第18話──忍び寄る影

「──皆、貴女の事を愛していました」


 鼓動に合わせて鈍く痛む胸に、知らず手を当てながら、力無き者の守護者と謳われ、また煉獄の戦鬼と怖れられた青年は、来たるその日、その瞬間を脳裏に描く。

 思い起こす度、未だ魂に刻まれた傷口から血が滲み出してくるような光景。

 誰もかれもが戦っていた、必死に為すべきことを果たそうとしていた、あの日の事を。


「我々と同じく、デュノワ伯も貴方を救出する為に兵を集めていました。

 アランソン公もノルマンディ攻略の傍ら、貴重な手勢を割いては貴方の下へ何度も向かわせていたと云います。

 他にも多くの戦友が、貴方を想って身代金を陛下の下へ届けていました。

 宮廷は確かに貴方を切り捨てたかもしれない。ですが、フランスの全てが貴女を裏切ったわけではなかったのです。

 ──実際は、あの陛下でさえも」


 憂いに目を伏せていた青年の瞳に、それまでとは違う光が宿る。

 理知と神秘を湛えた、吸い込まれそうなほど深い碧の中に、閃く赤い怒り。


「各々が遠く離れていたとしても、皆が貴方を想い、繋がっていた。

 それを踏み躙り、貶めたのは、全てあの男の悪意であり──そしてその悪意を看過してしまったのは、どうしようもなく、非力で凡庸な私の存在でした」



              ◆◆◆



 古来よりノルマンディ地方の首都として栄え、現在はイングランド軍の占領下にあり、その支配に喘ぐ都市──ルーアン。

 その郊外にあるブーヴルイユ城に、ル・クロトワより出発したジャンヌが間もなく到着する。


 移送隊の規模、予定された日程とその進路、ルーアン到着時の収容体制──ジルの前に引き摺り出された男は、己の知る限りの情報を洗いざらい吐き出した。


「……ああ、間違いない。

 神に誓って嘘じゃない。

 だから……た、たすけて……助けてくれ……!」


 おそらく、目の前の一見小奇麗で貧弱そうに見える青年の中に、得体の知れない恐怖を感じたのだろう。

 武装を取り上げられているとは言え、大の男が涙を流して懇願する姿は、哀れを通り越して滑稽ですらあった。

 その期待に応えて、ジルは片腕で男の首を引っ掴み締め上げてやる。

 つま先が床から離れると、ジルより一回り以上大きな身体は、あっけなく昏倒した。


 密偵達からの情報と、襲撃によって捕えたイングランド兵達からの告白で、ジルはジャンヌを取り巻く過酷な状況をより正確に把握しつつあった。


 乙女の処遇を巡っては、無関心を決め込むフランス宮廷を余所に、パリ大学の聖職者達とブルゴーニュ派、そしてイングランド軍との間で長らく政治的駆け引きが続いていた。

 三者三様の思惑が飛び交う中、ジャンヌはただ黙して救いの手が差し伸べられる事を待っていたが、ここにきて、とうとう最も恐れていた事態──イングランド側の陣中にその身が委ねられると知った時、乙女は哀しみのあまり自ら命を絶とうとしたと云う。


「生臭坊主が──小賢しい真似を」


 低い声で吐き捨てる主人の瞳が怒りに紅く燃え上がるのを見て、付き従う副将の蒼白となった顔から冷たい汗が流れ落ちる。

 決戦の地に赴いて以降、ジルは内に秘めた異形の力を殆ど抑えなくなっていた。

 その凍てつくような闘気に晒されると、長年彼に仕えてきた者でも気圧されてしまう。


 ピエール・コーション。かの人物こそが、陰謀劇の中心にあって現在のフランスという国家に対する災厄とも言える状況を作り出した張本人であった。

 度重なるパリ大学からの身柄引き渡しの要請を突っ撥ね、ブルゴーニュ派とイングランドの間を橋渡しした黒い影。

 あれほど気丈で敬虔な娘であるジャンヌをしてその身を塔の上から投げ出させる程、徹底的なまでに追い詰めた男──かつてのランス大司教にして、今はイングランド王の庇護を受けボーヴィエの司教におさまっている、不愉快なまでに狡猾な俗物だった。


