第10話──奇跡の終焉〈パリ城壁の戦い〉
「……陛下は軍を解散させるそうだ」
あまりにも唐突に。
夢の終わりはやってきた。
その情報を戦友の口から知った時、どういう性質の悪い冗談かとジルは思った。
否、最初に聞いた時には傭兵隊長が発した言葉の意味が理解出来ず、間の抜けた声を返すのがやっとで──再度、問い返して得た答えがやはり変わらなかった事に、今度こそ彼は絶望するしかなかった。
「そんな馬鹿な──」
状況を確認したところで、思考は更に混乱を極めるばかり。
ここでパリの攻略を諦めるなど、ましてや軍を解散させるなど、正気の沙汰とは思えなかった。
これは悪い夢だ。何かの間違いではないのか。
そう思いたいが、こと戦に関する事で、ラ・イールが不用意な発言をした事は無いという厳然たる事実が、ジルを容赦なく追い詰める。
「今、パリを取り戻さなければ、戦が終わるまで20年はかかるとジャンヌは言っている。私もアランソン公も彼女と同じ意見だ。
確かに初手は上手くいかなかった。
だが、ノルマンディで戦果をあげているリッシュモン殿と協力すれば、きっと──」
もとより堅固な守りで知られるパリを簡単に落とせるとは誰も思ってはいなかったはずだ。
あまつさえ、電光石火で軍を展開させるべきところを、一月も時間を与えてしまったおかげで、イングランド本国から更なる増援部隊が到着してしまっていた。
もはや長期戦は必至であり、困難な闘いになるであろうと、前線の将兵は皆覚悟を決めていた。この状況を作り出した張本人である本営の王や側近達にも、不平や皮肉の一つも言いたいところをぐっと堪え、ジルは辛抱強く、何度も彼らの前に出向き、説いて聞かせていたのだ。
「──情報の伝達も上手くいっていなかった。
改めて初戦で得た敵の戦力を分析し、部隊を整え、的確な兵の配置さえすれば、勝てない戦ではないはずだ!」
それでもなお、もっともな意見を掲げながら言い募る男爵を、憐れみ、あるいは労わるように、赤毛の巨漢は、男にしてはあまりにも繊細な青年の肩へと、いかついその手を優しく添えて、沈痛な面持ちのまま、静かに首を振った。
「そのノルマンディへ、俺もアランソン公も行く事になった」
「だったら私も……!」
「いや……陛下もあの侍従長も、お前さんをアランソン公やリッシュモン伯とこれ以上仲良くさせたくはないらしい。
ノルマンディへ派遣されるのは、解散される軍のごく一部──主力部隊を除いた申し訳程度の兵力だけだ」
「……何……故……」
本来、このフランスで最大最高の兵力を擁するリッシュモンと合流し、ノルマンディを鎮圧した後、再度パリへ向かう手筈ではないのか。
侍従長がまだつまらぬ権力欲の為に、伯爵と敵対し、国益を損なう命令を陛下を通じて下しているのだとしたら、度し難い暴挙である。
ここにきて、まだ自分の事しか考えられないのか、あの叔父は──!
そして陛下も、どうして我々の想いに気が付いて下さらない── !?
それに何より。
例え若輩あったとしても、王からその全軍を預かり、指揮を任されている大元帥たる自分に、一言の相談もされないのだろう?
やはり自分は……
男爵は悔しさに形の良い唇を噛む。
彼らにとっては、ただの駒、お飾りの元帥だという事か。
最初から薄々感じてはいたが、こうしてはっきりと態度で示されると、自分の置かれた立場を実感せざるを得ず、ジルの心はどうしようもない虚しさとそれに伴う悲しみとに打ちのめされた。
◆◆◆
ランスでの戴冠式を迎えて以来、国王軍の士気は弥が上にも高まっていた。
軍の行く先々では新たな王と救世主を称える声が上がり、我らこそが正統なるフランス王を頂く神に祝福された兵士達だと、皆が胸を張り、末端の傭兵でさえ尊い使命感に燃えていた。
リッシュモンの率いるフランスの最精鋭たるブルトン軍団こそ抜けてしまっていたが、それでもシャルルの麾下にはラ・イールが指揮する勇敢なガスコン兵や、老練な智将であるジャン・ド・ブロス将軍、オルレアンからジャンヌに惚れ込み、その奇跡の勝利の一翼を担った『私生児』デュノワ伯ジャンといった歴戦の戦士達、およそ12000名が集結し、パリ奪還に向けていよいよ気勢を上げていたのだ。
しかし。
ランスからの行軍の間、相変わらず乙女ジャンヌという旗頭の下、一致団結している軍人達とは対照的に、侍従長ドゥ・ラ・トレモイユを筆頭とした宮廷を牛耳る文官達は、聖別を済ませた王へとすり寄りって、厚顔にも自らの意志こそ王の意志であるとばかりに振る舞い続けた。幕僚会議においても、戦の機微も分からずに、ずけずけと勝手な言い草を振りかざしては、必要以上に議題の決着を長引かせるのだった。
これで陛下が少しでも奸臣の専横を諌めて下されば、まだ良かったのだが……
前線で剣を振るうよりも遥かに消耗を強いられる会議を終えて、若き元帥は溜息を吐いた。
戴冠式以後、ジャンヌにだけは心を許していたかに見えた王が、どこか冷たく乙女をあしらうようになった気がするのは、自分の気のせいだろうか──?
