第12話──別離・後編
ジャンヌの想いに必ず報いてみせる。
その一心で、ジルは更に宮廷の内に外にと奔走した。敵の情報を収集し戦況を分析し、戦場にいる主戦派の仲間達と連絡を取り、時に屈辱に耐えながら宮廷内での穏健派貴族との談義も重ねていった。
軍資金を理由にシャルル達が派兵を渋るのであれば、城の一つぐらい売却して構わないとすら考えていた。
──この頃からだろうか、ジルの中で王国内における軍事力の再編成、常設軍の実現という構想がちらつくようになったのは。
ジャンヌから聞かされる『未来の話』の中でも、軍人であるジルの興味をとりわけ引いたのは、やはり国家の政治体制や軍事形態についての情報だった。
指揮系統が明確化された統率のとれた軍隊と、当時では魔法や奇跡にしか思えないような突飛な兵器の数々。合議による国家運営。
初め耳にした時は今自分がおかれている世界の常識とは余りにもかけ離れていて、とてもこの日々の延長線にそれらが現れていく事に想像が追い付かなかった。
しかし──思えばかつてのローマ帝国が最強を誇ったのは、厳格な規律により集団行動を徹底された勇敢な兵士達と、最高水準を誇った建築技術に裏付けられた堅固な兵站からなる常設軍の存在が大きかったのではなかったか。
有事の際に寄せ集められる『軍勢』と、常時訓練されている『軍隊』の違いは、兵士の士気からして全く違う。
配下の騎士団に少なからず金と時間とをかけてきたジルだからこそ、それは痛い程よく分かっている。
そして、今後このフランスが何ものにも脅かされない大国として繁栄を築いていくのに、それが必要不可欠であるという事も。
だが、この弱り切り腐敗しきった王国で、そんな大それた事が可能なのか?
否、はるか昔の古代人が出来た事を、今の時代の我々が出来ない事は決してあるまい。
──たとえ、それが現在の社会を形作っている封建制そのものや戦友である傭兵達の存在意義に斬り込む事であり、また貴族であり騎士である、という己自身を否定し、古い価値観と共に心中する行為であったとしても、だ。
もしかしたら、『神の意志を告げる聖女』の来訪による奇跡は、この時代が変わっていく呼び水に過ぎないのかもしれない。
諜報部隊への指示書をしたためながら、ふとジルは思った──まさか自分自身がその流れの中心にあって、移ろいゆく歴史を見守っていく事になるとは、まだ夢にも思わずに。
◆◆◆
ジルはただ、ジャンヌが言ったように日々自分の出来る事をこなし続けた。
それらの地道な努力が功を奏したのか、この日、許されたシャルルとの謁見の場には珍しく最大の障害である侍従長の姿はなかった。
代わりに、あまり見慣れない若い司祭の姿が一人、目に入ってくる。
黒い僧衣も着古した感じはなくまだ清潔感に溢れており、これ身に着ける若者自身もまた端正な顔に柔和な笑みを浮かべていて、一見、非常に魅力的な人物に見えた。
しかし、何故だろう。
その人懐こいはずの笑みはどこか見る者に不安を覚えさせた。
貴族や王族の部屋に僧侶が招かれていること自体は、別段おかしなことでも何でもないはずなのだが──拭えない奇妙な違和感。
宮廷生活に疲れて、疑心暗鬼になっているのだろうか。
そうジルが思った時。
「お二人とも込み入ったお話をされるようですから、部外者はこれで失礼致しますね」
空気を読んだのか、件の司祭は芝居がかった優雅な仕草でシャルルに一礼した。
シャルルが無言で頷いたのを確認して、黒衣の若者が身を翻す。
退出する司祭が、ジルとすれ違う。
まだ幼さの残る横顔が間近に迫る。
視線に絡んだ若者の発する気配に、元帥の脳裏に閃くものがあった。
……この少年のような司祭……どこかで……
「──ああ、本当に綺麗だなぁ。
罪深い方だ。スポルスやアンティノーでさえ、元帥殿の前では嫉妬するかもしれませんね」
どこか熱っぽさを感じさせる呟きと、肌を撫で上げるような視線──一瞬で全身が犯されたような不快さに、ジルの身体を凄まじい悪寒が走った。
そして、司祭が呟いた言葉の意味に思い至るにあたって、僧侶にしてはあまりにぶしつけで不敬な物言いに、今度は逆に震えるほどの怒気が漲ってくる。
司祭が引き合いに出したのは、歴代のローマ皇帝達を虜にした愛人達だ。
ことに暴君ネロに愛された絶世の美少年であるスポルスは、去勢された後、正式に第3皇妃として迎えられている。
他の無知な貴族ならいざ知らず、歴史に長けたジルが耳にすれば、この自分よりも若い司祭がどういう趣向でジルを見ているのか、すぐに理解出来た。
だが、我に返り、一言物申してやろうかと思った時には、司祭の姿はすっかり消えていた。
内心歯軋りしたい思いで、ジルは改めてシャルルと向かい合う。
「休暇は楽しめてるかな。元帥殿」
「──はい。大変充実しております。
宮廷での生活は退屈する暇もございません」
「そうか──ならば結構。
ところで男爵。貴公の耳にはヌヴェール伯領の様子は入ってきているかな?」
「はい。グレサールとか言う山賊が未だに野放しになっているようですね。
