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「
俺は三年Aクラスの教壇で、担任の先生に促されて自己紹介をしていた。
美榊第一高校のクラスはAからEの五クラスに分けられている。
一学年が大体二百人前後なので、一クラスが四十人前後ということになる。俺のAクラスも四十人くらいで、玲次と七海も同じクラスである。
それから二言三言自己紹介をしたのだが、自己紹介を終えてもクラスメイトのほとんどは俺の方に顔も向けていなかった。
泣きはらした目で俯く女子もいれば、机に突っ伏したまま微動だにしない男子もいる。
誰一人、転校生のことなどを気にしている余裕はなく、全てを覆い尽くす暗い感情に項垂れていた。
「ほらほら皆さん、せっかくの転校生が来てくれたのそんな態度では失礼ですよ」
担任教師が手を叩きながらそう言ってくれたのだが、クラスの人たちの態度は変わらない。
一番後ろの席に座っている玲次は肩をすくめ、通路側一番前に座っている七海は当然のことだと思っているようで動じていなかった。
「あ、先生大丈夫ですよ。気にしないでください。それより僕の席はどこですか?」
本来なら空いている席が転校生である俺の席なのだろうが、今の状態で開いている席は既に三つある。
先ほど玲次から聞いた話では、初日の犠牲者は八人。
その内の二人の犠牲者が、Aクラスの人間だったのだろう。
新しいクラスではあるのだろうが、何年もの付き合いがあった人たちもいたはずだ。皆が辛いのも当然だ。
「八城君の席は窓際の後ろから二番目の席ですよ」
「はい、わかりました」
なんだその微妙な席は……という言葉を飲み込む。
窓際は教室の左側で、教壇から見れば右側だ。
俗に言われる主人公席。
これは転校生に対するネタなのか、それとも嫌がらせなのだろうか。
一番後ろが空いているのならわからないでもないが、その席にはばっちり女子が座っている。
窓際ということで良さげの席ではあるのだが、高校側のよくわからない配慮に頭を悩ませてしまう。
まだ制服はもらっていないので私服の浮いた状態のまま、俺は自分の席に歩いていく。
クラスの空気は本当に重い。気圧が十倍になったんじゃないかっていうくらいの重さであり、息をするのも苦しい。
でも、それは仕方ないことだと納得し、小さく息を吐きながら自分の椅子に手をかけた。
「あ……」
不意に後ろの席の子と目が合い、その人物に俺は声を漏らした。
「今朝の……」
後ろの席の女の子は、今朝ふらふらと道路に飛び出したあの子だった。
さすがにマフラーと手袋は外しているが、黒髪に着けているクローバーの髪飾りは今も変わらず可愛らしい。
「よ、よろしくお願いします……」
緊張して縮こまりながらぺこりと頭を下げる女の子に、俺は笑顔で挨拶を返す。
「こちらこそ、よろしくお願いします」
挨拶を終え、俺は席に着いた。
同学年で同じクラスだったとは。妙な偶然を感じながら、持っていた鞄から筆記用具と手帳を取り出して机に並べていく。
鞄を机の上から降ろした俺は、窓の外に目を向けた。
教室は生徒棟の三階だ。ちなみに一階二階にはジムや武道場などがいくつもある。
神罰は心身ともに鍛えて立ち向かわなければならないため、常日頃から鍛えられるようにというわけだ。
そして教室が上にあるのは、神罰開始時、妖魔にすぐに襲われないようにという配慮のためらしい。高いところに固まっていればとりあえず危険は減るというわけだ。
教室の窓からは、先ほどまで戦いが繰り広げられていたであろうグラウンド、その向こうには俺が先ほどまで隠れていた巨大な体育館がある。周囲は木々に囲まれ、そこから高校全体の敷地を囲うように高い塀が走っている。グラウンドは既に綺麗に片付けられており、先ほどまで起きていた戦いを感じさせるものは何一つない。
その光景を見て思う。
この島に戻り、高校に通う日が来て、しかも玲次と七海にもまた会うとは。
過去のことが徐々に思い出され始める。
ああ、そういえばあいつは……ん……んん?
