第11話──別離・前編
後にヨーロッパの覇者となり、絶対王政の下、隆盛を極めた大邦、フランス。
その絢爛たる国家の歴史において、とりわけ激動の時代を生きる事になった二人の青年──シャルル・ド・ヴァロワ、のちの『勝利王』シャルル七世と、彼の忠実なる騎士としてフランス王国元帥の地位に就く事となるレイ男爵こと、ジル・ド・モンモランシー=ラヴァルの出会いは、オルレアンの戦いが始まる4年前に遡る。
1425年、イングランドからの侵攻に加え、長らく内乱状態にあるフランス国内の複雑かつ陰惨な政治的状況を克服し、王権を盤石にするべく、王太子シャルルとブルターニュ公ジャン五世の会談がソミュールの地で行われた。
シャルルの義母である賢夫人、ヨランド・ダラゴンによって仕組まれた和議の場には、ヨランドの息子ルイが治めるアンジュ公家の家臣であると同時に、ブルターニュ内に広大な領地を保有し、その公家とも馴染みが深いジャン・ド・クランが両者の仲介をするべく招かれており、ジルもまた祖父の側近としてここへ同席していた。
時に、ジル20歳、シャルル21歳──どちらも少年期をようやく脱したばかりの若者であり、貴族社会に跋扈する老獪な野心家達にとっては、まだ取るに足らない小僧達に過ぎなかっただろう。
本来貴族達の中心にあって采配を振るうはずの王太子シャルルは、未だ自分の裁量で宮廷を取り仕切る事は叶わず、人々からは『ブールジュの王』と蔑まれ、ひたすら辛酸を舐める日々が続いていた。
実母の裏切りにより王国の正当な継承者である事を否定され、その肩には先代から続く負け戦の負債が重く圧し掛かったまま、仮初めの玉座で身動きが取れずにいる哀れな青年。彼は尊ばれるべき血筋にありながら、国政というゲーム盤の上で都合良く動かされるコマの立場に、甘んじるしかなかった。
だが。
それでもシャルルは、この残酷で不条理な運命に耐え、持てる力の限りで抗い続けていた。
意志薄弱で愚鈍な王を巧妙に装いながら、辛抱強く、機会が来るのを待っていたのだ。
初めて主君となる人物と顔を合わせた時、ジルは彼の目を見て、それを悟った。
──この方は、侮って許されるような臆病者では決してない。必ず何かを成し遂げる人物だ、と。
だから、ついて行こうと、決めた。
臣下として、生涯続くであろう彼の戦いを支えよう、そう思った。
──逆にシャルルはこの時のジルに対し、どのような所感を持っていたのだろうか。
ジルは、王は自分の事などきっと覚えてなどいないだろう……と、ごく無難に考えていた。
所詮、自分は折衝役を引き受けていたとはいえ、祖父の付き人にしか過ぎない。陛下はお忙しい方だ。尊敬するリッシュモン伯のように、王にとって助けとなる武勲を上げる事で、いずれは気に留めてもらえるようになれば、それでいい。
だが、ジルの想いとは裏腹に、この時からシャルルは、将来王国元帥として自らが百合の紋を贈る事になる青年の存在を、強く記憶に留めていた。
自らと同じく、男としての逞しさからはほど遠い容姿でありながら、義母ヨランドからも一目置かれる聡明で勇敢な騎士道の体現者──ブルターニュ領内で始まった内乱を舞台に16歳で華々しく初陣を飾り、祖父の薫陶を受け軍人としての頭角を現していたジルに対し、シャルルが抱いたのは、期待や信頼ではなく、どうしようもない羨望と劣等感だった。
本来、王であれば生まれながらして持つべき力を禿鷹のような貴族達に奪われ尽くし、誇りすら踏み躙られたシャルルにとって、富と栄光に恵まれたジルの姿は、どれだけ眩しく──そして憎らしく映ったことだろう。
「──私は、陛下の騎士であろうとしながら、そのくせ陛下の事を何も理解しようとしていなかった」
気が付けば、秋の太陽は大きく傾き、最後の光で恋人達を祝福しながら、水平線の彼方へと消えようとしている。
そのどうしようもなく郷愁を誘う姿を碧い瞳に焼き付けながら、かつて男爵と呼ばれた青年の脳裏に去来するのは、いかなる光景か。
少女の目に映る横顔は陰りを帯びて、慚愧の念に揺れているようだった。
「今であれば、少しはあの方の心に寄り添える気がします。
