第15話──決意・前編
『こないで……お願いだからこないで……!』
虚ろな目でガラス窓の向こう、鈍色の空を見上げた男爵の脳裏に、在りし日の女の言葉が木霊する。
──脳裏に浮かぶのは、美しいが恐怖に引きつった貴婦人の顔。
ああ、なんでこんな時に思い出したのだろう──
鈍痛と共に次々と浮かび上がってくる記憶の断片。
『お前はどこからきたの?どうして私なの?』
『何故──?私はあの人に何も裏切りなど働いていないのに!』
──やめてくれ。もうそれ以上何も言わないでくれ。
しかし、頭蓋に反響する声は止まらない。
畳み掛けるように、記憶の中の女は絶叫する。
『お前は……お前は一体何者なの !? お前は一体誰の子なの…… !? ]
『お前は、私の子なんかじゃない!』
差し出された稚拙だが心を込めた手作りの花束が、奮われた繊手によって跳ね除けられ、はらはらと宙に花弁が舞う。
『この……化物……! 』
言い捨てて、女は寝台の上で泣き崩れる。
────────母上。
そうだ。あの時も自分の全てを否定された気分で、泣きながら城内をうろついていたんだった。
◆◆◆
まだ幼かった時。父も母も存命の頃。
ジルにとって今も優しく誇り高かった父の存在は大きく、短いながらも共に過ごした毎日に想い出を見つける事が出来た。
だが、母と過ごした時間は殆ど思い出せない。
否、過ごした時間自体が殆どなかったのだ。
母はいつもジルの存在に怯え、憎しみすら覚えているようだった。
──息子が、父にも母にも殆ど似ていなかったから。
御産に立ち会った医者や産婆は、間違いなくジルが母の胎内から取り出された事を保証していた。
だからこそ、余計に辛かったのだろう。
気性の荒い祖父に対して、母はごく普通の──むしろ清楚でしとやかな女性だったという。
夫に対して不貞など働くはずもない。貴族の令嬢としての役目を忠実に果たす事に何の疑問も抱かない、そういう人間だった。
しかし、彼女から生まれたジルは、非常に美しく聡明な少年ではあったが、夫の面影も、また彼女自身の特徴と共通する部分も一切持たない子供だった。
父は北フランスに住まう貴族に相応しい金髪碧眼の美丈夫であり、一方母は艶やかなブルネットの髪の持ち主であったが、どちらにしてもジルの黒髪とは明らかに色合いが違った。
比較的近いのは青みがかった瞳の色ぐらいで、容姿からして半ば人間離れしたジルの形質がどこから入り込んだのか、この時代の人間では到底窺い知る事など出来なかった。
祖父はただ自分の娘が男子を生んだという事実だけを喜んだ。
父は不思議に思いながらも、自分を慕う息子を家族として受け入れた。
だが、最期まで母はジルの存在を認めなかった。
後年、弟であるルネが生まれ、その子の容姿が色濃く夫の血を受け継いでいるのを示した事で、母の愛情の全ては弟に向かっていった。
あらゆる面でジルに敵わなかったルネであったが、その一点のみにおいて、優越感に浸る事が出来た。
母の膝を独り占めする弟の姿が、どれほど羨ましかった事だろう。
それは、どんなに家庭教師達からラテン語の文法を褒められようとも、祖父から剣の才能を認められようとも、代えがたいものだった。
だから少しでも自分にも興味をもってほしくて、気分が悪く臥せっているという母の下を、ジルは見舞いに訪れたのだった。
仲の良い侍女と慎重に相談しながら、自ら手折った花で作ったブーケを持って。
◆◆◆
「でも……やはりというべきか、それを受け取っては貰えませんでした」
「………………」
力無く微笑む白髪の青年に、少女もかける言葉がない。
「自慢になりますが、これでも軍の訓練で泣き言を吐いた事は一度もないのですよ?
