17

「んん……」

 頬を焦がすような暑い日差しに、俺は重たい瞼を上げた。

 太陽は既に真上近くまで上がっている。寝ぼけた頭が勝手に季節と太陽の高さや方角を考え、大体の現在時刻が浮かび上がる。

 予想時刻は、とっくに正午を過ぎていた。

「うわぁああああ寝っ過ごしたーーーー!」

 跳び起きたと同時に、足元が消失した。

「きゃあああああ何やってんの!」

 同じくらい大きな叫び声が上がると同時に、重力に引かれて体が落下し始めた。

 しかしすぐに腕を掴まれて制止する。空中に体がぶらぶらと揺れ、足が地面に着いていないことに恐怖する。

 天羽々斬を使って飛び回っているが、飛ぶこと自体にもそこまで慣れていない上、この高さは普通に怖い。

 全身に嫌な汗をかいていると、俺の腕を掴んでいた細い腕が俺の体を引き上げる。

 ひんやりと冷たいコンクリートの上に載せられ、寝ぼけていた頭が覚醒していく。

「ね、寝起き自殺とか、一体何を考えてるの」

 降ってくる呆れた声に、仰向けのまま視線を上げる。

「心臓が止まるかと思ったよ……」

 見下ろしてくる女子生徒の長い黒髪が、海からの風を受けてなびく。

 俺を引っ張り上げてくれたのは、心葉だった。

「……悪い、助かった」

 どくどくと脈打つ心臓が収まりきらない内に、時間のことを思い出して腕時計を見る。

 時計の短針は文字盤の二を差していた。

「今日の神罰なら来なかったよ」

「え?」

「来てたらさすがに起こすよ。凪君も戦い音で起きるはずだし。だからこんなところで寝てたんでしょ?」

「そういえばそうだった」

 俺が寝ていたのは生徒棟の屋上だ。それも屋上のさらに上の貯水タンクが設置されている部分だ。

 日陰になっていて気持ちいいから眠っていたのだが、日が傾くに連れてどうやら日向に出てきてしまったようである。

「あのでかいチャイムが鳴っても起きないとかどんだけだよ俺……」

 うんざりとして、次からは気を付けようと心に刻む。

 見下ろす心葉を見上げるが、後ろにある太陽の影となって表情はよく見えないが、昨日、あれほど悲しみに暮れ、泣きじゃくっていた姿は見る影もない。

「そんなところに立っていると、見えるぞ?」

「え……きゃっ!」

 心葉は丁度風で浮き上がりそうになり、慌てて押さえながら後ずさる。

 ぺたんと床にしゃがみ込むと、顔を赤くしながら恨めしげにこちらを睨み付けた。

「えっち」

「無罪を主張します」

「ま、私も凪君の寝顔をずっと見てたからいいけどね」

「おい。ずっとっていつからだ」

「うーん、五時間くらいかな」

 本当にずっとだった。

「朝から教室にいないからどうしてるのかと思って探してたら、こんなところで寝てるんだもん」

「そりゃ、寮を出てすぐここで寝てたからな」

「結局、朝まで港にいたんだって?」

「……なんだ、聞いてたのかよ」

「うん。今朝早くに理音ちゃんが寮まで様子見に来てくれたの。そのときにね」

 嘆息を吐きながら昨夜のことを思い返す。

 結局、あの片付けは深夜遅くまで続き、それが終わるまで満足に近づかせてもくれなかったため、白鳥たちが帰ってから始めたのだ。その結果、帰ろうかという気持ちになった時間には、すっかり日が昇ってしまっていたのだ。