乙女が自分やラ・イールと共に、いくら今この時にパリを攻める事への重要性を訴えても、かつてオルレアンに向けて派兵を決めた時のように、王が乙女の手を握り、諸卿へ同意を求めるような展開にはならなかった。
「パリは外交交渉によって開城させるべきだ」という、侍従長と同じ意見を繰り返すばかりで、自分達の提案はにべもなく突っぱねられるだけだった。
そして、時間だけが無駄に過ぎてゆく──
そんな煮え切らない態度を続けるシャルルと、遅々として進まない行軍に痺れを切らしたアランソン公は、とうとう偵察という名目で先遣部隊をパリへ出発させる事にした。
その小編成の先遣隊にはジャンヌの姿もあった。
少女が参戦する事で、偵察名目の小隊は、サン・ドニに到着する頃には志願兵でかなりの規模になっていたが、そこにジルが轡を並べる事は叶わなかった。
それより先んじて行われたサンリス方面での戦いにおいて、ブルゴーニュ派との間に休戦協定を結ぶにあたり、元帥として交渉の席に立ち会わねばならなかったからだ。
王国元帥となって初めて指揮する戦闘は、オルレアンにおける攻防戦のような華々しさはなく、始終先の手の読み合いと、心理的な駆け引きに徹していたような地味なものであったが、実に的確であり見事なものだったと、老将ジャン・ド・ブロスからは称賛され、ジルを元帥に推挙した叔父のドゥ・ラ・トレモイユも満足げだった。
だが、周囲の評価とは裏腹に、ジルの心に喜びはなかった。
出来る事なら、片時も彼女と離れたくはない。
だが、王国元帥としての立場がそれを許さない。
これは国に仕える貴族として、シャルルの騎士としての務めであり、致し方のない事だ。
そう頭では理解していても、どこか運命の悪意のようなものを感じずにはいられなかった。
そして、それは決して気のせいではなかったのだと、青年は知る事になる。
◆◆◆
ブルゴーニュ派との休戦協定に調印し、ジルが指揮するフランス軍の主力が、アランソン公とジャンヌ達の待つサン・ドニに到着した頃には9月になっていた。
「まったく、どこの美女の腹の上で道草していたのか知らないけれど、もう少し君が来るのが遅かったら、我慢しきれずに私が彼女を慰めてしまうところだったよ?」
きっちり皮肉を言うのは忘れなかったが、アランソン公の目元は笑っており、戦友との再会を心から喜んでくれた。 そして誰より、こうしてジルの姿が無事サン・ドニへと現れた事を神に感謝しきりだったのは、もちろん──
「ジル!」
晴れやかな笑顔の少女を見て、公爵や副官達の手前、引き締められていた元帥の表情も思わず綻ぶ。
良かった……まだどこも負傷などしていないようだ。
自分が見ていないと、本当にこの少女は何をしでかすかわからない。アランソン公もおそらく苦労した事だろう。
ジャンヌに腕を取られながら、ちらりと公爵の方を伺うと、そんな自分達の様子を見ながらにやにやしている。
この場にいるのが、自分達の関係を察し、理解している者ばかりのせいだろうか。自分に対する好意を隠す事がないジャンヌの姿に、いきなり口付けでもされやしないだろうか……などと、内心おろおろしながら、それでも妙な心地よさと照れ臭さに、白い頬に思わず紅をさす元帥であった。
やっとまた彼女と戦える。
戦う事で、彼女との未来を勝ち取る事が出来る。
だったら、後はただ全力を尽くすだけだ。