仲がよかった三人、最後の一人が頭によぎる。
「あれ?」
クローバーの髪飾りに違和感を覚えた。
長い髪に髪飾り、寒がり。
小さな手掛かりが繋がり、俺は無言で顔を後ろに向ける。
突然俺に視線を向けられ、女の子は体をすくませた。
「もしかして……
女の子は目を見開き、おろおろと視線を泳がせて恥ずかしそうに頷いた。
「そ、そうだよ……久しぶりだね……凪君」
「マジか! 全然気づかなかった!」
思わず大声を上げてしまう。
美榊島に住んでいた頃、俺が毎日のように一緒に遊んでいた三人。
玲次、七海、そして最後が、
今まで顔色が悪かったり元気がなかったりと、霞んだ記憶の印象とかなり違っていたため、まったく気づかなかった。俺の記憶にある彼女は誰よりも元気で、人一倍明るかった印象が強いのだ。
それに外見も相当変わった。
記憶でも確かにかわいい感じの印象は受けていたが、それでも十年も経てば変わるものだ。この容姿なら誰もが美少女と認めるだろう。
「そうか。お前も同じクラスか。よろしくな」
心葉は一瞬戸惑いを見せた後、小さく笑って頷いた。
「う、うん。よろしく」
「ああ。でも、お前らとまた会えるなんて、この島に来て――」
そこまで言って、俺は周りの視線に気づいて言葉を止めた。
クラスの皆が一様にざわめき、と心葉を何かに怯えるように見えていた。
ある者は恐怖しているように視線を揺らし、ある者は忌々しそうに口を歪めている。
なんだ……?
今はホームルーム中なので、話している生徒によいの眼差しが向けられないのは当然だが、彼らの目にはそれ以上の何かを感じた。
教師も戸惑っているようだったので、俺は今心葉と話すのを止めることにした。
「ごめん心葉、また後で――」
「凪ッ!」
あまりに大きな声に、俺や心葉だけでなく、教室中にいた生徒が体をすくませた。
その声は、通路側一番前の席、七海から発せられたものだった。
「ホームルーム中よ。静かにしなさい」
鋭いながらも重い声が飛んでくる。
「あ、ああ、悪いな」
心葉に片手でごめんと伝え、姿勢を前に向ける。
後ろですっと立つ気配を感じた。
首を少し傾けて確認すると、席を立った心葉が教室から出て行くところだった。
ホームルーム中に何も言わずに教室を出て行く。普通そんなことが許されるわけがない。
だが、誰も何も言わなかった。
先生も生徒も、七海や玲次でさえ、何も言わない。むしろ、生徒たちは心葉が出て行ってほっとしているように見えた。
俺からすれば明らかに異様な雰囲気の中、教壇に立つ教師は最初から心葉などいなかったように話し始めた。
「今朝はゆっくり自己紹介ができませんでしたし、八城君もいるので改めて自己紹介させていただきます。私は今年から皆さんの担任を務めさせていただきます、
天堵先生が壇上で丁寧に頭を下げる。
短く切り揃えられた黒髪に黒縁眼鏡をかけた、生真面目そうな人だ。
「私は教員免許は持ち合わせていないので担当科目は持ちませんが、神罰のことでしたら自分なりに多くのことを調べています。知りたいことがあれば何でも聞きに来てください」
天堵先生が自己紹介をしていても、生徒たちは先ほどまでの暗い面持ちのまま、聞いているのか聞いていないのかわからない態度でいる。
「今日はもう授業などは行いません。この後、【
かみおろし? 何かの料理だろうか。
そんなバカなことを考えていると、天堵先生は穏やかな笑みで生徒たちを見渡した。
「初日の神罰、お疲れ様でした。皆さんがいくらこういうことがあると覚悟していたとはいえ、辛いことだと思います。亡くなった方のことも忘れていけません。その人たちが生きていたこともしっかりと心に刻み、今日から始まった一年を生きてください」
真摯な言葉に、泣いたり俯いていたりしていた生徒が顔を上げて、天堵先生を見る。
「私も全力でサポートさせていただくので、なんでも頼ってきてください」
その一言で、クラスに少しだけ笑顔が戻ったようだった。
天堵先生は生徒たちの親身になってくれる、よい教師のようだ。
まだ就任して数年しか経っていないということらしいけど、この教室に少しの笑顔を取り戻しただけでも十分教師として素晴らしいものを持っていると思う。
「それから生徒会のお二人は八城君のお世話をしばらくお願いします」
「はい、わかっています」
「お任せあれ」
七海と玲次がそれぞれ返事をした。
あの二人が生徒会……? この高校は大丈夫か……。
しかし、二人のイメージは昔のものだから、今はきっとよくなっているのだろう。
「センセー、その代わりテストは簡単にお願いします」
「ですから私は科目を持たないのですが……」
「あ、そうでしたね……はぁ……」
露骨にがっかりしたため息が聞こえきた。うん、あいつは変わってない。
