10

 土曜日、俺は花とお供え物を用意して山道を登っていた。

「ふぃー……あっちぃー……」

 まだ春なのだが山の中は蒸し蒸しとしていて、登っていくだけで流れるように汗が垂れていく。

 整備された山道にはちらほら歩いている人が見られ、車道にも頻繁に車が走っている。

 丁寧に手入れをされた森が左右に広がっている。島の由来となっているサカキが本当に多く見られ、それ以外の木々も生き生きしているようだ。

 山を登り終え、目の前に広がっていた光景に嘆息する。

 墓地。

 盆地になっている広い土地には、所狭しとお墓が並べられている。一面に広がる御影石の墓標は、ただこの島で事故や病気、歳をとって亡くなった人だけではないことを、もう知っている。

 しばらくその光景に前に立ち尽くしていると、後方から中年のおじさんが歩いてきたのですぐにまた歩き始める。

 墓地には炎天下の中だというのに、相当数の人がやってきていた。

 一年間に何人、何十人もの高校生が死ぬ。それが数年どころか、数十年もの間続いてきた。死が付きまとうこの島にとって、墓地とは身近な場所なのかもしれない。

 しかし逆に、それだけのことがありながら、よく美榊島は人口を保っているものだと感心もする。

 暗い面持ちで歩く夫婦と会釈をして通り過ぎる。もしかしたらあの夫婦は、神罰で自分の子どもを失ったのかもしれない。この墓地の悲しみは、世界中のどこよりも深い。そんな風に感じてしまう。

 予め書き留めていたメモを頼りに、墓石と墓石の間を彷徨っていく。

 やがて、一つのお墓の前に辿り着く。

 周囲の墓石と比べて明らかに立派な石が使われており、周囲にはいくつも灯籠が並んでいた。花筒には真新しい大きな花やサカキが差されており、頻繁に手入れをしているのが一目でわかる。

 姫川陽。

 墓石の戒名には、白い字でそう掘られていた。

「母さん……」

 一度として会ったことがない母さんが眠る、母だけのお墓だ。

 家族全員が同じお墓に入ることは限らないようで、そのためここには多くのお墓がある。俺の母さん、姫川陽のお墓は、父さんが来られなくても誰かが掃除などはしてくれていたようで、綺麗なままの姿を保っている。

 だがそれでも、俺は母さんのお墓の掃除を始めた。

 姓は八城ではないが、正真正銘俺の母さんだ。

 掃除を終え、花とお供え物を置き、地面にしゃがみ込んで手を合わせる。

 俺には母親という存在が、あやふやで不確定なものだ。

 生まれたと同時に別れているのだから仕方がないが、会ったことも、話したことも、怒られたことも、褒められたことも、一度もない。

 確かに存在していたであろう母親だが、その存在はどこまでも空虚だ。

 でも、母さんであることは紛れもない事実なのだ。ここまでやってきて、ここで膝を突いて、母さんの墓石を前に、それを実感する。

 母さん、俺はこの島に帰ってきたよ。神罰で戦うために。母さんのお墓参りがついでみたいになって悪かったけど、そうでもしないとここまで来られなかったから許してくれよな。

 この島にいる間はなるべく来るようにするつもりだから、よろしくお願いします。

 母さんのお墓参りに来ること。それが、俺が島に来ることを了承した目的の一つだ。

 閉鎖的な美榊島にお墓があったため、お墓参りすることは難しく、正月などの縁日などにお墓参りに来るわけにもいかなかった。だから俺が島を出てから十年近く、一度もお墓参りに来られなかったのだ。

 転校なんて面倒なことになったとしても、母さんのお墓参りに来られるという口実を得られただけで、帰ることを決心するには十分な理由だった。

「そういえば、あそこにも行っておかないとか。何年も前だから、残っているかはわからないけど。でも、父さんと母さんの大事な場所だから、きっと残っているよな」

 お墓とは別にもう一つ、俺にとって母さんの数少ない思い出の場所がある。もちろん、会ったこともない母さんの思い出は、俺が経験したものではないけれど、父さんから教えてもらった、父さんと母さんの大切な場所だ。

