第19話──騎士よ、運命と殴り合え〈ブーヴルイユ城の戦い〉

 その日、頭上に広がっていたのは、雲一つない晴天だった。


 遠く、果てなく、ひたすらに。神の国まで続くような高い空の下、主の恵みをもって絶え間なく降り注ぐ陽光の中、青年が捧げていたのは祈りではなく、同じキリスト教徒の血であり、その手に掲げたのは十字架ではなく、己が片翼を奪った敵を討ち倒す為の刃であった。


「────────ッ!!!」


 向けられる敵意の槍、憎悪の矢、畏怖の剣の群れへと、騎士が咆哮する。


 ──否、その姿は既に神の名の下に正義を行う戦場の華などではなく──ただ、感情に突き動かされるまま、欲するものを求めて牙を剥く、純粋なまでに貪欲でしなやかな野生の獣であった。

 それが故に、彼の動きにはただ一片の無駄も無く、迷いもなく、その手が触れたものに災いしか齎さないものであっても、血と罪に塗れた身体は、ひどく尊く美しかった。


 烈気と共に一条の矢と化して戦場を駆ける獣へ、情け容赦のない狩人達の技が殺到する


 風に斬り裂かれようと、炎にまかれようと、獣の突進は止まらない。

 手にした斧槍が唸りを上げて旋回し、矢の雨を、魔術の雷花を叩き落とす。

 総身に異界の法則を纏わせ、四肢に超常の力を漲らせ、鉄火の中を戦鬼は往く。


 肉体の限界を超え、器を破って内から溢れ出ようとする力の本流に血涙を流す瞳が、命を松明として一際狂暴な輝きを放った。


「あれは──まさか」


 戦場に突如生まれ出た常軌を逸する怪物の姿に、夜魔の王の降臨に、一騎当千と呼ばれた猛者達が顔色を失う。


「!」


 己の不運に悪態を吐く間もなく、獣の振るう死の風を前に、馬上から首の無い死体が転がり落ちた。

 自らと愛しい少女を隔てようとするあらゆる存在、事象とを無慈悲な爪で掻き分けて、あらん限りの力を振り絞り、獣は絶叫する。


 ──私は帰る!

 ──私は帰る!

 ──彼女の下に!

 ──彼女の下に!


 もう二度と──その手を、その愛を、離しはしない!


 向う見ずな魂の燃焼が、青年を二度とは戻れぬ道の先へと、人としての理の外へと彼を押し遣るものであったとしても。

 今更彼が己を憂う理由など、何もなかった。


 人の姿を借りた黒い迅雷が縦横無尽に空間を疾る度、屍の数が増え、捕えた魂と吸い上げた血の分だけ、獣はその力を高めていく。

 より研ぎ澄まされた全身で感じ取る──なんと甘美な、なんと力強い血の香り。

 今や斬り屠る全てが、彼の血肉となり、魂の位階を昇る礎となっていた。


 ──力は力です。


 いつか、少女が言った言葉。

 そう。例え、この身の全てが人としての片鱗を残さず失ったとしても構うものか。


 力を力として認め、行使しながらも、常にどこかで怯えていた自分。

 だが、今ここで少女の為に戦う事が出来るのは、呪われた異形の力があるからこそ。自らが祝福され得ぬ怪物であるからこそ故に。


 ──今こそ認めよう。

 ──今こそ受け入れよう。


 私は────私だ。

 この身が獣であろうと。鬼であろうと。

 私の思いは、願いは、何一つ揺るぎはしない──!


 爆発的な魔力の燃焼に、青年の細胞が沸騰寸前まで灼熱し、全神経が加速する。

 時間の流れが止まったかのように、周囲の景色が緩慢な動きを見せる中、一人の魔術師だけが、変わらずあの薄気味悪い笑みを浮かべていた。


「ああ、その覚悟、その輝き──やはり私の目に狂いはなかった。

 なんと素晴らしきこの宴。存分に興じようではありませんか。我が最愛なる元帥殿──!」


 黒い獣が跳躍し、魔術師が歓喜の声を上げた。


 ───そして、全ては始まりの終わりへと至る。



              ◆◆◆ 




 虜囚を運ぶ行軍は粛々として遅滞なく、どこか葬列を思わせるものだった。

 実際、彼らは聖女と慕われ、一方で魔女と罵られた少女を死地へと送り込む死神の群れに他ならなかった。


 ル・クロトワを出発し、サン=ヴァレリ=シュル=ソンムに渡り、幾つかの城を経由しながら3日。ボスク=ル=アールを出発したジャンヌの護送部隊は、何に憚れることも無く、その翌日、無事ルーアンに到着していた。