安心したような残念なような気持ちが胸に広がった。
それから天堵先生は明日からの日程を簡単に連絡をして、ホームルームを終えた。
「では、これで解散とします。皆さん、今日はお疲れ様でした」
天堵先生は机の上に置いていた日誌を手に教室から出て行った。
他の生徒たちものそのそと立ち上がり、鈍いながら各々行動をしていった。
後ろに視線を向けると、そこには空っぽの机があり、荷物なども残っていなかった。
嫌な思いをさせてしまったことを後悔した。次に会ったら謝ろう。
そんなことを考えていると、玲次が鞄を担いで近づいてきた。
「とりあえず寮に案内するから着いてきてくれ。七海は今日はもう帰らせたからな。さっきは悪い、怒らないでやってくれ」
「いや、俺が騒いでたのが悪かっただけだから」
実際ホームルームを邪魔していたのは事実だ。
「じゃあ、行こうぜ」
「ああ」
俺は答えながら荷物をまとめ、鞄と刀を手に立ち上がった。
神罰で破れてしまった刀の袋も元に戻っていたので回収し、天羽々斬はそれに入れてある。
「そういや、お前が使ってたあのバカでかい銃はどうしたんだ?」
「ああ、お前の刀と違ってあんなの持ってると邪魔だろ? だからいつもは隠してるんだよ」
どこに隠しているのかは疑問だったが、そのうち俺も天羽々斬を隠しておける場所を教えてもらおう。
ほとんどの生徒はまだ帰るつもりはないようで、昇降口から門までの無駄に長い道には数人程度しか歩いていなかった。
周りから生徒がいなくなり、気になっていることを尋ねることにした。
「なあ、心葉のことなんだけどさ」
俺が話を振ると、玲次は一瞬だけ顔をしかめた。
「もしかして、今はもうお前たちって、仲良くないのか?」
昔は毎日のように遊んでいた四人。そこから俺がいなくなり、残された三人の、俺の知らない十年近い年月。その年月の間に仲が悪くなったとしても、信じたくはないが、あり得ない話ではない。
「そんなんじゃねぇよ……」
玲次はぼそっと呟いた。
「違うのか?」
心の中で安堵しながら尋ねると、玲次はぶっきらぼうに頷く。
「ああ、違う。そんなんじゃねぇ……。ただ……」
玲次は言いにくそうに言葉を切り、視線を宙に泳がせる。
「ただ……色々あって、ちょっと気まずくなってるだけなんだ。でもそれは七海にも心葉にも聞くなよ? 特に七海。燃やされる程度じゃ済まないだろうからな」
「いじめとかでもないんだよな?」
しつこいように念を押して尋ねると、玲次は苦笑しながら首を振った。
「違う違う。もしそんなことがあろうものなら、七海も俺も黙っちゃいない」
「そうか。わかったよ」
それだけの答えで満足だった。
仲が悪くないなら別にいい。俺がいない間に何かあったのだろうが、そこまで聞くつもりはないし、何か言うつもりもない。
その内また、昔のように戻ることができるだろう。
お互いしばらく無言で歩き続け、門までの道の中程まで来たところで俺は尋ねる。
「そういや、寮ってのはどこにあるんだ?」
「校門出て右手に行ったところにあるんだ。凪の荷物も全部届いているはずだからな」
「校門って閉まってるんじゃ……あ、開いてる……」
ずっと先にある校門は神罰が始まったときは閉まっていたはずだが、今は完全に開いていた。
「神罰が始まるのは正午って言っただろ。だからその時間に自動で閉まるようになってるんだ。だから正午前後は門や出入りできるところを全て閉鎖して誰も出入りできなくする。神罰中に外部から見る中の様子って、何にも起きてないように見えるらしいんだ。それなのに門が開いてて入れないってのはおかしな話だからな」
俺はその門が閉じられる絶妙な時間に入ってきたということらしい。運がよいのか悪いのか。
「お前も見たよな? あの結界」
「あの黒いののこと?」
「そ。あれで完全に内と外を遮断されてるんだよ」
ということは逃げることも、途中参加することもできないのか。注意しないといけないな。
戦力と呼ばれて引き受けた以上逃げるつもりはないが、始まって入れなくなるというのは非常に困る。
門から外に出た俺たちは、右、西へと曲がる。
美榊高校を囲うように円形の外壁がずっと続いていて、その先に一つ高級マンションのようなものが立っているが、他に目ぼしい建物はない。
「寮ってちょっと歩くのか?」
「何言ってるんだ。あそこにあるだろ?」
玲次の指さす先には、高級マンションぽいものがあった。
「はぁ? あれが寮? 冗談だろ?」
俺の反応に玲次は乾いた笑いを浮かべて鞄を背負い直す。
「マジマジ。言いたいことはわかるけど、この島って日本中に権力を持ってるからな。金はあり余ってるんだよ」
……高校生の寮があんなのって、どうなんだ?
