第8話──〈ランス大聖堂〉求め合い、触れ合う心・後編
……しかし、今になって考えれば……
宿舎として与えられた部屋に戻り、寝台に長身を投げ出して天井を見上げながら、ジルは思う。
ジャンヌは私を意識していたからこそ、軽々しく名を口にすることが出来なかったのだろう。もし、その名で青年を呼んでしまえば、彼女が幕僚の中でも男爵を男として特別な感情で見ていると知れ渡ってしまうから。そして、それをジルが特に気にすることなく受け止めてしまえば、尚の事、二人の関係が只ならぬものであると公言するようなものだ。
公平性の欠如は、戦いにおいて、司令官の判断を鈍らせ、兵士達の士気を下げる。
彼女もそれを理解していた。ゆえに、戴冠式を無事行うまでは、フランスの為の聖女であり続けたのだ。
でも、これからは──
ラ・イールの話では、随分前から乙女は彼女の忠実なる騎士である男爵へと、戦友に対するもの以上の感情を寄せていたらしい。それは乙女の側で直接彼女の世話を焼いていた従者であるドーロンや、あまつさえ恋敵に当たるであろうアランソン公でさえ気付いていたという。身近にいて知らぬはジルばかりだったというわけだ。
だって仕方がないじゃないか。
人として人に惹かれるなど、ずっと自分にはありえないと思っていたのだから。
ラ・イールはこうも言った。
「どうせ奥方は弟とよろしくやってるんだろ?
だったらお前さんだって負い目を感じる事は無いさ。
領地の為に近親婚を押し通した爺様だ。
案外、聖女様がお前さんの息子を身ごもれば、悪いようにはしないかもしれないぜ?」
いくらなんでも都合が良過ぎる──だが、あの祖父ならあり得ない話でもない。
実際、嫡子の問題など、この時代、金さえ積めば教会に認めさせるのは決して不可能な事ではなかった。それは貴族であれば公では口にしないものの、みな知っている話だった。
何よりジル自身、あまりに父にも母にも似ていない自分に、ひょっとしたら自分は貰われ子なのではないのか……と悩んだ事があったからだ。
愛する女性と息子を挟んでの生活……どんなに幸せな時間だろう。
幼子を抱きながら微笑む、美しく成長した少女の姿を夢想しかけて、すっかり舞い上がってしまっている自分にジルは頭を抱えた。
自分が彼女を愛していて、またそんな彼女も自分を好いてくれていると分かってしまうと、何ともこそばゆいというか、本当に明日からどんな顔をして皆と向き合えばいいのか、果たしてこんな調子でまともに軍人としての仕事がこなせるのか、あれこれ不安になり、どうにも落ち着かなくなってくる。
ただ、それ以上に、今のジルの中にどうしようもなく湧き上がってくるのは、歓びの感情に他ならない。
常に気を引き締めていないと、知らず頬や目元が緩んできてしまうのが分かる。女を目にすれば声をかけずにはいられない、そんな調子の良い男達に冷ややかな視線を送っていたものだが、まさかこんなだらしがない状態に自分がなってしまうとは……
戦場にまで持ち込んでいた史書も、開いてはみたものの、内容がちっとも頭に入ってこない。
どうも全く別のところに自分の意識は行ってしまっているらしい……少し自分で自分が嫌になる。
「──お館様、お客様です」
ノックの音とともに声がかかったのはその時だった。
日が暮れた後に男爵の部屋を訪ねてくるのは、まず一人しかいない。
扉の前には、自らの側近と他に二人の気配……小声で何やら「頑張ってくるのよ……!」「はい!」「それでは邪魔者は退散する事にしましょうか」と妙に楽しそうな会話が聞こえる。