あの方は確かに偉大な王でした。
……しかし、陛下もまた人間だったのです。
私と同じ……弱さを持った人間だった……」
強い光は、より深い闇を生む。
出会いの瞬間から、王と騎士、二人の心はどうしようもなくすれ違っていた。
──そして薄氷の上に築かれたがごとく危うい男達の主従関係は、一人の少女を介して決定的に破綻する事になるのだった。
◆◆◆
「おや……侍従長からは逸品だと聞いていたのだが……俺の用意したワインは口に合わなかったかな?元帥殿」
この酒宴の主自らが注いだ酒精の芳しき誘惑の前にも微動だにせず、紅い水面に視線を落としたまま物思いに耽っている若き英雄の肩を、朗らかな笑みを浮かべた青年の手が親しみをこめて叩く。
「あ……いえ、決してそんな事は……」
「そうか。それならば良いのだが。
何せ貴公はこのフランスで一番の大領主だ。俺の想像など及びもつかぬ食や美の極みを熟知しておられることだろう。
まったく、貴公を持て成すのは一苦労だ。なあ、トレモイユ卿?」
パリよりやや東に位置するシュリ・シュル・ロワール──ランスで執り行われたあの華々しき戴冠式の後、フランス宮廷の機能は、政争の勝利者である侍従長ドゥ・ラ・トレモイユの居城に移されていた。
王都であるパリは未だイングランドとブルゴーニュ派の手の内にあり、ノルマンディをはじめとした各地で小規模の戦闘は続けられている。
解放への期待を無残にも裏切られる形になり、王国軍の主力が撤退した周辺の諸都市は今や恐慌状態に陥っていた。シャルル七世を擁する穏健派の貴族達は細々と転戦を続ける主戦派の武将達の奮闘を余所に、政治的沈黙を決め込んだままでいたのだった。
「男爵よ、いくら卿がごまかしのきかぬ舌の持ち主であれど、本来陪臣に過ぎぬ者がそれ以上陛下に気を使わせるのではない。
むしろこれほどの栄誉を、何故素直に喜ぶ事が出来ぬ?」
宴席においても一人、場に酔うことなく静けさの中に身を置いていた青年貴族──ジルの相変わらず空気を読まない不景気な横顔にトレモイユが渋面になる。
自らの地位を脅かすものの気配に敏感なトレモイユとシャルルは、オルレアンからの戦いを経て、その人望を一層高めることとなったアランソン公を早々に宮廷から排除した。
さらに彼らは権勢をより盤石のものとするべく、国王を栄光の玉座へと導いた『救国の英雄』であるジャンヌとジルを、王命の下、自らの手の内に──宮廷と言う名の蠱毒の底へと圧しこめたのだった。
今は甲冑を脱ぎ、見るからに仕立ての良い絹の上着と百合の紋があしらわれた外套に身を包んでいる大元帥──ジルの麗姿は宮廷においても輝かしく、集う貴婦人達を虜にした。しかし、いくら人々が彼の美貌と武功を称えようと、最高の騎士と彼らに謳われる男爵の表情が晴れることはなかった。
「その憂い顔がまた良い」と風流人を気取った好き者からねっとりとした視線を送られるのもまた、彼にとっては大いに苦痛であったし、自らも芸術を嗜み学問を愛する身ではあるものの、何より己は騎士であり軍人であるという自負のある元帥にとって、やはり自身が活きる場は戦場なのである。この運命の采配に対して歯痒く思わざるを得なかった。
「……パリからの撤退は、元よりブルゴーニュ側との休戦協定を取り交わした時に決められていたことだ。
それに、長期に渡って戦闘と関わりあいのない街や村に軍を駐屯させていては、住民にかかる負担も大きい。聡明なお前なら分かるだろう?」
きかん気の強い子供に言い聞かせるような口調でトレモイユが言うのに、内心渦巻く憤りを理性で氷結させながら努めて冷静な口調でジルが応える。
「だが、我々が去った事で、王国に帰順した多くの都市が再びイングランドの脅威に曝され、理不尽な暴力に怯える日々を過ごすようになったのです。
このままでは、いずれまた他の地域でもイングランド軍が攻勢に転ずるでしょう。
彼らもそう愚かではない。
黙って見過ごしていれば、我々が積み重ねてきた勝利が全て無駄になってしまいます」
王国軍の解散以降、言葉を変えながら何度も繰り返されてきた問答を、今宵またグラスを傾けながら強いてくる甥に、トレモイユは辟易していた。