嬉しいは嬉しいがどこか釈然としないものが残る。
寮の入り口に行くと、玲次は管理人室らしきとに向かっていった。窓をスライドさせ、中に声をかける。
「すんませーん」
「はーい」
玲次が声をかけると中から緩い声が返ってきた。俺のいる位置からは中は見えないため、どんな人がいるのかはわからない。
「あら、玲次君じゃない。どうしたの?」
「転校生の八城を連れてきました。部屋の鍵をもらえますか?」
相手の人は少しの間沈黙すると、管理室から外に出てきた。
「あなたが……」
現れたのは若い女性だった。長く綺麗な栗色の髪をおさげにして左右から垂らしており、全体的におっとりとした雰囲気の優しそうな人だった。
女性は両目を見開いて俺を見ていた。
そんな女性を不思議に思いながらも、俺は頭を下げて自己紹介をする。
「初めまして。今日からこちらでお世話になります、八城凪です。よろしくお願いします」
「え、ええ……」
女性は少し戸惑ったように頷いたが、やがて穏やかに微笑んだ。
「私はここの管理人の林原彩月。こちらこそ、よろしくお願いします。私のことは気軽に彩月って呼んでね」
丁寧にお辞儀をした彩月さんは、俺の顔をマジマジと覗き込んだ。
「な、なんですか?」
若干体を引かせながら尋ねると、彩月さんは値踏みをするように頷いていた。
「ふーん、君が勇君の息子か。若い頃の勇君にそっくりね」
「え? 父さんを知ってるんですか?」
「うん。だって私、あなたのお父さんと同級生だから」
「父さんと同い年!? 全然そんな風には――」
過ぎたことを言ってしまいそうに、いや既に手遅れだが口をつぐむ。
彩月さんはどう見ても二十代前半にしか見えない。大学生でも全然おかしくないレベルだ。父さんと同級生と言われても信じられなかった。
俺の反応に気を悪くした風でもなく、彩月さんは笑った。
「ふふ、ありがと。でも本当よ? 私は勇君と同い年なの。子どもぽいって思われるのが悩みなんだけど」
「いえ、そういう意味で言ったのでは……」
「お前、彩月さんいじめるとか、島中の人間にぼこられるぞ」
あ、やっぱり人気あるんだ。
俺たちのやりとりを見て、彩月さんは面白そうにくすくすと笑った。
「気にしないでいいのよ。鍵だったわね。ちょっと待ってて」
彩月さんは管理室に入ると、すぐに鍵を持って戻ってきた。
「はい、これがカードキーね。凪君は来てくれるかどうかわからないって言われてたけど、準備だけはしてたから。荷物はこっちでもうに部屋に入れてるわよ」
まさかのカードキー。高校の寮に備え付けるものではないと思うが、そろそろ驚くのに疲れてきた。
「それじゃあ頑張って。何かあったらすぐに言って。管理人としてあなたたちの先輩として、全力でバックアップするからね」
「はい、ありがとうございます」
俺はもう一度頭を下げ、玲次に案内されてエレベーターに乗る。
管理室に戻ろうとした彩月さんは、何かを思い出したように立ち止まり、こちらに向かって手を振った。
「凪君、これからはよろしくねー」
「あ、はーい。こちらこそです」
少し不思議なニュアンスに感じたが一応答えておく。
透明な扉の向こうで、彩月さんが笑顔で手を振り、エレベーターは上昇を始めた。
エレベーターはどんどん上がっていき、やがてかなり高い階で止まった。
玲次はエレベーターを出て歩いていくと、俺の持つカードキーに書かれた番号の部屋で立ち止まる。
「ここがお前の部屋な」
持ってきたカードキーをドア横にあったスリットに通す。電子音が響き、鍵が外れる音がした。
「さーて俺の新居はどんな――」
「グワッ……」
目の前にいる白いものは黄色いくちばしにキャベツの切れ端を咥えていた。
勢いよく扉を閉める。
「どうしたんだ?」
ドアノブを掴んだまま停止している俺の顔を、玲次が覗き込んでくる。
「……部屋を間違ったみたいだ。ここには、既に住人がいるみたいだからな」
「んー? 間違ってないだろ? 言われてた場所も番号も合ってるぞ?」
いやいやいやいや……いや……。
なら間違っているのは俺の頭か。七海の言う通り残念になったのか。
部屋の中に何かがいるだけでも十分驚きなのに、いたのが予想できるわけもないものに見えたのだ。