当人達は内緒話のつもりでも、常人より聴覚が発達しているジルの前では筒抜けも同然だった。
来ているのはドーロンとジャンヌで間違いない。
会話だけ聴いていると女二人の掛け合いに聞こえるが、ドーロンは紛れもなく男性である。シャルル王の信頼も厚い騎士で、その王から直接ジャンヌ護衛の使命を賜っていた。戦場での腕も立ち、気遣いも細やかで根も誠実な男だが、「心は乙女」と言って憚らない変わり者としても知られていた。
女性に言い寄られる機会も少なくはないようだが、当人は全く興味が無いらしい。
──そういえば、エチエンヌ殿が「ドーロンが妙に絡んでくる……正直勘弁してほしい」と言っていたな……
「あたしもラ・イール隊長のところに行ってこなくちゃ♪ふふふ♪」等と言う不吉な男の呟きを聞き取って、今日ばかりはくれぐれも彼が遊郭で楽しんでいる事を願わずにはいられないジルであった。
男二人の気配が階下へ去った後、はたして、少女を迎え入れる為にジルが立った扉の先には、ジャンヌが一人佇んでいた。
ジルの目が見開く。
少女は普段の簡素な衣装ではなく、当世の流行をふんだんに取り入れた、貴族の令嬢同然の可憐なドレス姿だったからだ。
「陛下がご褒美に贈って下さったんです……に、似合いますか?」
一瞬、言葉を失い、その姿に見惚れていたジルに、おずおずとジャンヌが問う。
「はい……正直、見違えました……
──あ、いや、そうではなく……貴女は普段から美しいですが、それにも増してその……あまりにも愛らしい姿でしたので……言葉が出てこなくて……」
大きく開いた胸元から惜しげもなくさらされる眩しい柔肌に、思わず吸い込まれた視線を慌てて外し、しどろもどろになる元帥の言葉に、少女はぱっと顔を輝かせると、軽やかなステップを刻みながら、扉をくぐり抜け、部屋の中でくるっとその身を一回転させた。
ふわり。スカートが風をはらんで翻る。そのままの勢いで、ジャンヌは先ほどまでジルが横になっていた寝台の上に、ぽん、と腰掛ける。
そんな無邪気な少女の様子にジルもまた目を細めると、彼女の隣にそっと並ぶ。これが彼女が『講義』をするにあたり、二人が採るこの部屋における定位置だった。
「あの……今夜は私、改めてジルにお礼が言いたくて来たんです」
慣れない格好で落ち着かないのか、スカートの布地を指先で弄いながら、少女は言葉を切り出した。
視線は何故かジルが隣にきても床に落としたまま。
もじもじと、彼女らしくない歯切れの悪い口調だった。
「世間知らずの私が、これまで殿方の中でなんとかやってこれたのも、ラ・イール隊長やジャン、そして貴方やアランソン公が支えて下さったからです。皆さんには感謝しても感謝仕切れません」
「何をおっしゃる。
我々は皆、貴女に万の感謝をする事はあれど、感謝されるほどの事は致しておりませんよ。
それぞれが、それぞれのやり方で、して当然の仕事をしただけです」
「そ、そんなことはありません……!
中でもジル、貴方には他の方には相談出来ない事もたくさん聞いて頂きましたし、何より貴方は私の命の恩人です。
貴方がいなければ、私は『神様』から与えられたお役目を全うする事は出来ませんでした。
本当に、本当に感謝しています」
「ありがとうございます。私も神の意志の実現に一助出来て光栄ですよ」
口では殊勝な事を言いつつも、少女から礼を言われるのは悪い気分ではなかった。
それにしても──今、彼女は『神様』から与えられた役目は既に全うされた、と言っていなかったか?
オルレアンや幾つかの街は解放したが、まだイングランド軍の攻勢は続いているというのに?