 存在を極秘にふせられていた移送隊を迎えるのは、収容先のブーヴルイユ城に詰めるイングランド軍の関係者と宗教裁判に関わっている聖職者だけだ。

 見物に集まる市民の姿もなく、一行は重々しい空気を纏わりつかせたまま、開かれた城門の先に消えようとしていた。


 ふいに。

 何かの気配を感じたのか、後列を守っていた兵士の一人が、馬を止める。

 振り向いたその瞬間。面頬を上げた眉間の中心に、寸分の狂いもなく矢が吸い込まれていた。


「──行くぞ」 


 呟きは果たして誰に向かって呟いたものか。

 僚友の異常にイングランド兵が気付くよりも早く、ジルは愛馬に拍車を入れていた。


「て──敵襲だッ!」


 主人の意に応え、猛然と愛馬──カスノワが先陣を切り戦場へとその身を踊り込ませる。陽光を弾き、艶やかな毛並が黝く輝いた。

 騎馬隊が駆け抜ける低い地鳴りに続き、一帯に響き渡る鞘走りの音。

 額を射られた兵士が落馬したのを合図に、今にも城門を潜ろうとしていた移送隊へと、ジル達の部隊は襲いかかった。

 元より奇襲がある事は予想していたのだろう。護衛に着いていた部隊と、これを迎え入れようと待機していた城内に駐屯するイングランド兵達はすぐさま陣形を整え、応戦を開始する。


「ジャンヌ!

 どこだ !? どこにいる── !? 」


 少女の姿を求め、呼び叫ぶジルの前に複数の敵兵が迫った。

 振りぬかれた銀の輝きが蒼天の下に閃く。


「…………ッ!」


 鋼と鋼が噛み合う甲高い音が鳴り響き、対峙する男達の間で火花が散った。

 剣を弾き返され、構えを崩した兵士が目を見張る。背筋を凍らせる刃風の音と共に、ジルが放った凄烈な一撃が怯んだ男の身へと叩き込まれた。


「おごぁ──ッ!」


 恐ろしい程の膂力で振るわれた敵将の斧槍に、辛うじてイングランド兵は己を両断しようとする刃を受け止めたが、勢いを殺しきれず、馬上から吹き飛ばされる。

 骨を砕かれ、奇妙な形に捻じ曲がった男の身体が地面に転がり、唇から血の混じった泡を吹きながら、そのまま動かなくなった。


 続く兵士達も、切り結ぶ間も与えられないまま、返す刃で剣を持つ手首ごと斬り飛ばされ、あるいは石突きで顎を砕かれて次々と昏倒する。

 敵手は単騎にも関わらず、一方的な展開だった。

 見るからに身分の高そうな騎士であるのに、男の護衛に就こうとする者は全くいない。必要がないと、彼自身が一番の手練れだと、味方の誰もが認識しているからだ。


 その技、巧みにして疾風のごときでありながら、恐ろしく重い斬撃の一つ一つに、ジルを取り巻く敵兵達が戦慄し、圧倒される。


「蛮勇に駆られる者、忠義に篤い者は来るがいい──だが、死にたくなければ、そこを退け」


 悠然と得物を馬上で旋回させながら、ジルは静かに警告する。

 低いがよく通る声は、この混戦の中においても、不思議なほど鋭く兵士達の鼓膜に突き刺さった。

 戦端がきって落とされ各々の先鋒が激突したほんの僅かの間に、この凛々しくもうら若い、乙女にすら見える敵将が、計り知れない程の実力を持った武人である事を彼らは思い知らされた。


 斧槍──ハルバード。その名は馬上で戦う騎士達にとって、最も汎用性に優れ、最も熟達した技量を必要とする武器として知られている。

 尖突を得意とする鋭い穂先に、斬り結び、薙ぎ払いを可能とする戦斧の刃を持ち、更に刃の背に取り付けられた鉤爪によって相手を馬上から引き倒す事も出来る。

 しかし、多芸であるが故に、状況に応じ、この万能とも言える武器の性能を最大限に引き出すには、迅速にして冷静に戦いを見極める高い判断力と、そこからの澱みない対応を可能とする技巧の習得を求められた。

