第9話──予兆
──この世界において、他の誰よりも『戦う女性』の代名詞として知れ渡っている『オルレアンの乙女』ジャンヌであるが、彼女が実際に歴史の表舞台で活躍していた期間は、あまりにも短い。
1429年3月、彼女は当時、アルマニャック派の拠点となっていたシノン城へ集う人々に、その存在感でもって大いなる衝撃を走らせた後、同年5月、わずか1週間程の間で、7ヵ月以上敵軍に包囲され、籠城戦の苦しみに喘いでいたオルレアン市を解放する事に成功した。
この奇跡とも言える大勝利を皮切りに、神の威光の下、乙女の率いるフランス軍の快進撃は続き、7月17日、ついに祝福の地であるランスにおいて、彼らは念願叶い、シャルル王の戴冠式を果たし、王国の矜持を取り戻したのだった。
──フランスの運命が変わった日、あのシノンでの少女と青年の出会いから4ヵ月後の出来事だった。
その栄光を極めた戴冠式から、パリ奪還へ向かうまでの1ヵ月間が、乙女ジャンヌにとっても、騎士ジルにとっても、生涯で一番幸せな時間だったかもしれない。
元々不思議な気品と美しさに秀でた少女であったが、戴冠式後の一夜を経てからは、その輝きは前にも増して目を見張るようだった。
救世主としての神々しさに、内から滲み出る若い少女特有の愛らしさや初々しさ、そして男から愛を受けた女だからこそ持ち得る自信や艶やかさのようなものが加わり、一層彼女を魅力的にしていた。
王都を取り戻す戦いへ挑むにあたり、軍の宿営地となるサン・ドニへ向けた進軍は、まったくもって国王軍の凱旋行進そのものであった。
新国王や噂に名高き『救国の乙女』の姿を一目見ようと、シャルル王とその一行の行く先々には、近隣から多くの勝利を祝う人々が押し寄せる。
シャルルから贈られた真新しい騎士の正装に身を包んだジャンヌが馬上から手を振ると、聴衆から歓声が沸き起こり、たちまち王と乙女を称える讃美歌の大合唱が始まるのであった。
「戴冠式の前日ぐらいからかな。
彼女、随分と不安そうで、落ち着かない様子だったから、少し心配していたのだけれど……
幸せそうで何よりだ。
ジャンヌの輝きは、そのまま我々フランス軍の輝きだからね。
やはり可愛い子はああして笑顔でいるのが一番だ」
勝利の立役者であり、場の主役となっている乙女の様子を、やや後方から見守っていたアランソン公が、隣で同じく馬を進めていた男爵へと、親しげに微笑みかける。
「これも君のおかげかな?」
「……いや…… 私は別に何も……」
てっきりジャンヌの想い人は彼だと思い込んでいたジルは、かつては内心、嫉妬を抑えられなかった相手に微妙な気まずさを感じつつ、そう答えるのが精一杯だった。
アランソン公自身もまた、以前からジャンヌの事を憎からず想っていた事を知っていれば、尚更だ。
「ふーん……」
常にも増して口数の少ない男爵の淡泊な反応に、人の好い公爵は横目で様子を伺いつつ、小首を傾げていたが、何やら面白い悪戯を思いついた子供のような笑顔を見せて、一言、
「……ああ、でもあまり夜は張り切り過ぎないでくれよ?
