第13話──ティフォージュの悪夢・前編
──そこは例えるならば悪魔の箱庭。無造作に切り取られた地獄の断片だった。
気がつくと、ジルは一人、その場所に立っていた。
石造りの部屋。採光用の天窓から差し込むわずかな月明かりと松明によって照らされた空間は薄暗く、肌に纏わりつく湿り気を帯びた空気は、この上なく不快だった。
ここはどこだろう?
周囲に視線を走らせ一呼吸した途端──凄まじい悪臭が鼻を突いた。
思わず咽返りそうになる口元を抑え、何とか堪える。
突如襲った粘膜を爛れさせるようなその刺激は、一言で言えば死臭であった。
血と鋼に火薬とを織り交ぜた死神の香は、戦場でも馴染み深いものであったが、これに加え、脳髄を痺れさせる奇妙に甘ったるい匂いが部屋には充満していた。
何かの薬品か、あるいは花の香りだろうか……正体は判然としないが、真っ当な目的によって生じているものとは到底思えなかった。
ただ場に留まっているだけで軽い眩暈を覚える。
空間全体を覆う、凝縮された狂気。
女や子供であったなら、すぐに吐き気を催し、その場に昏倒してしまいかねない、穢れの渦。
それは招かれざる来訪者へ確かに警告していた。
これ以上、踏み入ってはならぬ、と。
だが、胸騒ぎとは裏腹に、目が闇に慣れてくるにつれ、ジルの関心はますます後戻り出来なくなっていく。
この場所。どこか見覚えがあるのだ。窓の位置。頑丈そうな扉の向こう、地上に続いているであろう細く長い階段──
──考えてはいけない。思い出してはいけない。
本能が危険を知らせている。しかし、それでも確かめずにはいられない。
更なる手掛かりを求めて、踏み出した足が何かに躓いた。
「な───」
何だ、これは。そう口に出すより早く、瞬時に思考は床に転がるものを理解した。
暗がりの中に浮かび上がる白い腕。
晒された断面からは赤黒い肉と白い骨が飛び出している──それはかつて生きた誰かの一部だったもの。
釣り込まれるように足下の先へと視線を向けると、石畳には人間を構成するべき部品がそこかしこに散乱していた。
日の下であれば、あたり一帯は血の海である事にすぐ気が付いただろう。
それがはたして何人分の命で賄われているのか。にわかには判断しかねる数の肉塊が、血だまりの中、じわじわと腐食するのを待ちながら沈んでいる。
酸鼻極まる光景だった。
「………………」
ジルは言葉を失った。
十年来、前線で戦ってきた。死体など見慣れて久しい。
だが、それでもなお、ジルが今目の前に広がる光景に悪趣味と異常性を感じたのは、必要以上に傷つけられ辱められた遺体の状態と、そのいずれもが戦士となるべく鍛えられた大人の男とは程遠い、華奢な造りをしていた事だった。
小さく細い指先。やせ気味で骨の浮いた胴回り──バラバラになった全てを繋ぎ合わせても、この腕の中にすっぽりと収まってしまいそうなそれらは、どう見ても小柄な女性、あるいはまだ幼いであろう少年や少女のようにしか見えなかった。
なんて、おぞましい。
こんな外界から隔絶された場所で。一体誰が。何の為に。
柔肌に傷をつけ、五指の爪を引きはがし、あまつさえはらわたを引きずり出して。
惨たらしい宴に興じたのだろう。
血だまりからは、怨嗟と無念が立ち昇っている。
場に満ちた重苦しい気配は、異臭によるものだけでは決してない。
こうして佇んでいる間にも、理不尽に齎された死によって無理矢理この世界から逐われた魂たちが、己を地の底へと引きずり込もうと、足元から腕を盛んに伸ばし蠢いている様子が目に見えるようだった。
視界の端々に感じられる亡者の嘆き、この場で行われた一方的な虐待と拷問の予感に、胸が悪くなってくる。
やはり長居するべきではない──そう思い直した刹那、鼓膜をつんざくような悲鳴が石壁に響いた。
声のした方向を辿ると、揺らめく松明の明かりの中に、複数の人影が現れた。
死臭漂う牢獄のような部屋には不釣り合いなほど豪奢な寝台。
天蓋に覆われたその上で、二人の人間が揉みあっている。
恐怖に歪んだ顔で泣き叫びながら必死の抵抗を続けているのは、年端もいかない少年だった。
その細い身体を被さるようにして組み敷くのは、死神を思わせる黒い長衣を纏った誰か。その顔はマントのフードに隠されて表情を伺い知る事は出来ないが、興奮しているのか、口元から洩れる吐息は荒々しく、危うい熱を帯びていた。
寝台を軋ませ身をよじり、足を蹴り上げ、少年がいくら暴れまわろうとも、細い身体を縫いとめる黒衣の長身はびくともしない。
少年が一際大きな悲鳴を上げた。
松明の明かりを反射して、暗がりの中に閃く不吉な光。
黒衣が虚空に振り上げたものにジルが瞠目する。
「やめろ……!」
得体の知れない相手に、素手で挑む愚かさは重々承知していた。
それでも目の前で狼藉を働こうとしている輩を、見過ごす事は出来なかった。
躯を踏み分け寝台に駆け寄ると、少年の頭部をかち割ろうとしていた戦斧を持つ腕を掴み、捩じり上げる。
現役の軍人である男爵に身体を押さえ付けられて、なおも抵抗を試みる黒衣の手から得物がすべり落ちた。
