第16話──決意・後編
ブルターニュの荒野に愛馬を疾駆させながら、ジルの脳裏に部下との会話が再生される。
コンピエーニュ。
パリ周辺に展開する王国軍の残存兵力を完全に沈黙させ、フランス全土を掌握をする──その覇権への足掛かりとするべく、イングランドと手を結んだブルゴーニュ派が奪取に躍起となっていた拠点である。
シャルルの王命がないまま、支援者の手を借りて密やかにシュリを抜け出したジャンヌは、途中、契約を結んでいた傭兵団と合流し、シャンパーニュの戦場へと向かった。そしてラニ=シュル=マルヌでの激戦を制し、敵軍を存分に震え上がらせた後、この街に入ったのだった。
「──何故だ!コンピエーニュの攻撃にはザントライユ殿の部隊も参加していたはずではないか!」
ジャン・ポトン・ド・ザントライユはラ・イールと同じガスコーニュ出身の傭兵隊長であり、現在のフランスで最も勇猛果敢な武将の一人として知られている。
ジャンヌとはオルレアン以来の僚友で、ジル達と一緒にあの神がかり的な勝利の立役者となった人物だ。乙女の動きに呼応して、彼もまたシャンパーニュの危機に駆けつけていた。
「増援部隊が到着してからのブルゴーニュ派の逆襲は凄まじく──」
「撤退する軍勢を守る為、殿を務めた乙女が犠牲に──」
「乙女と共に最後まで戦った、ドーロン殿、ザントライユ殿もブルゴーニュ派に捕えられ──」
当初、戦いは王国軍側の目論見通りに進んでいた。
しかし、ブルゴーニュ公フィリップ自らが率いた士気の高い兵士達の登場で、一転、王国軍は大混乱に陥った。一度は敗走した兵士達までもが本陣から到着したこの増援部隊に合流し、猛反撃を開始したのだ。
もとより少ない手勢で奇襲攻撃をかけるしかなかったジャンヌ達は、殺到する敵意の群れを凌ぎ切れなかった。
圧倒的な兵力差を前に、反転し撤退を始めた王国軍であったが、そのジャンヌ達の前で、追撃する敵軍がなだれ込んでくるのを怖れた街の門は閉ざされ、退路を断たれたのだった。
「──コンピエーニュへ展開した部隊に、宮廷からの援軍はありませんでした」
既にして重苦しい執務室の雰囲気をより沈み込ませる一言が、部下の口から放たれる。
「陛下は兵士達を──乙女を見捨てたのです」
◆◆◆
「──陛下!陛下はおわすか!」
「どうした、元帥。
そんなに取り乱して。貴公らしくもない」
バルバリア産の名馬であるカスノワを潰しかねない勢いで、ヴァンデにある所領からシュリの宮廷に乗り込んできた元帥を迎えた声は、腹立たしいほど涼やかだった。
座したシャルルは王者に相応しい鷹揚な笑みを浮かべて、久方ぶりに顔を合わせた元帥の前で悠然と足を組み直す。
対して、侍従長を押し退け身を乗り出したジルの有り様は、宮廷に在った時のような優雅さや威厳は欠片もない。
ジャンヌ捕縛の報せを受け、殆ど着の身着のままの状態でかけつけた。帯剣こそしているが、武装も申し訳程度。甲冑同士がぶつかり合い砲声が轟く戦場にあってすら息一つ上げずに剣を振るう元帥がこれほど呼吸を乱しているのは、ひとえに救国の乙女が敵の手に落ちたという情報が与えた激しい動揺の為だ。
「乙女がブルゴーニュ側に捕えられたとの報せを受けました」
挨拶もそこそこに元帥は本題に斬り込む。
「オルレアンをはじめとした街々は乙女の解放を願い、今も祈りを捧げていることでしょう。
捕縛の情報を知ったパリ大学の神学部が身柄の引き渡しを要求しているとの話もあります。
彼らは神の言葉を聞いたという彼女の存在を快く思ってはおりません。宗教裁判にでもかけられたら大変な事になります。
陛下、どうか一刻も早いブルゴーニュ側との交渉を──」
「んー、それはおかしいなぁ」
畳み掛けるように訴える元帥の言葉に割って入ったのは、場違いにも過ぎるであろう、まこと緊張感というものに欠けた声だった。
「だって彼女は陛下の許しも得ないまま、勝手に兵を雇い入れてコンピエーニュへ向かったのですよ?
