3
「ぜぇ……ぜぇ……」
膝に手を突いて乱れた息を整える。
顔から大量の汗が滴っていき、アスファルトの上に染みを作っていく。
「や、やっと着いた……着いた、けど……」
頭を上げて前にある高校に目をやる。
「なんてでかさの高校だ……」
目の前にあるのは巨大な門。
高々とそびえ立つ鉄の門が口を開けて待ち構えており、左右に同じくらい高い塀が延々と続いている。
美榊第一高校は周囲を森に囲まれた高校だった。
近くには大きな建物がいくつかある程度で、ここまで走ってくる間も森続きだった。
第二高校の方は普通に民家やスーパー、コンビニなどに囲まれていたどこにでもある普通の高校に見えたが、この第一高校は孤立した要塞のように見える。
「まあ何にせよ。早く行かないとさらに迷惑になるな」
既に迷惑になっていることは言うまでもないだろうが、ここで立ち止まっていても仕方がない。
巨大な口のように開けられた門をくぐり、美榊第一高校へと足を踏み入れた。
ずっと先に校舎が見える。
左右にはよく手入れがされている花木が回廊のように並んでいる。
当然木々の中にはサカキが多く見られる。さすが美榊島といったところか。
花は咲いていないが、サカキ自体もとより清らかに見えるので、それだけでも十分綺麗だ。
校舎に近づくにつれ、全容が見えてきた。
敷地に負けず劣らずの大きな校舎。加えて、最近改築があったばかりのように真新しい造りとなっている。
三年生だけが通っている高校にしては広過ぎる気がするが、一学年何人くらいなのだろうか。
「校舎自体は良いな。高校最後を迎えるには悪くないかも」
正面玄関の前でくるりと回って辺りを見渡す。
既に遅刻しているので完全に開き直っています。
「……ん?」
周囲を見渡したとき、おかしな部分が目に留まり、俺は足を止めた。
それは今まで歩いてきた先、高校の校門部分だ。先ほどまで大きく開いていた校門が、いつの間にかその口を閉じている。
「さっきまでは普通に開いていたのに、どうして急に閉めたんだろ」
門の近くに人がいたようにも見えなかったので、自動で開閉するようにでもなっていたのだろうか。
そんなことを考えていた矢先、異変があった。
突如、島中に聞こえるのではないかと思うほど大きなチャイムが鳴り響いた。
俺が本土の高校で聞いていたチャイムより重々しく、体の芯まで響いてきそうな低音だ。
腕時計を見て再び時刻を確認すると、丁度二つの針が上を指していた。
つまりは十二時だ。
「こんな時間にチャイムが鳴るのか……」
俺が今まで通ってきた学校の時間割はそんな風にはなっていなかったので、十二時が区切りというのは妙に感じた。
だがそういう学校もあるだろうと、改めて遅刻していることを思い出し、歩き出す。
その瞬間、それは起こった。
「――――ッ!」
突如、体中に虫が這い回るような悪寒が走った。
全身の皮膚が一瞬で粟立ち、嫌悪感が体の芯から突き上がる。
「なんだ……っ」
感じたことのない不快感に体を抱えていると、視界の隅の方で大きな何かが動いた。
無意識に視線がそちらを向く。
影。形容するならそれくらいしか出てこない。もしくは黒い何かだ。
その黒い影が、高校の敷地を囲うように高速で上がっていく。
塀や門の向こうの景色は遮断され、外の様子が一切わからなくなる。
口から言葉が出てこず、呆然としている間に、ドーム状に展開された黒い影は美榊島の美しい山々や太陽や青空までをすっぽり覆い尽くしてしまった。
太陽の光を閉ざされているにも関わらず、周囲の光景ははっきりと見て取れる。
黒い影が錯覚なのかと疑いたくなるが、紛れもなく現実だ。
何か仕掛けが。
ふとそんなことを考えたが、こんな大規模な仕掛けを行える技術なんてあるはずがない。
足がすくみ、自然と校舎への方へと体が向く。校舎の中にはきっと人がいて、状況も理解できると思ったからだ。
だが、それを遮るものがあった。
「なんだこれ……っ」
口から震えた声が漏れる。
視線の先にある校舎が、歪んでいた。
しかし、歪んでいるのは校舎ではない。俺と校舎の間にある空間だ。