せっかく自らの手で王国軍の最高司令官にしてやったのに、それで飽き足らず、未だに進んで前線での戦いを続けようとする男爵と彼の庇護を受ける乙女の二人は、この侍従長にとって全くもって理解に苦しむ存在だった。
己が命こそ第一で、それを永らえる為にあらゆる手段で王国から富と力を吸い上げてきた男からすれば、何を理由にそう好き好んで死に急ごうとするのか不思議でたまらなかっただろう──だからこそ、今も若い元帥が忠誠と愛情の狭間で苦しみながら、それでも『大義』の為に生涯を捧げようとしているなど、思い至るはずもなかった。
「よいよい。そう可愛い甥を責めるでないぞ、侍従長。
こうして表裏のない男だからこそ、この俺も信頼出来るというもの──だろう?男爵よ」
シャルルは元帥の諫言にも機嫌を損ねる事無く、軽い口調でトレモイユを窘めると、自らと並び立つジルの肩にさりげなく腕を回す。
あまりの事に戸惑いを隠せないでいる己が騎士の顔を、シャルルの怜悧な瞳が覗き込む。
──従兄弟であるアランソン公とよく似ているが、より硬質で冷ややかな、剃刀色の視線。
「これからは我々の時代だ。
貴公はまだ若い。戦いばかりではなく、この宮廷で政治についてもより深く学び、俺の力になって欲しい。
来るべき時が来たら、また軍の指揮も執ってもらう事になるだろう──期待しているぞ」
「……は。
微力ながら、このジル・ド・レイ、フランスと陛下の為、尽力させて頂きます」
その様子を見て、宴席に招待された取り巻きの貴族達が大きな拍手を送る。
傍から見れば、国の未来を担う青年二人が語らう、希望に溢れた光景だっただろう。
だが──歓声と祝福に包まれながら、ジルは思う。
パリでの戦いからどうにも拭えない、ざらつくような違和感、敵意の気配は何だろう?
杯の中、己の裡にある不安をそのまま注ぎ込んだように揺蕩う血の色をした液体──そこに浮かび上がってくる光景──パリ城壁での攻防。射抜かれた小姓の虚ろな瞳。泣き崩れる少女の姿。
(──裏切り──)
忠誠を誓う主君にこれほどの歓待を受けながら、かえって居心地の悪さを感じてしまう自分に、ジルは自己嫌悪を覚えるのだった。
◆◆◆
しかし、実際のところシャルルはジルを大元帥としてその栄誉を称え、決して無下に扱うことはなかったが、元帥が顔を合わせる度に口にする再度の軍の招集、そしてパリへの攻撃の許可に対しては、冷酷なほど取り合わなかった。
この処遇についてはジャンヌもまた同じで、戦場ならばいざ知らず、宮廷においては国王の気紛れで貴族の末端にその名を連ねる事になった小娘に過ぎない彼女を、まともに相手にする貴族は誰もいなかったのだ。
──時間だけが、ただ無情に過ぎ去っていく。
「……申し訳ありませんジャンヌ。
私が至らないばかりに、陛下の御心を変える事が出来ず……」
告げる口調は頭上を覆う曇天のように重苦しい。
愛する者との久しぶりの逢瀬であるのに、心から喜ぶ事が許されない己の立場が憎かった。
そんなジルの視線の先にある少女の顔もまた痛ましげで、今の自分がどれだけ暗い表情を浮かべているのか、鏡を見ずとも分かるようだった。
「ジル……どうか無理をなさらないで下さい。
きっと……きっと陛下は分かって下さいますから」
戦場を離れて以来、ジャンヌもまた男装ではなく、貴族の女性に相応しいドレスを纏っている事が多くなっていた。
容姿に優れ、明るく利発な少女は貴婦人の間では人気者であり、城に滞在している貴族の奥方達や侍女と連れ立って散歩や談笑を楽しんでいる場面も何度か見かけていた。
彼女は彼女なりに、そういった社交の場を通じて、情報の収集や王の周囲への働きかけを続けているのだろう。
生来の姫君にも勝るとも劣らない可憐な姿は元帥の目にとって何よりの褒美で、今も何か気の利いた言葉の一つもかけてやりたいところなのだが、神経が衰弱して疲れ切った頭ではこれ以上言葉が出てこない。
「そう……ですね。
分かって下されば、良いのですが……」
不慣れな権謀術数の世界を、頼れる者もなく徒手空拳で必死に戦っている青年の顔色は悪く、前にも増して透けるように白い。