その軽率な行動を陛下に対する反逆罪に問うならば、まだ理にかなっていますけれど……これを咎めもしないで、あまつさえ捕虜交換や身代金の交渉に応じるのはお門違いというものでは?」
「貴公は……」
無邪気な口調で辛辣な処断を下したのは、シャルルに所領への退去を命じられた時、あの場ですれ違った司祭だった。
まだ幼さの残る端正な顔に、穏やかでありながらどこか歪みを感じさせる笑顔を浮かべ、司祭は言葉を続ける。
「勝手に飛び出して勝手に負けて泣きついてきた相手に施してやる身代金なんて、このフランスの国庫にはありませんよねぇ?陛下」
「──金などその気になればいくらでも用意出来ます」
どういう経緯でこの場に紛れ込んだのか、そしてこの得体の知れない若者の同席を何故今もシャルル達が許しているのか理解しかねるが、脳裏に引っかかる疑問符はまず捨て置いたまま、ジルはシャルルの決断を促す。
「奴等がそれでも足りぬというならば、勾留中のタルボット将軍との身柄交換を条件に加えましょう。
〈救国の乙女〉を見捨てたとなれば、必ずや臣民からの批判が起こり、フランス王家から人心が離れかねません……陛下!」
「はあ……もっともらしいことをおっしゃっていますけどね、乙女を見捨てて困るのは、本当のところ陛下ではなくて貴方なのでしょう?元帥殿」
自分の存在を無視されて不満だったのか、拗ねたような表情で司祭が呟く。
「ああ、やっぱり。図星ですか?
『フランスの危機を救うべく、神に遣わされた伝説の乙女』……宮廷の上層部が総出で仕込んで演出した軍の象徴、兵士達に与えられた大切な聖娼ですものね。
年端もいかない小娘に歴戦の強者たちが心酔仕切って己の命運を捧げるとは、処女を嘯きながら、いったいどれだけの男の前で足を開いたのでしょうね?
貴方もあの乙女という名の淫婦に骨抜きにされた口ですか」
「……貴様」
心底失望しきったような様子で、司祭は肩をすくめた。
「なぁんだ、がっかりだなぁ……元帥殿は女性には興味がないと伺っていたから期待していたのに……
そんなにあの女の身体は良かったんですか」
「……口を慎め不作法者。
彼女は聖女だ。
乙女への侮辱は、私を含めた全フランス将兵への愚弄と知れ……!」
音もなく抜かれた元帥の剣が若者の喉元に突き付けられた。
前線の傭兵すら震え上がるような殺気の籠った視線を受けながら、なおも司祭の態度は変わらない。
否、元帥を見つめ返す表情は、むしろうっとりとした調子で、愉悦に綻んでいた。
「プレラーティ。
フランソワーズ・プレラーティですよ、元帥殿。
ランスでも一度お会いしているのに、お忘れですか?