溶けたように歪んでいる空間からは不穏な気配が流れ出る。
歪みは徐々に黒みを帯びていった。向こう側にあった校舎は見えなくなり、遂に歪みは漆黒へと変化する。
不意に、空間の歪みは消えた。
「……ッ!」
代わりにそこに現れた。
体を芯から震え上がらせるような唸り声を上げる生き物。
黒い体毛を体中に纏った巨体。体長は二メートルほどで俺の身長より頭一つ分くらい高いように見えるが、前屈みなので正確にははわからない。黒い体毛の隙間に光っているのは獲物を射止める二つの目。手足からはいかにも切れ味のよさそうな爪が伸び、突き出た口からはよだれとともに牙が覗いていた。
生き物などという、生易しいものではない。
頭だけ見るなら犬、いや狼と呼べる凶悪さだが、体躯は人間のそれに酷似している。
人と狼の中間に位置する幻想生物。
正真正銘の化け物がそこにいた。
太い二つの足で立つ人狼は、鼻をひくつかせながら周囲を見渡し、俺に気付いた。
二つの目から放たれる殺気に全身が危険信号を放つ。
気付いたときには、体を投げ出すように横に跳び退いていた。
直後、先ほどまで立っていた場所に、人狼が鋭利な爪が突き立てた。
「なんだよ一体!」
地面を転がって体勢を整えたが、振り向いたときには再び人狼が迫っていた。
よだれを撒き散らしながら突き進んでくる姿は獲物を狙う狩人のそれだ。
再び突き出される凶悪な爪。
体を翻し強烈な一撃を躱すが、幾度も攻撃が飛んでくる。
五感全てを研ぎ澄ませ、人狼の一撃一撃を全てを躱していく。だが後方まで気を気張る余裕はなく、背後にあった木に背中を打ち付けてしまった。
人狼の目がギラリと光り、ここぞとばかりに振られた爪が俺の左腕を斬り裂いていった。
「いつっ!」
腕から血が飛び散り、黒いパーカーを濡らした。
怯む間すら与えてくれず、人狼はよだれを撒き散らしながら喰らいついてくる。
「――ッ!」
咄嗟に背中に担いでいた”それ”で人狼の口を押さえつけた。
浅葱色の袋に包まれた棒状の"それ"は歯茎の間に挟まり、なんとか人狼を押し止めることができたが、人狼は構わず俺に噛みつこうと顎を動かす。
「ぐっ……!」
両腕に力を込めると、斬り裂かれた左腕に激痛が走り、傷口から溢れ出した血が地面に落ちていく。
浅葱色の袋が次第に破れていき、中の白い金属が顔をのぞかせる。
人狼の口から流れ出た唾液が、俺の顔へと垂れて伝っていく。
この人狼は、俺を食い殺そうとしている。
今まで生きてきた平凡で短い生涯の中で、死を感じたことなど一度だけ。
そのことを思い出すと同時に駆け巡った。
「そういえば、なんか言ってたな……ッ!」
頭の中に父さんの言葉がよみがえってきた。
俺がこの島に帰ることを告げられた日、ほんの数日前のことだ。
Θ Θ Θ
数日前、小学生からずっと過ごしてきたマンションに、父さんが帰ってきたときのことだ。
「すまんが、来年度から転校してくれ」
「……」
開口一番父が放った言葉に、俺はきっかり五秒硬直した。
「はぁ!? 転校!?」
転校という言葉の意味が頭を錯綜し、視界がぐるぐると回る。
「ああ、そうだ。頼む」
「いやいや頼むじゃねえよ! 来年度って、もう四月だろ!?」
さらっと言ってのける父さんに食って掛かる。
この無茶なことを言う父親の名前は八城勇。全国でも有数の大学に努める大学教授だ。三十五になったばかりという若さで教授を勤めていることから考えても、優秀な人間なんだと理解していた。
基本的にしっかりしているがその反面、家事全般を息子の俺に丸投げするという破天荒な面も併せ持っている。
しかし、いきなり転校を決めるなんて無茶なことを言い出す人間ではなかった。
父さんはスーツの上着をゆっくりと脱ぎ、簡単に畳んでリビングの椅子にかけた。その隣にあった椅子を引いて腰を下ろすと、項垂れるように机に肘を突き、手で顔を覆った。
「悪い。今日決まったことなんだ」
妙に真剣に、それでいて辛そうに告げる。
普段から淡々と冷静に話すことが多い父からは想像もできない姿に、火照った頭が冷めていく。
「はぁ……」