 また重量自体も重く、元々取り回しが難しい武器の為、戦場の花形と謳われながらも実際に扱える者は少なかった。


 そんな長柄武器の完成形であるこの戦斧こそ、ジルが最も得意とする武闘の為の爪牙であった。


 所領を持つ貴族の師弟教育として、剣と馬術は必ず揃って仕込まれる。そしてそのどちらもジルは天賦の才に恵まれ、才によって得られた武勲は彼を元帥の地位にまで押し上げた。

 とはいえ、本来、身分の高い貴族の将校が、家臣達を押し退けてまで敵将を討ち果たす必要はないのである。上に立つ者として、ある程度見せられる程度の剣筋を披露できれば十分で、むしろ指揮官としては広く戦況を読み、兵を動かす才の方こそ求められた。

 無論、将としての務めを彼が理解しなかったわけではない。役割を全うしつつ、ただ、己自身の技を高める鍛練も怠らなかった。そんな彼の修練の行き着いた先が、一流の騎士の証である斧槍を手足の延長として自在に操るという戦い方であった。


 ──今の自分は総軍を率いる将帥などではない。愛する少女を取り戻しに来た一人の男に過ぎない。

 貴族としての体面など、騎士としての名誉など関係ない。

 故に、だからこそ、一個の戦士として全力を尽くさせてもらう──


 凍えるような闘気を滾らせた敵将の姿にたじろぎながらも、じりじりと包囲を狭める兵士達に向かって、ジルは手綱を握る手に力を込め、斧槍を構え直す。


「あくまでもその刃で私の行く手を阻むのであれば──あの世で天使に稽古をつけ直してもらってこい!」


 騎士の切れ長の瞳に炎が宿り、内から発せられる魔性の力に虹彩が輝き──鮮やかな紅に染まった。

 背に乗せた主人の変化を察してか、カスノワが一際鋭くいなないた。


 異様なまでに士気を昂ぶらせたフランス軍の男達を前に、剣戟の音が鳴り響く中、次々と護衛のイングランド兵は戦線から脱落していく。


 少ない手勢とは言え、これまでフランス軍の中核を為してきたブルトン兵とガスコン兵の最精鋭達である。

 命知らずな驀進は、たちまち敵の兵力を半減させる。

 しかし、イングランド兵もここに来ては退くに退けない。

 自分達の本拠地を目前に、無様を晒すわけにはいかないのだ。


「ジャンヌ!私だ!ジャンヌ──!」

「おい!男爵!見ろ、あそこだ!」


 敵兵を斬り倒し、横に並んだラ・イールが剣で指し示す先、味方を盾にしながらブーヴルイユ城内に逃げ込もうとしている一団がある。

 その中央に押し込められた馬上に、旅の修道士のような衣装を纏った人物がいた。

 目深に被ったフードのせいで、その奥の表情を伺い知る事は出来ないが、その姿を一目見たジルの中に確かに閃くものがあった。


 気が付くと、腕は手綱を捌き、足は無意識に拍車を入れていた。


「ジャンヌ───!!!」


 喉が張り裂けんばかりに、その名を絶叫する。

 豪速で斧槍が振るわれ、目指すその人から青年を遠ざけ遮るものを斬り裂き、貫き、払い落とす。

 そして忠実なる黒馬は、背に乗せた主が望むままに、怒涛の勢いで追撃をかける。


 届け!

 届け!

 あと少し!

 あと少し!

 彼女がいる──!

 すぐそこに、彼女がいる──!


 気配を感じたのか、馬上の人物が振り返り──フードに手をかけた。


「───ジル!」


 ああ、あの声。あの顔。間違いない。

 なんて……懐かしい。


「そこを──退けッ!」


 烈気とともに、旋風のごとき連撃がイングランド兵達を襲う。

 苛烈な尖突が虜囚を取り囲む最後の一人を城壁に叩きつけた後、ついに、差しのべたジルの指先が彼女の指先と絡み合った。


「……ジャンヌ」

「ジル……」


 想い人である青年の顔を認めて、少女の貌が、たちまち笑顔と泣き顔のせめぎ合いに崩れ落ちた。

 胸中に湧き上がる歓喜と共に、ジルはしかと少女の身体を抱き留める。

 長きに渡り心身を苛んだ苦境によるものか、ただでさえ細い身体は、別れる前よりも一回り小さく、華奢になったように感じた。


 馬上で嗚咽する少女を安心させるように、柔らかな髪をいつかのように優しく撫でながら、その胸の内でジルは激しく憤る。


 何が魔女だ。何が売女だ。

 少女ではないか。ただの少女ではないか。

 他よりもほんの少し、勇敢であっただけの──同じ人間ではないか!