次の日、乙女が馬に乗れなくなってしまったら、彼女も可哀想だし、君も気まずいだろうしね」
ジルが思わず鞍からずり落ちそうになる姿を見て、アランソン公は「してやったり」とばかりの実に愉快そうな哄笑をあげた後、やおら真面目な顔になり付け加えた。
「しかし乙女が幸せなのも結構だし、みんなが喜んでいるのもわかるけど……
この進軍速度、もう少し何とかならないものかね。
本当なら、もうとっくにサン・ドニに陣を張っていてもおかしくはないのに」
アランソン公の危惧はもっともだった。
道中、時に遠回りや後退を繰り返しながらの怖ろしくのんびりとしたパリ進攻は、新しい王の権威を人々に知らしめ、若き王の下、平和と調停の時代の到来を告げるトレモイユ以下保守派官僚等肝いりの演出であった。
しかしながら、オルレアンにおける勝利の勢いを活かしたまま、作戦を迅速に進めたい多くの武将達は、王の足の遅さが気が気でなく、人々の歓待を悪く思わないではいたものの、苛立ちを隠せずにいた。
ジルもアランソン公と同様、都であるパリを王の影響下に置かない事には、真の勝利とは言えないと日頃から考えていた。
何かと言い訳をつけて軍の動きを止めたがる王やその取り巻き達の尻を叩いて、一刻も早くパリへ軍を展開するべきだ。 軍人としての彼は今も脳裏でそう強く訴えている。だが──
ふと、沿道からの歓呼の声に応えていたジャンヌと目が合う。
ふわりと、その愛らしい顔が人々に向けていたものとは違う気配を見せて、ほころんだ。
その甘やかな微笑みを迎え入れる自らも、やはり彼女と同じような表情をしているのだろう──誰に言われずともこの時、ジルは自覚していた。
──やはり、自分は変わってしまった。
ジャンヌが今もってフランス軍には必要不可欠な存在であると、頭では理解しているのに、心がどうにも納得しないのだ。
大切な者を護りたい。
もうこれ以上、危険な場所には出したくない。辛い思いをして欲しくない。
そんな人としてごく当たり前の感情や行為が、騎士である青年には許されなかった。
その物怖じしない勇敢な戦いぶりで、女の身でありながら、ジャンヌは少なからず負傷していた。
──何故、寝所でのみ密やかに愛でられるべきあの柔肌が、不用意に傷つかなくてはならないのだ?蛮人の暴力に曝されなくてはならないのだ?美しい容姿はそれだけで女の財産ではないか。
それをむざむざ削らせるなど──
自らが置かれた、ままならぬ立場の悔しさに、ジルの心の中には、本来『聖女の騎士』が持つべきではない、どす黒い罪への誘惑が噴き出すのだった。
既にこれまでの戦いの中でも、ジャンヌの存在が気になるあまり、己の指揮官としての立場を忘れそうになる事がしばしばだった。
それでも彼女の立場は軍の中でも極めて『特別』であったから、王から乙女を預かる立場として、常にジャンヌの行動を目で追い、時に従い、時に諭しながら、彼女の安全に心を配るジルの様子は、さほど不自然な事ではなく、周囲に受け入れられていた。
とはいえ、いくらジルの意見であっても、これまで当たり前のように前線で軍旗を掲げ、将兵を鼓舞してきた乙女を、王やその側近達が控える本営まで退げさせるのは、絶対に認められないだろう。
士気の低下は避けられないし、何よりジャンヌ自身がそれを望みはしまい。
──私は、貴方の傍に居たいのです。
もし、ジルが彼女に前線から退がる事を提案すれば、彼女もまた、ジルに同じことを求めるに違いない。それがただの女の我がままだと、叶わぬ願いだと分かった上で。
それでも思わずには、訴えずにはいられないのだ。
お互いを愛しているから。
──自分は本当に弱くなった。
ここにきて深々とジルは感じていた。
あれほど戦場において向こう見ずで命知らずだった自分が、『フランスの悪魔』とまで呼ばれた男が、己が彼女の下へ帰ってこれなくなる事が、恐ろしくてたまらないのだ。
ジルがそうであるのと同じように、彼女もまた、ジルが傷つく事を酷く悲しんだ。いくら己は普通の人間とは違う怪物だからと言い聞かせても、「痛みは決して変わらない」と譲らなかった。
そんな彼女が自分を失ってしまったらどうなるのか、そして自分も彼女を失ってしまったらどうするのか──もはや想像もつかなかった。
東邦に伝わる詩に、比翼の鳥、という言葉がある。
乙女と騎士の関係はまさにそれだった。
二人揃わなければ、どこへも行けない。哀しいまでに互いが互いを必要としていた。
──生きたい。