きっと勝てる。
勝てないはずがない。
仲間も聖女も全てが揃っているのだから。
ジャンヌが再び甲冑に身を固め、その手に天使と白百合とが描かれた軍旗を掲げる。見る者を奮い立たせる、常勝不敗の救世主の御旗を。
その乙女の雄姿に男達が応え、パリへの猛攻を開始する。
これが最後の戦いだ。
そうジルは思っていた。
自分にとっても、彼女にとっても、最後の大きな戦だ。
二人で必ず生き残り、互いの幸せを掴むのだ。
パリは堅牢な城壁に取り囲まれた稀にみる規模の要塞都市である。
また中を守る人間の数も群れを抜いていた。
歴史的な経緯もあり、パリ市民のアルマニャック派、もとい国王に対する心象は悪く、ランスでの聖別の威光も、彼らの心には全く届いてはいなかった。
フランスの民を守る為にイングランド軍と戦ったオルレアンとは違い、政治に関わる者達の思惑によって深い対立を招くことになった、同じフランスの民とイングランド軍の同盟によるパリの大兵団との戦いの火蓋が、今ここに切って落とされた。
先鋒として、ジル麾下の精鋭部隊とラウル・ド・ゴークール、そしてジャンヌに従う兵士達が、城門の前に展開した。
そこで一度、ジャンヌは馬を降り、城内にいる市民や兵士達に向かって、王の威光に従い、開城するように呼びかけてみる。
無論、王に従う意志もなければ、ジャンヌの事も『淫売』や『魔女』と罵って憚らない者達であったから、返ってきたのは案の定、恭順の意志ではなく、あからさまな侮蔑と挑発の言葉だった。
「とっとと帰りやがれ!この売女!」
「旗なんざ振らずに、大人しくベッドの上で腰振ってろ!」
いい加減、慣れたとはいえ、年頃の女性がそれらを耳にして傷つかないはずもない。ジャンヌはそれでも裡に抱く感情を見せるのは、眉をやや寄せる程度に留め、努めて冷静な声で、傍らに佇む最愛の恋人であり、この前衛部隊を指揮する元帥でもある青年に宣言した。
「──パリを落とします」
「無論です」
主の意を受けジルの部隊が城壁へと突入する。
練度の高い兵士達はたちまち前哨の砦や外堀の守りを突き崩し、固く閉ざされた市内へと続く門へと殺到する。城内から矢の雨が降り注ごうとも、兵士達が怯む事は無い。
──いける。
そう、思った。
この勢いならば、完勝はさすがに難しいだろうが、初戦で何かしらの成果を得られるかもしれない。
ジャンヌが軍旗を振り翳し、先頭に立って兵士を鼓舞する。
彼女が外堀を抜け、対面の土手に取りつき、駆け上がろうとすると、兵士達も次々とこれに続く。
土手を抜ければ、門はもう目の前。そのはずだった。
「……っ!水が!」
ここで想定外の事態が部隊を襲った。
パリの城壁を取り囲む外堀は二重になっており、深々と掘られた内側の側溝には、満々と水が湛えられていたのだ。
何の対策も講じていなかったジル達の部隊はそこで立ち往生し、一方的にパリ城内からの攻撃に晒される事になった。
狂暴な敵意を載せた長弓や火砲が、混乱する兵士達の上に浴びせかけられる。
「堀を埋めます。束柴の用意を──!」
それでもジャンヌは旗竿で冷静に堀の水深を図りながら、支持を飛ばす。
しかし、その横顔にこれまでとは違う焦燥を感じ取り、ジルもまた彼女を我が身で庇いながら、心の中で憤り、絶叫する。
何故、前線で戦う我々に、肝心の情報が届いていない── !?
