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蒼穹の如く澄み渡る空を映した海が水平線の彼方まで広がっている。
その広大な海の真ん中を、一隻の船が目的地を目指し進んでいる。
進み行く船は一般人の渡島や旅行で用いられる貨客船ではなく、物資運搬に用いられる貨物船だ。
船が水を切る音とエンジン音だけが響き、人の動きがほとんどない船はさながらゴーストシップだ。
俺は船のデッキにぽつんと一人、手すりに腰を乗せてこれまで数時間通ってきた海路を眺めていた。
最初の何時間かは持っていた数冊の本を読むことで時間を潰していたが、読み終わってしまえばやることもない。
だだっ広い海の真ん中なので電波があるわけもなく、携帯電話も使えない。
「広いなー海って……」
口から情けない声とともに、嘆息が漏れる。
なんでこんなところに自分がいるのかと疑問に思うが、今更そんなことを考え直すのも虚しいだけだ。
少し長めの黒髪が、海風に流され目にかかる。
この春から高校三年生を迎える青春真っ盛りの若人であるが、心は諸々の事情のおかげでこの世の終わりを背負ったように沈んでいる。
「海……海だよな……」
自分以外ほとんど人が乗っていないことを知っているため、独り言を遠慮なく呟くが、その声すら海風が飲み込んでいく。
荷物はショルダーバッグと背負っている細長い包み。この二つのみ。
俺は現在船に乗ってはいるが、貨物船に乗っていることからもわかる通り、別の旅行やどこかの帰りというわけではない。
「四月八日月曜日、絶好の転校日和だな」
転校。
その言葉が、ポトリと落ちる。
俺は高校二年生までは本土の高校に通っていたが、この春から通うことになった高校は馴染み親しんだ高校ではない。
手すりから体を降ろして、あまり掃除が行き届いていないデッキを歩く。
つい先ほどまではそちらにも水平線が広がっていたが、今では一つの大きな島が船の道を阻むように佇んでいる。
本年度より俺が通う高校がある島だ。
その名の通り植物のサカキが多く、自然豊かな美しい島として有名である。
本年度からあの島の
「はぁ……」
転校を告げられた際のことを思い出して、再びため息を吐く。
そして、背負っている包みに目を向けた。
背中には浅葱色の布に覆われた細長い包みがある。長さは大体一メートルと少し、重量は一キロあるかないかというところ。
一体こんなものを持ち歩けなんて何を考えているのかわからないが、それでもこれを渡した当人は断固として譲らなかった。
その当人こそが、俺をこの島にこの包み一つで放り出した張本人、俺の父親だ。
多少抜けたところがあるが普段は至って普通の常識人だったはずだ。
その口から、まさかいきなり転校しろと言われるとは夢にも思わなかった。
さらに、この島であればこれは持ち歩いても問題ないとかで、結局所持したままここまでやってきてしまった。
普通なら人目を気にするべきだが、この船では必要ない。
デッキには、積み荷かはたまたゴミなのか不明であるいくつかの荷物が積み上げられているが、俺以外に人の姿はない。
それは、行き先である美榊島の閉鎖的な社会が理由となっている。
俺だけでなく、ある程度一般常識を持ち合わせている人間なら美榊島の特殊性は知っていることだ。
本土から南に行った場所にある離島なのだが、ちょっと変わった島として有名なのだ。
まず、島全体が宗教、それも主に神道に重きを置いた島である。宗教の島といっても、別に如何わしい島などではなく、島の至る所に神社やお寺、教会などがある島というだけで特別住人がおかしいということはないらしい。
宗教以外にも様々な産業で成功しており、島全体は本土と比べても引けを取らないほど繁栄していると聞く。
らしい、聞くと曖昧な表現となっているのは、本土の方にあまり情報が伝わってこないからである。
美榊島はある時期を境に、閉鎖的な島へと変わった。
神道を重点的に行っていることもあるので年間を通して、正月は一般人もある程度自由に出入りができるのだが、原則として外部の人間は入ることはできない。
物資の搬入や搬出をするにしても、島専用の船や人を使う徹底ぶりだ。
父さんは宗教や歴史などを専門としている民俗学の学者で、そんな話は俺の耳にもよく入ってくる。
そして、俺はある事情から一般人より詳しく美榊島の知識を持っているが、それも大したものではない。