 そして、俺にとっても。

「凪?」

 突然名前を呼ばれ、閉じていた目を開けて振り返ると、後ろに手桶を持つの少女が立っていた。

「七海か。奇遇だな」

 青いシンプルなデザインのキャップを被り、薄手の白いトップスに七分丈のジーンズというボーイッシュな服装だった。男勝りなイメージのある七海によく似合っている。

 口に出しはしないが。

 七海はこんなところにいる俺に眉を上げ、怪訝な顔でじろじろと視線を向けてくる。

「そうね。変わった場所で会うものね。そっちは誰の?」

「母さんだよ。俺の母親」

 俺の言葉に、七海は驚いてお墓に刻まれた名前を見た。

「でも名前が……いえ、立ち入ったことだったわね」

「気にすんな。俺もその辺のことは詳しい知らないんだ」

 父さんから昔何かあった、ということくらいしか聞いてない。比喩でも冗談でもなく、母さんについてはほとんど何も知らないのだ。

「……私も少し手を合わせても?」

「ああ、もちろん。母さんも喜ぶと思う。ありがとう」

 俺も再び手を合わせ、七海とともに黙祷を捧げる。

「ちょっと聞きたいんだけど……」

「なんだ?」

 目を閉じたまま聞き返すと、少し戸惑ったような仕草をした後、七海は口を開いた。

「心葉のこと……聞いた?」

「ああ、クラスとかで色々浮いてる理由? 聞いてないよ。俺がいないときにあったことなんて深く詮索するべきじゃないし、皆聞かれたくなさそうだから」

 七海の詰まる息遣いが聞こえ、俺は目を開けて立ち上がった。

「そういや、七海は一人か?」

 また暗い雰囲気に戻るのは目に見えていたので、すぐに話を切り替える。

「……ええ。本当なら玲次も一緒に来るはずだったんだけど、逃げたから」

「玲次? 家族とじゃなくて?」

 尋ねた後に深く聞き過ぎたかと後悔したが、七海は小さくため息を吐いて言う。

「……まあね。元々今日来たのは私じゃなくて玲次の方のだったから。私もよくお世話になってた人だったから、来るつもりではいたんだけど」

「そうか」

 駄目だな。どんな話をしても湿っぽくなる。場所が場所だけに仕方ないが。

 七海から見えないように嘆息を落とし、顔をしかめる。

 この島が、嫌いになりそうだ。

 やれやれと肩をすくめる。

「俺は今日はもう帰るけど、七海は?」

「私も帰るわ。玲次に言ってやらないといけないこともあるし」

「じゃあ一緒に帰るか」

「そうね」

 二人で墓地を後にし、来た道を戻っていく。

「あのさ、神罰で亡くなった人って、どうしてるんだ?」

 歩きながら七海は俺の顔をちらりと一瞥し、声を落として答える。

「死亡した生徒の多くは、一時的に大学病院の地下ある安置所に置かれるわ。神罰で死亡した場合は体が五体満足に残っているかわからないから、葬儀をする前に体を修復するのよ」

 大型車や列車などの事故、長い闘病生活などを経ての亡くなった人は、体を著しく損傷している場合がある。そういうときに行われる技術に、エンバーミングと呼ばれる技術がある。医療資格を所持している人や専門の技術を有している人が行う遺体を保存するためなどの処理だ。

 普通に命を落とせばそういう処理をする必要はあまりないだろうが、この島では違う。それこそ戦争だ。理性の欠片もない化け物たちとの文字通り命がけの戦い。実際、初日の神罰、人狼との戦いで亡くなった生徒たちは肉片のように食い散らかされていた生徒も少なくない。

