寄られた分一歩後ろに引いていた。と思えば、サラはまた一歩詰め寄る。引いて、詰め寄って、引いて、詰め寄って。気付けば二人は道場を横断していて、男の子は壁際に追い詰められる。サラは今にも胸ぐらを掴まんばかりの、怒りの形相だった。
「私はサラ・ケミル!あなたの言う通り女よ!それで?あなたはなんて名前なのかしら?」
捲し立てるように自己紹介を終え、相手にも名乗るよう促す。男の子は少し驚いた様子だったが、すぐに余裕の笑みを浮かべた。
「俺はテルン・デパーニア。ハル・アリア武神団の団員さ」
* * *
「よかった……全員無事か」
神母祭の次の日。テルンは手筈通り、テディの体調が回復するのを待ってから人間界のメロン達と合流した。森の中で身を潜めながらお互いの状況が分からない中で過ごした一夜は不安に苛まれていたが、こうして顔を見られたことで、誰もがほっとしたようだった。
「なに、メロンあんた泣いてるの?」
「な、泣いてないよ!」
安堵した心の弛みからか、メロンの瞳には涙が溜まっていた。リオはそれを茶化したが、自分自身もかなり心配していたことを自覚していて、誰もいなかったらうっかり泣いていたかもしれないと、心の中で苦笑いしていた。
「みんな揃ったし、少し休憩しよう。ここはまだ王都から近すぎるから、もう少し離れた街でまた宿を探そうぜ」
「そうですね。王都付近の街は厳重警戒状態でしょうから、そんなところじゃ呼吸をするにも緊張しそうです」
「別に人間界じゃなくても、亜人界で過ごせばいいんじゃないかな?こっちよりは安全だと思うけど……わ、私変なこと言った⁈」
一気に視線が集まったことで、メロンは何か自分が何かしでかしたかと落ち着かなくなっている。
「いや、普通にその通りなんだけどな」
「ただ、ねえ」
メロン以外が顔を見合わせ、お互いの考えがあっている事を感覚で確かめ合う。
「疲れてますし、屋根のあるところで寝たくないですか?」
「俺はずっと閉じ込められてたし、風呂にも入りてえ。あと酒も」
「俺は慣れているし構わないが、無理をする必要もないだろう」
皆がうんうんと頷く中、メロンはかーっと顔を赤くしていく。
「メロンもサバイバル好きになったもんだ……」
「ち、違うってば!私だってふかふかのベッドで寝たいよ!」
にやにやと笑うテルンをゆっさゆっさと揺らして抗議するが、周りの目が微笑ましくなるだけで、何も解決になっていなかった。
「さて、冗談はそろそろおしまいにして、ちょっと話があるんだけど、いいかしら」
リオの真面目な声に、メロンはテルンから離れて行く。
「今回のことで、私が生きていることと、軍を裏切ってテルン達の仲間になったことが向こうに伝わったと思う」
「確かに、リオさんは城壁に登ってきた兵士と直接接触していますから、姿を見られてしまっているでしょうし……」
「ああ、そういうことじゃないの。
ではなぜ?と、プシノの疑問顔にリオは木に立てかけた旧式レイピアをこつこつと叩き、その意味を伝える。
「催眠弾を使った狙撃。あれを使える奴は限られてるの。祭りの詳細を王立軍の総帥が知れば、今回のことに私が関わっていることに勘付く。単なる狙撃なら、多少訓練すれば誰でもできるようになるけどね」
城壁の上でフェガの抱いた感想は的を得たもので、リオはその分析力に内心舌を巻いていた。
「それで、ここからが本題。これから私達が向かう場所への提案よ。私の故郷の小さな村。その様子を見に行きたいの」
* * *
夏の暑い最中、時々激しい雨に打たれながら森を抜け、山を越えて進んでいく。ハイキングといえば聞こえはいいが、場所を知っているのがリオだけなので彼女について行くしかなく。地図などないし、そもそもその村は地図には載っていないのだという。
「なあリオ姉、まだ着かないのか……?」
リオの故郷を目指して進み始め、早くも一週間が経過している。敵の気配はなく、初めのうちは好調に歩みを進めていたものの、各自戦闘の疲れが癒えないままであり、そのペースは段々と落ちてしまっていた。目的地に着くまでの道程は結局野宿であり、これなら亜人界に行ってもよかったんじゃないかと、テルンは思い始めていた。
「歩き詰めで、流石に疲れてきたぞ……」
「みんなごめんね。でも、少しでも早く着きたいの」
そういうリオの顔には焦りが見えていて、皆それを察すると再び黙って前に足を出していく。リオだって疲れているはずなのだ。それでもテディを一人で背負い先頭を歩く姿から、彼女の芯の強さが滲み出ているようだった。
「それにしても、なぜそれほど急ぐ?」
余裕のあるフェガが、テディを引き取り背中に載せる。疲れ切ったのかテディは既にすやすやと寝息を立てていた。その寝顔は天使のようで、リオはお疲れ様、と呟きながらブロンドの頭を優しく撫でる。
「ちょっと、心配でね……。杞憂だといいんだけど」
「話してくれて構わないぞ。一人で考え込んでも、良い方向には進まん」
「いいの、本当に大丈夫。それに、もうそれほど遠くないはずよ」
力強く進むのを見て、フェガもこれ以上は聞くまいと一歩を踏み出したとき。
「止まれ」
フェガの声に一行の足が止まる。フェガのこのセリフは常に、近くに異変が起こっていることの証拠だった。
それぞれが身を低くし、フェガの睨む方角から身を隠しつつ、藪や木の陰に紛れ込んだ。
「敵ですか?」
プシノがフェガの肩に降り立ち、小声で問う。
「いや、ほんの僅かだが煙臭さが漂ってきた。山火事かもしれん。一度迂回して――リオ!」
フェガの言葉を聞いた途端、リオは全力で走り出していた。フェガの見つめた方向は、リオの目指す場所と同じ方角で、リオは一刻でも早く自分の目で状況を確かめようと、願わくばただの山火事であって欲しいと、力の限り走り抜けた。
前に進むごとに、普通の人間であるリオにもわかるほど、煙の臭いが強くなってきている。空を見上げれば、生い茂る木の葉の隙間から、黒い煙がもくもくと立ち上っていた。誰かが焚火をしているとか、狼煙を挙げているなどとは考えられないほどの煙の量。リオの心で燻っていた不安の火種が燃え上がり、煙をむくむくと立ち上らせ、それはすぐに充満してしまう。
気づけば、森の切れ目が見えてきた。リオはさらにスピードを上げて、森の外へと飛び出す。
少し遅れて、テルン達がリオに追いついた。そこにあったのは、森の終わりで立ち尽くし、茫然とするリオの姿。そのくぎ付けとなった眼に映る光景は。
「遅かった……私、間に合わなかったんだ……」
業火に包まれる集落と、それを囲み勝鬨をあげる王立軍の影。
空から降ってきた灰が、まるで真夏の雪のように、時間の進みが遅れているかのように、ゆっくりと舞い散っていた。
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