「……迎えが遅くなってしまい、申し訳ありませんでした」

 それでも唇を吐いて出る彼女を労う言葉だけは、あくまでも優しい。

「ジル……どうして……私は……私は……」


 ジャンヌ自身、自分が現在のフランス宮廷においてどういう立場で扱われているのか、そして、将来を嘱望された大貴族である青年がそんな彼女を救う為、兵を挙げてやって来たという事実が、彼の進退にどれだけの影響を齎すのか、理解していないはずもない。

 傍目にも彼女がジルとの再会を喜びながらも、罪の意識に苦しんでいるのが見て取れた。

 だからこそ。少女の感じている痛みを少しでも和らげるように、ジルは戦場にはおよそ不釣り合いなほど優雅に微笑みながら、努めて軽やかな口調で言った。


「愛する女性が囚われているのならば、男が助けに向かうのは神話の昔から当然の事ではありませんか?」

「でも……でも……」


 それでもジャンヌはなおも何かを言い募ろうとする。

 長らく離れていたのだ。

 お互い、交わしたい言葉は山ほどある。

 だが、伝えたいことが余りにも多過ぎて、逆に言葉が上手く出てこない。

 何よりここはまだ敵地の中だ。

 一刻も早く、安全な場所に脱出しなければならない。


「──愛しています」


 ジルは、これまで己が内に抱いてきた全ての想いをその短い一言にのせて、少女の唇を塞いだ。


「──我らが陛下とフランスへと捧げたこの命でしたが、今より私は貴方の為に生きる剣となりましょう」

「ジル……」

「我が全てを賭して愛しております──ジャンヌ」


 実際、誇張でもなんでもなく、今の彼にとって、戦う理由はそれだけで十分だった。


「乙女は奪還した──!」


 手勢に向かって、高らかに勝利を謳い上げると、縋りつく少女の身体の温もりを確かに感じながら、ジルは愛馬を転進させる。

 これに応えて、かつての乙女の戦友達は雄叫びを上げながら剣を掲げ、続々と馬を駆り立て、退路を確保する。

 目的は果たした。後はただひたすら敵地を抜けて、前線基地のあるルーヴィエまで逃げ込むだけだ。

 そこまで辿りつけば、何とかなる。


 必死の思いでいるのは皆同じだった。

 追い縋るイングランド兵を蹴散らしながら、ラ・イール麾下の傭兵やジルの部下達が、ジルとその腕に抱かれた乙女を守るべく、密集隊形を組み上げる。

 騒ぎを聞きつけ、決して逃がすまいと溢れ出してくるイングランド兵団の包囲を突き抜けて、電光石火の迅さで騎馬隊は疾駆する。


「ジル……ジル……」

「もうすぐです──もうすぐで本当に自由になれます──ジャンヌ!」


 もう離さないとばかりに強く腕に力を込めつつ、彼の身体に抱きついている少女を宥める言葉は、同時にジル自身を叱咤してもいた。


 何としでも、二人で生きてこの戦場を脱出する。

 彼女はもう使命を果たしたのだ。

 他の誰かがどれだけ無責任に少女を詰ろうとも、私だけは彼女の罪を許す。在り来たりの幸せ、一人の女性として家族に囲まれた穏やかな生活を享受することを望む。

 そして彼女もまた──ジルがそんなどこにでもある風景に溶け込むような、凡百の男に成り下がるのを認めてくれている。

 互いの願いはかくも一致している。

 そんな二人が、結ばれて悪いはずがない。


 ああ、これで私も本当に──


「それにしても──幸いと言えば幸いなんだが、移送隊はやっぱりただの隠密行動だったみたいだな?」

 背後をちらちらと伺いながら、ジルと並走するラ・イールの声に、ジルは我に返った。

「そうだな。

 てっきり移送隊自体が囮の陽動作戦かとも思ったのだが──」


 言いかけたこの時。

 反射的に手綱を捌く事が出来たのは、やはりジルの中の魔性の血が為せる業だったのかもしれない。


 突如、蹄鉄が踏みしめていた大地が、波打つように隆起した。

 腕の中のジャンヌが怯え、より強くジルにしがみ付く。

 カスノワが振動に驚き、前足を上げていななく。思わず振り落とされそうになるのを、ジルは寸でのところで手綱をさばき、愛馬の体勢を整える。

 思わず冷や汗をかいたが、その程度で済んだのはまさに僥倖だった。


