第22話──闇の中の闇・前編
「……ジル……ジル……」
彼の姿は最後に分かれた時とは別人のように変わり果てていた。
宮廷に集う貴婦人方を虜にし、前線に立つ兵士達の尊敬を一身に集めていた美貌こそ損なわれていなかったが、そのやつれた額にかかる髪はどうした事だろう。夜天の煌きも濡れ羽の艶も失せ、涸れ切った白い地色を曝していた。
俊敏で快活だった若者が、急に病に伏した老人に変じてしまったような様相。
お願い……目を開けて……お願い……
それでも彼の命の所在を確かめたくて、少女はその手に、その髪に触れようとするが、実体を伴わない彼女の意志は虚しくすり抜けるばかり。
──お願い。
ここにきて何も出来ない、ただ詫びるしかない己の無力に彼女はうちひしがれ、耐え忍ぶしかなかった。
◆◆◆
この日、邪なる神父は目に見えて上機嫌だった。
なぜなら、ようやく自分の想い人との逢瀬にこぎつける事が出来たからだ。
──残念ながら、ルーアンでの交戦からしばらくの間、件のジル・ド・レイと顔を会わせる機会には恵まれなかった。
神父としての素養にいくら難があろうとも、彼──フランソワーズ・プレラーティが当代随一の魔術師であり悪魔祓い師である事に変わりはなく、用事であれば、主の代行者たる教皇の御名の下、異形の戦場に馳せ参じなければならない。
結果、焦らされば焦らされるほど、内に秘めた思慕の情は膨れ上がり、苛立ちと共に彼の仕事をより大胆かつ残酷なものにした。
この時、狩り出された異端者達は真に不運だったとしか言いようがない。
それでも、その果てない欲望が行き着く先にいる哀れな若者よりは、まだ救いがあったとも考えられる。
さて──我が愛しの騎士殿は如何お過しでしょうか。
報告によると、捕らえられて以来、与えられる水や食事には一切手を付けず、ただされるがまま、甘んじて責め苦の限りに耐え続けているらしい。
当然、本来彼が力を奮うのに最も必要な血を補う事が出来なくなってからも随分久しくなる。
糧を断ったまま、時に意識を失う程苛烈な拷問を受け続けているのであれば、いい加減、人としての体裁を保つのも難しくなってきている頃だろうに、その超人的な精神力でもって魔性の本能を抑えこみ、座して静かに瞑目する姿は、まるで死期を悟った聖者のようだとか。
おかげでここにきてお偉方の中には『彼が吸血鬼だというのは、何かの悪い冗談なのではないか』と言い出す者が出て来る始末だ。
現場の人間としては、冗談で精鋭の退魔師を10名以上殺されてたまるかと言いたいところだが。
──あの時はしてやられましたね。
戦いの最中、あれほど短時間のうちに獲物が『化ける』とは、正直な話、プレラーティ自身も想像していなかった。
『人間上がりのはぐれ吸血鬼』という情報を鵜呑みにし、舐めてかかっていた者は、その場で次々と獲物の餌食になった。
瞬く間に力を増し、その戦場を己の舞台として吠え猛る様に、一瞬、伝え聞く『黄金の王』──夜魔と呼ばれる者達の頂点に立つ始祖吸血鬼の姿を重ねあわせたりもしたが、さすがにそれは過大評価だったらしい。
早々に限界がきたのか、あるいは有り余る力を制御しきれなかったのか──互いに一歩も譲らない、刹那の隙を縫うような精神を削り合う攻防の末、人外の騎士は捕縛された。
本当は他の魔術師に足止めをさせているところへ少し規模の大きい術式を破裂させてやればもっと簡単に済んだのだが、加減を誤った挙句、うっかり滅ぼしてしまっては元も子もない。
本能のままに血肉を貪るだけの屍喰鬼ならば、その場で処理してしまえば全て終わりだ。一方、人間と変わらぬ高い知能を持ち、己の意志で異能を奮う事が出来る完成された吸血鬼には、教皇庁にとっても、プレラーティにとっても多大な利用価値がある。
