第14話──ティフォージュの悪夢・後編

 ──1429年12月。

 ラ・シャリテ奪還作戦の失敗により、シュリの宮廷におけるジャンヌの立場がより孤立を深める中、領地への帰還を命じられたジルもまた孤独を味わっていた。


 この頃、王国随一の大領主たる元帥が抱える居城の一つ、シャントセは、現当主の長女マリが誕生した事で大いに湧いていた。

 名付け親達の立ち合いの下、洗礼を無事済ませた大切な姫君の世話に奔走する家臣達の様子を、一向に現実感が伴わないまま、何時ぞやのようにジルはただ、遠巻きに眺めていた。

 父になった実感など──歓びなど得られるはずもない。

 新しい命は、彼があずかり知らぬところで行われた秘事によって齎されたものだったのだから。


 だが、それでも。

 生まれてくる子に罪はない。一族の長としての体面もある。

 あまり妻や子を邪険にしていては、家臣達も訝しむ。

 きっと娘も──あくまでも戸籍上の繋がりではあるが──物心もつかないうちに、所領の拡大に利用されるようになるのだろう。

 たとえ一時であっても、いつわりなき愛と誠の慕情に身を焦がした者としては、その行く末に憐れみを覚え、幸多き事を願わなくもなかった。


 複雑な思いに揺り動かされながら、形式に則りジルが育児室を訪れると、そこには既に先客がいた。


「……おや、兄上。

まさかいらっしゃるとは、思ってもおりませんでした」

「…………」


 むつきに包まれた赤子を腕に抱きながら、どこか誇らしげな顔で、ルネは今や王国元帥となった兄を出迎えた。


 たちまちその場の空気が凍りついた。

 対峙する兄弟の間で、乳母や家臣達がおろおろとそれぞれの顔を見比べては、口をぱくぱくさせている。

 だが、そんな動揺を隠せないでいる周囲の様子を余所に、ルネは相変わらず慌てる様子もなく、堂々とした態度で言葉を続ける。


「カトリーヌ殿は立派に領主の妻としての役目を果たして下さいました。

 見て御覧なさい。この愛らしい赤子を。

 将来は母に似てさぞ美しくなることでしょう」


 ジルは無言を貫いたまま、娘を抱く弟を見つめている。

 赤子は大人しく男の腕に抱かれながら、その深い愛情を感じさせる蒼い瞳に向かって、無邪気な笑顔を振りまいていた。

 ──きっと本能で一体誰が父親であるのか理解しているのだろう。


「お忙しい所、せっかくいらっしゃったのです。

 貴方もこの子を抱いてやるといい。

 大切な大切な──一族の娘なのですから」


 ルネは赤子を『ジルの娘』とは言わなかった。

 周囲の家臣達もあえてそれを聞き流したまま、言及しようとはしない。

 この場にいる者は皆、知っているのだ。

 赤子の出自と、真実を。


 それでいて、ルネに悪びれた様子は全くなかった。

 さも当然のように、赤子からの信頼を独占したまま、弟はジルに言い放った。


「留守の間、この子やカトリーヌ殿は私が力の限りお守りしますゆえに。

 どうぞ、兄上は一族の栄誉の為、王国元帥としてのお役目を全うして下さいませ」

「……ああ、頼んだ」


 受け応える声は抑揚がなく、我ながら恐ろしい程感情が欠落していた。


 固唾を飲んで見守る家臣達が憐れになり、結局娘には指一本触れる事無く、ジルは育児室を退去した。

 弟から差し出された温かな命を受け取る気にはとてもなれなかった。

 踵を返したジルの網膜には、見送るルネの勝利者然とした不敵な笑みが焼き付いてた。



             ◆◆◆



 弟が自分に対し、親しみの一片も持ち合わせていないのは重々承知していたはずだった。

 以前だったら、勝手に対抗意識を燃やし、時に悦に入り、あるいは臍を噛む相手を気にも留めなかっただろう。


 だというのに、あの場で味わったやり切れなさが、ずっと尾を引き続けている。

 忘れていたはずの痛み。克服したはずの感情。

 それが今になって何故。


 これが、少女に恋し、愛を得た代償なのだろうか。

 歓びを味わうには、苦しみもまた感じなければならない。それは必然的な等価交換。

 神は確かに公平だ──龍や悪魔にも例えられた自分が、随分と人間臭くなったものだと、ジルは自嘲する。


 それにしても、何やら城門のあたりが騒がしい。

 執事や侍女達が慌てふためく気配が俄かに伝わってくる。

 特に来客の予定はなかったはずだが。


 城主の疑問に対する答えは、思いの外早く返ってきた。

 階下で言い争う声がひとしきり石壁に跳ねた後、執務室に戻ったジルの耳に飛び込んできたのは、戦場の臼砲を思わせる男の怒声だった。


「ジルよ、何故儂に黙って所領に手を付けた……!」


 ずかずかと毛足の長い絨毯が敷かれた石畳を踏み鳴らす音も荒々しく、今なお一族に多大な影響力を奮うジャン・ド・クランが、孫であるジルに詰め寄ってくる。

 ──ああ、やはり来たか。

 老いていまだ血気盛んなこの男は、自らに気に入らない事態が起こると、すぐに癇癪を起す。

 予想してしかるべき祖父の剣幕に、ジルは内心うんざりしながら、表情だけは神妙な面持ちでその場に畏まった。


「何故……?

