第20話──想うがゆえに、すれ違う願い

「幸せ…………ですか?」


 青年が口にした言葉を、少女は戸惑いと共に反芻する。

 穏やかな碧い瞳は、彼女を包み込むような優しさで溢れていて、昔語りを終えた今の彼からそのような眼差しを向けられる事は、少女の理解を超えていた。


「ええ。そしてその恵みは全て、貴女が与えてくれたものです」


 ふわりと。慈父を思わせる微笑みを青年が浮かべた。

 その羽毛のように繊細で儚げな表情は、目の前にいる少女にとってあまりにも重いものだった。

 だって、だって。

 ルーアンで彼女を逃がした後、彼が辿った道は──


「貴女と出会う以前の私は、呼吸さえしていましたが、決して人としては『活きて』いませんでした。

 己が真に欲しているものすら分からず、ただ、周囲が望むように、騎士として、貴族として、理想と思われる像をなぞるだけの人形でした。

 そんな人形に、初めて貴女は一人の男としての命を、『自分の意志』というものを吹き込んでくれた。

 私は生まれてから20年以上の時を経て、ようやく己の意志で立ち、己の欲するものの為に戦う事が出来るようになったのです。

 それは、素晴らしい経験でした」


 青年の微笑みは変わらない。

 しかし、彼女は知っている。それと引き換えに彼が失ったものがいかばかりのものであるかを。


 だから、思わず少女は問うていた。


「ジルは……自分の過ごしてきた時間は幸福だったと……後悔するものではなかったと……本当にそう思っているのですか?」

「確かに我が人生において後悔に苛まれる事が全くなかったと言えば、嘘になります。

 ですが、それは私自身の生きてきた道自体を否定するものではないと、私は考えています」


 ──今でも時々思ってしまう。

 あの時、あの場所、あの光の中へ戻る事が出来たなら、と。


 だが、無窮なる時の流れの中で、既に歴史と成った過去に、『もしも』という個人の希望的観測が入り込む余地など、決してない。

 時間というものは本当に残酷で、かつてはあれほど鮮やかに思い描いていた夢も、大切に懐いていた温もりさえも、ことごとくこの手から奪い去っていってしまう。

 ただ、この意識だけが、夜道の途中で独り、取り残されたまま。


 痛みと後悔の記憶が覆される事は無い。

 焼き付いた傷が癒される事も無い。


 無欠なものなどない道程。

 だが、それでも。

 かつて分かち合った栄光と、支え合った願いは、過ちではなかったと、誇れるものであったと、胸を張ることが出来るから。


 まだ自分は戦える。

 進み続ける事が出来るのだ。


「私が私を否定する事は、ここに至るまで私を信頼し、時に愛してさえくれた人達への否定、侮辱に他なりません。

 私は、貴女を否定することなどしたくはない」


 静かだが、きっぱりとした口調で青年は言いきると、少女から自分達を取り巻く世界──灯りが瞬き始めた港町の風景──闊歩する人々、巨大な鉄橋を忙しなく往来する車列、停泊する宮殿のような客船、聳え立つ摩天楼の一つ一つに、視線を移す。


「ジャンヌ……見て下さい。

 今、私達の周りにある景色を。

 素晴らしい人の営みを。

 これが、かつて貴女が私に語ってくれた世界。

 あの果てなき夢の中に、私たちは居るのです」


 全てを愛おしむかのような口調で語りながら、再び目の前の少女に視線を戻した青年の──ジルの瞳の中に、切とした光が宿った。


「この夢の世界に私を導いてくれたのは、他でもない、貴女なのです。

 あの日、あの時、貴女と出会う事が無ければ、そして貴女と惹かれあう事がなければ、今ここに私が居る事はなかった。

 そうですね……おそらくはきっと、かつての私自身が恐れていたように、自らの力に己を食い破られ、ただの怪物と成り下がり終わっていたでしょう」

「ジル……」

「だから私は、もし再び貴女と言葉を交わす事が叶うのならば、ずっと貴女に言いたかった。伝えたかった。

 貴女という存在によって、私を含め、計り知れないほどの存在が救われたのだと。

 それにも関わらず、多くの歓びを齎してくれた貴女自身を、私は終ぞ救う事は出来なかった。

 あまつさえ、今もこうして、貴女を自責と悔恨で組まれた牢獄に閉じ込めたままでいる──」


 ジャンヌがはっと目を見張る。

 まったく予想していなかったタイミングで青年の顔に浮かんだ苦悩の色は、この一日、彼女が頭のどこかで常に感じていた違和感──案じていた予兆を決定的に裏付けるものであったからだ。