再度扉を開ける。
「ガァガァ」
「……」
目の前にいるそれは、もうこちらには目もくれずにキャベツを咀嚼している。
「うわなんだこいつ!」
後ろで見た玲次が驚いて声を上げている。
おもちゃの用にも見える白い体。先端が丸くなった黄色いくちばし。ずんぐりした首に横長で大きな頭。
それは一般的にアヒルと言って差し支えない生き物だった。
「な、なんでこんな生き物がここに……」
見た目から察するに、コールダックという種類のアヒルだろう。ただ最小のアヒルと言われているにも関わらず結構大きいので実際はわからない。
「あー、そういや聞いたことがあるな。美榊高校の寮に得体のしれない生き物が住み着いているって」
なんだその噂……。
彩月さんに確認を取ったところ、なんでも何年も昔から寮で飼っているアヒルで、代々寮に住んでいた誰かが世話をしてきたらしい。
その非常に光栄な役割を、なんと俺が射止めたらしい。
さっき彩月さんが言っていたよろしくとは、こいつのことだったのだ。
名前を、ホウキというらしい。
「どうすんだこれ」
玲次がキャベツを食べているホウキを見て言う。
「そういう事情があるんなら世話をしてもいいかな。俺動物好きだし、アヒル飼ったことないし」
そうそうあるわけないのだが、飼うのは少し楽しみではある。
「お前がいいなら構わないが……」
玲次は未だに乾いた笑いを零していた。
「俺の部屋はこの隣で、その隣が七海な。それじゃあ、何かあったら携帯電話に連絡を入れてくれ。俺は高校に戻るから」
「おう、サンキュー」
玲次は帰っていき、部屋には俺とホウキが残された。
「これからよろしくな」
「グァー」
頭を撫でながらホウキに言うと、ホウキは食事を中断し、鳴いて答えてくれた。
ずいぶん人に慣れているようだし、一緒に生活する程度には問題ないだろう。
「さて……」
立ち上がり、入ってすぐにあった廊下を進んで先に進む。
外観を裏切らない、寮とは思えない構造だ。リビングにダイニング、キッチンの他に二部屋、さらにベランダまで備わっている。どう見ても一人で高校生が生活するには高級過ぎる。
ありがたいことはありがたいのだが、ここまで広いと逆に落ち着かないので、ホウキがいたのはむしろよかったかもしれない。
いっそ一部屋ホウキにあげるか。
リビングには、送ってもらっていた荷物が段ボールに入った状態で数箱積まれていた。日用品や家電は予め用意されており、一通り揃っているようだ。
「……とりあえず片付けて、買い物でも行くか」
ある程度荷物の片付けを終えると、空っぽの冷蔵庫の中身を買うために、高校から街まで出ている電車に乗った。
今考えれば、電車に乗ればもっと簡単に高校に来られたのではなかろうか。
走っている最中も横に線路はあったのだが、そこまで頭が回らなかった。
街までは、電車で二十分ほど。
住宅街の側や大手神社の前を経由していくため、電車では二十分だが自転車でも三十分程度の距離にある。
電車があればどこにでも行けるというわけではないため、この島で生活するのであれば自転車があったの方がいいだろうし、そのうち自転車も買う必要があるだろう。
美榊島は美榊高校以外にもいくつか高校があるほど、離島にしては人口も多い。
高層ビルが建ち並ぶ中心部の周りには、デパートに家電量販店、大きな飲食街に遊園地。そこらの街より遥かに大きく優れていたため、ほしかったものも大方手に入った。
島に来るに当たって生活費を父さんからもらっている。父さんは金銭感覚がおかしいところがあり、俺が使っている口座に過剰な額が振り込まれていたのだ。
全部使うつもりは毛頭ないが、多少なら構わないだろう。
のんびり買い物をしていると、寮に戻った頃には空はすっかり茜色に包まれていた。
エナメルバッグに買ったものを詰め込み、電車に揺られながら寮まで戻っていく。
寮への道すがら、寮ではない方向に自転車で帰っている生徒を見かけた。
神罰のことでややこしいことが多いらしく、基本的には寮に住むことになっているらしいのだが、寮にいたくない生徒は実家で生活するようにしているそうだ。