 神罰のことがあるから寮で寝るわけにはいかず、ブレザーに着替えた俺は生徒棟の屋上に来て、就寝したというわけだ。

 心葉の言っていた通り、ここなら神罰が始まってもその喧騒で目が覚めるだろうし、ただでさえ来る人が少ないから、ゆっくり寝られると思ったのだ。

 体を起こして大きく伸びをする。力を抜き、やってきた立ちくらみをごまかすように頭を振る。

「お前は大丈夫なのかよ。昨日の今日で」

 尋ねられた心葉は少し顔を強張らせたが、すぐに自嘲気味な笑みを浮かべた。

「ごめんね。取り乱しちゃって。なんかわけわからなくなっちゃって。情けない姿だったよね。笑っちゃうでしょ」

「……笑えるわけないだろ」

 喉から出たしゃがれた声に、心葉が肩を震わせた。

 心葉は俯いたまま次の言葉を紡げず、俺もそれ以上は言えずに口を閉ざした。

 しばらくどちらも口を利かず、ただぼんやりとグラウンドを見下ろした。

「心葉」

 あぐらをかいて座り、意を決して尋ねる。

「昨日、吉田はお前を襲っていた。それは間違いないな?」

「……そう……なんだろうね」

 心葉の暗く影の入った眼差しが、行き場をなくして彷徨う。

「ならもう一つ」

 ずっと気になっていたことだ。

 聞くべきかどうかをずっと迷っていたが、聞かないわけにもいかない。

「あの崩れてきたコンテナも、心葉、お前を狙ったものだったんじゃねぇのか?」

「……」

 その問いが来ることがわかっていたように、心葉は顔色一つ変えずに、ただ視線を空に向けていた。その目には空を映しているが、何も見てはいない。

 それは答えとして十分だった。

「……どうしてだ?」

 自分でもびっくりするくらい暗い声が出た。

「どうして、お前は、命を狙われているんだ?」

 重い言葉が口から落ちて、心葉の肩が揺れる。

 吉田は、ナイフという明確な殺意を手に心葉を襲っていた。

 あのコンテナは、俺や吉田を巻き込んでも心葉を殺そうという悪意に溢れていた。

 コンテナが崩れてきた。

 それが一体どれほどあり得ないことか。作業中や運搬中に崩れるということなら可能性としてはあり得るだろう。

 だが、あのときは作業なんてしているわけがない遅い時間帯。重機が動いていれば気付かないわけがない。

 その上で、コンテナは崩れてきたのだ。

 意図的に力を加えるか何かの細工をしない限りコンテナが崩れてくるなんて起こるはずがない。

 結局、夕べ白鳥達の評議会が動いたが何もわからず、俺も遅くまで残っていたがわからなかった。

 そんな、狂気にまみれた方法が採られたのだ。

「紋章所持者だからだよ」

 心葉は、こともなさげに答えた。

 季節は五月でもう十分暑くなっていると言うのに、心葉は寒さを凌ぐように膝を抱えた。

 首に巻かれたショールに顔を埋め、目を閉じる。

「紋章所持者はこの島において、とても優遇された立場の人間なの。望めば大抵のものは手に入るし、ほとんどのことが許される。神罰で唯一、得がある立場の人間なんじゃないかな」

 自身のことを語りながら、心葉は自嘲気味な笑みを浮かべる。

「毎年ね、その年で一番神力を極めた生徒に与えられるんだ。私、仙術も使えるけど武器を使った戦いは苦手なんだ。でもね、術の扱いだけならこれまでの歴史の中でもトップクラスらしいね。だから、今年の紋章は私に与えられた」

 微かに目を開け、微かに潤んだ瞳を眼下に広がるグラウンドへと向けた。

 グラウンドでは連休明けの鈍った体をほぐすように、多くの生徒が修練に励んでいる。連休明けということで午後一杯は修練の授業らしい。

「皮肉だよね。神罰で自分を、誰かを守りたいと思って身に付けた力なのに、戦わなくてもよくなるなんて……」

 その言葉は俺に向けられたものではなく、自らに返した言葉のようだった。

「戦わなくていい立場になったから。だから襲われてるっていうのか」

 心葉は答えず、瞬きすらしない目で俺を見た。

「そうだよ」

「……」

 きっと、この島に来る前の俺なら、怒りを覚えて立ち上がり、「そんなのおかしい」、「間違ってる」、なんて叫んでいたのだろう。事実それは理不尽なことであるし、あり得ないや許せないという思いがあるのは間違いない。