 コーションはブルゴーニュ派の重鎮であり、あのトロワ条約を成立させる事で、シャルルから王位継承権を剥奪した首謀者として、その悪名はアルマニャック派の間でも広く知られていた。

 そして性懲りもなく、今度はジャンヌをイングランドに売り渡す事によって、またしてもシャルルの権威を傷つけ、貶めようとしている。


 更に教会での立場をより堅固にした上で枢機卿の地位を狙うコーションは、自らがランスを追われる原因を作った憎らしい小娘──ジャンヌを己が手で宗教裁判にかけようと、異常なまでの執念を燃やしていた。

 結果として、様々なフランス国内における皮肉的状況も重なり、ジャンヌは司教が望む通り、魔女として敵地に引き立てられ、その出世への足掛かりにされつつあった。


「しかし妙だな……これまで散々警戒されてきた割には、移送隊の警備についている兵士の数が随分少なくないか?

 まあ、こいつの話した内容が一から十まで本当ならば、の話だけどよ」


 泡を吹いて床に転がっているイングランド兵をつま先で弄いながら、ラ・イールが首を傾げる。

 彼らにとって重要な戦犯である〈アルマニャックの魔女〉をはるばる連行してくるにしては、部隊の編成があまりにも小規模なのだ。


 ルーヴィエに到着してから、ジルとラ・イール、そして彼らが率いる兵士達は、ここを根拠地として出撃を繰り返していた。

 聖女の奪還という尊い使命の下、固く結束した精鋭部隊による猛攻撃に、イングランド兵達は震え上がった。

 復讐心に燃える男達には、商売気など全くない。立ちはだかる者は容赦なく斬り屠り、降伏した者も情報と物資を搾り上げられるだけ搾り上げた後は、荒野に討ち捨て晒し物にした。


 中でもとりわけ冷酷な紅い目をした死神の存在は、既に周辺のイングランド兵の間では噂になっている。

 その姿は例えるなら戦場を駆ける黒い迅雷。『それ』と目があったら最後、絶対に生きては帰れない。

 彼らの恐怖と緊張は、今や極限に達していたのだ。

 ジャンヌの移送がいくら隠密行動にしろ、無防備に過ぎるというものである。


 ジルに限らず、他ならぬ乙女の為であれば、男達は手段を選ばない。

 時に暗闇に紛れ、相手の寝首を掻くようなやり方は、誇り高い騎士とは思えぬ汚い所業であったが、元より彼らは王命により正規に派遣された軍ではない。

 どれほど少女が人々に慕われている存在であろうとも、ジル達の戦いは所詮私怨によるものに過ぎないのだ。

 この作戦が無事成功したとしても、ジルやラ・イールが王命に背いて兵士達を扇動したと罪に問われる可能性さえ、十二分に考えられた。


 もっとも、ジルは端からその覚悟を決めていた。

 どのみちこの騒乱に紛れて、死を装いつつ、ジャンヌと二人、表舞台から姿を消すつもりでいる事は、ラ・イールにも麾下の兵士達にも伝えてある。

 全ての責任は己の社会的な死をもって取る。

 あとはただひっそりと、名も無き一人の男としてジャンヌを守って暮らすだけだと。


「まあ……ジャンヌを養うのに困ったら、貴公の傭兵団の世話になる事もあるかもしれんがな。

 その時は存分にこき使ってくれてかまわんよ」


 言って朗らかに笑うジルを見て、ラ・イールはこの男にしては珍しく、今にも泣きそうな顔をして、我が子ほど年の離れた戦友の頭をぐしゃぐしゃと撫でたものだった。


「……そう言えば、デュノワ伯の方から妙な話を聞いている。

 最近イングランド軍の駐屯地を襲撃したアランソン公の部隊が、『全滅』させられたと」


 とはいえ、今は己が処遇よりもまだジャンヌを取り戻す事だけを考えるべきだろう。


 これまで得た情報を分析しながら、ジルはおもむろに切り出す。

 ジル達とは別に、ノルマンディでのゲリラ活動を行っていたデュノワ伯が率いる一団からその情報を受け取ったのは、つい昨日の話であったはずだ。


「全滅ゥ?