駅に電車が停まり、他に乗っていた数人の生徒とともに降車する。
「グァグァ」
「ただいま」
部屋に入った俺を、ホウキが迎えてくれる。
こうしてみると意外とかわいいところがあるやつだ。躾がされているのかする必要がなかったのかはわからないが、迷惑を被るということも今のところないので一緒にいても何の問題もない。
リビングからホウキの飼い方という、代々手作り作られてきたと思われる本も見つかっている。
アヒル用のペレットなどを買うお金は彩月さんからいただいているし、他にも野菜やパンなども食べるようなので餌は問題ない。あとはたまに水浴びをさせてあげる程度で大丈夫らしい。
ベランダの横に小さな扉が造られており、外との出入りが自由になっている。コールダックを初めとしたアヒルは飛ぶことが基本的に苦手だが、こいつはそれなりに飛べるらしく、出たいときは勝手に出て行き、勝手に戻ってくるみたいだ。
とりあえず明日神罰が来ることはないそうだから、今日は早く寝て、明日からの授業に備えよう。
「でも、先に晩飯と残りの片付けか……」
高校の方に学生食堂はあるのだが、せっかくキッチンが付いているのだから自炊しないと勿体ない。
買ってきた食材を使って適当に料理を始める。
父さんは基本大学にいることが多かった。そのため、家事全般は凪がやっていたので料理などもお手の物だ。
様々なものを作りながら部屋の整理をし、窓を開けて空気を入れ替える。
立派なベランダもあったので、洗濯にも困らないだろう。
しばらく料理を進めていると、机の上に置いていた携帯電話が音を立て、ホウキが飛び上がった。
「ガァガァ!」
「ははっ、悪い悪い」
謝りながら携帯電話を手に取ると、画面には先ほど登録したばかりの玲次の名前があった。
「もしもし?」
『美味しそうな匂いがする』
「……急になんだ?」
いきなり過ぎて意味がわからない。
『いや、なんかすっごい美味しそうな匂いが俺の部屋まで来てるんだよ。お前もしかして料理とかしてんの?』
窓を開けて作っているからだろう。隣の玲次の部屋まで匂いが届いたようだ。
「ああ、まあ簡単にだがな。夕飯まだなら食いに来るか?」
『マジで!? 行く行く!』
「なら七海も呼んで来いよ。実はちょっと作り過ぎちゃってどうするか考えてたんだ」
昨日までは父さんの分と取り置きの分などまでまとめて作っていたせいである。元々多く作る気はあったのだが、それでも結構な量ができてしまった。
三十分くらい待つと、玲次が七海を伴ってやってきた。
「うわっすっげ! これ全部お前が作ったの!?」
「ああ、好きなだけ食っていってくれ」
二人が来るということで少し追加して作り、結構豪華なものに仕上げてしまった。
「なんか悪いわね。本当なら私たちが歓迎しないといけないのに」
「そんなこと気にすんなよ。気持ちだけで十分十分。さ、腹減ったから早く食べようぜ。あ、でもその前に」
もう一匹の住人を思い出し、買ってきたペレットと野菜を皿に盛って床に置いた。
「グァー」
ホウキがどこからかともなく歩いてきて、餌をつつき始めた。
「ほれー食え食えー」
「グァグァグァ!」
ホウキは喜んで餌を食べている。
「そ、それが例のアヒル?」
「うん、そう。いやこれが結構かわいいやつでさ」
一生懸命餌を食べている姿がとても微笑ましい。
そんなホウキを眺めていると、後ろに立っていた七海が俺に言った。
「……さっきは悪かったわね」
「何のことだ?」
七海は少し離れたところにいる玲次には聞こえない声で言っているようなので、俺も小さな声で返す。
「ホームルームのときのあれよ。怒鳴って悪かったって言ってるの」
「別に気にしてないよ。玲次から何かあったってのだけは聞いてる。できたら俺はお前たちが仲良いままでいてほしかったけど」
「別に、仲が悪くなったわけじゃないのよ……」
「玲次もそう言ってた。ならいいよ。急に帰ってきた俺が、そんな立ち入ったことを聞くつもりはないから」
俺は立ち上がって七海の方を振り返った。
「ま、とりあえず俺たちも飯を食おう。何か教えてくれるんなら食いながらにしようぜ」
「……そうね」
七海は少し寂しそうな笑いを浮かべながら頷いていた。