肩を落としてため息を吐くと、冷蔵庫から取り出した冷たい麦茶を二つのコップに注ぎ、その片方を父さんの前に置いた。
もう一方は父さんの反対側に置き、その席に俺も腰を下ろす。
「決まったっていうのがわからないな」
冷静になった俺は、違和感を覚えた父さんの言葉を指摘する。
「決まっていうのは転校がって意味だよな。それって、別に父さんがどこかに転勤とかってわけではないんだろ?」
大学教授である父さんの出張は今まで何度もあったが、転勤なんてことはなかったし、そんな話が四月に入っている今頃決まるはずもない。
「そうだ。私はあの大学の教授を続ける。お前には高校三年生の一年間だけを、別の高校に行ってもらいたい」
ますます怪訝な顔をし、すがめた目を父さんに向ける。
「余計わからなくなったぞ。大学は父さんの大学に行くってほとんど決まってるだろ。それなのになんで今更転校なんだ?」
高校を卒業すると、俺は父さんの大学に進学すると決めている。
学力が足りないからだという理由で転校というのなら、わからないでもないがその線も薄い。
父さんの大学は難関ではあるが、その大学教授直々の指導もあって、なんとか合格できるであろうラインも維持できている。いざとなれば私の権力でねじ込むとか無茶なことも言っていた。
わざわざ転校をする理由がない。
「大体転校ってどこに?」
麦茶を一口飲みながら、落ち着いた声で尋ねる。
先ほどまでとは打って変わって冷静だ。
こういうところは父親に似ているのだろうと、内心苦笑する。
父さんは迷ったように瞳を揺らすと、その高校名を口にした。
「美榊島の、美榊高校だ」
高校の名前を聞いた途端、思考が停止し、指に力が入らなくなった。
机に戻そうとしていたコップが、カタンと音を立てて机の上を転がる。
まだ半分以上残っていた麦茶が机の上に広がり、床に流れ出しそうになったところで再び思考が動き出した。
「おっと……」
半分うわの空で席を立ち、布巾を取り出して広がった麦茶を拭き取っていく。
麦茶を布巾で拭き取れるだけ拭き取ると、キッチンのシンクで布巾を冷たい水にさらす。
流水の音を耳で受けながら、背後にいる父さんに問う。
「……美榊島に、帰れってことか?」
部屋に水の流れる音だけが響き、そのせいで少しの間がとても長く感じる。
父さんはズボンから黒いハンカチを取り出し、布巾で拭い切れなかった麦茶を拭き取り始め、それと同時に口を開いた。
「そういうことになるな。高校三年生だけの期間付だが」
帰る。
その言葉からわかるように、俺はかつて美榊島に住んでいた。ただ住んでいたのは十年も前で、当時の記憶も曖昧だ。
この十年間一度も帰島していないので現在がどのような状態になっているかは知らないほどだ。
元々父さんは美榊島の人間であり、その子どもである俺も美榊島に住んでいたのだ。
だが、父さんが島を出るというになり、俺も小学生低学年くらいのときに島を出て、それっきりずっと本土で暮らしている。
そのときのことは、おぼろげだが覚えていた。
父さんは俺が生まれたときまだ若く、理由は知らないが大学、大学院に通い、その後異例の若さで助教授、今で言う准教授になったと同時に、俺を連れて島を出たのだ。
さらにその数年後、父さんはめでたく教授になり、それは高校二年生を終えるまで続いていた。
美榊島の閉鎖的な社会の徹底ぶりは大したもので、一度外に出た俺や父さんでさえ、十年間一度として島に帰ったことはない。
「もし嫌なら、断ってくれても構わない」
洗い終えた布巾をシンクにかけ、俺は父さんの方に向き直った。
「拒否はできると?」
「無茶なことを言っていることは、重々承知している。お前だって高校の友達や環境のこともあるだろう。だから無理強いはしない。だができるなら断らないでもらいたい」
「その理由は?」
間髪入れずに聞き返した俺に、父さんは眉根をよせて押し黙ってしまう。
その様子を見て、俺は父さんから視線を逸らし、再び父さんの向かいの椅子に腰を下ろした。
「なんか、事情ありか」
「……」
半分独り言ではあったのだが、父さんの沈黙は肯定したも同じだろう。
