第17話──〈呪われたもの〉聖餐式の記憶

 ──師父と仰ぐその男と最後に会ったのは、16歳になった年。ちょうど初陣を前にした前日の事だった。


 父が亡くなって間もなく、後見人となった祖父の意向によって、ジルに学びの楽しみを授けてくれた家庭教師の多くはことごとく罷免されてしまったが、ただ一人、その男は表立って城を訪問する事こそ無くなったものの、ジルが軍人としての道を歩むようになってなお、折に触れ教え子の前に現れては、数々の知識と薫陶を与えてくれていた。


 元を辿ると、ジルがジャンヌの話す未来の光景や知識について戸惑いを覚えながらも受け入れる事が出来たのは、師父の教育によるところも大きいだろう。

 幼かった頃はそこに深い意味を見出す事など出来なかったが、今思えば、彼がジルに与えた教えの数々は当時としてはかなり先鋭的で、後になってそれらが常識として公に認められるようになる度、彼は驚かされたのだった。


 そんな卓越した教師の指導により、教会の教えと暴力こそ絶対であった中世という時代において、その枠から離れた場所から世界の在り様を見る目を持つに至ったという時点で、ジルの存在はかなり異質だった。


「若様の知識と弁舌をもってすれば、きっとパリ大学の教授共も己が信仰の浅薄さに閉口するでしょうね」


 常に教師の期待以上の成果を示すジルの姿を見て、師父は嬉々として言ったものだった。


 もっとも、その異能に過ぎる叡智の数々をひけらかすような真似を働くのは、授けた彼自身から固く止められていた。

ジルもまたこの時代の教会という権威に逆らう行為がどれだけ危険であるか理解していたから、神の愛と理を都合よく捻じ曲げ自らの欲を満たす為に利用する者や、教義の内に感じる多くの矛盾に気付きつつもそれに目を瞑り、あえて権威に振り回される人々を見て苛立つ場面もしばしばだった。


「能ある鷹は爪を隠すものですよ、若様。

 今はまだ貴方の力を使うべき時ではありません。ただ憐れみと慈しみをもって彼らを見守っておあげなさい」


 高みにある人物特有の鷹揚な笑みを浮かべながら、教師は教え子を諭す。

 そういう時の師父は、いつもどこか人間という生き物自体を不憫に思うような調子で、自分に語ったものだった。

 その超然とした姿はさながら、天に在りながら子羊たちを導く御使いか、あるいは、地獄の底で堕落を誘う悪魔を少年に連想させた。


 時に男に対し言葉にならぬ畏怖を覚えながら、ジルは思った。

 この人はどこか、自分達とは全く違う世界を見ているのではないか。

 そもそも、彼は自分達とは別の『何か』なのではないか。


 ──それに気がついた時点で、自分は師父の正体に疑問を持つべきだったかもしれない。

 神学博士を名乗りながら、天文学、数学、化学、文学、芸術とあらゆる分野に通じ、どの史書にも見当たらない英雄達の逸話を見てきたかのように鮮やかな口ぶりで語る男。

 神の存在を認めつつ、同じ使徒であるはずの司祭達を時に嘲笑い、独特の解釈をもって世界に満ちる御稜威の大王が意志を伝える異端の聖職者──


 しかし、男の存在に何度も救われてきた少年のジルにとって、師父の否定は即ち己の否定であり、最大の禁忌であるが故、どうしてもできなかったのだ。


 だからこそ、その日もまた、示し合わせたかのように自分の前へ現れた男に、ジルは特に違和感を覚える事なく、ただ旧知の者との再会を喜んだ──思えば、意図的に彼によって自分の感覚は麻痺させられていたのかもしれない。