 地響きと共に隆起した大地が、無数の錐と化して騎馬隊を、ジル達の部下を襲う。


「な───ッ」


 ある者は落馬して地面に叩きつけられたところに腹を貫かれ、またある者は馬ごと頭頂部まで一気に土杭が尽きぬけた。

 足下から面を使って為される対処のしようがない攻撃に、救出部隊はたちまち恐慌状態に陥った。


 甲高い馬のいななき、身の毛のよだつような断末魔の叫びがひとしきり上がった後、街道のど真ん中を奇怪なオブジェが占拠した。

 ほんの数分前まで、死線を掻い潜った喜びに笑い合っていた仲間達が──今は照りつける太陽に向かって恨めし気な白目を剥きながら、無残な屍をさらしている。

 まさに悪夢の様相だった。

 しかし、漂ってくる血の匂いは紛れもなく現実のものであり──その証拠に、忘れもしない耳障りなあの声が、嫌な予感を決定的に裏付ける悪魔の姿が、ジルの世界に入り込んで来たのだった。


「はぁーい。

 皆様、道中お疲れ様でした。

 いやあ、お二人の感動の再会に、私も思わずもらい泣きしてしまうところでしたよ」


 ジルやラ・イールを始め、この悪辣な罠を何とかすり抜けた者の前に一人、拍手をしつつ、へらへらと場違いな笑みを美貌に浮かべながら現れたのは、あの存在自体が不愉快極まりない若い司祭──フランソワーズ・プレラーティだった。


 腕の中のジャンヌの身体が硬くなるのが分かる。やはりこいつは──


「まったく、人が仕事から戻って来るまで大人しく待っていろと言ったのに、あの連中ときたら……むざむざ陣中の中で大事な囚人を取り逃がして、今頃上からさぞかし痛いお仕置きをされていることでしょうね。

 まあ、この私の面子を潰そうとしたのですから、当然の報いですが」


 馬上のジルとプレラーティの視線が絡む。

 司祭の笑顔が不穏な影を孕んで、より深いものになる。

 その全身から滴り落ちるような、悪意と邪な欲望の匂いに、ジルの眦が鋭くなった。


「──さて、せっかく時間を与えてあげたのです。

 勝利の喜びはもう十分堪能出来ましたか?

 それではお帰りの時間です。

 そちらの聖女様と元帥殿、私とご同行願いたい」


 すっと、ごく自然な動作でプレラーティの腕が上がる。

 途端に背後にいた部下から悲鳴が上がる。

 錐で貫かれさえしなかったが、爆ぜた大地の勢いに、男達が馬ごと吹き飛ばされていた。


「なあに。私が懇意を深めたいのは貴方達ではなく、あくまでも元帥殿と聖女様だけですので。

 大人しくお二人が投降して下されば、見逃して差し上げても全然構わないのですよ?」

「お前が噂に聞く教皇庁子飼いの魔術師か──」


 若者の不吉な嗤いを見据えながら、ジルが問う。


「おや、元帥殿は博識ですね。

 ええ、その通り。

 では、せっかくですから改めて自己紹介させて頂きましょうか」


 青年に向かって、プレラーティが恭しく頭を垂れる。

 その足元に妖しい輝き──血の流れを思わせる紅く不吉な魔力のほむらが灯った。


「私はフランソワーズ・プレラーティ。

 ローマ教皇庁直属異端審問官にして奇跡の再現を赦された〈秘術師〉──特権退魔師〈神の御剣〉スパーダが一人。

 〈悪辣なる魔導王〉などと呼ばれる不作法者です。どうかお見知り置きを」


 魔術師の足元に灯った光が細やかな支線に分かれて、地を疾る。

 輝きは複雑にして精緻な文様を描き出し、ほどなくそれが魔術を行使する為の魔法陣の一種であると、ジルは理解した。


「──ジャンヌ、ここは私が時間を稼ぎます。

 隊長達と逃げて下さい」

「ジル……!」

「お、おい!ここに来て何を馬鹿なこと言ってんだ!」


 静かな決意と共に、得物を手にして馬を降りたジルの背中に、馬上の二人が慌てふためく。

 対してジルの表情は死期を悟った聖者のように穏やかだった。


「──必ず、貴方の元に私は帰ってきます。だから行かせて下さい。

 カスノワ、乙女を頼んだぞ」


 少女に微笑み、愛馬を撫でた後、ジルは最も信頼する戦友に全てを託した。


「──行け!」


「ジル!嫌です!嫌ぁあッ!」

「くそ!