 だけど、一ヶ月足らずこの島で、美榊島第一高校で生活しただけで、わかってきている。

「そんなものだよ……この島は……」

 俺が心の中で思ってしまった言葉を、心葉があっさりと口にした。

 まだこの島に来て間もない俺も思ってしまうのだ。この島で生まれてずっと暮らしてきた心葉たちが、そう考えてしまうのは仕方がないことなのかもしれない。

 何か言おうと口を開こうとしたが、何を言えばいいかわからず、吐息だけが漏れた。

 心葉は穏やかに、それでいて乾いた笑いを浮かべ、俺を見ていた。

 何か言おうとしたが、そのとき急に、頭に重い衝撃が走った。

「グァーグァー!」

「ホウキか……。寝起きの頭に、ナイスな一撃をありがとう。夕飯は鳥の唐揚げかな」

 恨めしげに呟いた言葉に応えるように、ホウキがもう一度鳴き声を上げる。

 結構な衝撃に首が痛い。

 頭の上に止まって鳴き続けるホウキを、心葉がひょいっと取り上げる。

「さっきまでずっと凪君の傍にいたんだよ。だから凪君がここにいるのに気づけたの」

 心葉に抱きしめられ、ホウキは気持ちよさそうに丸まった。

「暢気なやつ」

「かわいいよね」

 ……それは否定しない。

 ホウキの乱入に、重い空気はどこかへ消え去ってしまった。

「あー、なんか腹減ったな。ずっと寝てたから」

 一度有耶無耶になった話をいちいち蒸し返すのも馬鹿らしい。

「そうだね。学食行く?」

「いや、弁当持ってきてるから」

 貯水タンクの下に手を伸ばし、そこから青い包みを取り出した。

 その包みを開き、取り出したものを並べていく。

「……なぜ重箱?」

 心葉が並べられた三つの重箱を前に疑問を浮かべている。

「休みの間に作り置きしてた料理、全部詰めてきた。そろそろ食べとかないといけないからな。心葉も食べるの手伝ってくれ。はい、箸」

 持ってきていた割り箸を一つ、心葉に渡す。

「よし、ホウキ。お前も食べるんだ。いつもの獣並のた食い意地を思う存分に発揮してくれ。丸々と太ったら、俺がお前を食う」

 紙の器にホウキでも食べられる料理をよそって置いてあげると、ホウキは心葉の腕から飛び出して、勢いよくがっつき始めた。

「心葉も好きに食べてくれ」

「う、うん。いただきます」

 心葉は小さな手を礼儀正しく合わせ、割り箸をパチンと割った。

 そして、出し巻き卵を一口食べると、むぅーっと口を膨らませた。

「やっぱり、本当に美味しい。女として悔しいよ」

「そうか? この間心葉が作ってくれたクッキーも美味しかったぞ?」

「お菓子作りには少し自信はあるけど、こういう料理はこんなに美味しくできないよ。なんかコツとかあるの?」

 俺は豚の生姜焼きを頬張りながら唸る。空いたお腹にカロリーが染み渡っていく感じが心地良い。

「基本に忠実ってのはもちろんだけど、慣れると人に食べてもらうことを考えて、あとはその人の好みに合わせて少し変えてみるとか」

「でも、この料理とかはそういうことしてないでしょ?」

「いや、これは女子に合うようにちょっと味を薄めに……」

 口を滑らしたときには既に遅く、じとーっとした目が二つ俺を見据えていた。

「凪君……。女の子目当てに料理作ってたの?」

 暖かい空気がいきなり凍り付いた気がした。

「こ、心葉さん? 違いますよ?」

 口調が勝手に敬語になる。

 心葉は悪戯っぽい笑みを浮かべながら、肘で脇腹をつついてくる。

「まーたまたー。実は狙ってる子とかいるんじゃないの?」

「いや、いないから。そんなことする暇ないし」

「暇があったら狙っていると」

「だから違うってっ」

 一方的に攻撃をされるのも癪なので、逆に反撃に転ずる。

「心葉はどうなんだ? 付き合ってる人とかいないのか?」

 神罰という特殊な環境ではあるが、心葉もそうだが玲次や七海も青春真っ盛りの高校三年生だ。彼氏彼女がいても不思議ではない。

 心葉は前髪を指でくるくるといじりながら、自嘲気味な笑みを浮かべた。

「うーん、私はいないかな。元々誰かと付き合うとかってよくわかんないし」

「そうなんか。意外だな。心葉、モテそうなのに」

「そ、そんなことないよ。私、誰かと付き合えるような立派な人間じゃないから」

 顔を赤くして必死に否定する心葉。

「それに、好きな人と付き合うとかって、私達には難しいことだから」

 私たちが、誰にかかっているのかはすぐに理解できた。