この世でジルが産声を上げた時から、既に抜け落ちてしまっていたもの。人間として当たり前でありながら、忘れて久しい欲求が、青年の中に芽生えつつあった。
とうに全てを諦めて、地獄へと棄てたはずの命だったのに。
彼女がそこに在るならば、少しでも長くこの世界に留まっていたい。
人ならざる身では、今更叶わぬ願いだと、最初は思っていた。
だが、あの夜を経てジャンヌとの繋がりが深くなった為か、魔性の力を必要以上に使役しなければ、散々悩まされた吸血衝動に苦しめられる事も無く、ジルはこの戦場から戦場へ移動する生活においてすら、故郷の居城よりも遥かに穏やかな気持ちで過ごす事が多くなっていた。
彼女と二人であれば……自分もこの人の世界でひっそりと生きていけるかもしれない。
わずかにさした光明に、ジルの胸は高鳴った。
彼女と共に生きる。生きる事が出来るのであれば、他に何もいらない。
堅苦しい貴族の生活など未練はない。家督は別にルネに譲って構わない。随分と時間も金も投資してきた蔵書の数々が読めなくなるのは残念だが、遥かに高度な智識の結晶がすぐ傍にいるのだ。彼女との語らいが続く限り、ジルの知識欲は満たされるだろう。
農民でも猟師でも、あるいは傭兵でも、彼女との生活を守る為であれば、何でもするつもりだった。もっとも、彼女が貴族の妾としての優雅な生活を望むのであれば、また話は別になるが。
「ジャンヌ……貴女は私が、王国元帥でも男爵でも何でもない、ただのつまらない一人の男になったとしても……私を愛して下さいますか?」
人目を忍んで口付けを交わしながら、ジルは少女に訊ねたのだった。
少女は笑って想い人に答える。
「ジルは私が聖女だから、フランスを救った救世主だから、私を愛して下さったのですか?」
「……いえ……多分、違うと思います」
「私も多分、たとえ貴方が商人であっても傭兵であっても、あるいはイングランド人であったとしても、貴方が貴方である限り、惹かれていたはずです。
だから、私は貴方が何者になろうとも、拒む事はありません」
これでジルの心は決まった。もう迷う事などなかった。
このパリでの戦いに勝利し、全てが済んだら、彼女とどこかへ身を隠そう。
そうだ、どうせ向かうなら気候が温暖で戦争の爪痕も少ない南がいい。そこでただ一個の人間として、ありふれた夫婦として、天寿を全うするまで寄り添いながら、密やかに暮らそう。
彼がこの『夢』を打ち明けると、たちまち、少女の愛らしい貌に、笑顔の花が咲いた。
一時はいずれ訪れるであろう平和な時代を享受しないまま、自らの命を絶とうとしていた青年が、目の前で確かに生きようとする意志を見せた事に、乙女は殊の外喜び、これを歓迎したのだった。
それだけで、ジルの中の何もかもが満たされていくようだった。
必ず、この人を幸せにしよう──改めてより深く、決意を胸に刻んだ。
彼女の幸せこそ、自分の幸せなのだから。
こうして誰にも祝福されないまま、二人が将来を誓い合った頃。
国王軍はようやく、パリ北方に位置するフランス王家歴代の墓所が安置される街、サン・ドニに到着した。
ここからが正念場だ──アランソン公以下、主戦派の武将達が再び戦いへの緊張に気を引き締める。
しかし……一ヵ月にも及ぶ行軍は、あまりにも敵方に時間を与え過ぎていた。本当に勝利を掴みたいのであれば、是が非でも迅速な作戦を遂行するべきだったのだ。
やはりこの時から、何かの歯車が狂い始めていた。
直接の契りこそ交わしていなかったが、乙女と騎士の心は固く結ばれており、二人がどれだけ自らを律し、抑えようとも、彼らの関係が男女のそれである事は、近しいものであれば衆知の事実であった。
彼らは奇跡の勝利を経て、『救国の英雄』となった。
そして、一度でも『英雄』としての在り方を己に認めてしまった者は──凡庸な人間とは違う修羅の道を歩み始めた者は、二度とそこから後戻りする事は許されない。
『オルレアンの乙女』とその騎士、愛し合う二人もまた例外ではなかった。
天にある万物の父は、かつて己の祭壇に背を向けた怪物に、その花嫁を与える事を決して善しとはしなかったのだ。
造物主は彼らにただ『英雄』としての在り方を全うする事だけを望んだ。
いと高き神がその愛しき子らに望む尊い生き様──古今東西の超越者達が、最も好んでやまない運命の筋書。
すなわち、『英雄』に相応しい、華々しき悲劇で彩られた最期を。
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