「貴女が主の下へ旅立ったとされた日の後も、ずっと貴女の存在は身近に感じていました。

 言葉はなくとも、私の中に貴女が遺した思いに、力に、どれだけ励まされてきたかわかりません。

 時に、夢の中で貴女の姿を垣間見る事もありました。

 ですが、私を見つめる貴方はいつも辛そうで……寂しげで……死してなお、自分が貴女を苦しめているのが、私は苦しかった……」


 ジャンヌを見る碧の瞳が痛ましげに細められる。

 思いも知らぬジルの懺悔に、少女は戸惑い、必死に否定しようとする。


「ジャンヌ……私の貴方に対する思いは、今も変わるところはありません。

 だから、他ならぬ貴女には誰よりも幸福であってほしい。

 私は人よりも長く生きた分、何倍もの主の恩寵を得てきました。

 もう、私は十分に幸せを受け取ってきた。

 ゆえに──私は貴女を私から解放したい」


 ジャンヌが力無く頭を振る。

 ──違う。違う。

 その優美でありながらも頼もしい腕に縋りついて、逸る気持ちのまま彼の唇を塞いでしまいたいのに。

 青年の中で彼女を拒絶し遮るものが、少女の行動を許さない。

 ──せっかく、せっかくまた一緒になる事が出来たのに。

 ──今、こんなに自分達は近くに存在しているのに。

 ──このどうしようもなく二人の間を隔ててしまっているものは、何なのだろう。


「ジル……私は……私は……」

「この身は人の形をした奈落です。

 姿形こそ500年前と殆ど変わりませんが、今の私には人間の部分は一片も残ってはおりません。

 私が傍らに居座り続ければ、いずれ、貴女も蝕んでしまうでしょう。

 いくら人を超えた力があれど、私は所詮日陰の身。

 貴女の生は光の世界にあってより輝くべきだ」


 青年のほっそりとした指先が、少女の柔らかな金髪を愛おしげに……名残惜しそうに弄う。


「貴女がごく普通の少女として、平穏な生活を享受するために必要なものであれば、私は助力を惜しみません。

 ジャンヌ……どうか、今度こそ幸せに」


 微笑んだ彼が口にした言葉は、少女にとって最後通牒とも言うべき、別れの言葉だった。



              ◆◆◆



 彼と過ごしたこの一日は、少女にとって本当に夢のような時間だった。


 街を連れ添って歩く彼は、あらゆる全てが整った完璧な紳士で、自慢の恋人だった。

 黄金律を誇る長身は、行く先々で人々の注目を集める。

 最も、その注目のいくらかは少女に向けられたものでもあったのだが──彼女にとっては自らが愛した人が、羨望の的になっている事こそ誇らしく、そうした青年を讃え、褒めそやす視線や呟きの中に「お似合いのカップルね」という言葉を見出した時には、年頃の娘らしい細やかな自尊心を満たされて、この上なく上機嫌になった。


 かつて自分が聖女と呼ばれていた事などすっかり忘れて、彼女は恋人との逢瀬を心から楽しんだ。

 見る物全てが新鮮で、触れるもの全てが優しく、彼女達をあたたかく祝福してくれているようだった。


 少女の傍らに立つ青年もまた、常にその表情を柔らかく綻ばせ、時に生前では考えられないほど無邪気な姿を少女に見せた。

 嬉しかった。

 自分が今、たとえようもなく幸せで、彼もまた同じくらい幸せそうに笑っていることが。


 でも、傍目には若く可愛らしい恋人同士として振る舞いながら、少女は言葉にならない微妙な違和感も覚えていた。


 賑やかな異国の街で、大いにはしゃぐ少女を、苦笑しながら追いかける青年。

 しかし少女に追いついても、彼が一定の距離から少女の前へ出る事は無い。

 腕を取る事も、からかう様に髪を撫でてくる事もない。彼女が望むまま、まるで影のように付き従うだけ。

 同じ時を過ごし、少女を温かく見守りながらも、何故かその態度には、出会ったばかりの頃のような余所余所しさがあった。


 最初は自分達のいるここが母国ではなく、東洋の国であるためかと思っていた。

 東洋の人々は慎み深いというから、その流儀に従っただけなのだろうと。

 しかし、よくよく観察していると、当地の人間であっても家族や恋人と思わしき人々は睦まじく寄り添っているし、中には人目を憚らず口付けを交わす男女や、物陰で情熱的に愛を交わしている場面に出くわしたりして、微妙に気まずい空気が場を流れた時もあった。

 確かにあまり見せつけるのもどうかとは思うが……少なくとも、手を繋いだり腕を組む程度の接触は全く問題ないというのが、少女にも分かってきた。


 だったら彼のこの自分に対する遠慮がちな態度はどういうわけだろう。


 元々彼は理知的で物静かな人であったが、胸に秘めた情熱は熱く深いものだった。

 思いが通い合うようになってからは、唇を求めるのは彼からの方が多かったし、交わす口付けと慕情の甘さに翻弄されながら、身も世もなく彼を求めてしまいそうになるのを自制する為、どれだけの労力を彼女が割いていたか、彼は理解していたのだろうか?


 少女はずっと待ち望んでいた。この甘美な責め苦から解放される日を。

 自らの内が、彼の愛だけで満たされる瞬間を。

 にもかかわらず。


 ──どうして彼は、私に触れてくれないのだろう。


 あの指を、唇を、そしてもっとより深い繋がりを、私はずっと望んでいる。


 ようやく全ての責務から解放された。もう二人を咎めるものは何もないはずだった。

 しかし、限りない優しさで少女を包みながら、それでいて想い人は彼女を拒んでいた。


 そして、違和感は彼の言葉により、悲嘆となって彼女の心から決壊した。

 ──こんな……こんな終わりが……私にとっての……貴方にとっての幸せだと言うのですか?


 少女は問う。

 神に、彼に、そして己に。


 ──答えなど、初めから決まっていた。


 私が今、ここにいる理由。彼が今、ここにいる理由。

 私はもう、聖女などではない。

 だったら、求めるものは一つだと。


 私たちは互いの幸せを願っている。願っているが故に、互いを不幸にしている。

 こんな馬鹿な話があるだろうか。

 私の幸せを他の誰かに講釈される筋合いはない。それがたとえ、彼であってもだ。

 彼もまた、彼の本当に求めるものを、杓子定規な正論で塗り潰す必要などないのだ。


 道中、彼の腕を半ば無理矢理とった時の、困ったような……それでいて嬉しそうな青年の表情。

 達観したような瞳の中で、揺れ動く淡い感情。

 ──見逃すはずもない。


 無言を保ったまま、少女は密やかに決意する。

 絶対に、もう二度と──その手を、その愛を、離しはしない。


 それは皮肉にも、かつて少女を拒絶した青年自身が、胸の内で叫んだ言葉だった。 

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