 実際、師父はそれだけの力を持っていても、何ら不思議ではない存在だったのだから。


「いよいよ若様も一人前の騎士となられるのですね。私からもお祝いを」


 人払いがされた城の礼拝堂。

 どこか儀式めいた雰囲気に包まれた祭壇の前で掲げられた銀杯を受けとりながら、言祝がれたジルは照れ臭そうに微笑み返す。

 神秘を湛えた蒼い瞳に映る己の姿。向かい合う師の姿はやはり幼い頃と殆ど変らないように見えた。


 彼の教え子が澱みない動作で銀杯の中に揺れる紅い水面に口付ける様を、師父である男は目を細めて見守っている。

 ワインを含んだジルの口中にたちまち幸福感が広がった。


 はて、酒とはこれほど美味なものであっただろうか。甘美な刺激はそのまま味覚を通じて脳髄を蕩けさせる。中に香辛料の類でも入っているのかもしれない。身体が熱い。常より酔いの回り方が早い気がする。

 存分に酒精を口中に転がした後、飲み下した唇から、思わず感嘆の吐息が漏れた。


 それにしても、この素晴らしい逸品はどこの銘柄であろう。

 ジルが問うよりも早く、師父が口を開いた。


「美味しいですか?

 よく覚えておきなさい────それが人の血の味です」


 そのたった一言で。

 頭から冷水を浴びせられたかごとく、ジルの酔いは一瞬で醒めた。


 手から滑り落ちた銀杯が床に落ちる音が、やけに大きく耳に響いた。

 残っていた液体が足下にゆっくりと広がっていく。

 礼拝堂の空気が急に重く、冷たくなった気がする。耳元で血の気が引く音が聞こえるようだった。


「おや、ご気分が優れない様子ですが……大丈夫ですか」

「な……なにを馬鹿な……!

 わが師よ、血液がこのように甘い味であるはずがないでしょう !? 

 私とて、鍛練の最中、口の中を切った事は一度や二度では……」

「ほう、そうですか。

 しかし若様、おっしゃいますが、今の貴方に本当のワインと血の味の区別がつきますか?

 別にワインでなくても良い。パンの味を、肉の味を楽しむ事は出来ますか?」

「それは……」


 言い澱むジルの様子を見て、床に転がった銀杯を拾い上げながら、男はごくさりげない口調で教え子に訊ねた。


「これはあくまでも私の推測ですが……少し前から貴方は何を口にしても味覚が感じられないのではありませんか?」

「……………………」


 男の言葉に、逡巡から顔を伏せていたジルの目が見開いた。

 指摘はまさに図星であったからだ。

 家人には誰も言ってはいなかったが、師と再会する数日前から、彼の舌はどんなものを口にしても砂を噛んでいるようにしか感じられなくなっていた。食前酒にしても水との違いなど分かるはずもない。