ですが、流石にこれは堪えました。
相談にのってもらった侍女にも申し訳なくて、泣きながら母の寝室を後にしました」
◆◆◆
無残にも床に叩きつけられた自分の好意に、少年のジルは涙した。
──どうしてぼくだけみんなとちがうんだろう。
何をしても、母を悲しませてしまう自分の存在が苦しかった。
──神さま、ぼくは生まれちゃいけない子だったのでしょうか。
泣きながらそのまま城内を飛び出し、広い庭の端でうずくまる。
はたして──ただ一人、寂しさとやり切れなさの中に沈み込んで、どれくらいの時間が経っただろうか。
「……おやおや、若様。
こんなところで眠ってしまっては、お風邪をひいてしまいますよ」
どこか面白がるような、ゆったりと落ち着いた大人の男の声。
気がつくと、少年の目の前にはよく見知った人物の姿があった。
丸くなったまま泣き疲れて、うつらうつらと船を漕ぎ始めたジルに声をかけたのは、家庭教師として出入りしている聖職者の男だった。
艶やかな黒髪が流れ落ちる端正な顔にはまだ皺の一つもなく、何人か与えられている他の教師達と比べると非常に若々しく見える。一方で理知的な語り口と優雅な物腰から生み出される冒し難い風格から、見た目より遥かに老成しているようにも感じられた。
他の教師達と比べても、その知識は多岐に渡って深淵であり、同時に弁も立つ為、あのクラン公すら一目置いているという。なんとも正体が計り知れない奇妙な人物でもあった。
教師は幼子の横に腰を下ろすと、安心させるように柔らかく微笑みながら尋ねた。
「お勉強が嫌になってしまわれましたか?」
「ううん。ちがうんだ……」
このジルの師である神学博士は、生まれてすぐにつけられる複数の代親の一人だった。家族や直臣を覗けば、少年が生まれてからのち最も長い時間を見守ってきている人間である。
幼い少年が抱え込むにはあまりにも重い現実に耐えられなくなったジルは、彼にとって当時最も近しく信頼出来る大人であった目の前の教師に胸の内の全てを吐きだした。
自分を見てくれない母の事。少しでも元気になって欲しくて見舞いに行った事。贈り物を拒絶された事──思い出すとまた辛くなって、青みがかった碧の瞳にたちまち涙が滲んできてしまう。
「ぼくはいらない子なんだ」
ひざを抱えて幼子はぽつりと言う。
「おじい様は『いちぞくのあとつぎ』がほしいだけ。
父上もおじい様には逆らえないからがまんしているだけ。
母上は……ルネだけがいればそれでいいんだ……」
そして澄んだ碧眼に涙を溜めたまま、叫ぶ。
「ぼくなんか、いなくなっちゃえばいいんだ!」
「……それは違いますよ、若様。
この世に生まれ出た以上、祝福されない命などありません」
教師は小さな生徒の言葉を穏やかに、だがきっぱりとした口調で否定した。
「今この目に映る全てのものは、ひとつひとつがこうして存在するだけで大いなる神の奇跡なのです。
世界がこの形に至るまで、どれだけの可能性が淘汰された事か。
貴方自身も幾つもの選択肢、はるかな時間の重なりを経て、ようやく私と出会う事が出来たのです」
見上げる碧い瞳を見返す瞳は優しく、温かな感情に溢れている。
不思議な安堵感に包まれて、ジルは昂ぶった気持ちがたちまち凪いでいくのを感じた。
「命はそこにあるだけで、必ず何かのお役目を果たしているのですよ。
少なくともこの私は、若様とこうして語らえるのが、何より楽しゅうございますから」
安心させるように、大きな手のひらが優しく髪を撫でる。
どこか父親を思わせる仕草が、幼いジルにはくすぐったく、だが素直に嬉しかった。
「若様。貴方には素晴らしい才能がある」
ふいに真面目な顔になると、教師は言った。
「だから強くおなりなさい。
私達が世界に立つまでに、散っていった命達に報いる為に。創造主の期待に応える為に。
貴方が神から与えられた才能を正しく使えば、必ずや大旦那様が望むように、国の要となる大人物となるでしょう。
そして近い将来、その力はこの傾いた国を救う事になる。
それだけの力が貴方にはある」
教師の瞳はジルの瞳を真っ直ぐ見つめながらも、碧い瞳を通して、どこか別の景色を見ながら話しているようだった。
「貴方が目指す先は決して楽な道ではないでしょう。
だが、そこで貴方は必ず大切なものを得るはずです」
「大切な……もの……?」
「それが何かは、その時、貴方自身が見極める事です。
見極めたのなら……迷わず貫き通しなさい。
貴方が最も大切なものを守る事に貴方の全てを尽くす事が、結果として最も幸福な結果をあらゆるものに与えるようになる」
当時は自分が教師が言祝ぐような大層な存在になれるとは到底思えず、話題に出た『大切なもの』についても全く想像がつかなかったが、学び続ける事で何らかの救いが得られるなら、それでいいと思った。
「……わかった。
ぼく、先生の言うように強くなるよ。きっと誰にも負けないくらい強くなる」
「その意気ですよ、若様。
ああ、それでこそ私の──────可愛い生徒だ」
少年の殊勝な発言に、教師は満足そうに頷き、心から嬉しそうに目を細めていた。
◆◆◆
私の──大切な、もの。
長らく忘れていた師の言葉を思い出して以来、ジルは己に問うていた。
私が守るべきものとは一体何だ?