既に何度もパリ市内へと斥候は放っている。自分達主力部隊が到着するまでのジャンヌやアランソン公達の準備は万全だった。この程度の情報は本陣へとっくに届いていたはず。それなのに、何故──
ジルの脳裏にある日のジャンヌとの会話が蘇る。
かつて、ジャンヌの戦における猪突猛進ぶりに、純粋な疑問と多少の皮肉を込めて、ジルは尋ねたものだった。
「貴女には恐れるものがないのですか?」と。
その時、ジャンヌは微笑んでこう答えた。
「はい。すべては神様の御心のまま──私は何も恐れてはいません。
もし、恐れるものがあるとしたら、それは人の裏切りだけです」
裏切り──誰か、自分達に悪意を持つ者が、このフランス軍の中にいるというのか。
このあってはならない事実に、ジルが戦慄し眩暈を覚えた時、鼓膜にジャンヌの短い悲鳴が突き刺さった。
「あっ──」
「ジャンヌ……!」
元帥が我に返ると、太腿に矢を受けた乙女が、足元をふらつかせ、土手から崩れ落ちようとしている。
水面に沈みかけた少女の身体を、慌てて引き上げると、ジルはすぐさま配下に撤退を命じた。
「ジルっ……」
「大丈夫です。すぐに本陣へ戻って手当てをして差し上げます。私を信じて」
「違うのです。旗が──」
見ると、少女の手にはいつも握りしめられているはずの軍旗がない。
痛みのあまり、取り落としてしまったのか。
「僕が取ってくる!」
ジャンヌ付きの小姓であるレイモンが、踵を返し、堀の方へと駆け戻る。
「駄目だ、レイモン!戻ってこい!」
ジルが制止するより早く、見習騎士の少年は怒号と弓の嵐の中、すばしこく走り抜けると、地に落ちていた救世主の旗を再び掲げる。
「あった!あったよ!ジャンヌ──」
「レイモン……!」
刹那、こちらに向かって嬉しそうな声を上げていたレイモンの表情が、固まって動かなくなる。
「レ───」
やがて、驚きに目を見開いたまま、少年の細い身体がゆっくりと、仰向けに倒れてゆく。
小姓の額を、矢が貫通していた。
派手に上がる水の音。
白百合の軍旗を手にしたまま、一瞬で絶命した少年は、水中へと沈んでいった。
「あァ……」
それはあっという間の出来事で、視線を遮る余裕もなかった。
目の前で常に付き従ってくれていた少年が、無残に命を散らすのを少女は見てしまったのだ。
他ならぬ、自分の為に。
「ジャンヌ……」
「レイモン……レイモン……いやぁあああ!」
恐慌状態に陥ったジャンヌを抱え、今度こそジルは戦線を離脱する。
胸にやり場のない怒りと、やりきれなさを滲ませながら。
◆◆◆
──結局、パリを落とすのは叶わなかった。
この戦いで、ジャンヌを含め1500名以上のフランス兵が死傷していた。
負け知らずだったジャンヌにとって、初めて苦汁を舐めさせられた戦闘であった。
ジャンヌは負傷していたが、それでも健気な事に、翌日になると再度パリへの攻撃に参加する意思を見せた。
しかし、本営にいるシャルルは王都におけるそれ以上の戦いを許さず、バール伯とクレルモン伯の部隊をジル達の下へ派遣し、アランソン公以下、パリ攻撃に参加した全軍のサン・ドニまでの撤退を命じたのだった。
従わなければ、武力行使も辞さないと脅されては、いくら不本意であっても、皆、王命に服する他はなかった。
ランスから出発した時からは考えられない程、サン・ドニへと戻る兵士達の表情は暗く沈んでいた。
国王以下、文官の面々は、「それみたことか」とばかりに、和平交渉で開城せよ、という我々の意見を聞かなかった結果だ、自業自得だ、とジャンヌやアランソン公をこき下ろしたが、彼らの謗りは今に始まった事ではない。最初から一息に結果を出さない限り、難癖をつけてくるのは分かり切っていた事であったから、ジル達も相手にはしていなかった。
むしろそれより問題であったのは──
「……これは一体どういうことだ?」
見た事もない険しい顔で、アランソン公が呟く。
王や文官達を除いた、あくまでも実際に前線に立つ将兵達で固められた幕僚会議の席上は、重々しい沈黙で覆われていた。
今や将兵達の間に漂う空気は最低で最悪だった。
いつも真っ直ぐな視線で神の言葉を伝えるジャンヌも、俯いたまま、何も言葉を発そうとはしない。
「これまで我々は!
王が到着する前の間、散々時間と金をかけて!
パリ攻略の為の準備をしてきたはずだ!
パリ市内にも工作員を放ち、戦いが有利に進められるよう、出来る限りの手は打っていた!
なのにどうして!
初手を制するのに肝心な、外堀の情報が入ってきていなかったんだ !? 」
公爵の問いかけに対し、答えられる者は誰もいなかった。
いるはずもない。
彼に限らず、その場にいる幕僚の全てが、疑問に思っていた事なのだから。
「……何でも侍従長達は、我々に断りもなく、今も独自にブルゴーニュ派との外交交渉を進めているらしいな」
剣呑な公爵の視線が、斜向かいに座していたジルへと、明らかな敵意を含んで突き付けられる。
いつも穏やかで、特にジルとジャンヌに対しては好意的であった公爵から、このように暗澹とした気分にさせられる表情を向けられているのに、ジルは動揺を隠せないでいると、やおら公爵は立ち上がり、つかつかとジルの方へと歩み寄り、その胸倉に掴みかかった。
「──ッ!」
「これも侍従長お得意の陰謀か。
どうなんだ?元帥?