「……だよな。恋愛なんてしてると、色々面倒だもんな」

「いや、そうじゃなくて……」

 心葉は答えようとしていたようだが、途中で言葉が喉に引っ掛かったように口をつぐんでしまった。

「なーにしてるんすか?」

「うぉびっくりした!」

 危うく落としそうになった箸を、空中で何度か弾いてなんとかキャッチ。

 声がした方を振り返ると、梯子の部分から頭だけを覗かせた白鳥がいた。

「いやー、授業サボって二人でランチとは、熱いっすね」

 よっと勢いをつけて、白鳥は跳び上がり俺の横に着地した。

「いや、そんなんじゃ……」

「おー、おいしそうっすね。僕ももらっていいっすか?」

 人の話を聞くどころか、自ら話すらスルーして置いてあった予備の割り箸を手に取っていた。

「おお、この煮付けおいしいっすね! 心葉が作ったんすか?」

「え、ええっと……」

「……俺が作ったんだよ」

 もう今更何を言っても無駄な気がして、俺も食べることを再開する。

「はぁ!? これを八城君が!? 冗談でしょ!?」

「その反応は些か失礼じゃないか?」

「いやいやいや、こんな料理女の僕でも作れないっすよ。女として悔しいっす!」

 なんかさっき同じことを言われたけど、白鳥に言われても何も感じないのはなんでだろう。

「お前は料理どころか、カップ麺を作るのがやっとだろうが」

 そんなぶっきらぼうな呟きが、下から聞こえてきた。

「聞こえてきてるっすよ准!」

 体を傾けて下を覗き込むと、赤い髪が揺れていた。御堂は壁に体を預けるように腕を組んで立っている。

「お前そんなところでなにしてんの?」

 俺が聞いても御堂は答えようとはせず、苛立ち気に顔を歪めて白鳥に言う。

「おい理音。いいからさっさと要件を済ませろ。時間ねぇんだからな」

「わかってるっすよ。うるさいっすね」

 白鳥はむすっとしながら、肉団子を口に放り込んだ。

 俺と心葉が顔を見合わせていると、口の中のものを飲み込んだ白鳥が口を開いた。

「昨日のことでお話があるので来たんす。二人とも、昨日のことは誰かに話したっすか?」

「いや、俺はずっとここで寝てたから」

「私も、今朝からずっとここにいたから」

 五時間もな。

「ならいいっす。とりあえず、昨夜のことは他言無用でお願いするっす。二人が昨日港にいたことも、吉田君と会っていたことも、全部誰にも言わないでくださいっす」

「構わんけど、吉田のことはをどうやってごまかすんだよ」

「そこは八城君たちが気にすることではないっす。それにごまかす気もありません。本当のこと言う人さえいなければ、ただの噂でしかありません。超常的なことが起こるこの島では、人一人が事故で死ぬなんて大したことじゃないっすから」

 俺の心を見透かしたような一言。先の言葉を封殺され、顔が引きつった。

「僕ら、評議会の人間すね。としては心葉が襲われていた、なんてことを無闇に広げたくないんすよ。悪いことはいくらでも考えられるっすけど、いいことなんて一つもないっすから」

「評議会の人間として……。まるでどっかの誰かは心葉が襲われていたことが広まってほしいみたいだな」

「いや、別にそういうわけじゃ……」

 白鳥は気まずそうに心葉に視線を向けたが、心葉は視線をどこか余所に向けて気にした風でもなかった。

「ああ、それと」

 はぐらかすように白鳥はまくし立てる。

「今回の件は、僕と准以外に校長先生と彼らは知っています。さすがに彼らには知らせておかないと、後で何を言われるかわかったもんじゃないっすからね」

「彼ら? 彼らって誰……」

「時間だ」

 俺の言葉などまったく聞こえていないように、突然御堂が割り込んできた。

 壁から背中を離した御堂は、白鳥に視線を向けたが待たずに歩き始めた。

「わかってるっすよ。本当にせっかちですね」

 白鳥は並べた重箱に素早く箸を伸ばし、口いっぱいにおかずを溜め込んで立ち上がった。

「おういうこおっうから」

「食ってから話せ食ってから」

 俺が白鳥をたしなめていると、心葉が苦笑しながら置いてあった鞄から橙色の水筒を取り出した。それを蓋となっていたコップに注ぎ、白鳥に差し出した。

 白鳥は手でどうもとやると、その手でコップを受け取って一気に飲み干した。

「っぷは。ごちそうさまっす。そういうことっすから、くれぐれも他言はしないようにお願いします。しばらくすれば、他の生徒ももう少し神罰に慣れて、非行に走る人もいなくなるでしょうから」