 バラバラの肉片になった家族とのショックは想像に難くない。

 あんな光景、家族に見せられるものではない。

「ただ、神罰では多くの生徒が亡くなるわ。だから、葬儀はその年の神罰が終わってから行うのよ」

 生徒が死ぬたびに葬式はやってられないってことか。

「ひどいな」

 不意にもやもやとした感情が走って胸を手で押さえる。

「どうしたの?」

「いや、なんでもない」

 胸くそ悪い話だ。

 その後、二人で適当に会話しながら寮まで帰ってきた。

「ただいまでーす」

「おかえりなさい」

 寮の前で掃除をしていた彩月さんに挨拶をして寮に入る。休日問わずいつも笑顔で俺たちを迎えてくれる、俺たちにとって女神様のような寮母さんだ。

「あ……」

 エレベーターに乗ろうとしたところで、同じように降りてくるエレベーターを待っている心葉とばったり出くわした。長いスカートにチュニックという初めて見る私服姿だ。

 俺の後ろを歩いていた七海がさっと体を強張らせ、心葉も微かに顔をしかめた。

「よっ、心葉も今日出かけてたのか?」

 嫌な空気が流れない内に、俺は心葉に話しかけた。

「う、うん。ちょっと夕飯の買い物にね」

 そういう心葉の手には、食材が入ったスーパーの袋が握られている。

「凪君と……七海ちゃんは、二人で出かけてたの?」

「いやそうじゃなくて、さっき――」

「たまたま外で会っただけよ」

 七海は俺の言葉を遮ってぶっきらぼうに言った。

 そして、エレベーターが下りてきて、チンと音を立てながら扉が開いた。

「乗らないの?」

 前で待っていた心葉が乗らないので、七海が視線をエレベーターに向けて言った。

 心葉は慌てて乗り込み、七海は無表情のままそれに続き、俺も気まずいながらも体を滑り込ませた。

 数字が一つ一つ上がっていくのがこんなに長く感じるのは初めてだ。いつもならあっという間に到着する高速エレベーターも、相対性理論には敵わなかったようである。

 一言も話さず、エレベーターが昇っていく音だけが響いている。俺も話す雰囲気ではなかったので、静かに俺たちの部屋がある階に到着するのを待っていた。

 エレベーターが止まり、扉が開く。扉近くにいた俺は、一番にエレベーターから降りる。

 心葉もゆっくりと出て、七海も最後に遅れて出てきた。

「……ごめんなさい」

 俺が先を歩こうとすると、七海が言った。

 一体、突然何を謝っているのか俺にはわからなかったが、その言葉を向けられたであろう心葉はゆっくりと七海を振り返った。

「本当に、悪いと思ってる。でも、私には……何も……」

 七海は俯いて、掠れたを絞り出している。顔は見えないが、声が苦々しく震えていた。

 俺には何のことを言っているのはわからなかった。

 七海も俺に伝えようと思っているわけではなく、ただ溢れてきている感情だけを吐き出しているような、そんな言葉だった。

 そんな七海の様子に、心葉は全てをわかったような温和な笑みを浮かべ、そっと目を伏せた。

「ううん、大丈夫。私は、大丈夫だから」

 七海を安心させるように、それでいて自分に言い聞かすように心葉は呟いた。押し黙った後も、きっとその言葉は心葉の中で何度も繰り返されている。

 七海は歯を食いしばり、乱暴に頭を押さえると、そのまま自分の部屋に駆け込んでいった。

 心葉は小さく息を吐くと手すりに腕を乗せて、やや疲れたようなため息を落とし、左手にある美榊高校の校舎を眺めた。

「……仲直りしたってわけでもないみたい?」

 手すりに背中を預けながら尋ねると、心葉困ったような笑みを浮かべた。

「元々喧嘩してるってわけじゃないからね。ただ……」

 先の言葉を言う前に、心葉の口は止まってしまう。春風が心葉の髪を撫で、ふんわりといい匂いが漂ってきた。

「それってさ、俺は知らない方がいいこと?」

 皆に何があったのか、正直に言えば知りたい。だが、踏み込んではいけない気がして、今までは聞いてこなかった。

 外部からの人の出入りを絶っている美榊島と言っても、電話や宅配物などは普通に届く。要は島の知られてはならないものを島に外に出さないようにしているがためのものだ。連絡は、取ろうと思えば取ることはできるのだ。

 小学生のときはわからなかったが、中学生になれば俺は結構な別れ方をしていたと自覚もあり、連絡を取ろうとしたことはあったが、結局それもできなかった。

 七海にも再会してすぐのときに言われたが、自分がやったことは本当に薄情だと思う。

 そんな薄情な俺が、積極的に心葉たちに関わる資格なんてない。

 心葉はしばらく考え込むように閉口していたが、やがて胸を押さえて呻いた。

「……たぶん、凪君は知らない方がいいよ。知っても、どうしようもないことだから。どうしても知りたいって言うなら、話すけど……」

「いや、いいよ」

 俺は心葉の言葉を遮って笑う。

「今心葉、言いたくないって顔してたぞ? 別に俺は知っても知らなくても、心葉への態度を変えたりしないからさ。構わないよ」

 心葉は一瞬虚を突かれたような顔をしていたが、やがてまた、いつもの綺麗な笑みを浮かべた。

「うん。ありがとう」

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