父さんの事情というより、島の事情と判断するべきなのだろうな。
父さんは俺の答えを待つように、静かな視線を俺に向けていた。
「転校……ね……」
その視線をごまかすように、指で机をトントンと叩く。
「詳しい説明は?」
「島に行けば、校長が詳しいことを話してくれる。私の恩師だ」
それ以上は言わずまた閉口する。
その目はただただ答えを待つように真っすぐ俺を見返していた。
「はぁー……」
俺は深々と息を吐き出し、足を組んで机に肘を突いた。
色々と納得がいかない部分がある。だが父さんはそれを話す気がないように口を閉ざしている。あの目を見る限り、答えるつもりはないだろう。
「一つだけ確認」
問うた内容に、父さんはゆっくりと答えてくれた。
しかし、一瞬その目に痛みが光ったのは、見逃すことなどできなかった。
答えを聞いた俺は、しばらく考え込み、やがて机に突っ伏す。
「わかったわかったよわかりましたよ。高校が変わるのは面倒だけど、それだけの価値はあるだろ。ああ、行ってもいいよ」
父さんは小さく目を見開き、口から少しの息を吐き出した。
「すまないな」
「謝るなよ。何か事情があるんだろ?」
当たり前だが、いきなり転校しろなんて妙な話である。
ましてや四月に入っている今から転校など、まともな方法では行うことすら不可能だ。
つまりは、それを受け入れる転校先にもそれなりの理由があると考えられる。
何から何まで不自然ではあるが、幼少の頃を過ごしたあの島に戻ることにも興味がある。
目の裏によみがえるのは、消えるはずもない遠い記憶。
個人的に、島に行かねばならない理由がいくつかある。
だがそれらの思い出に浸る前に、父さんが言葉を投げてきた。
「あの島に行くことに関して、お前にいくつか言っておくことがある」
「なんだ? 変出者でも出るのか? 安心しろ。ぶっ飛ばしとく」
やけくそに冗談を言ったのだが、いつも通り父さんは拾ってくれない。
「それより悪いな」
それどころかマジレスで返してくる。
父さんはおもむろに立ち上がって歩き始めた。無駄に広いこのマンション。父さんはリビングを出て他の部屋に消えていった。
すぐに戻ってきたが、その手にはあるものが握られていた。それは父さんの寝室にずっと飾られていたものだ。
「まず一つ、島にはこれを持っていけ。そして肌身離さず持っておくんだ」
持ち出したものを俺の眼前に突き出しながら父さんはそう言った。
目を白黒とさせ、突き出された手中のものと父さんの顔を交互に見る。
父さんの表情は依然変わらず真剣だが、それを全てひっくり返すほどのものが突き付けられていた。
「え……? なんで……?」
「いいから持っていけ」
”それ”を投げ渡されて、落としそうになりながらなんとか掴み取る。
理解が追いつかない俺にお構いなしに、父さんは続ける。
「二つ、帰ってきたくなればいつでも帰ってくればいい。三つ、お前がやりたいようにやればいい。四つ、私の協力がいるときはいつでも連絡してこい。でもお前自身で判断してほしいから、できるならお前が自分の目で見てほしい。五つ、これが最後だが……」
「ちょっと待った待ってくれよ」
頭から何を言っているかはわからず、矢継ぎ早に告げる父さんの言葉をたまらず遮る。
最初に言われた部分を聞き返した。
「帰ってきたくなれば帰ってくればいいって、別にホームシックになったりしない。それにこんなものをどうしろと?」
冗談交じりに、少し重い"それ"を上げてみせながら苦笑する。
だが父さんはピクリとも笑わずに口を開いた。
「あの島に帰り、美榊高校に通うということはお前の命に関わる問題なんだ。だから帰ってきたければ帰ってくればいいし、帰ってこないにしても身を守るために"それ"を持っていけと言っているんだ」
冗談としか取れない言葉を、父さんは真顔で言ってのけた。
固まる俺に、父さんは五つ目を言い、それからはいくら尋ねても詳しいことは島に行ってから聞けと、結局最後まで教えてくれなかった。
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