「理音」

 苛立ちがこもった声が、御堂から投げられる。

「それじゃ」

 白鳥は軽く手を振ると、御堂とともに柵を越えて、屋上から飛び降りた。

 あいつらにとって、俺のように寝ぼけて落ちそうになったりしなければ、三階程度の高さから落ちることなど大した問題ではない。軽やかに着地すると

 しかし、なんでわざわざ階段を使わず、そんな降り方をしたのかが謎だった。いくら屋上から飛び降りられるからと言って、普段からそんなことをする理由などない。

 そのことに二人で首を傾げていると、階段を駆け上がる足音が聞こえてきた。

 屋上の扉が勢いよく開け放たれる。

 現れたのは、息を切らせた玲次と七海だった。探すように配られる視線が、俺と心葉を捉える。

「心葉!」

 七海が心葉の名前を大声で呼んだ。おかしいことではないのかもしれないが、俺が島に帰ってきてから、七海が心葉の名前を呼んでいるのを聞いたのは初めてだ。

 七海は一気に俺たちがいる貯水タンクの上まで駆け上がり、きょとんとしている心葉を抱きしめた。その拍子に心葉が持っていた箸が心葉の指を離れて床に転がる。

「な、七海ちゃん?」

 心葉は目をぱちぱちさせて驚いている。

 七海は体を離し、心葉の体のあちこちに触れた。

「怪我は? どこか痛いところとこかないの? 大丈夫?」

「だ、大丈夫だよ。それより、どうして?」

「どうしてって……殺されかけたんでしょ!? 何言ってるのよ!」

 七海の怒声に心葉は体を強張らせる。七海の両手が心葉の腕に食い込み、心葉は顔を歪めた。

「七海ちゃん……痛い……」

「あっ……ごめん」

 慌てて手を離し、少し距離を置いたところで、七海は自分の行動に気付いたようだ。

 俺の作った弁当が、見事にぶちまけられている。彩のよかった弁当は見る影もなく、床だけではなく、俺の足にもおかずが飛び散っている。

「「……」」

 俺と七海の間に、何とも言えない空気が流れ、心葉はその惨状に引きつった笑みを浮かべていた。

「ご、ごめんなさい」

 本当に申し訳なさそうに、再度七海が謝る。

「別にいいよ気にするな。つうか、知ってんだな。心葉が襲われてたこと」

「さっき校長から聞いたんだよ」

 いつの間にか上がってきた玲次が、心葉が落とした箸を拾い上げる。

 足に乗ったおかずをつまみ上げながら、先ほど白鳥が言っていたことを思い出す。白鳥たちの他に今回のことを知っているという彼らとは、玲次と七海のことだったのだ。

 二人がわざわざ扉を使わずに飛び降りていったのも、玲次たちと鉢合わせないようにしたのが理由だろう。

「ふふっ。なんだか、久しぶりに七海ちゃんの顔見たみたい」

 心葉は近くにある七海の顔を覗き込んでおかしそうに笑っている。

「バ、バカ。何言ってるのよ。そんなことないでしょ」

 七海は顔を赤くしながら、左手で足に着いていた弁当の残骸を払う。

 俺も心葉と七海が普通に話しているのを見たのは初めてだったりする。以前エレベーターの中で少し二人が一緒になったのを見たが、あれは会話と呼べるものではなかった。

 そんな二人を見て、玲次は弁当の残骸を片付けながら安堵していたように見えた。なんだかんだで、二人のことを気にしていたようだ。俺の視線に気づくと、咳払いをして弁当の残骸を片付けに戻っていた。