政治的な気苦労もさることながら、類まれな美貌に加え、武勲を重ねた事でより〈市場価値〉が高まった男爵は、男女問わず好色な貴族達に言い寄られる日々に、心が休まる時は無かった。中にはシャルルへの注進を餌に、露骨に身体の関係を求めてくる者までいた。
ジャンヌはジャンヌでフランスの各地から送られてくる救援要請に心を痛め、応答に悩む時間を過ごしていたから、互いにその身を案じながら、なかなか顔を合わせる事が出来ずにいたのだ。
労わるように青年の身体に触れた乙女の掌から、あたたかな気が染み込んでくる。
少女の輝きや優しさそのものである聖性に包まれて、微睡むようにジルは瞼を閉じ、大きく息を吐いた。
戦場を離れて以降、血液を摂取する機会は激減している。他人の目が多い宮廷生活では家畜から生血を採るのも容易ではなく、今となってはジャンヌの存在だけがジルの生命線だった。
いくら『力』を使わなければ消耗は少ないとはいえ、行動するのに最低限必要な活力を得る必要はある。
これ以上、飢えて醜態を曝さない為にも、ジルは一刻も早く戦場に戻る必要があったのだ。
そんな彼の立場をよく分かっているからこそ、ジャンヌも二人で居る時は許す限りの全てを注ぎ込むつもりで、ジルの身体を聖性で満たし、人ならざる者の気配を抑えていた。
「……ありがとうジャンヌ。おかげで少し楽になりました」
柔らかく微笑んでジルは少女に礼を言い、少女もまた彼に淡い微笑みを返す。
人気のない回廊で二人きり、王国軍を統率する大貴族の青年と聖女でありながらも農民に過ぎない少女は、こうして一時のあいだ、ただの男女として向かい合う。
つかの間の、幸せ。
(なあ、男爵──)
いつか聞いた戦友の言葉がジルの脳裏を過ぎった。
(もう、いいんじゃねえか。
騎士も救世主もやめて、二人してどっかへ逃げちまえよ)
本当に、そうする事が出来たらどんなにいいだろう──
このところ、傭兵隊長の言葉は耐え難い誘惑となって、ジルを苛んだ。
「ジャンヌ……このまま二人、宮廷を出て、どこかへ身を隠してしまいましょうか?」
ふいに。
少女を真っ直ぐ見つめながら、ごく静かな口調でジルは言った。
「ジル……」
「私の声も、貴女の声も、いくら張り上げてみたところで、叔父に遮られて陛下の耳には届かない。
届かぬのであれば、いくらこの宮廷に留まっていても無駄な事。
もう、全てを放り出して、逃げてしまいましょうか──」
騎士としての責務を全うしたい、主君の期待に応えたい。その想いは確かにある。
だが、結果として、いつ足元を掬われるかわかったものではない欲望の坩堝である宮廷に愛する少女を閉じ込めておくだけならば、ジルの些細な誇りなど問題ではないのだ。
潔く己が力不足を認め、しかるべき指導者がフランスに戻って来るまで、領分を弁えながらこの国の行く末を見守るべきだ。
やはり自分に国の政治を動かす器などない。
所詮、女一人幸せにする事も出来ない、小さな男でなないか。
柔らかな亜麻色の髪を指先で弄いながら、望まぬ婚姻を強いられたカトリーヌの──形ばかりの妻の突き刺すような視線を想い出す。
ジルとて望んだ結婚ではなかったが、この時代、貴族の家に生まれたからには、言い訳にはならないだろう。
情けないが、それが現実だった。
──もう楽になろう。
──気負う事はやめよう。
──ただ、彼女さえ居ればそれでいい。それでいいではないか。
理性が抑え込んでいたあの熱い衝動が蘇る。
少女の髪を梳った指先が、愛おしげに輪郭をなぞり、たどり着いた先で小さく形の良い顎を上げさせて──
「ジルは──ジルはそれで、本当に良いのですか?」
「……ジャンヌ?」
絡み合う蒼と碧の視線。
少女もまた、青年をまっすぐに見返しながら、彼に問うたのだった。
「貴方は私の為であれば、何者にもなれると──全てを捧げて下さるとおしゃいました。
あの時はとても──とても嬉しかったです。
その言葉に偽りはないと、私も信じています。
ですが、貴方は本当にこのまま、騎士である自分を捨て去る事が出来ますか?