 単に算を乱して潰走したって話じゃないのか?」

「いや──どうも言葉そのままの意味らしい。

 派遣した兵士達の誰一人生きては戻ってこなかったそうだ。

 帰ってきたのは、そう──指揮を任せていた小隊長の首だけだったと」

「………………」


 何やら話の裏に漂う不穏な空気に、ラ・イールの軽口が止まる。


「情報を初めて耳にした時には、流石に伯爵も信じてはいなかったらしい。

 しかし、それが紛れもなく真実だと先日思い知らされたそうだ。

 自分の兵士達が、目の前であっという間に屍に変わっていくのを見てな。

 ──それもたった一人の手で」


 ラ・イールが今度こそ息を呑むのが分かった。


「部下が身体を張ってくれたおかげで、伯爵自身はなんとか『そいつ』の前から命からがら逃げ帰ってきたそうだ。

 彼に仕える者の証言では、あれほど胆力のある伯爵が、本陣に戻ってからしばらくの間は錯乱して会話にならなかったと言っている」

「なんだよそりゃ。

 『私生児』バタールジャンは一体どんな化物と戦ったってんだ?」

「──魔術師だ」

「は?」

「イングランド軍には、本物の魔術師がついている──」



              ◆◆◆



 その場を何とも言えない空気と、沈黙が支配していた。


 ジルの言葉に、ラ・イールや彼の麾下にある傭兵達があっけにとられたのも無理はない。

 この時代、一般に『魔術師』という単語は、科学者、もしくは詐欺師の別名として人々の間で認識されていた。


 彼らは自らが奉ずる神秘の探求を続ける為に必要な資金と環境を求め、巧みな弁舌を武器にヨーロッパ中を渡り歩いていた。

 表向きは教会によってキリスト教の教義と反する土着信仰や民間療法の類、自然研究等は禁止されていたが、司祭の中にも本業の傍ら、知的好奇心を抑えられず、本来異端の学問であるそれらに傾倒する者は少なくなかった為、彼らの存在は見て見ぬ振りをされていたのだ。


 実際、ジルの城にもその手の輩が裕福な領主の庇護を受けようと訪れた事があったから、剣もまともに握れないような学者崩れに何故、前線の軍人が遅れをとるのかと、彼らが訝しがる気持ちもよく理解出来た。