ラ・シャリテを奪って以降の増長ぶりは目に余るものがあります」
全てを心得た上で、状況を確認するようにジルは言葉を続ける。
「奴はブルゴーニュ公の騎士を自称しておりますが、イングランド本土のベドフォード公とも繋がっております。
近隣の住民は彼らの掠奪にさぞ怯えていることでしょう。
やはり早々に叩いておくべきでした」
ブールジュの東方、ロワール河畔のラ・シャリテは戦略上極めて重要な拠点の一つであり、この町を現在実行支配している傭兵崩れの首領──ペリネ・グレサールの存在は、ランス遠征時にも既に問題視されていた。
その際、シャルル以下王国軍はグレサールに退去命令を発しているが、具体的な軍事行動は執らなかった為、命令は無視されたままになっていた。
近々イングランド側がベリー地方で大規模な作戦を計画している、という情報はジルの下にも届いている。
今、イングランド軍にこのラ・シャリテを確保されるような事態になれば、フランスの優位はあっという間に崩されてしまう。一刻も早い作戦行動が必要だった。
「トレモイユ卿とも相談して俺はヌヴェール伯領のいくつかの街に軍を送る事にした。
これは乙女にも伝えている。彼女も賛同してくれた」
例によって自分には何も相談がないまま、派兵が決められたのは気に入らなかったが、そんなものは大事の前の小事である。
まずは今やるべき事に元帥は集中しようとした。
「分かりました。
では、私も早急に軍の招集を──」
「それには及ばない。
今回、俺は貴公に作戦の指揮を任せるつもりはない」
「え───」
ジルはわが耳を疑った。
今、シャルルは何と言った?
この戦略上極めて重要な戦いを前に、自分に指揮を任せるつもりはないと、そういったのか?
「……それでは、本作戦にはアランソン公かリッシュモン伯を総司令官として復帰させ、自分はその支援に回れと、そういう事でしょうか」
混乱しかけた頭で、それでも努めて冷静な口調を保ったまま、ジルは主君に訊ねた。
ならば、それでも結構。
元よりリッシュモンが宮廷に戻って来るならば、自分は大元帥の地位を早々に辞退するつもりだったのだ。
一部隊の指揮官に戻れるならば、その分ジャンヌの守護に専念出来る。
しかし、ジルに対するシャルルの答えは、縋るような元帥の心情を決定的に打ち砕く、実にそっけないものだった。
「俺が思い至らぬばかりに、貴公には随分と気苦労をかけた。
領地へ戻って養生するがいい」
「……………………」
今度こそ、元帥の顔から一切の表情が消えた。
シャルルとトレモイユは自らに都合よく動く駒には寛大だが、少しでも不穏な動きを見せる者に対しては、一切の容赦がない。
ここのところのジルやジャンヌの動きに何か思うものがあったのだろう。
まさか、まさかこんなところで──
「──陛下、私は」
「奥方が懐妊したそうではないか」
「………………」
オルレアンでの戦いの最中に、妻にまた妊娠の兆候が出ていると、家臣からは伝え聞いている。
しかし、ジルにとっては所詮、全く関わり合いのない話だった。
──生まれてくる子は確かに妻の子ではあるが、どうあってもジルの子では決してないのだから。
故に、部下も仲間達もこの話題にそれ以上触れる事は無かったのだ。
「何故黙っていた?めでたいことではないか」
「……それは」
「乙女に知られたくなかった、のかな」
微笑みすら浮かべて。何気なく発せられたその一言に。
シャルルの中で凍え固まった途方もない負の感情の集積を、ジルは初めて感じとった。
「陛下……」
「……冗談だ。
俺とて同じ人の子だ。
貴公も我が子をその手で抱きたかろう?百合の紋を許された晴れ姿を妻や家族にも見せてやれ。
後継を生み育て、領地を経営するのもまた貴族の務め──しばらくはゆるりとこれに励むと良い」
それから後に交わした会話がどんなものだったか。もう殆ど覚えていない。
ただ、顔色を無くしたまま、力無く謁見の間を後にするジルの背中に、投げかけられた朗らかな声だけは、はっきりと覚えている。
「──乙女は祝福していたよ。生まれてくる元帥の子が健やかであるように」
◆◆◆
1429年11月。
王命の下、ラ・シャリテの攻略を目的とした討伐軍がベリーに集結した。
ベリー公領代官であるダルブレ卿の指揮下には、ブサック将軍とモンパンシェ伯、そしてジャンヌの部隊が参加していたが、そこにジルの姿はなかった。
補給も満足に行われない中、ジャンヌ達は善戦したが、冬の寒さと覚束ない救援に兵の士気は上がらず、敵の巧妙な奇襲作戦により、部隊は潰走してしまう。
結果、めぼしい戦果を挙げることは叶わないまま、ベリー地方での作戦行動は失敗に終わり、フランス側の軍事行動は大きく制約される事になった。
この顛末を斥候からの報告書で知った元帥は、乙女から遠く引き離されたシャントセの城内で、ただ己の無力を呪うしかなかった。
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