 それは軍を招集する為に速やかに資金が必要であると判断したからですが」


 軍資金の枯渇を理由に戦地への派兵を渋るシャルルを説得する材料とする為、ジルは密かに父祖伝来の遺産であるブレゾン城を売却していた。


 オルレアンに出立した当初から王家の資金繰りは深刻であり、ヨランドやリッシュモンは私財を投じてその兵力を維持していた。

 貴族は誇りと名誉を重んじるが、傭兵はしかるべき報酬が無ければ決して動かない。

 先のアザンクールの戦いで大敗し、いわば正規軍である貴族とその郎党からなる騎士団の多くが犠牲となったフランスとしては、イングランドとの戦いをつづける為には、どうしても傭兵の力を頼らざるを得なかったのだ。


 支払いを渋れば、彼らの士気は露骨に下がり、埋め合わせをしようと占領地における掠奪は苛烈を極める事になる。そしてそれは、必然的に人々の間から新たな憎しみと争いの火種を生むのに繋がっていた。

 リッシュモンから元帥位を引き継いだジルとしても、当然のように彼に倣った。それだけの事である。


「馬鹿者……!

 それが必要かどうか判断するのはお前ではない!この儂だ!」

「──ラ・シュズよ、何をおっしゃるか!

 一族の当主はもう貴方ではない──この私だ!」


 軍人としては確かに尊敬出来る面もあったが、叔父のトレモイユ同様、利己主義の権化のような祖父のやり方は、ジルには到底許容出来るものではなく、度々対立を繰り返してきた。

 両親を失い、後ろ盾が必要であった幼少時であったならばいざ知らず、成人して宮廷に上ってさえ、何かにつけて口を挟んでくる祖父の存在は、もはや彼にとって重荷以外の何者でもなかった。


「黙れ!この恩知らずが!」


 烈火のごとき言葉と共に、ジルの顔にワインがぶちまけられる。

 感情に任せるがまま、卓上にあった杯を引っ掴んだクラン公が、若い当主に向かって投げつけたのだ。

 ごろり、と美しい細工が施されたベネチア産のグラスが絨毯の上に転がる。額を切ったのか、酒精の香りに交じって鉄臭ささが鼻腔を突いた。


「父と母を失い、路頭に迷うところだったお前達兄弟をここまで立派に育ててやったのは誰だと思っている…… !? 」


 確かにそれについては感謝している。

 だが、そもそも父であるギィは生前、この粗暴で強欲な祖父の存在を警戒し、何かあった時は彼の従兄弟である人物を頼るよう、言いつけてあったのだ。

 その遺言を破棄し、ジルやルネを学問の道から遠ざけ、自らの都合が良いように軍人としての訓練を強いたのは、他ならぬクラン公自身である。


 そして、皮肉にも祖父の存在を毛嫌いしていたはずのジルが、彼の期待に強く応えてしまっていた。


「いつまでもくだらぬ理想論にかぶれおって……!

 何故わからぬのか!

 理想や愛で一族や領地は守れぬ!

 この世は、金と力が全てだ……!

 そんな軟弱な考えでおるから、ルネにカトリーヌを寝取られたのだ!!」


「─────っ!」


「フン……儂が知らないとでも思ったか。

 世間知らずの小娘にも弟にも侮られて。

 まったく、男として少しは恥ずかしいと思わないのか、お前は」


 蔑むようなクラン公の視線に、ぽたぽたと己が血とキリストの聖血を滴らせたジルの頬へ朱が昇った。


「……まあ、カトリーヌの腹に入った子種がお前達どちらのものであっても、一族の血を継いでいる事に変わりはないからな。

 無駄に口外しなければ何とでもなる。

 出来れば、世継ぎになる男子が欲しかったところだが……次に期待する事にしよう」


 悔しさに歯を食いしばり、握りしめた拳を震わせているジルを、完全に場の主導権を奪った形になったクラン公は、さも愉快そうに嘲笑う。


「儂を黙らせたかったら、力尽くでカトリーヌを組み敷いて、男子を生ませる事だ。

 世継ぎを残す役目を果たせぬのであれば、それは弟に任せて、せいぜい一族の栄誉の為、元帥として宮廷に仕え武勲を上げるのに励むのだな……!」


 言いたいだけ言い終えて、その場に俯いたまま、身動ぎせずにいる孫にクラン公は背を向ける。

 その去り際、アンジュ公家に仕える狡猾な老将軍は嘆かわしそうに溜息を吐いた。


「お前達の性格と能力が逆であれば、どれだけ良かっただろうに……」

「………………」

「一族に利を齎さぬ役立たずに用はない。

 身の程を弁えたならば、二度と儂には逆らうな」


 結局、それ以上祖父に何も言い返せないまま、ジルは自室に取り残された。

 額から流れていた血は既に止まっていたが、心に穿たれた傷はむしろじわじわとより痛みを増しながら、疼き続けていた。

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