正月などを除いた日以外、フェリーなどの貨客船が行き交うことはない。転校生として訪れることが決まっていた俺ですら、面倒な手続きをいくつも行った上でようやく、それも現在乗っている貨物船に乗ることができたのだ。
父さんはこの包みを持ち歩くこと以外にも、いくつかのことを俺に言った。
不可解な話がほとんどだったが父さんは多くは語らず、島に着いたらわかるなどと言ってそのまま送り出しやがった。
「本当に無茶苦茶だ」
現在の服装はポロシャツの上から黒いパーカーを羽織り、俺のトレードマークというべきリストバンド、下はカーゴパンツというまさかの私服スタイル。
制服から教科書まで、転校の準備は何一つ満足に間に合っていない。
様々な疑問が頭によぎって海風に消えて行くが、それはすぐにわかることだろう。
思考から現実に意識を引き戻すと、先ほどまで小さく見えていた美榊島が目の前までやってきた。
貨物船が軽い振動とともに着岸する。
ショルダーバッグと包みを背負い直し、肩をすくめてゆっくりと歩き出す。
これから待ち構えていることに半分憂鬱に、そして半分胸躍らせながら、俺は美榊島へと降り立った。
「はぁー、疲れたー」
下船してまず目に入るのは悠然と佇む港だ。
降り立ってまず三十分ほどもかかる入島検査があった。持っている荷物の検査、身分証明、入島理由。
しかしここで問題発生。なぜ転校するのかと聞かれ、そんなことは存じ上げませんと答えるとそれなら島には入れられないとか言われた。そんなのむしろ俺が聞きたいくらいだ。
どうやら情報が正しく伝わっていなかったようで、その確認に時間がかかり本来五分とかからなかった確認が三十分もかかってしまったのだ。
検査から解放されて港から出る。
出てすぐ前にある駐車場は数台の車が停まっているだけで空きだらけだ。何か行事でもない限りはいつもこんな状態らしい。
港から見える緑を称える山々。ただそこにあるだけなのに、美榊島の木々は爛々と輝いているように見える。
不思議な島。それが改めてみて思った最初の感想だった。
しばらく眺めていたい気分ではあったが、悠長に突っ立っている時間はない。
今日は、これから始業式なのだ。
少し余裕があるように貨物船が到着していたが、それでも悠長にしてはいられない。
しかし、急な転校ということで十一時くらいまでには登校してくれればいいと高校の方から言われているため、道に迷わなければ間に合うだろう。
公共の交通機関を使ってもいいが、せっかくなので歩いて行こう。
ちなみにこの島、移動は車系統よりも、専ら電車が主流だ。行けるべき場所は限られており、閉鎖的な社会も相まってここから外に行くということもないので、車はあるにはあるが使う頻度は少ないらしい。
技術や資金は潤沢にあるため、島には至る所に線路を走らせて電車での移動を可能にしている。なんて贅沢な島だ。
携帯電話で地図を確かめながら、しっかりと舗装された森沿いの道を歩いて行く。
右には先ほど俺が眺め続けていた海が広がり、左には森が広がっている。
車道にはたまに車が行き来している程度。運転手や助手席に座る人が港の方から歩いてきている俺を物珍しそうに見ていた。
「そんなに余所者が珍しいかね」
携帯電話の地図を見ながら努めて道に迷わないように歩いて行く。
少し進むと海から離れ、工場や家が建ち並ぶ道へと入った。ここを真っすぐ歩いて行けば高校に着くはずだ。
「ふぅ……」
パタンと軽快な音を鳴らして携帯電話を閉じながら一息吐く。ちなみに俺はスマホよりガラケー派。こちらの方が使いやすい。
ある程度進むと交差点があり、タイミングよく歩道が青信号になっていた。
しかし入ると同時に点滅を始めたので、足早に渡りきる。
信号が赤に変わり、後方で車が走り始めた。
ほっと息を吐きながら立ち止まり、携帯電話を取り出して地図と時間を再確認する。のんびり歩きすぎたことで、そろそろ余裕がなくなってきた。
「……ん?」
携帯電話を閉じて歩きを再開しようとしたところで、前方から話し声が聞こえてきて、不意に動きを止める。
小柄な女の子がそこにいた。
耳に携帯電話を当てており、話し声はそれだったようだ。
俯きながら歩いているため顔はよく見えないが、高校生が着るようなブレザーを着ているので学生か何かだろう。
美榊島には俺が行く高校以外にも高校があると聞いているので、どこの高校のものかはわからない。
少女は、春でもう温かくなり始めているというのに白いショールを首に巻いている。
「……はい……はい……お昼までには、必ず行きますので……」