石畳に響く重い金属の音。
その瞬間、振り返った黒衣とジルの目があった。
衣擦れの音に合わせて、明らかになるその素顔。
「え───?」
悲憤と絶望、そして諦念とに冒され、やつれ果てた白い肌。
身も心も屍のようでありながら、そこだけは何かの妄執に突き動かされるかのように、狂暴な光を放つ紅い瞳。
血走る切れ長の目元には濃い隈が落ち、幽鬼のようなその様子は在りし日の威厳など見る影もないが、一方で厭世と退廃に彩られ、悪戯に命を弄ぶ姿は、いっそ死の天使の趣さえあった。
禁忌の愉悦に耽溺し、堕ちた男がジルを嗤う。
良心と信仰の対極にあるこの場に相応しい、荒んだ冷笑を刻む美貌は、彼自身のものだった。
◆◆◆
「………………!」
衝撃に刹那で覚醒したジルの視界に映った室内は、まだ明るかった。
窓の外に広がる領地の景色はごく穏やかで、農民達が畑仕事に精を出している様子が見て取れる。
頭を一振りして、纏わりつく悪夢の余韻を振り払う。
疲れていたのか、書簡をしたためている最中にうたた寝をしてしまったらしい。
取り落としたペンを拾い上げ、ジルは深々と溜息を吐いた。
夢に見た光景は、元々ジルが人ならざる力を手にした時から、常に脳裏の片隅に置いていた不安を具現化したものだった。
──ティフォージュの城の奥底、地下にある隠し部屋で繰り広げられる背徳の儀式。
祭壇に捧げられるのはパンとワインではなく、恨めし気な表情で虚空を見つめる生首と、まだ温かい臓物の数々。
妖しげな香が焚かれるその中で、己は悲鳴を上げる細い首筋を噛み千切り、溢れだす血潮で喉を潤しながら、腐肉に塗れて絶頂する──
戦乱の世から取り残された怪物が、平和な生活を取り戻した人々の日常に放逐されたらどうなるのか──想像しうる中で最悪の末路の一つ。
だからこそ、戦場に倒れる事が叶わなかった時、自分は頃合いを見て潔く命を絶つと決めていた。
例えこの身がいくら『ヒト』とは違うものに成り果てようとも。救済は無く、魂は永遠に地獄を彷徨う事になろうとも。性根まで悪魔に売り渡すつもりは更々なかった。
胸に抱く誇りと意志だけは、最期の瞬間まで人間でありたい。
それなのに。
「ジャンヌ……」
ジルが治世の時代を迎えても生き続ける事を望み、彼自身もまたその傍らに在りたいと願った少女は、今、ここにはいない。
シャルルにブルターニュへの帰還を命じられた後、ジルとジャンヌは別れを惜しむ間もなく引き離された。
宮廷を去った後も、前線にいる将校達とジルの遣り取りは続き、戦場との繋がりは断たれてはいなかったが、ジャンヌに対するシャルル達の警戒と監視は殊の外強かった。
放った密偵達も乙女と直に接触するのは難しく、遠巻きに状況を伝えてくるのが精一杯だった。
シャルルがトレモイユの甥であるジルすら宮廷から遠ざけ、ジャンヌもまた蔑ろにしているという知らせに、ノルマンディにいるアランソンやリッシュモン達は大いに失望し、憤慨した。
しかし彼らもまた宮廷に対しては依然無力であり、二人の処遇について働きかける事は叶わなかった。
事実上、職権を停止されたも同然であったが、未だジルは元帥位にあり、今のところ宮廷に機能していない王軍の総司令官職に代わる誰かを据える動きは見えなかった。
しかし、現状が長く続けば、トレモイユが幅を利かし厭戦の風潮が強い彼らも、真に国益に繋がる判断を下すことが出来る有能な指導者を迎えざるを得なくなるだろう。
その時を見込んで、ジルは前職の大元帥であり、王家に繋がるブルターニュ公の弟であるリッシュモンと、密偵を通じ、意見交換を重ねていた。
伯爵の力を抑える為にジルを元帥に推挙したトレモイユからしてみれば、甥の判断は裏切りであり通敵行為だとなじっただろう。
だが、ジル自身はかねてから思慮深く誠実な人柄のリッシュモン伯を尊敬していたし、共に戦場を駆けた者として、リッシュモンもまた自分の地位を継いだ青年を悪く思ってはいなかった。
侍従長の思惑はどうであれ、互いに国の行く末を憂う有能な軍人である二人の間には、わだかまりなど存在していなかったのだ。
リッシュモンはジルが提案する常設軍の設立についても強く興味を示し、自分が宮廷に復帰した暁には、その実現の為、必ずや協力して欲しいと若い男爵に伝えていた。
伯爵の賛意を得て、また頼りにされるのは軍人として誇らしく、彼が言う通り、新たなフランスを築く礎となれれば、どんなに喜ばしいことか。
そしてその時、自分の傍らに愛する少女が微笑んでいたのなら──
この世の地獄で悲嘆に狂う悪夢とは相反する輝かしい未来。あまりにも出来過ぎていて、想像する事すら畏れ多く感じる。
本当にそんな日がくるのだろうか。
この瞬間、フランス最高の将軍に認められた青年の心を占めるのは、自らが歴史に名を残す事ではなく、もっとささやかな願いだった。
ジャンヌ──今はただ、貴女に会いたい。
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