 だからこそ、先程のワインの旨さに──数日ぶりに味わう華やかとも言える味覚により感動したのだ。


 こんな大事な時にどんな悪い病にかかってしまったのだろうと不安になっていたが、逆にそれ以外、身体の不調はどこにも見られない。

 むしろ体力的には充実しているし、他の感覚は鋭くなっている気がする。

 一体自分はどうしてしまったのか。初陣を前にして、その身に起こった変化に、人知れず少年は苦しんでいたのだ。


 沈黙を肯定と受け取り、師父は教え子を安心させるように微笑んだ。


「お可哀想に……魂の形質の変化に、器の方が追い付いていないのですね。

 今は辛いでしょうが、いずれそれも解消されるでしょう。

 ああ、それにしても──」


 男の端正な顔に浮かんでいた、古の聖者のごとき父性をたたえた笑みが、裡に何かの解答を得て急速に変化した。

 その様子に、ジルは思わず彼から距離を置こうと後ずさる。

 怯える少年を前に、危うさを感じさせる哄笑が伽藍の内に木霊した。


 堪えきれない愉悦に歪み、溢れだす師の本性。

 頭上で見守るステンドグラスに表された主の愛とは相容れない、邪なる『何か』。

 本能が危険を知らせているのに、ジルの身体は男の視線に射竦められ、動けないままでいる。


「多くの同胞の遺志を苗床に、幾年月を経て、とうとう至った──貴方という成果に。貴方という奇跡に。

 これを神に感謝せずにおられようか。

 我が愛し子よ、喜びなさい。

 貴方はこの地上に在りながら、人の身を超える機会を得た」


 それは常に傲岸不遜とも取れる優雅な挙措を崩さない師父が、決して見せた事のない表情だった。

 燭台の炎が頼りなく照らす薄暗い礼拝堂の中、底知れない力を秘めて黄金色に輝く瞳。師と仰いだ男の中に蠢く狂気の影にジルは戦慄する。

 穏やかでありながらその内にある興奮を隠し切れない男の言葉が、呆然と立ち竦む教え子の全身に降り注ぐ。


「これより向かう戦場で、貴方がその剣で人の魂を吸い上げる度、己が命を拾い上げる度、貴方は強くなる。その霊性はより高みへと昇る。

 果たして、器が育ちきるのが先か、『力』に耐えきれず砕け散るのが先か。

 しかし、せっかくここまで来たのです。若様、どうか私を失望させないで下さい」


 薄暗がりに閃く銀の輝き。

 昏い笑みを張りつかせたまま、男は懐から聖餐用のナイフを取り出すと、何のためらいもなく己の手首に宛がい──これを滑らせた。


「若様。貴方は望んだはずだ。

 己の欠けた魂を埋める救いを。空虚な日常を覆すだけの力を。この愚かな時代を変える奇跡を。

 これが貴方の求めた答えです。

 何も恐れる事はありません。ただ『力』に己を奪われないよう、御する事です。

 私も、貴方の祖父君も、それを可能とするだけの修養を貴方に与えてきたはずですよ」


 ぱたぱたと、床に落ちる紅い滴。

 白い手首から鮮血を滴らせつつ、異端の聖者が少年との距離を詰める。

 その思考が常人に理解など出来るはずもなく。どうしようもなく冒されているのに、慈愛に満ちたその笑顔。

 ああ──逃げ場所など、あるはずもない。


「逸らさずに認めなさい。目の前の現実を。己の中の渇望を。

 ──さあ、この血はどんな味がしますか?」


 どくん、と。

 鼓動が、少年の身体を震わせる。

 心臓が一つ脈打つ度、作り変えられていく、ヒトから離れていく、自分の身体。

 目の前に差し出された手首から溢れだす紅の鮮やかさに心を奪われながら、知らずジルの瞳から涙が零れた。

 鼻腔をくすぐる鉄臭に誘われて、たちまち口中に唾液が溜まっていくのが分かった。


「愛し子よ。願わくば貴方の行く道に幸多からんことを。

 その道の果て、貴方が真に我が末裔に連なる時、また再びお会いしましょう──」


 背中を優しく撫でられながら、いつしかジルは夢中で男の手首に唇を吸い付かせていた。


 どこで自分が狂ってしまったのか分からない。

 力を求めたのは、それほど罪なことだったのだろうか。

 しかし、これが自分の選んだ道。己の宿業なのだろう。


 ──舌に絡む血の味は、やはり悲しいぐらいに甘かった。


 少年時代が終わりを告げた日。白昼夢のような出来事。

 しかし、それから緩やかに、だが確実にジルの体質は変化していった。


 甲冑に身を固めてなお、その重量をものともせず閃光のように放たれる剣技。矢傷を受けても瞬く間に塞がる傷口。気配を消して潜む敵を察知し、計略を看破する第六感。

 時折襲う吸血衝動と必死に戦いながら、武勲を重ねていった。


 そして3年後。

 戦いの中で明らかに致命傷を負いながらも、死神に抗い続け、恥を晒しても生ある事を望み、這いつくばるようにして本陣に帰還した後──ジルの時は完全に止まったのだった。