研究の為にも、対象は極力生け捕りにするのが望ましい。
──しかしあれだけの暴威を振りまいておきながら、随分と諦めがいいというか、大人しいものだ。
最もそういう潔いところこそが彼の一番好ましいところであるから、浅ましい真似に走ったり、簡単に堕落してもらっては困る。
──それを成すべきは私の役目なのですから。
少しずつ、チェスの盤面を詰めていくように、じわりじわりと、抜かりなく責め立てて、あの端麗な顔が苦痛に歪み、透徹とした瞳が絶望で濁っていく様を心ゆくまで愉しむのだ。
そして、翼をもがれた鳥が、もはや飛翔する誇りすら忘れてしまった暁には、その救われない魂が腐り落ちて消え去るまで存分に飼い馴らしてやろう。
──面倒をかけさせられた分、骨の髄まで味あわせて頂かなければ。
美しいもの、汚れのないものを蹂躙し、愛しいそれが苦しみの果て壊れゆく様を見つめる事に至上の喜びを感じる……プレラーティはそういう類の人間だった。
今まさに自分がこの希代の悲劇にさらなる彩りを添える様に想いを馳せつつ、陰気な地下牢への道行を、まるで夜半の繁華街へでも繰り出す若者のような軽い足取りで下りていく。
やがて口汚い罵りの言葉と、激しい打擲の音に混じって、くぐもった苦鳴の声が耳に入ってくるようになる。
果たして、長い石段の突き当たりに、目指すべき鳥籠はあった。
安価な獣脂の燃える臭いに混じって、慣れぬ者であれば足を踏み入れた瞬間、むせ返り、知らず顔をしかめたくなるような刺激が鼻をつく。
虜の身とは言え、およそ一国の要職にあった大貴族に施されるものではない劣悪な環境の下、理不尽なまでの暴力に曝されつつ、未だ憐れにも正気を保ったまま、誇り高き騎士はそこにいた。
こうして想い人との再会を果たすまでに要した時間は、自分の感覚だと随分長く感じたものだが、実際はせいぜい投獄から10日ばかりしか経っていないはずだった。
しかし今や騎士の姿は、かつてランスで対面した頃からは想像もつかない程変わり果てていた。
武装や貴族としての権威を象徴する装飾の類が全て取り上げられているのはもちろんの事、仕立ての良かった着衣は、牢内を引きずられ、壁に打ち付けられているうちに、擦り切れ破れ、処々に血痕を散らした凄惨な状態になっている。
何より騎士自身の様相が尋常ではなかった。闇の中にも浮かび上がるように白かった肌は垢じみて薄汚れ、かさついた唇の端は切れて血を滲ませている。
そして……最も彼を彼たらしめていたであろう、北フランスでは珍しい見事な青みを帯びた黒髪については、今や見る影もない。
折檻に耐えるべく、丸められた背を伝い落ちる流れは、すっかり色素を失い、まるで老人のような混じり気のない白へと輝きを変じていた。
それでもなお、変わらないものもある。
例えば、それは武人としての強い矜持の下、情けは請うまいと引き結ばれた口許であったり、世界に自分が愛されてある事を信じて疑わないような揺るぎのない眼差しといったものであったが、それよりなにより、こうして窶れ果ててさえ、彼の類い稀な美しさは匂い立つようだった。
──そうだ。やはり貴方はそうでないと。
知らず、プレラーティの唇は喜悦の笑みに歪んだ。
「ごきげんよう騎士殿。それそろ口を割る気にはなってくれましたか?」
雇い主である神父が牢内に入ってくる気配を察して、ようやく牢番達の手が止まる。
襟首を掴まれ、無造作に訪問者の足元へ投げ出された青年は、か細い喘ぎを漏らし、石畳の上に突っ伏したまま動かなくなった。
「おやおや、あの勇ましさはどうしてしまわれたのです。貴方の憎いプレラーティがここにおりますよ?」
頭上から降りかけられたおよそ場にそぐわない甘やかな声に、青年の指先がわずかに震えるが、もはや込める力も尽き果てた腕は、上体を起こす事すら叶わず、その爪はただ虚しく石畳の上に溜まった土埃を削るに留まる。