 しかし──そういった連中とは別に、確かに存在するのだ。

 神秘を実践し、宇宙の理と戯れ、見えざる力を従える超常の怪物達が。


「もし、運悪く彼らと対峙する事があったら、決して彼らを同じ人間とは思わない事です」


 かつて自分を人ならざる者へと導いた師父は、教え子にそう警告していた。


「心を痛める事はありません。

 彼らもまた、人を人とは認識しておりません故に。

 そもそも彼らは、自らの求道以外の事象には全く興味がないのですから」


 言って皮肉げに笑う師父に、彼の力を知るジルは首を傾げて「貴方は魔術師ではないのか?」と尋ねてみたが、


「確かに彼らとは無関係とは言えませんし、むしろ彼らが存在する責任の一端は私にあると言っても過言ではないでしょうが……私と彼らは似て非なる存在です。

 お互いの領分を侵さない限りは、時に協力する事もありますが……基本的には私も彼らも積極的に表舞台に出てくる事はありませんから、出会う事自体が稀なのです。

 本物の魔術師であればあるほど、功名よりも静寂を愛するものなのですよ」


 まるで伝説に登場する妖精や魔女のようだと言うと、師父は「確かに」と頷いた後、こう付け加えた。


「ただ、彼らの中でも特に注意しなければいけない一団があります。

 同胞の魔術師にすら忌み嫌われる裏切り者。

 ローマ教会が抱える最も濃い闇。果てなき矛盾。

 毒を持って毒を制す、異端者の巣窟──」


 師父の言葉を思い起こしながら、ジルの脳裏に浮かぶ不吉な笑顔。

 ジャンヌを怯えさせた凶兆の男。

 おそらく、奴は『そこ』からやってきたのではないか。


「ローマ教皇によって任命される異端審問官達の中でも、特に教会と敵対する化外の民や魔術師と戦う為だけに集められた者達がおります。

 彼らは多くの審問官とは違い、ほぼ例外なく魔術師かそれに準ずる特殊な技能を持った異能者です。

 そう、本来は断罪されるべき異端者達が、教皇の懐刀となる事でその罪を免れ、設定された目標と戦う事で神秘に触れる機会を作り、より真理を極めようとしているのです。

 ──まったくもって、彼らの存在は欲深く、恐ろしい」


 口で言う程には恐れてはいない様子で、むしろ楽しげに師父は嗤っていた。


「彼らは世界の秘密を暴き、人智を超えた力を求め続ける者。

 ある意味、求道者という観点では、貴方と共通している。

 願いは違えど、目指すものが同じ故に、彼らと貴方の歩む道が交わる事もあるかもしれない。

 その時、どちらの思いがより深く世界を染め上げ、魂をより高みへと至らせるのでしょう──ああ、今から観劇するのが楽しみでなりませんね」


「……………………」


 まだ確証はない。

 ただ、あのローマからきた司祭──プレラーティが現れてからというもの、ジルとジャンヌの幸福な時が急速に崩れていったのは間違いない。

 そしてもし、本当に奴が途方も無い力を持った魔術師で、ジャンヌの移送計画や異端審問にも関わっているとしたら──この奪還作戦は当初の想定以上に困難なものになるだろう。

 恐らく、その不条理な存在を敵に回しては、自分以外の他の兵士達には手も足も出まい。


「──仮に、魔術師が移送隊に随伴していたなら、その相手は全て私に任してほしい」

「まあ、化物を相手にするのなら、この中では一番お前さんが適任だってのは分かるけどよ……」


 未だ納得しかねる表情でラ・イールは語尾を濁す。

 本当に戦場に話に聞くような超常現象を起こす存在がやってきていたとして、何故、この時分に実戦投入されてきたのか。

 それほどの戦力があるのならば、出し惜しみせずもっと早くに出撃させていれば、フランスとの戦いはイングランドの圧勝だったはずだ。

 何も知らない戦友が疑問に思うのは最もな話だろう。


「……ばれたのかもしれないな」

「なんだと?」

「ローマには恩赦や収集した神秘や智識を餌に、教会の教義に反する存在を駆逐する魔術師達を飼い慣らしている部署が存在するという。

 パリ大学が騒いでいるのを聴きつけて、そこの荒事専門の魔術師が、ジャンヌの存在を通じて私の正体も嗅ぎ付けた可能性がある」

「まさか……」

「こうして吸血鬼が存在しているんだ。そういう人の手に余る連中を狩る者が居たとしても何ら不思議ではあるまい?」

「待て待て……!

 だったらこの移送計画は思いっくそ罠じゃねえか!

 最悪、娘っ子と一緒にお前さんまで火刑台送りにされちまうぞ……!」

「そうだな。確かにこれは性質の悪い罠かもしれない」


 慌てるラ・イールに、あくまでもジルは穏やかな笑みを浮かべて答える。

 ──自分でも詭弁だと分かっていながら。


「まあ、ここまで言って何だが……全ては杞憂で、この移送計画は単なる隠密行動。

 アランソン公の部隊を襲ったのも、デュノワ伯を追い詰めたのも、私のように『ただの人間離れした騎士』だったという事も考えられる。

 だとしたら、作戦には何ら問題はない。

 ──それに」


 聖女の騎士は固い決意と共に、真っ直ぐ傭兵隊長を見返す。


「本当にこれが罠だったとしても、最早私に退く道などありはしないのだよ」


 移送隊の行動予定に変更がなければ、作戦の決行は明後日。

 ジルとジャンヌの命運もまた、その日に決まる。

 己が祈りを聞き届ける神など居ないと分かっていても、騎士は勝利を願わずにはいられなかった。

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