「で、でも昨日は本当に大丈夫だったの? 吉田に襲われたって、まさか神器を持ち出してたんじゃないでしょうね?」

「いや、あいつは神降ろしを成功させられてなったから、それはないだろ」

「うん、それは大丈夫だった。凪君が来てくれなかったら、危なかったけど」

 昨夜のことを思い出しのか、やるせないような、滅入ったなような表情を見せた。

 七海の手が止まり、じろりと俺に向けられる。

「……そうよ。そう聞いてる。なんであんた、そのときそこにいたのよ」

「別にやましいことはねぇよ。たまたまだよ」

 ストーキ、いやスニーキングしていたのは事実なので、深く聞かれるはぐらかしておく。

 あらかた弁当を片付け終えたところで、玲次がどかっと腰を下ろした。

「にしても、吉田か。あいつ、昔から気が小さいところあったからな。もっと前から俺たちが気を付けてやるべきだったな」

 何のための生徒会長だと言って、拳で額を叩く。

 毒づく玲次に心葉が目を伏せた。途端に玲次の頭を七海がバシンと叩く。

 重箱を横に避けて顔を上げると、俺の視界に右から心葉、七海、玲次と並んでいる。

 本当に、この島に戻ってきてから初めてだった。俺たち四人が一緒にいられるのは。

 嬉しさを押さえ切れずにほくほく顔になってしまい、三人に変な目で見られたがそれでも気にしない。

「気持ち悪いわね」

「ほっとけ」

 貯水タンクに背中を預け、体から力を抜く。

 何があるわけではないが、ただこうして四人でいるだけで、とても居心地がいい。

「考えないといけないなぁ、やっぱ」

 そんな空気を、玲次のうんざりとした声が破る。

「こんな直接的なことになるとは思ってなかったから、心葉の傍から離れていたが、一石を投じる必要がある」

「確かに。今後も同じことが起きる可能性は十分に考えられるわね」

 二人の視線が揃って心葉に向かう。

「だ、大丈夫だよ」

 心葉は困ったように両手を振る。

「玲次君も七海ちゃんも、今まで通りで大丈夫だよ。生徒会の二人が変に私に関わっているところを見られても、他の皆にいい影響はないからね」

 至って冷静な分析に、俺は舌を巻いた。

 自分が渦中にいるにも関わらず、物事を客観的に見て自分の状況を把握している。いつもふわふわと浮き世離れしている感じが強い心葉からは想像に難い姿だった。

「つってもな……ノーガードにするわけにも」

 頭を掻きながら戸惑った玲次が七海に目を向けるが、七海も困惑したように肩をすくめていた。

 二組の目がお互いに向き合い、数秒思案したような時間があったところで、同時に俺の方を向いた。

 重箱を重ねて包みを結んでいた俺は首を傾げて動きを止める。

「……なんすか?」

 次に来る言葉は大体予想が付いていた。

「あんた、心葉を守りなさい」

 俺は、無言で重箱の包みをきつく締め、脇に避ける。

「昨日心葉をストーキングしてたんでしょ? やることは変わらないじゃない」

「違うわバカ、付きまとっていたわけじゃないただ探してただけだ」

 こいつわかって言ってんだろ。

 まあまあと玲次が苦笑を浮かべる。

「無理にとは言わないが、できるなら頼みたい。心葉も言ってたけど、生徒を率いる生徒会が紋章所持者と関わるっていうのはあんまりよくないんだ。ろくな試しがない」

 どういうことがあったのかは、玲次は口にしようとはしなかった。ただしかめっ面で頭を押さえていた。

 心葉と視線が合った。困ったように眉を下げた後、何を思ったのか恥ずかしそうに顔を赤らめたかと思うと、それを振り払うように頭をぶんぶん振っていた。

 忙しいやつである。

「わかってるよ。最初っからそのつもりだ。生徒会のしがらみがあるお前たちや家族なんかがいる他の生徒と違って、俺の家族は父さん一人で島外だ。何の気兼ねもないからな」

 心葉は基本的にほとんどの授業を受けずに人気のない図書室や屋上などにいるが、俺も元々授業はほとんど受けていないし、好都合である。

 目を丸くして俺を見ている心葉を見返し、俺は言う。

「俺が心葉を守る。くだらない考えを持ったやつらから襲われても、絶対に死なせたりしない」

 俺は手を打ち合わせ、三人を見渡した。

「で、卒業して皆で本土に遊びに来いよ。この島にはないもの、いくらでも見せてやるよ」

 三人の表情が、一様に凍り付いた。

「ん? どうした?」

「……なんでもねぇよ」

 玲次は立ち上がってズボンに付いたほこりを払う。

「任せたぞ。絶対に心葉を守ってくれ」

「何かあったら、承知しないわよ」

 七海は今までと同じように、冷たく突き放すように言い、立ち上がる。

 二人はそのままこちらを振り返ることなく、屋上から出て行った。

 残された俺と心葉の間には、何とも言えない空気が流れる。

「なあ……俺、なんか言っちゃいけないことでも言った?」

「……ううん、なんでもないよ。気にしないで」

 気にしないで。その言葉は裏を返せば、何かがあると言っているようなものだ。

 だが、それは聞かないでという暗喩だ。

 俺と心葉や玲次、七海の間には、未だに壁があるのだ。

 俺が島を出ている間に生まれてしまった、時間、しきたり、秘密。それら全てが、俺たちを間に入って邪魔をする。

 これでは、本当に昔に戻れたとは、とてもではないが言えない。

 心葉たちに非があるわけではないのはわかっている。

 問題の根源にあるのは――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る