──否、指先に爪など一枚もない。
拷問に際して一枚、一枚剥ぎ取られていったそれは、未だ再生されずに、あるべき場所には赤黒く血がこびりついているだけだった。
「ああ、こんなに弱ってしまわれて……きちんとお食事を採られないからですよ」
言葉だけはあくまでも白々しいほど慇懃に、神父の姿を借りた悪魔は青年の前で膝を折ると、その輝きを失った髪に指を絡め、さながら慈母のごとく愛おしげにかき上げる。
待ち望んだこの瞬間に、しばしえもいわれぬ興奮からか、絡めた指先を振るわせたプレラーティであったが、
「……おい」
──それもつかの間。途端、端麗な顔をしかめ、傍らに控えていた牢番達に声を荒げていた。
「顔に傷がついているじゃないか」
申し訳程度の明かりが置かれているだけの牢内は昼なお暗く、足を踏み入れた時分には全く気がつかなかったが、長い髪に隠れていた青年の右目は無惨にも醜く潰されており、瞼の下に隠れた瞳は、完全に光を失っているようだった。
「ああ、ご指示の通り直接は殴っちゃいないんですが、よろけた時のあたりどころが悪かったんでしょうね──」
言葉は最後まで続かず、唐突に途切れた。
されるがままに髪を弄ばれていた青年が、片方しかない目で瞠目する。
悪びれなく答えた牢番に返ってきたのは、理解を示す頷きではなく、憤怒に任せた魔術の一撃だった。
認識を超えたあまりの事態に、周囲がただ立ち尽くす中、一瞬のうちに頭部の上半分を吹き飛ばされた兵士の身体は前のめりに倒れ込むと、あたりの床に脳漿と血液とを撒き散らす。
「……なんと……いう事を」
しかし己が引き起こした酸鼻窮まる光景など全く目に入ってこないのか、恐るべき異端の神父の関心はあくまでも手にした玩具を傷つけられた事に始終していた。
「ふざけるなよこの屑共!あれほど!あれほど言い聞かせたはずだろ!
顔だけは!顔だけは決して傷つけるなと──
それを……『当たり所が悪かった』だぁ !? とぼけるのも大概にしろよ無能が!
よろけてかすっただけでこんな傷になるか !? ああ!? 」
前線の傭兵もかくやという程に一変した口調の主は、言葉も無い牢番の一人に掴みかかると、細腕に似合わぬ怪力で、有無を言わさずその顔面を壁へと叩きつけた。
「ほら!こうして!こうして!
こうして何度も!痛めつけたんだろうがッ!
はっ!そんな言い訳なんざ!見え見えなんだよッ!」
湧き上がる激情に突き動かされるまま、許しを請う声が聞こえなくなり、やがて弛緩し切った身体の重みを腕に感じるまで、理不尽な暴行は続くかに見えた。
そして実際、プレラーティはそのつもりでいた。『彼』の声を聞くまでは。
「……やめろ」
か細いが、凛然とした否定の意思が込められた響きが、嗜虐の熱に犯された鼓膜に届く。
「無益な殺生はやめろ……プレラーティ……」
ただそれだけの事で、たちまち、憤怒に彩られていた美貌が、見る者を総毛立たせるような危うい笑みに包まれた。
「ああ……やっと名前を呼んで下さったのですね」
不気味なほど無邪気な喜びが滲んだ声を上げて、プレラーティは青年に振り返った。
「流石は聖女の騎士。痛めつけられた相手でも救いの手を差し伸べますか。いや、何とも慈悲深い。
良かったですねぇ……貴方のような屑でも、この騎士殿は人としての情けをかけて下さるそうですよ?」
プレラーティの問いかけに牢番は答えない。
彼は神父に首筋を掴まれたまま、頭蓋に甚大な損傷を被った末、そのままこと切れていた。
「……おやおや、感激のあまり声も上げられないのかと思ったら……残念ながら手遅れだったようです」
おどけて肩を竦める神父の傍らで、命という高い対価によって初めて戒めから解放された牢番の遺体が、ずるずると音を立てながら壁伝いに崩れ落ちていく。