私は貴方の事を片時も忘れた事はないというのに……」
喉元の刃を小枝でもつまむように、さもない様子で下させると、プレラーティと名乗った若者は笑みを深くした。
その不吉な亀裂のような笑顔に、ジルの脳裏に閃くものがあった。
──あの華々しい大聖堂でのひと時。
ジャンヌとのくすぐったくなる様なやり取りの後。現れた黒い影──
◆◆◆
「ジル・ド・レイ閣下ですね?」
連れ立って歩いていた司祭や侍従達が制止するのも聞かず、その若者は不躾にも睦み合う二人の間に割り込み、物怖じすることなく国の英雄となった青年に声をかけたのだった。
武勇と共に類まれなる麗姿の持ち主としても知られる男爵の姿を間近にして、彼の興奮はいよいよ最高潮に達しているように見えた。
「そうだが……貴方は?」
どことなく場違いな雰囲気をその身に纏う若者に、ジルが訝しげな視線を向ける。
「ああ……噂には聞いていましたが、それ以上だ。
おっと失礼、申し遅れました。
私はフランソワーズ・プレラーティ。ローマ教皇庁から参りました神父です」
今や元帥位にある男爵からの不審な眼差しにも気後れする事なく、若者──プレラーティと名乗った司祭は人懐こい笑顔を浮かべて応えた。
「……神父?随分とお若い神父様でいらっしゃるのですね?」
「ええ、私は少々特別な使命を教皇様より授かっておりまして……神父としては、はみ出し者なのですよ。
しかしながら、閣下。かく言う貴方もどうして、随分とお若いではありませんか。
今年で25歳になられると聞いておりましたが……正直、とてもそのお歳には見えません。
そうですね……端から窺う限りでは、せいぜいそちらの聖女殿と同じ位の年頃でしょうか。
まるで……」
ちらり、とそれまで自らの世界から締め出していた少女──ジャンヌを見遣ると、彼は意味ありげに一度言葉を切ってから、
「……まるで少年のまま時を留めてしまわれたかのようですね」
言ってプレラーティはジルの全身を遠慮のない視線で撫で回す。
その表情は、明らかに本来司祭とは無縁であるべき感情を滴らせ、漏れ出る吐息には危うい熱を帯びている。
ジルの若い司祭を見る視線が鋭くなった。
「……貴公」
ジルの唇が動きかけた時、
「──いい加減にしないか!プレラーティ!」
それより早く、同僚の行状を見兼ねた他の司祭達が口を出してきた。
興を削がれたプレラーティの不満気な表情を気にとめる事もなく、連れの司祭はフランス屈指と言われる大貴族の機嫌をとる事に必死になっている。
「元帥殿。この度はご無礼の程、どうかお許しを。
こやつは神父とは名ばかりの変わり者でして、我々もほとほと手を焼いているのですよ」
「は?その変わり者に貴方達は今までどれだけ救われてきたかと思って──」
「黙れ。もう行くぞ。
それではご歓談のところ、失礼致しました」
明らかに仲間内でも問題児だと思われる同僚がこれ以上騒ぎを起こさぬよう、無理矢理会話を切り上げると、ほとんど引きずり出すような勢いで、彼らは『救国の英雄』達の前から退散を決め込んだのだった。
「まあいい……
閣下、貴方とはいずれ再びお会いすることもあるでしょう。その時まで、どうぞお元気で」
しかし、周りから羽交い絞めにされながらも、若い司祭はジルに甘く囁いたのだった。
相変わらず端正な顔に不気味な笑顔を貼りつかせながら──
「一体なんだったんだ……まったく」
奇妙な一団が去ると、ジルは大仰に溜息をつき、知らず張り詰めていた表情を緩め、少女へ向き直った。
「また妙な連中に絡まれないうちに、早く戻って休みましょう。ジャンヌ。
……ジャンヌ?」
彼の問いかけに、あるべきはずの応えはない。
彼の聖女は、今も蒼ざめた顔でじっと司祭達が去った方向を凝視したまま、ただぽつりと言葉を零していた。
「ジル……あの方には……決して心を許さないで下さい」
「え?」
「とても……とても嫌な予感がするの」
その時。まるで今にも自分が死んでしまいそうな様子で少女が訴えるものだから、内心面食らったものの、あくまでも表面は平静さを保ったまま、つとめてジルは気軽に返した。
「──確かに懇意を深めたいと思う相手ではありませんでしたな。
ええ。気をつける事に致しましょう」
◆◆◆
ジルの脳裏に相容れない男女の言葉が木霊する。
『ジル……あの方には……決して心を許さないで下さい』
『とても……とても嫌な予感がするの』
『私はフランソワーズ・プレラーティ。ローマ教皇庁から参りました神父です』
『……閣下、貴方とはいずれ再びお会いすることもあるでしょう。その時まで、どうぞお元気で』
そうか。こいつは。
少女がいつになく強い口調で警戒していた、ローマからきた男──!