この作戦を手引きして、ジャンヌや私を陥れようとしたのは君の仕業なのか──!」
そんなわけがあるはずない。
おかげでレイモンは命を落とし、自分もジャンヌも危うく敵の手に落ちそうになったのだ。
アランソン公とて、冷静になれば容易に理解出来るはずの状況だった。しかし、今の彼は常の彼ではなかった。
ここにきて王や侍従長といった穏健派の諸卿に対する不信感、苛立ちが頂点に達していたのだろう。涼やかな目元には隈が落ち、灰色の瞳は疲労に濁り、血走っている。
その凄みを増した表情で、公爵は裡に溜めこんでいた憤りを爆発させた。
「君の麾下の部隊は精鋭だ。
そして君が常に諜報部隊を駆使して戦術を組み立てている事も知っている。
その君が、敵地の情報をまったく掴んでいなかったはずはないだろう?
それこそ私達よりも先に正確な情報を侍従長達と共有していたんじゃないのか !? ええ !? 」
「やめて下さい!」
ジャンヌが悲痛な声を上げ、まくし立てる公爵の言葉に割って入る。
だが、ジャンヌの言葉は神託だと、一も二もなく従っていたはずの青年公爵は、彼女に対しても辛辣だった。
「彼を庇うのか?他ならぬ君の名誉を貶めようとしたこの男を?
この薄汚い侍従長の手先を、君を女にした男だから庇うのか !? ジャンヌ!」
「違います!
アランソン公、どうして──」
「この男が不相応にもリッシュモン叔父を差し置いて大元帥になったのは、侍従長の差し金だと皆が知っている!
その見返りに、内通者として働いていても何もおかしくはないだろう !? 」
「男爵もその配下の皆さんも、誰も二番目の堀の事は知らなかったのです!
皆、やっとの思いであの場から撤退したのです!
彼だって、陰謀の被害者なのですよ……!」
「だったら、説明してくれ!これは誰が仕組んだ事なんだ!」
「分かりません!」
「ジャンヌ!どうして君はそんなに──」
──もうこれ以上、黙って聞いてはいられなかった。
自分への非難は甘んじて受けるが、乙女には何の罪もない。
ジルもさすがに抗弁しようと口を開きかけるが、それよりも早く、これを見かねた年嵩のブロス将軍やラ・イールがアランソン公を宥めにかかった。
「今の公爵は冷静に議論出来そうもない。
解散だ──!」
「はやく出ていけ」とこちらに目配せしながら、アランソン公をラ・イール等と抑えたまま、デュノワ伯が宣言する。
ジャンヌが今にも泣きだしてしまいそうな表情でこちらを見ている。
抱き締めてやりたかったが、この場ではそういうわけにもいかない。
ジルは力なく項垂れたまま、幕舎を後にするしかなかった。
◆◆◆
「……私は……無力だ」
まるで畳み掛けるような運命の波に翻弄され、ジルは肩を落とし、己の至らなさを思い知る。
あまりに自分は浮かれすぎていたのだ。
そう。全てがあまりにも上手くいきすぎていた。だから神は自分に思い出させたのだろう。所詮、矮小な存在に過ぎない己の真の姿を。
だが、それでも自分は戦わねば。
彼女も、国への忠誠も守れない。
若い元帥の肩が小刻みに震えている事に、ラ・イールは気が付くと、そっとその肩から掌をどける。
人間として馬鹿正直ゆえに、国王や侍従長にいいように利用されている戦友を哀れに思ったのだろう。
だからこそ、ラ・イールは戦友へ残酷な事実を告げる事を躊躇わなかった。
「……乙女の手前、体裁を取り繕ってきたんだろう『お優しい国王陛下』の化けの皮も、いよいよ剥がれてきたみたいだな。
やっこさん、戴冠式を済ませて自分の地位が保証された途端、その大事な玉座を脅かす存在が邪魔になったんだろうよ。アランソン公もリッシュモン伯も、戦にしか使えない下品で反抗的な俺達傭兵も、陛下にとってはもう用済みってわけだ」
「用済み……だと……」
これまで必死にこのフランスの為に、他ならぬシャルルの為に戦ってきた仲間達が、真に王家へと忠誠を誓う者達が、煩わしい存在として、王自身に切り捨てられようとしているのか。