──この世の理を超えた魔術師には、この世の法すら及ばぬのか。
こちらからは窺い知る事の出来ぬそれの顔面が、肉親ですら目を背けずにはいられぬ様相であるのは、戦場での経験から想像に難くない。
訪れから一刻も経たずして、造作もなく二人の命を奪って棄てた男に、いよいよ正義感からなる純粋な怒りを燃やさずにはいられない騎士であったが、そんな彼の胸の内を知ってか知らずか、あまつさえ、プレラーティはこんな提案を言ってのけた。
「このまま朽ち果てさせるのも何ですし……せっかくですから、新鮮なうちに彼等の血肉を頂いたらどうですか?」
──瞬間、聞き手の激情は沸点を越えていた。
「ふざけるな……!」
一体あの弱り切った身体のどこにこれほどの覇気が残っていたのか。騎士にして貴族たる青年の大喝が牢内に響き渡る。
が、しかし。かつての戦場でならば兵共も畏縮しきったであろう一声も、今となっては、つかの間の戯れを楽しむ神父にとって、何の痛痒も呼び起こさぬ掛け合いの一環に過ぎないようだった。
「別にふざけてなどいませんよ。私はあくまでもこの場にあってしごく合理的な提案をしただけです。
ああ、それとも二人では足りないというご相談でしたら、そこのでくの棒も私が代わって捌いてさしあげますが?」
「ひっ……」
プレラーティが思わせぶりな視線を投げかけた途端、恐怖に戦きつつも、立ちすくんだまま逃げる事すら適わなかった残り一人の牢番が、言葉にならぬ悲鳴を上げ、弾かれたように出口に向かって駆け出した。
「よせっ……!」
地を這う青年がかすれ声で制止しようしたのは、果たしてどちらであったか。
しかし結果として、いずれも者も彼の言葉に耳を傾けず、その目の前で必然的に悲劇はまた繰り返される。
「あ」
呼吸するような自然さで紡がれる異質の法則。
我が身に何が起こったのか理解する前に、身体の中央にぽっかりと穴を空けた男は、出口まであと一歩のところで救いを求めるように震える腕で宙をかいた後、虚しく力尽きた。
「……あーあ、まったく……一度ならず、二度も私の『力』を見たというのに、無防備に背中を曝すとは……本当に愚鈍というか、平和な方たちですねぇ。
そんな人間を魔術師が──ましてやこの私が黙って帰すはずがないでしょう?」
とうとう傷ついた虜囚の貴人のみを残すだけとなった殺戮の場に、およそ屈託というものが無いプレラーティの軽やかな笑い声が不釣合いに木霊する。
「……この……」
「……はい?」
芝居がかった優雅なターンで、くるりと振り返った神父に浴びせられたのは、当然賞賛であるはずもなく、憤怒に柳眉を逆立てた騎士の血を吐くような叱責だった。
「……この……外道がっ!
貴様は……貴様は人の命を何だと思っている……!」
「外道とはまた心外な……貴方がそれを言いますか?閣下」
予想して然りの展開とは言え、どこまでも自身のそれとはかみ合わぬ『正義』を貫き通そうとする騎士に、プレラーティは辟易とした表情で告げた。
「私は教皇庁の秘儀を預かり行使するものとして、全てを隠密に計らわねばならぬ立場にあります。そのためにはやむを得ず、こうして最低限の『人払い』を迫られる場面も多々あるのです。
戦場を行く貴方ならば理解して下さるかと思っていたのに……酷いですね」
「ほざけ!貴様と私は違う!」
「違う……?何が違うというのです?」
うっそりとした微笑みに底知れぬ悪意をのせて、プレラーティは囁いた。
「貴方自身はどう思っているか知りませんけれど……傍から見れば、貴方も私も同じ立派な〈化物〉なんですよ。
ねえ、ジル・ド・レイ元帥閣下」
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