「貴女は彼女を聖女とおっしゃるが、何を根拠にそう思うのか、是非教えて頂きたいですね」
「…………」
まさか、自分が人ならざる者ゆえにその力を敏感に感じ取ることが出来る、などと司祭の前では口が裂けても言えない。
抗弁叶わず唇を噛むジルの手を、ふいにプレラーティが取った。
貴婦人にするように恭しく掲げられた元帥の手の甲に、若者が唇を落とす。
「しかし怒気に捕らわれた貴方もまた、麗しい……あの乙女などよりもずっと……」
今にも舌なめずりしそうな雰囲気で、プレラーティの無遠慮な視線がジルの全身を撫でまわす。
ランスでも見た若者の薄気味悪い笑みが、元帥の全身を粟立たせた。
「人を馬鹿にするのもいい加減にしろ……!私は男だ!」
「ええ、よく存じておりますよ。
女がそんなに美しいはずがない」
憤慨するジルの抗議にも、プレラーティは落ち着いたものだった。
「凛々しく麗しい元帥殿。貴方は完璧だ。
そんな完璧な貴方が壊れる時、どんな痴態を見せてくれるのか……想像するだけでゾクゾクしてきますね」
言って不埒な指先が、凍りついている元帥の胸元へと伸ばされたその時。
「──そこまでにしておけ、トスカーナ人。
すまないが元帥よ。俺には貴公の希望を叶える事は出来ない」
ジルを我に返させ、プレラーティの狼藉を止めたのは、シャルルの冷めた言葉だった。
「今後、イングランドとの戦いを有利に進める為には、ブルゴーニュ派との内乱状態の解消が不可欠だ。
これ以上、無益な戦いでフランスの国土を荒らすのは得策ではない。
力でねじ伏せるだけが勝利の道でないのだよ、元帥。
乙女もこの俺の気持ちを必ずや理解してくれると、期待していたのだが──」
若者に手玉に取られたジルを見やるシャルルの視線は一際昏く、陰っていた。
「──彼女は俺の期待を裏切った」
「陛下……」
冷徹に過ぎるシャルルの言葉に、ジルは打ちのめされた。
確かにあの少女は猪突猛進で、政治的な思惑とは遠い世界の論理で動いていたかもしれない。でも、だからこそ純粋にシャルルを王として敬い、誰よりも彼を支持していた。それなのに──
「どうして……あれほど無欲で純粋な娘を……陛下をお慕い申し上げていた功臣を……見捨てられるのですか……」
「残念だが、貴公とこれ以上議論する時間は俺にはない。下がれ」
「お待ちを陛下……ッ!陛下!」
「見苦しいぞ。男爵」
「そうですよ、元帥殿。少し部屋でお休みになられて頭を冷やされたらどうですか?」
なおも言い募る元帥を司祭と侍従長の二人が取り押さえる。
流れに乗じて馴れ馴れしく腕を取り、身体に触れてくるプレラーティの手を乱暴に振り払い距離を取ると、ジルは若者を睨み付けた。
「私に触るな、無礼者……!もはや貴様の戯言に付き合っている暇はない!」
「おお恐い。
……ですが、元帥殿。陛下のお力添えもなく、貴方にあの憐れな小娘が救えますか?」
将兵達にとってはどこにも居場所がなくなってしまった空虚な宮廷を足早に立ち去ろうとする元帥の背に、面白がるようなプレラーティの声がかかる。
ジルの答えは簡潔だった。
「たとえ陛下に仕える軍人としては未熟な行動であったとしても──神が己の使わした少女を見捨てるはずがない……!」
この言葉と共に。
男爵であり、大元帥で『あった』青年の中の決意は固まった。
自分の全てを引き換えにしてでも、ジャンヌを取り戻す。
それこそが自分の中の真実。己が最も大切にしたいもの。
爵位がなんだ。元帥の地位がなんだ。
たった一人の、愛する少女でさえ救えないのであれば、そんなものは全て無意味だ。
宿の手配を済ませ、急ぎ侍従長の居城まで主人を追って来た部下の目の前で、ジルは肩口を飾っていた元帥としての権威の象徴──肩章や百合の紋が散りばめられた外套を留め具や金鎖ごとはぎ取った。
それらを無造作に手渡され、戸惑う部下を見るジルの表情は、ヴァンデの居城を飛び出した際とは別人のように明るく、穏やかだった。
「……しかるべき方に、この地位をお返しする時が来たようだ」
「お館様……」
「……ジル様」
「私はこれよりノルマンディに向かう」
伝えるジルの口調は静かであったが、鋼刃めいて硬く、そして鋭かった。
「宮廷が動かずとも、我らが乙女の身は何としてでも救わねばならぬ。
エチエンヌ殿達と合流し、我らの救世主を奪還する」
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