そんなジルが内心感じた疑問を、そのいぶかしげな視線から敏感に感じ取ったのか、ジャンヌは言った。
「私が『神様』に言いつけられたのは、オルレアンの街の解放と、陛下のランスでの戴冠式を滞りなく果たす事までです。
『神様』はこれから先はもう私の自由にしてもよい、とおっしゃいました。
確かに、陛下は無事フランス王として即位されました。ですが、まだそのお手元に都であるパリは戻ってきておりません。
私も貴方が言ったように、このまま速やかに作戦に移ってパリを奪還するべきだと思います。
他にも、アランソン公の御領地を回復するお手伝いもして差し上げたいですし、何より私は──」
少女が顔を上げる。深く澄み切った蒼い瞳にジルの姿が映り込んだ。
「──私は、ジル、貴方の傍にいたいのです。
戦争はやはり悲しいですし、辛い事も多いですけれど……これからもフランスの為に頑張りますから……私と一緒に戦ってくれますか?」
こんな表情の少女を、ジルは見たことがなかった。
胸が締め付けられるような……切なく、それでいて艶っぽい表情と声だった。
「私は所詮、田舎から出てきたただの小娘です。
お礼をすると言っても、陛下と違って、貴族である貴方に相応しい贈り物は何も出来ません。
もし、私にも差し出せるものがあるとすれば……それは……」
震える唇から、それ以上の言葉は出なかった。
少女の細い指が、ドレスの肩口にかかっている。
ここまでくれば、いくらジルがその手の事情に鈍かろうと、少女が何をしようとしているのか、彼に対して何を差しだそうとしているのか、皆まで言われずとも理解する事が出来た。
この夜更けに年頃の少女が──それも普段はあえて性を感じさせないよう、男物の衣装を着こんでいる麗人が──わざわざ無防備な女物の衣装に着替えて、男の部屋を訪れているのだ。たどり着く先にある答えは一つしかない。
華奢な肩が、袖から抜かれようとしていた。
張り出した胸元の双丘も零れんばかりになっている。
白い肌が上気して、ほんのりと薄紅色に染まっていた。
「私……あまり上手には出来ないかもしれませんけど……身体は丈夫です……から──」
そんな少女の不器用な告白を遮ったのは、目の前の青年の口付けだった。
「…………」
一瞬が、永遠になった時間だった。
ただ、唇に触れるだけの軽い接吻。それでもその柔らかさと甘さは、どんな芳醇なワインよりもジルを酔わせた。
そうだ。自分だけは理解していたつもりではなかったのか。
この少女が背負わされているものの大きさに。
少女一人が任されるには、あまりに重過ぎる使命と、その為に与えられた偉大な力の代償。
誰にも理解されない孤独。
少女は聖女であるが、決して神そのものではない。全知全能の存在ではないのだ。
傷つき、涙し、恋もする──愛らしい一人の女性だった。
「もし……パリを取り戻す事が出来たら……」
言葉を紡ぐ唇には、まだ幸福な感触が残っている。
少女の形の良いあごに指を添えたまま、ジルは言った。
涙にしっとりと濡れる蒼い瞳。身体の芯が熱くなるのを止められない。
このまま二人して日が昇るまで、我を忘れて互いの熱を奪いあいたい。一時でも少女が抱える不安を忘れさせるほどの悦びを、愛される女の幸せを、まだ無垢なその身体に与えてやりたい──そんな衝動に駆られたが、軍人としての理性が、辛うじてそれを圧し留めた。
「パリの街が陛下を迎え入れたその時には──貴女の全てを私に許して頂けますか?」
──まだ、駄目だ。
自分も彼女も、ただの男と女になるわけにはいかない──
せめて、パリがフランスの首都として王を迎えるその時までは。
神ならぬその身では、指揮官として当然であり、仕方のない判断だった。
──だが、この時彼女の逸る気持ちを汲まなかった事、そして何より自分の気持ちに正直にならなかった事を、彼はその生涯──500年以上の時を通じて後悔する事になった。
「──愛しています」
祈るような一言だった。
「貴女が望むのであれば、私はいつでも貴女の傍におりましょう」
「ジル……」
今度は更に深く口付けた。
甘く鼻にかかる少女の熱い吐息に、ジルの脳髄も痺れ、与えられる官能に酔い痴れる。
──ああ、なんで自分は、もっと早く少女の気持ちに気が付かなかったのだろう。
──なんでもっと早くにこうしていなかったのだろう。
──彼女はずっと待ってくれていたのに。
いつまでもこうしていたい──そんな本能からくる欲求を、それでも鋼の精神力で振り切ると、高揚する気持ちに息を乱しながら、ジルの唇は名残惜しそうに少女のそれをひと撫でした後、そっと離された。
見つめ合うジャンヌの瞳から次々と透明な滴が零れる。
泣いているのか笑っているのか、嬉しいのか、悲しいのか、俄かには判断をつけ難い表情で、その着衣を乱したまま、少女は今や想い想われる恋人同士となった青年の胸に縋りつく。
青年もまた、少女に請われるまま細い身体を抱き寄せ、彼女の存在をただ感じる事だけに全てを傾ける。
まだこれからも厳しい戦いが続くだろう。
それでも二人なら、乗り越えてゆける──まだこの時は、そう信じて疑っていなかった。
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