それから俺たちは、三人で夕飯を囲った。
これまで話すことができなかった多くのことを話した。
「お前大学決まってるの!?」
「ああ、父さんのツテでほぼ確実。それがなくても合格できる程度には勉強するけど」
「そういえば話してなかったわね」
七海は勉強の話になると、思い出したように言った。
「美榊高校の三年生は、授業の出席が全てが自由なのよ。受けたいときに受ければいいし、受けたくなければどこにいたっていいの。神罰のことがあるから、自身の力を向上させられるようにしてるわけ。でも原則として、神罰が始まる十二時までには高校のどこかにいることになっているの」
ホームルーム中に心葉が出て行ったにも関わらず、誰も文句を言わなかったのはこれが理由らしい。
つまり全て自習でいいということだ。
「それと神罰のために訓練をする授業もあるからな。これも参加は自由だけど。神罰で出てくるやつはランダムだから、強くなっておくことに超したことはないぞ」
「そういえば、神罰で出てくる妖魔、だっけ? あれって他にどんなやつらがいるんだ?
「色々いるわよ。濡れ女とか鬼婆とか。神話に出てくるような生き物や、民間伝承に残っている獣。妖魔っていうのは、大昔は稀にこっちの世界に現れていたそうだから、それが語り継がれているのよ」
どの程度の力があるのか、弱点などは存在するのか、そういうことも調べておく必要があるだろう。
生き残るためには必要なことだ。
その後は神罰の話ではなく、お互いがどんな学生生活を送ってきたかについて語り合った。
お互い何年間も何も知らないまま過ごしてきた時間だ。話すことはたくさんあった。
だが俺の一般的ともいえる学生生活とは違い、二人は変わった学生生活を過ごしていたようだ。
神罰というものがあるのを中学生になったと同時に教えられ、それと同時に戦闘訓練などが始まったそうだ。それ以前から、元々道場などに通っている子どもがほとんどであるらしいのだが、肉体的な話もあるので、本格化したのが中学生からとのことだ。
授業と並行し、毎日刀や槍の扱い、妖魔との戦い方を学んでいく。
そして、死というものについて深く学ぶそうだ。
高校三年生の一年間、いつ死んでもおかしくない状況に立たされるため、どうしても必要なものだそうだ。精神面も強化をということだ。
数十年続いてきた間に、様々な試行錯誤が行われた。
神罰は、神を攻撃した人間への罰。
だから、特別な事情がない限り戦うことから逃げることは許されない。
生き残った生徒たちだけが卒業し、未来を生きることができる。
俺もそこに加わると決断した。自分の力に意味が持てるなら、戦ってやる。
玲次や七海や、一人でも多くの生徒と一緒に、生き残ってみせる。
そして生きて、この島を出る。
それが、俺の中に生まれた意志だ。
でも結局、その場で七海や心葉に何があったのは、聞くことができなかった。
Θ Θ Θ
「ごちそうさま。美味しかったわ」
「お粗末さまでした」
「また食いにくるな!」
「いや、そんな頻繁に来られても、いつも作ってるわけじゃないだろうし」
時間がなければ学食で済ませるかもしれないし、食べない可能性もある。
皿などの片付けは、七海がお礼にと終わらせてくれたので助かった。
玲次はその間、ずっと逃げ回るホウキを追いかけまわしていた。自由だなこいつ。
「それじゃあ私たちは帰るわ。長居して悪かったわね」
「気にすんな。ああ、そうだ。一つ聞いてもいいか?」
俺は帰ろうとする二人を呼び止める。
「心葉の部屋って、どこ?」
二人の顔があからさまに引きつった。
「……何をしに行くつもりなんだ?」
訝しげに聞いてくる玲次に、俺は苦笑しながら答える。
「今日はあんな挨拶で終わっちゃたからな。ちょっと話に行くだけだよ。それくらいは構わないだろ?」
二人は顔を見合わせ、バツが悪そうに考え込んでいた。
何があったのかは知らないが二人の反応はよくわからない。
一見仲が悪くなっているように見えるのに、二人が心葉のことを大事にしているのはすぐわかるのだ。
なのに、心葉を避けている。
玲次はどうしようか迷っているようだったが、やがて渋々と部屋の番号を教えてくれた。