 さあ、乙女よ行きますぞ!男爵の思いを無駄にしないでやって下さい」


 哀しげなカスノワのいななきを最後に、生き残った兵士達の一団が遠ざかっていく。

 ああ、そうだ。それでいい。


「おやおや。

 これは困りましたねぇ……個人的には貴方だけでも私は十分なんですけど。何分、私の上司は欲張りでしてね。あちらの聖女様も連れて帰らないと、酷く叱られてしまうのですよ」


 肩を竦めてプレラーティがごちる。


「そんなに彼女が欲しければ、私をその土塊で貫いてから追うがいい」

「まさか。そんな味気ない事はしませんよ。

 貴方はこんな無粋なものではなく、もっと熱く滾るもので、丹念に身体を開いて差し上げましょう。

 きっと楽しんでもらえると思いますよ?

 それに──」


 周囲の木陰から、音もなく複数の人影が二人を取り巻くように現れる。

 いずれもプレラーティと同様、動きやすいように手入れをされた独特の僧服を纏っていた。

 ようするに、これは──


「魔術師のお仲間か」

「何しろ、吸血鬼狩りは久々になりますのでね。

 私と違って、皆点数を稼ぎたくて仕方がないんですよ。

 一対一の決闘をご希望だったかもしれませんが、どうか彼らの相手もしてやってもらえませんかね?」

「私の正体も全て御見通し、というわけだ」

「はい。出来損ないの屍食鬼ではなく、貴方のように美しい本物の吸血鬼と戯れる機会は私もそうありませんから。大変興奮しておりますよ」


 いけしゃあしゃあとのたまうその口元は、面白くてたまらないとばかりに、内から溢れる喜悦に歪んでいる。

 たった一人の相手に、ただでさえ驚異的な魔術師、あるいは異能者が十数名。

 どう考えたところで嬲り殺しは免れない。気の遠くなるような戦力差だった。


 しかし、それでも。


「約束──したからな」


 ジルは人型をとった絶望達を前に、不敵に微笑む。


「すぐにでもお前達を始末して、早々に彼女の元に帰らせてもらう」

「いいでしょう。

 その強がりが何時まで続くのか、存分に堪能させて頂きますよ──!」


 魔法陣が一際強い輝きを放つ。

 斧槍を構え、ジルは大きく踏み込んだ。



              ◆◆◆



 なお──密事故に、公式な記録には一切残っていないが、このルーアン近郊で行われた戦闘により、捕獲対象の処理にあたった〈神の御剣〉スパーダと呼ばれる特権退魔師のうち、当時の筆頭格であったフランソワーズ・プレラーティを除く他10名以上の全ての魔術師、特殊能力者が死亡した事が、一部の魔術師の家系には代々伝えられている。


 この一戦だけで、異端審問の鬼子として恐れられていた〈神の御剣〉スパーダの戦力は大きく減衰する事になり、こうむった魔術師に対する被害の数だけであれば、後に教皇庁を霊的に陥落寸前にまで追い込んだ〈霧の貪狼〉ネーヴェル・ヴォルフと並ぶとされている。



              ◆◆◆




「───結局、あれから私が再び貴方の手を取るまで、500年以上の時間が経ってしまいました」


 彼が少女と共有した時間はそこで終わる。

 そこから先は、彼女が知らない別の物語だ。

 今、青年の背中を流れ落ちる髪が彼女が知るような黝い色ではなく、新雪のような白色に変じている理由も、彼の心身に残る癒えない傷もまた、彼女にとっては知る必要もない話である。

 この世界で、永遠に変わらないものなど何もない。

 それが自然であり、それが命というものである。


 この身が確かに生きているという証。

 それが己に刻みこまれてきた、歴史なのだ。

 生ある者は傷によって彫琢され、最期の瞬間まで輝きを増していく。


 少女が奇跡によって現世に舞い戻り、ようやく果たした約束の日。

 訪れた二人だけの時間の中、そんな青年が何よりも彼女に伝えたかった思い、それは──


「これまでの500年、語り尽せないほど色々な事がありました。

 その中には無論、哀しみや痛みを覚える出来事も、沢山ありました。

 それでもね、ジャンヌ。

 私は、本当に──本当に幸せだったんです」

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