             ◆◆◆



 呪われた自らの力は、己の欲望の為ではなく、常に自分ではない他の誰かの為に。

 それが救われ得ぬ魂たちが集う巫蠱の壺となりながら、騎士として生きる自分に課したジルの戒めだった。


 ゆえに、フランスの精神的支柱であるジャンヌを敵の渦中から救い出すという使命もまた、彼にとっては当然と言えた。

 しかし今、それ以上に彼を衝き動かしているものは、『将来を約束した女性を奪われた』という怒りだった。


 これまで自らの内に望みを見出せずに、ただ人々の理想の体現者である事をこの世界で活きる為の縁としてきた青年が、初めて抱いたごく個人的な感情。

 簡潔でいて、最も強い力をヒトに与える魂の絶叫。

 それは、ある意味、彼にとても人間らしい表情を与えていた。


 この身を震わせる痛みも喜びも、全てはただ一人の少女によって齎されたもの。

 彼女こそ我が失われた半身。

 やっと見つけ出したのだ。それを壊されてたまるものか。


 胸の内に煮え滾るものを抱えながら、それでもジルの頭脳は冷静だった。

 むしろあらゆる縛鎖から解放された彼の魂は、四肢の力を漲らせ、思考をより明晰に働かせている。


 既に青年の中には一片の迷いもなかった。

 力で奪われたのならば、力で取り戻す。それだけのことだ。


「ふうん。

 何があったか知らねえが、漢の顔に戻ったじゃねえか」


 行軍の疲れも見せず、自らが率いる部隊に合流してきたジルの顔を見て、傭兵隊長はにやりとした。

 これから死地へ挑むというのに、ラ・イールの表情には相変わらず気負いというものが見られない。

 もっとも、それはジルも同じだ。かつて栄光を共にした戦友同士は久々の再会を歓ぶ。


「……しかしまあ、話に聞いていたのとは違って、随分と大所帯できたもんだな」

「別に都市ごと陥とす必要もあるまいに、乙女を奪還するだけならば、私一人でも十分だったのだが……」


 そうごちるジルの声を耳にして、麾下の兵士から次々と声が上がる。


「まったく、お館様の白状なことといったらありませんよ。ラ・イール様!」

「俺達から、乙女を救出したという最高の栄誉を受ける機会を奪おうっていうんですからね!」

「……城に残ってあの戦下手なルネ様の御守をさせられるなんて、私は絶対に御免です」

「どうせ、ジル様が身代金を払って下さらなかったら、とうに身ぐるみ剥がされて鴉に突かれていた身です。

 地獄の底までついて行きますよ」

「まあ、そんなわけで。

 ジル様と乙女の新たな門出を祝いたい我々の気持ちだと思って、勘弁したって下さい」


 思い思いの言葉を口々にまくし立てる部下たちに、ジルはそっぽを向いたまま頬をかいている。


「へえ……愛されてるねえ」

「ルネの下で働くのが嫌ならば、私はリッシュモン殿の世話になれと何度も言ったのだがな。

 こいつらときたら……」


 へらへらと笑う面々の顔を見回しながら、ジルは頭を抱えた。

 調子の良い男達に困り果てているのは確かだが、とはいえ、彼らの忠誠が嬉しくないかと言えば嘘になる。

 おそらく給金もまともに支払えるか怪しい戦いだというのに、それを承知でここまでついてきてくれたのだ。 


「いいじゃねえか。

 最終的に牢を破るのはお前さんだとしても、そこまでの道を開くのに、手勢はいくらあったって困るもんじゃないだろう」


 ラ・イールの台詞に、ジルの部下達が深々と頷く。

 確かに、ここから先は情報を集めるのにも以前よりは骨が折れるようになるだろうとは、ジルも覚悟していた。


 ジル達がこれから向かう先。

 ノルマンディの中心都市であるルーアンは、侵攻してきているイングランド軍のフランス本土における一大拠点であった。街自体もパリに負けず劣らずな鉄壁の防御を誇る城塞都市として知られている。周辺に展開するイングランド軍の精強さはこれまでの比ではない。


 しかしそれでも幸いなことに、当時、この地方に派遣されていたアランソン公達の奮闘もあり、ノルマンディにおける戦いの形勢はフランス側に有利なものになりつつあった。

 そして、ルーアンから15キロ、ほとんど目と鼻の先にあたるここルーヴィエの町には、王国軍の前線基地が置かれるに至っていたのだ。


 事は一刻を争う。

 裁判が始まり、判決が下されれば全ては御終いだ。少女を助け出す機会は、今しかない。


「ジャンヌ……」


 必ず、この手に取り戻す。

 青年にとって、己の魂と存在理由をかけた戦いが始まろうとしていた。

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