教えられた番号はなんと同じ階で、この階の一番端の部屋だった。
「じゃあ、帰るな」
玲次は複雑そうな顔をして出て行く。
だが、玲次が出て行った後でも七海は険しい顔で玄関に留まっており、目を細めて俺を見据えた。
「凪、これだけは言っておくわ。必要以上に心葉に関わるのは止めておいて。いずれ、無用な痛みを負うことになるわよ。あんたも、心葉も」
「……どういうことだ?」
七海は俺の問いには答えずに、部屋から出て行ってしまった。
部屋の中には静寂だけが残り、ため息を吐きながら頭を掻く。
そして、もう一度キッチンに戻ると、準備していたものを手に部屋を出た。
外はもうすっかり暗くなっている。
通路から見える海は真っ黒に染まっており、頭上の空には星が瞬いていた。
玲次や七海、他の生徒の姿がないことを確認すると教えられた番号の部屋に行く。
この階で一番隅の部屋。
俺の隣は何部屋か空き部屋になっており、その数部屋を挟んだ奥が心葉の部屋だった。この部屋だけ、明らかに避けられている。
疑問に思いながらインターホンを押すが、返事がなかったので留守かとも思ったのだが、しばらく待っていると控えめの声が聞こえてきた。
『はい……』
「心葉? えっと、凪なんだけど……」
『な、凪君?』
少し戸惑った様子が伝わってくる。
『ちょ、ちょっと待って、すぐ開けるから』
言われた通り少しの間待つと、鍵の開く音がして中から心葉が顔を覗かせた。
まだ美榊高校のブレザー姿だ。昼に見たときから変わらない様子で、顔色はあまりよくない。
「……どうかした?」
小さな口からか細い声が紡がれ、我に返って答える。
「ああ、うん。今朝朝食食べてないとか言ってたから、今どうしてるか気になってな。差し入れ、作ってきた」
俺は持ってきていた弁当箱を心葉に渡す。
心葉は目を白黒とさせ、俺の顔と弁当箱を交互に見る。
「え、えっと私に?」
「他に誰がいるんだよ。もしかして、もう食べてた?」
「い、いや、食べてないんだけど……」
「そっか。ならよかっ……」
いやよくない全然よくないな。
「とりあえず、食べてないんならこれ食べてくれ」
心葉はどうしようか迷っているようだったが、やがて恐る恐る両手で弁当を受け取った。
俺は微笑むと、心葉に言う。
「心葉も、本年度はここに住むんだろ?」
「う、うん。そうだけど」
「俺もここから何個か隣の部屋に住むことになってるから、何かあったら言ってくれ」
俺がそう言うと、心葉はようやく笑顔を見せた。
「うん。ありがと」
「いえいえ、まあ、島に戻ってきたばかりの俺の方が、世話になる可能性は高いんだけどな」
頬を指で掻きながら乾いた笑いを浮かべていると、心葉はそんな俺を食い入るように見つめていた。
「……凪君、本当に戻ってきたんだね」
心葉は口に手を当てて嬉しそうに笑う。
その仕草に思わずドキッとしてしまう。
子どもの頃はかわいいとか美人とかそんなことは意識していなかったが、今見れば驚くほど……って何考えてるんだ俺は!
頭を叩いて妙な考えを振り払う俺を、心葉は不思議そうに首を傾げ見ていた。
「そ、そうだ! よかったら連絡先聞いといていいか?」
「うん、いいよ」
お互いの連絡先を交換し、長い時間いても迷惑なので、早々に引き上げることにした。
「それじゃ、俺は帰るよ。と言ってもすぐそこだけど。おやすみ」
苦笑してみせ、心葉に手を振って帰っていく。
「あ、凪君!」
そんな俺を、心葉が慌てたように呼び止める。
「お弁当、ありがとう。それと……」
一度言葉を切り、心葉は太陽のように輝く笑顔を俺に向けた。
「おかえりなさい、本当に」
突然の言葉に、一瞬呆けてしまった。
頭が理解に追いつき、遅れて熱いものが込み上げてきた。
忘れかけていた記憶を呼び覚ます、懐かしい言葉。
あのときと変わらない、心葉の笑顔が再び教えてくれる。
帰ってきたのだと。
瞼の裏からこぼれてしまいそうになる感情を必死に堪えながら、笑顔を浮かべて心葉に返す。
「ああ、ただいま」
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