混乱を残したままの国を捨て置いて、戦う仲間達を見て見ぬ振りをしながら、幸せになる事は出来ますか?」
「………………」
「……出来ませんよね?
貴方はそういう方ですもの。
そしてそういう方だからこそ……私も貴方が愛しいのですから」
「ジャンヌ──」
自分は馬鹿だ。
とうに見透かされているではないか。
結局自分以外の何者にもなれない不器用な自分を。
自分はどうあがいても軍人で、騎士である事以外の生き方が出来ない男だと。
本当に少女との生活を望むのであれば、軍が解散した時点でさっさと負けを認めていれば良かったのだ。
しかし出来なかった。
それが全てを物語っている。
「私も……私の出来る事を頑張りたいと思います。
頑張りますから……どうか何もかも一人で抱え込まないで下さい」
人の大きさとは、年齢など関係ないものなのだろう。
このどうしようもない自分を、七つも年下の少女が、全てを理解した上で、受け止めてくれている。
彼女も辛いだろうに。心細いだろうに。
それでもなお、自分を支えようと、奮い立たせようとしてくれている。
ジルの唇が戦慄いた。
「ジャンヌ……」
ジルの胸が、言い知れない気配で──あたたかくも切ない、締め付けられるような切なさで一杯になる。
どうしようもなく苦しいのに、同時に不思議なほど嬉しくて、思わず声を上げてしまいそうになる、そんな気持ち。
「……ありがとう……
……本当に……ありがとう……」
瞼を伏せて、祈るように告げる。
だからこそ、彼はこうしてごくありふれた言葉を唇にのせることしか出来なかった。
自分の中に込み上げてくるものを抑えるので精一杯で、思いの丈を伝えきる事が出来なかったのだ。
「──ジル──」
それでも、聡い少女は彼の想いを汲み取ってくれたのだろう。
少女の唇が、そっとジルの熱くなった瞼に触れる──その裏に隠れた涙を啄ばむような優しい口付け。
一人ではない。
自分は決して、一人ではないのだ。
こうも深い想いで繋がった女性が傍にいてくれる──
それに思い至るだけで、青年の総身に再び力が漲ってくる。
──まだ、自分は戦える。
──少女の為ならば、戦う事が出来る。
諦めるのは、本当に全ての手を尽くしてからだ。
勝利の乙女に今一度誓いの口付けを捧げると、神の試練に屈しかけた元帥は、再び立ち上がった。
そうだ。シャルルやトレモイユの腰が重いのは今に始まった事ではない。
このような状況はこれまでもずっと繰り返されてきたではないか。
勝利の勢いを挫かれた事で、思わず心まで折れてしまうところだった。
冷静になれ。辛抱強く戦場を見極めろ。急いては事を仕損じる。相手の術中に嵌ってはいけない。
今、信頼のおける戦友たちはこの宮廷に誰もいない。
だからこそ、自分が強くならなければ。彼女を──ジャンヌを守らなければ。
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