か細い声だが綺麗で澄んだ声で少女は話し、携帯電話を閉じた。
少女はそのまま携帯電話をスカートのポケットに入れ、俯き気味に歩みを続ける。
そのまま俺の横を通り過ぎても、少女は歩みを続けた。
今、信号は赤だ。
ハッとして振り返ったとき、少女は既に横断歩道の中に足を踏み入れていた。
いきなり道路に踏み出してきた少女目掛けて、トラックが猛スピードで突っ込んできた。
「おいッ!」
飛び出しながら腕を伸ばし、少女の腕を掴んで力任せに自分の方へと引き寄せた。
「きゃっ!」
少女が悲鳴を上げる。
それを掻き消すようにトラックのクラクションがけたたましく鳴り響き、少女の服を掠めていった。
少女は俺の体に激突し、俺はたたらを踏んで支え切れずに少女とともに地面に倒れた。
「いってて……」
尻餅をつき呻き声を上げながら、抱えている少女に目を向ける。
俯いた少女は何が起こったのかようやく理解したようで、体を震わせていた。
見たところ怪我などはしていないようで、そっと胸を撫で下ろす。
「だ、大丈夫ですか?」
尋ねると少女が顔を上げて俺を見返し、正面から初めて少女の顔を見た。
まだ幼げを残した小さな顔にくりっとした目に細い眉。肌は雪のように白く、手入れもよくされているのか荒れや染みもまったく見られない。綺麗な黒髪のロングヘアーが背中まで伸びており、目の上辺りにクローバーの形をした髪留めが光っている。
多くの人が美少女と判断するであろう整った容姿だったが、どうしてだろう。疲労の色が濃く見られ、微かにやつれて見えた。
少女は我に返ると慌てて体を離し、立ち上がりながらか細い声で答える。
「だ、大丈夫です。ありがとうございました」
俺も少女から少し距離を取るように立ち上がると、首を傾げながら少女の顔を覗き込んだ。
「本当に大丈夫ですか? 顔色が悪いみたいですけど、頭とか打ってないですよね?」
顔を覗き込まれた少女は、恥ずかしそうに両手を振りながら後ろに下がる。
「い、いえ、大丈夫です。ちょっと今日は、朝ご飯を食べてなくて……」
ああ、女の子だもんな。そういうこともあるか。
表情には出さずに内心苦笑した。
年度初めであるため、身体測定も近々あるはずだ。ダイエットの一つや二つするだろう。
それならあまりデリカシーのないことは言えない。
「そうですか。でも、本当に体調悪そうなんで……」
鞄の外側のポケットに手を突っ込み、中から取り出したものを少女の手に握らせた。
「……?」
女の子が首を傾げて見る手のひらには、三つの飴玉が乗っている。
「これだけでも食べて、糖分補給をしてください」
本土のコンビニで買ってきたもので、長旅でほとんど食べてしまったが数個だけ鞄に残っていたのだ。
「それじゃ、俺は行きます。これからは気を付けてくださいね」
少女に向かって軽く手を振り、踵を返して足早に立ち去っていった。
「
Θ Θ Θ
少女と別れてから三十分後。
「どういうことだよこん畜生!」
俺は歩いてきた道を全力で引き返していた。
春の涼しい風が吹く中を、なりふり構わず走り抜ける。
「なんだよ美榊第二高校って! 美榊高校が二つあるなんて聞いてないぞ!」
自分で予め調べていた美榊高校に着いた。
十一時ギリギリくらいになってしまったが、滑り込みセーフでどうにか間に合った。
そして事務室に行き、転校生であることを伝えたのだが、転校生なんていないと言われてしまった。
まさかここでも事情が伝わってないのかと心配になり、自分の学年を伝えたところで対応してくれていた女性は目の色を変えた。
『ここは第二高校で高校一年生と二年生が通う高校なんです! 三年生の通う第一高校は違う場所にあるんですよ!』
と言われ、正しい位置は美榊第二高校とはかなり離れた場所にあり、現在第一高校に向けて全力疾走しているわけだ。
丁度、あの少女と会った交差点辺りが分岐点だったようだ。
「簡単にしか調べなかったのがいけなかった……! てか父さんも教えてくれよ!」
第二高校で状況を把握するまでにそれなりに時間がかかっていたため、既に結構な時間が経っている。
悪態を吐きながら、右腕に付けたお気に入りの黒い腕時計に目を向ける。
アナログ時計の針は、十一時三十分を差していた。
連絡をしようにも当然調べていた電話番号も第二高校の方だったし、あまりに急いで飛び出したので結局事務員の人にも聞けていない。
完全に遅刻だった。
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