家族の未来?
騎士としての、貴族としての矜持?
国への忠誠?それとも────
何をいまさら。本当はとっくに答えなど出ているだろう。
苦悩する己の心の片隅で、冷たくもう一人の自分が言い放つ。
臆病者め。お前に認める覚悟が無いだけだ。本当の自分を受け入れる勇気がないだけ。
迷う筈もない一本道の真ん中で、いつまで呆けて立っている?
これ以上、今いる場所で何が出来る──?
これまで戦場に赴く事は叶わぬ身ではあるが、時間の許す限り、己が出来る限りの手は打ってきた。
トレモイユに訴えたところでなしのつぶてであったから、少々手荒な方法ではあったが、叔父の顔を立てる素振りをしながらヨランドの身柄を拘束し、半ば脅すような形で交渉を試みる真似までしてみた。
しかし、それでも宮廷が当初の方針を変える事はなかった。
延長されたブルゴーニュ派の休戦協定は実際のところ形ばかりのもので、ジルが所領で燻っている今も、彼らはイングランド軍の影に隠れて巧妙に軍事行動を続け、水面下での和平交渉を嘲笑うかのように、露骨な挑発を繰り返していた。
この不穏な情勢にフランス王家に帰順していたランスをはじめとするシャンパーニュ地方の諸都市は戦慄し、目の前に迫るイングランド軍と報復の予感に悲壮感を溢れさせている。
見放された街の人々はかねてから宮廷に向けて窮状をさかんに訴えており、板挟みにされているジャンヌはさぞ居た堪れない思いでいるだろう。
もう会えなくなって数か月になる。
密偵の到着を待ちながら、ジルはシュリの地で孤軍奮闘しているであろう少女を想う。
これまでの報告からだと、シャルルやトレモイユにシャンパーニュ地方を救援する動きは無く、宮廷で半ば軟禁に近い扱いを受けているジャンヌにも、当然兵を集めてそこへ向かう手段などあるはずもなかった。
だいたい彼女が貴族として得た給金を叩いたところで、集められる兵の数、質などたかが知れている。
はした金に集まる傭兵は、当然、はした金で裏切るようになる。
ラ・イールやジルが率いる部隊ほどの練度を誇る兵士達など、今のフランスでそう見つかるものではない。
オルレアンへの道中、ずっと言い聞かせてきた。
兵を無駄にする戦をしてはいけない。
使命感という感情の力だけでは、戦況は覆せない、と。
だが、今ジルと彼女は遠く離れた場所にいる。
ドレスを纏えばどこに出しても恥ずかしくない淑女のように振る舞うくせに、あの少女は戦場ではとかく無茶をしがちだった。
何事もなければいいのだが────
ただの思い過ごしかもしれない。
しかし、最近のブルゴーニュ派の動きを見ていると、どうしようもなく胸騒ぎがするのだ。
軍人としての、一種の感だろうか。
あるいは、少女との特別な繋がり故であろうか。
ただ、無事であってくれればそれでよい。
それは王家に仕える軍人として頂点を極めた男が抱くには、決して贅沢な望みではなかっただろう。
「……ジル様!」
だというのに。
ジルが前にした現実はあまりにも無情だった。
血相を変えて部屋を飛び出す主人の後を、側近達が慌てて追う。
愛する乙女の身を案じる元帥の下に届けられたのは、コンピエーニュでジャンヌが捕縛されたという最も聞きたくなかった報せだった。
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