飛鳥尽きて良弓蔵められ、狡兎死して走狗烹らる──この頃のジルは知る由もないが、古の昔から、東西問わず、いくら真心を尽くしたとて、理想の届かぬ冷徹な世界が存在するのだと、先人の言葉は伝えていた。
「ジャンヌは……
だったらジャンヌはどうなるんだ?」
衝撃に呆然とする中で、ふと、愛しい少女の顔が浮かぶ。
今やフランスの宝となった、それこそ国王であるシャルル以上の人望を集める救世主──もし恩人である彼女でさえ目障りだと言うならば、ただ従軍の任を解いて故郷に帰してやればよい。陰湿で血生臭い宮廷の権力闘争に、あの無欲でどこまでも清らかな娘を巻き込む必要などないのだから。
自分と一緒にいる事は叶わなくなるが、それでも彼女の身が少しでも安全な場所に置けるなら、今はそれ以上の事をジルは望まない。
いずれ、騎士の務めを果たした後、彼女を迎えに行けばよいだけのこと。少しでも早くジャンヌと添い遂げる為ならば、自分はその持ち得る能力の全てでもって、国政を盤石のものとするべく、奔走するだろう。
「……今のところ、国王にはあの娘っ子をどうこうするつもりはないみたいだが……」
相変わらず傭兵隊長の表情は暗い。
「なあ、男爵。
もう、いいんじゃねえか。
騎士も救世主もやめて、二人してどっかへ逃げちまえよ」
まるでジルの中の苦悩を見透かすように、ラ・イールは言った。
「陛下の事だ。
いつお前さんや乙女も捨てられるかわかったもんじゃない。
そんな野郎にこれ以上義理立てしたって良い事なんてないぜ?
名誉も何も、命あっての物種だろ」
「……だが……私は……」
異教の女神のごとき美貌を持つ青年は、骨の髄まで軍人であり、国の行く末を憂う騎士だった。あまりにも実直すぎる男だった。
もし、シャルルが奸臣の言うままに王命を発すると言うならば、これを誰かが諌めなければならない。
これに最も適役であったリッシュモンは宮廷に上がる事をいまだ許されず、結局王の近くに残されているのは、諸悪の根源であるトレモイユの息のかかった人間ばかりだ。だったらもう、どんなに役不足であっても、フランスの為、自分がその務めを果たすしかないではないか。
よき王になって欲しいと願った。
よき騎士であろうと誓った。
ジャンヌを深く愛する心に迷いはない。だがランスでシャルルに捧げた忠誠にもまた偽りはないのだ。
やっと、国が安定する道筋が見えてきたというのに。
ここでシャルルがフランスの歴史に名を残す、英明な君主となる機会を潰したくはなかった。
「お前さんは馬鹿だよ。本当に大馬鹿だ」
少女への愛と主君への忠誠の間で板挟みになっている戦友に、ラ・イールは最後、熱い抱擁を捧げると、「……絶対に生きて幸せになれよ。達者でな」と一言だけ告げ、背を向けた。
その後、正式にシャルルより全軍の解散が命じられる事になった。
かつての仲間は皆、本来功労の栄誉に預かるべきところを懲罰のような王命によって散り散りにされ、宮廷を去って行った。
あのラ・イールもジルの傍からは居なくなり、デュノワはオルレアンに帰国し、アランソンも、リッシュモンも、頼れる者は誰もいない。
嬉しそうなのは宮廷の実権を握っている叔父ばかりで、仲間達が今も少ない手勢で戦っているというのに、上機嫌な叔父の話相手を強いられるジルは、苦痛でしかなかった。
私も皆と戦いたい……しかし、王も侍従長も、自分達の大元帥を腐敗しきった宮廷から解放するつもりはさらさらないようだった。
ジルには元帥の位を、またジャンヌには新たに貴族の称号を与える事で、彼らは自分達を飼殺しにするつもりらしかった。
──サン・ドニへの撤退前、城内への奇襲攻撃の為、セーヌ河に仮設された橋が無残にも王命により破壊される様子を目にして、ジャンヌは泣き崩れていた。
ジルもまた、打ち壊されていく橋の姿が、まるでそのまま自分と彼女との新たな生活への希望が潰えるのを暗示しているようで、居た堪れない気持ちになった。
彼らの光に溢れていたはずの世界は、今、急速に悪意の闇の中へと、閉ざされていこうとしていた。
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